太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

Q.村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』に惹かれる理由は? A.歩哨として「あちら側」との境界線に立ち続ける妄想に取り憑かれているのです

質疑応答(ask.fmより)

質問です。重複していたらすみません。池田さんは何かと『ダンス・ダンス・ダンス』からの引用が多いように思いますが、村上春樹作品で一番好きなのでしょうか?それとも何か他に惹かれる理由があるのでしょうか?

 ご質問ありがとうございます。確かに『ダンス・ダンス・ダンス』からの引用は多いですね。「文化的雪かき」の意味合いをやや強引に拡張してまで使っているのですが、これは内田樹の村上春樹論によって自分の中で漠然と思っていた事が言語化され、内面化されたという経緯があるからです。

その基本的な構図はすでに『1973年のピンボール』に予示されていた。
「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」。愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、「境界線」に立ちつくしている「センチネル(歩哨)」の誰にも評価されないささやかな努力。

内田樹の研究室: After dark till dawn

 「あちら側」と「こちら側」の境界線に立つ、歩哨であり、翻訳者であり、防衛線でありたいという中二病とも夢遊病とも言えるような考えは、我ながらバカバカしいと思いつつ常に意識されてきたことです。「あちら側」に属するのは情報技術であり、経済であり、仕事であり、精神世界でもあります。

歩哨として「あちら側」との境界線に立ち続ける妄想

 アカウントSE、ソリューション営業、テクニカルライティングなどの仕事は、まさに「あちら側」との境界線上に立つ歩哨として「翻訳者」や「防衛線」の役割を求められることが多いです。これは梅田望夫の『ウェブ進化論』で論じられた「あちら側」でもあります。

 また、ドヤ街暮らしをしたり、野宿をしたり、底辺恋愛や、メンタルヘルスについて観察し続けるのも「あちら側」との境界線上に立つ歩哨として「翻訳者」や「防衛線」としての役割を勝手に担うためのものです。

ハルキストではなく「僕と鼠」が好き

 ときどき誤解されるのですが、僕は熱心なハルキストでも村上主義者でもありません。むしろ、最近の作品は殆んど読んでいませんし、「ランニング中の iPod」についても新潮社から2010年に発行された『考える人』で既出だったので、熱心なハルキストからすれば常識なのだそうです。

 それでも、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』からなる「僕と鼠」3部作と、「僕」のその後を描いた『ダンス・ダンス・ダンス』については、自分の心に引っかかり続けています。

 既に僕自身が「あちら側」に引きずり込まれているのかもしれませんし、「境界線」そのものが存在しないのかもしれませんが、「あちら側」との境界線に立ち続ける妄想に取り憑かれている僕自身の「翻訳者」であり「防衛線」にもなりえる『ダンス・ダンス・ダンス』を今更切り離すのも難しいのですね。以上でご回答となりましたでしょうか。

私は時折苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在の自分と

防人の詩

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「インターネットとリアルの境界線」について4人で考えました

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