1962年10月にイギリスでデビューしたビートルズは、翌年早々には2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がブレイクした。
それからは発表するシングルが全部ナンバー・ワンになるだけでなく、ファースト・アルバムとセカンド・アルバムが1年以上もアルバムチャートの1位を独占するなど、イギリスでは爆発的に売れ続けた。
プロデューサーのジョージ・マーティンは優先契約のあるアメリカのレコード会社、キャピトルに対して再三にわたって発売してくれるようにとアプローチした。
しかし海外アーティストの発売をジャッジしていたA&Rマン、デイブ・デクスター・ジュニアからは、「残念だがアメリカのマーケットでは売れる見込みはない」と断られ続ける。
「ラヴ・ミー・ドゥ」と「プリーズ・プリーズ・ミー」、それに「フロム・ミー・トゥ・ユー」の3枚のシングル発売権は、フォーシーズンズで当たりを飛ばしていたシカゴのインディーズ、ヴィー・ジェイ・レコードに渡った。
だがデイブが判断した通り、どれひとつとしてチャートの100位内に入らず、アメリカでのビートルズにはまったくヒットの兆しが見えなかった。
同じ頃にデイブが経営陣に無断で、各地の放送局やジュークボックスに日本の歌をプロモーション盤にして配った「SUKIYAKI」が大ブレイクしてしまう。
誰も予想しなかったが、なんと全米1位の記録を打ち立てたのである。
キャピトルの経営陣も驚いたが、これにはデイブ自身も信じられない気持ちだったらしい。
ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインは、イギリスのEMIを通じてキャピトルの経営陣に、4枚目の「シー・ラヴズ・ユー」を発売するようにプレッシャーをかけた。
だがレコードを聴いたデイブは、「何度も云うようにこの子たちの音楽では無理だ」と、社長からの要請さえも拒否した。
ジャーナリスト出身で当時も健筆を振るっていたデイブは、外野からの圧力で動くような人間ではなかった。
ヴィー・ジェイがさじを投げてしまっていたので、「シー・ラヴズ・ユー」はフィラデルフィアのインディーズ、スワン・レコードが引き受けた。
だがこれも空振りで、まったくヒットには至らず、ラジオ局のDJにもリスナーにも無視されたままだった。
ところがビートルズを拒否していたデイブは、10月にロンドンに出張した際、レコーディングが終わったばかりのシングル「I Want To Hold Your Hands(抱きしめたい)」を聴いて衝撃を受ける。
その瞬間、デイブは「これはビートルズじゃないだろ!」と叫んでいた。
しかし、それは正真正銘、ビートルズの新曲だった。
ビートルズだとわかったデイブは、それまでの拒否から一転してリリースを快諾した。
これはアメリカでもヒットする、デイブの耳がそう確信したのである。
I Want To Hold Your Hands(抱きしめたい)
キャピトルは1月13日に発売する予定を立てたが、12月に入ってワシントンDCのラジオ局が、イギリスで11月に発売されたレコードをいちはやくオンエアした。
すぐにリスナーから反応があって、他のラジオ局も次々にイギリス盤を手に入れて追随した。
騒ぎが大きくなってきたのでキャピトルは急遽、発売を12月26日に前倒しすることになった。
歴史的なビートルズの快進撃が、そこから始まる。
「抱きしめたい」が1964年2月1日に全米1位となっただけでなく、売れてなかったスワンの「シー・ラヴズ・ユー」が、69位から21位へと一気に上昇し始めた。
ヴィー・ジェイの「プリーズ・プリーズ・ミー」も、遅ればせながら69位に入ってきた。
アメリカに上陸した生身のビートルズは2月7日、テレビの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」出演し、アメリカのテレビ史上で最大の視聴者数を記録する。
ビートルズはワシントンD.C.とニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行い、イギリスに帰った。
だが、アメリカはその後もビートルズ一色に染まっていく。
全米ツアーでのオープニング曲、「ツイスト・アンド・シャウト」にも火がついた。
こうしてシングルチャートで1位から5位を独占するという、前代未聞の快挙はビルボード誌の1964年4月4日号で達成されたのだった。
1位、Can’t Buy Me Love(キャント・バイ・ミー・ラヴ)
2位、Twist And Shout(ツイスト・アンド・シャウト)
3位、She Loves You(シー・ラヴズ・ユー)
4位、I Want To Hold Your Hands(抱きしめたい)
5位、Please Please Me(プリーズ・プリーズ・ミー)
(初出2014年4月4日 改訂2015年4月4日)