健康の自由主義について
明主様御教え 「健康の自由主義」 (昭和28年御執筆)
「病気とは体内浄化作用であり、それに伴う苦痛をいうのであるが、
これを逆の意味に解し、浄化停止をもって治病の方法としたのが医学の考え方であった。
そうしてこの停止手段としては、身体を弱らすに限るから、薬と称する毒を用いたのである。
従って毒の強い程よく効く訳で、近来医学の進歩によって、死の一歩手前にまで毒を強める事に成功したので、決して治病の進歩ではない事を知らねばならない。
その結果死亡率が減ったのであるから、つまり逆進歩である。以下この意味をかいてみよう。
誰でも病気発生するや、これは自然の浄化作用であるから、苦痛は割合強くとも、そのまま放っておけば順調に浄化は行われ、速く治るのである。
ところがその理に盲目であるため早速医師に診て貰うが、医師ももちろん同様盲目であるから、専心浄化を停めようとするので、ここに自然治癒との衝突が起る。
すなわち浄化とその停止との摩擦である。
そのため浄化は頓挫し、一進一退の経過を辿る事になり、衰弱死に至るのである。
それが従来死亡率の高かった原因であるが、近頃は前記のごとく生命を保ちつつ、浄化を圧(おさ)える事が出来るようになった。
というのは前記のごとく強い薬が使えるようになったからで、ある期間寿命を延ばせるのである。
しかし無論全治ではないから、時が経てば復(ふたた)び発病する。
このようにして人間は漸次弱って来たのである。
ゆえに医学の進歩とは治病の進歩ではなく、一時的苦痛緩和と若干(じゃっかん)生命延長の進歩である。
この最もいい例としては借金である。元利合計請求された場合、一時に払おうとすれば破産するから、月賦にして気長に払う事にする。
そうすれば第一楽であり、暫くでも破産を免れられると同様の意味である。
右のごとく医学の進歩とは、借金返済ではない、借金延期法の進歩でしかないのである。
しかしこれで一時なりとも寿命は延びるが、病の方はそのまま固ってしまい、真の健康とはならない以上、溌剌(はつらつ)たる元気などはない。
この際医師はこう言うのである。何しろ貴方(あなた)のからだはヒビが入ったようなものだから、
余程大切にしないといけない、軽はずみをすると元通りになると注意されるので、患者はビクビクもので、その日を送る事になる。
私はこの種の人を消極的健康人というが、今日こういう人は益々増えるばかりである。
この例として高度の文明国程そうであるのは、彼の英仏などを見ても分る通り、
近来この両国民の元気のない事はなはだしく、我国とは反対に人口増加率低下に弱っているのみか、国民は安易を求めるに一生懸命で、国家の前途などは二の次にしている。
こんな訳で両国の国威はガタ落ちで、植民地の維持すら困難となり、ともすれば離れようとする現状である。
また国際的正義感にしても麻痺状態で、彼の中共の中国、南鮮侵略に対しても、ただ指を食えて観ているばかりか、
英国などは逸(いち)早く承認を与え、アメリカを吃驚(びっくり)させたくらいである。
その後も御義理(おぎり)的にアメリカに追随しているにすぎない有様である。
しかも同国が戦勝国でありながら、戦敗国日本よりも食料不足に悩んでいるのもその現われで、全く気の毒なものである。
仏蘭西(フランス)にしても御同様人民の闘志などは全然なく、アメリカがいかに気を揉んでも何らの手応えなく、
ただその日その日を無事安穏に過ごす事と、享楽に耽る事のみ考えているようだ。
以上によってみても、昔英国が七つの海を支配し、仏国がナポレオン当時のアノ華やかさに比べたら、まことに感慨無量というべきである。
この原因こそ全く恐るべき医学の進歩にある以上、日本も殷鑑(いんかん)遠からず油断は出来ない。
次の米国にしても、近来医学の進歩につれて、病人は益々増える一方で、悲鳴を上げている状態である。
これに気付かない限り、いずれは英仏の後を追うのは必然であろう。
私が先頃「アメリカを救う」の書を発刊したのもこの事を憂慮したに外ならないと共に、日本にもお次の番が廻って来ないと誰か言い得よう。
そうして右は大局的に見た医学なるものの実体であるが、これを個人的に見るとなおさらよく分る。
周知のごとく今日医学の建前を基礎として、国民保健制度を立てているが、これは日本ばかりではない。
世界の文明各国は大同小異はあるが、いずれも同様である。今それについてザッとかいてみるが、
何しろ現代人の健康の低下と来てはまことに酷いもので、そのため当局の社会衛生上の注意も、益々微に入り細に渉り、煩(はん)に堪えないくらいである。
ヤレ無理をするな、睡眠を多く取れ、風邪を引くな、暴飲暴食するな、栄養を摂れ、防毒に注意せよ等々、全く毀(こわ)れ物扱いである。
剰(あまつさ)え病菌の感染を極度に怖れ、結核や伝染病患者には近づくべからず、ヤレ手を洗え、含嗽(うがい)をしろ、消毒をせよ、マスクを掛けろ、濁った空気を吸うな等々、その窮屈さは生きているさえ嫌になるくらいである。
これが文明のあり方とすれば、文明こそ大いに呪いたいくらいである。
それに反し吾々の方の恵まれ方はどうだ。
いわく食いたい物を、食いたい時に、食いたいだけ食い、寝たい時に寝、働きたいだけ働き、無理をしてもよく、風邪引き結構、伝染病も結核菌も屁とも思わない。
というように人に迷惑を掛けない限り、自己の職業に差支えない限りは、自由無碍、明朗闊達、何ら不安ない日常を送っている。
恐らく人生これほどの幸福はあるまい。
これを称して私は健康の自由主義というのである。
今日荐(しき)りに唱えられている自由主義などとは、比較にならない程の幸福さであろう。
では右を実行した結果はどうであるかというと、これまた大したものだ。
私初め信者数十万人ことごとくそうしているが、結果は一般人よりも罹病率の少ない事は十分の一にも足りないくらいであるから、病気の不安など全然ないと言っていい。
その根本理由こそ今日の医学衛生の考え方は逆であるから、そのまた逆にすれば真の健康法となる訳である。
以上によって医学の無智がいかに人間の自由を束縛し、無益な労力と余計な金を使わせ、生産をマイナスにし、しかもあらゆる不幸の原因を作っているかという事である。
以上のごとくであるとすれば、今日これほど重大問題はあるまい。
また宗教についても一言いいたい事は、宗教本来の使命は万人の不安を除き、安心立命を得させるにある以上、それが出来ないとしたら、存在の意義はない訳である。
私はこれに対しても敢て考慮を求める次第である。」
明主様御教え 「病気を治す方法」 (昭和28年御執筆)
「以上によって病気なるものの実体は大体分ったであろうが、ではそれを治すにはどうすればいいかという事である。
前項のごとく放置しておけば治るのは間違いないが、それでは非常に時日がかかる。
というのは毒素が少量であれば速かに治るが、そういう人は極く稀で、大抵な人は薬毒が充満している。
もっとも政府も医師も小学校時代から薬を服めと教育し、奨励し、これが文化のあり方としているのだからたまらない。
今日薬剤特に新薬がいかに売れるかは、新聞広告欄を見ても分る通り、第一位を占めている。
かてて加えて先天性薬毒も保有している以上、今日の人間は人間の形をした毒の塊であるから、ともすれば病気に罹り易く、その都度 薬と来る。
という訳で戦々兢々として日を送っている。
しかもそういう人に限って矢鱈(やたら)に薬を服み、衛生にも充分注意していながら弱々しいのは、昔から養生家程弱いと言われている通りである。
また当局は当局で医学の説を金科玉条と信奉している。
そのためヤレ帰宅したら手を洗え、含嗽(うがい)をしろ、風邪を引くな、暴飲暴食を慎め、無理をするな、睡眠を充分採れ、
黴菌を恐れよなどと注意怠らず、結核検診、各種の予防注射は固より、子供は寝冷をするな、生水を飲むな、食物をよく噛め、よく睡れなどと、
ザッとかいただけでこのくらいだから、現在生活の煩雑さは生きているのが嫌になるくらいである。
これが文化的生活としたら、一種の牢獄であろう。
この最大原因こそ病なるものは、健康のための神の恩恵である事を知らず、逆に病気を病魔と言い、闘病などといって敵視しているのを、吾々からみれば迷信地獄に陥ちて苦しんでいる人々としか思えない。
それに引換え吾々の方では病を大いに歓迎している。
例えばお陰様でやっと風邪を引きました。
先日は酷い下痢と嘔吐があって、それからとてもからだの工合が好くなりましたとか、
やっと熱が出たからもう大丈夫だと、仕事に取掛るというような有様を見たら腰を抜かすであろう。
これこそ病の根本が分っているためと、必ず治るという自信があるからで、この境地こそ文字通りの安心立命を得た幸福者である。
ゆえにこの世界から薬剤全部を海へ投げ棄てるとしたら、その時を限りとして病は漸次この世界から消滅するのは、断言して憚(はばか)らないのである。
以上は現代医学に対し、大胆率直にその真相を暴露したのであるが、ではこの誤謬を是正するにはどうしたらいいかというと、それははなはだ簡単である。
すなわち私の説に従い、病気に罹った場合自然療法か、または浄霊療法を行えばそれで解決するのである。
これについて今までの統計によるも、最も治り難いとされている結核の治癒率が九十三パーセント、他の病気は九十七パーセントという好成績を挙げている。
しかも右の少数失敗者の原因は、薬毒が余りに多量のためであるから、そうでないとしたら百パーセントは確実である。
また浄霊法の最も誇るべき特長は、施術の場合医療と異(ちが)って、肉体に一手も触れない事である。
そうして浄霊の主眼は薬毒解消法であり、薬毒が減っただけは治るからよく分る。
といっても医学迷信に固まっている現代人は、容易に信じられまいから、充分納得のゆくよう詳説すると共に、本人手記の百の実例(省略)をも添えてある以上、理解されないはずはないと思う。」
明主様御教え 「無信仰と有信仰」 (昭和24年3月20日発行)
「この論文を書くに当って断わっておきたい事は、無信仰と有信仰というこの有信仰とは無論本教を指すのであって、他の宗教や既成宗教をいうのではない、
そうして昔の事はイザ知らず、現在のこの娑婆世界にあって生活している人間をつくづく客観してみるに、
キリストのいった「哀れなる仔羊」という言葉がよく当嵌っていると思う。
まず考えてもみるがいい、真になんらの不安なく安心して日々を送っているものは恐らく何人あるであろうか、
その不安の中第一に考えられるのは言うまでもなく人間の病気であろう、
いかなる人間といえどもいつ何どき病気に犯されるか判らない、
一時間後に風邪を引くかも判らない、風邪を引けば肺炎になるかも判らない、あるいは結核の初期であるかも判らない、
今晩あたり盲腸炎が発病し七転八倒の激痛で苦しむかも判らない、
明日あたり腸チフスになるかまたは原因不明の病気に罹るかも判らない、
子供のある人は生命とりという恐ろしい疫痢、ジフテリヤ、脳膜炎等の重症に罹って二、三日であの世へゆくかも知れない、
また年寄りは年よりで、今にも脳充血から中風となり、半身不随のまま何年も床から離れられないような悲惨な運命に陥るかも分からない、
もしか家族の中誰かが伝染病に罹って、入院隔離されるかも分からない、
そればかりではない、今日のように医療代が高くては、治療費や入院料がどのくらいかかるか分からない、
それも短期間で治ればいいが、もしか長期にでも亙(わた)ったら入院料のために長年辛苦して貯めた貯金が零となり、
たとえ病は治っても会社は馘(くび)になり、路頭に迷うようになるかも知れない、
しかしそれでも生命さえ取止めればまた稼ぐ術(すべ)もあるが運悪く障害者になるか死んででもしまったら一体どういう事になろう、
仮に主人であった場合遺族はどうして暮しを立てるだろう、また自分としても計画や事業半ばにして終りとなるし、
いまだ男盛りの年齢であるのにこの世を去るとは実に残念だ、妻子と今愛着の絆を断たれるのはどうしても我慢が出来ないというような事態が来ないと誰か言い得よう、
これら種々の事を考える時、病気に対する恐怖感は絶えず鉛のように重くブラ下っているのは、何人といえども例外はあるまい。
以上述べたような恐ろしい人生である以上この不安から解放されないとしたら、
釈尊の喝破したごとく「この娑婆は火宅であり、人間は生病老死の四苦から免れる事は出来ないという諦めで我慢するより道はない、それが悟りである」と言うのである。
以上述べたごとくであるからこの病気の不安から絶対解放される宗教が現われたとしたらこんな大きな福音はあるまい、
しかし初めてこの事を聞いた人は「そんな馬鹿な事がこの世の中にあってたまるものか、君の頭はどうかしている」といい、まず狂人の一歩手前くらいにしか思うまい、
ところがどうだ、右のごとき宗教が確かに表われたのである、読者諸君はまず一応も二応も疑うところか否定するかも知れない、
がもしそれが真実であったと知ったらどうなさる、大変どころの騒ぎではない、世界的一大センセーションを起こさずにはおられまい、
その中で運の好い人は、まあともかく一度研究してみようという事になろうし、
反対にそんな話は迷信以外の何物でもないと鼻の先で笑う人もあろうが、
こういう人はまず華厳の滝か三原山へ飛込む人のお仲間で、洵(まこと)に不幸な人というべきである。
こういう事をいうと、余りに自惚れ過ぎるというかも知れないが、ここでまず本教の信仰と病気について簡単に述べてみよう。
本教によって信仰の実態を把握した限りの人々は、病気の心配は皆無となる事である、否病患の根本が明らかになった以上、恐れるどころか反って、それを喜ぶくらいである。
何となれば病気なるものは健康増進のための自然生理作用であって神の一大恩恵であるからである、
もちろんあらゆる病患が発生するや、神霊放射能によっていとも簡単に治癒されるからでもある。
以上は病気のみについて述べたのであるが、いまだ病気以外にも不幸の因は多々ある、
たとえていえば現代生活においては交通機関とは切っても切れない関係にあるし、
人によっては生活の大部分を占めるものさえある、これがためその不安も災害もなかなか軽視出来ないものがある事は皆よく知っている、
その他工場における機械の受難、火災の災害、盗賊の被害等々はもとより、稀ではあるが地震洪水等の災害も由々しきものがある、
かように病患を初め諸々の災害がいついかなる時に襲いかかるかも知れない現代生活を考える時、実に一時といえども安心出来得ないのである、
これに対し官民共にあらゆる防護施設を採っている、健康保険、災害保険、失業保険等々はじめ貯金制度、諸種の保護事業等の施設もあるにはあるが、
これら有形的の手段はある限度以上の安心は出来得ないのである、
どうしても無形の保険すなわち神様の保険でなくては絶対安心を得られるものではない、
しかし現代人は無形の力とか、神様の保険だとかいってもなかなか受入れようとはしないのである、
といって有形的方法だけでは真の安心は得られないというジレンマに陥って、相変らず不安な日を送っているのが実状であるから、哀れなる小羊に過ぎないのである。
ゆえに吾々信仰者の側から見ると、無信仰者のなんら拠り所のない浮草のような生活裡に戦々兢々たる有様は実際見てはいられないのである、
ちょうど大海に小舟を操っているものに、大汽船に乗れよといっても彼らは自己の船のみを見詰め、大きな船体あるを知らないようなもので、
これらを見かねる吾らはせっかく信仰を奨めても否定の闇の中から抜け出る事が出来ない有様である。
かような素晴しい救いの力は、人類史上いまだかつてない事であるから、容易に信じ難いのは無理もない、
しかしこの大いなる福音が現われたという事そのものを考えても、病貧争絶無の世界である地上天国出現の間近に迫った事は一点の疑う余地のない事を知るべきである。」
明主様御講話 「健康の自由主義について」 (昭和28年8月5日)
「終戦後封建制が壊れて、今は自由主義になったといってたいへん結構としていますが、
誰も気がつかないところに非常な不自由主義があります。
そしてこれは解決不可能として誰も関心を持たないのですが、それも無理はないのです。
人間はできるだけ自由主義ならよいですが、絶対できない自由主義だから諦めているよりしようがないのです。
ところが私はその自由主義はかえって今の社会的、政治的のそういう自由主義よりもずっと楽に解決できるというわけなのです。
それはなにかと言いますと、健康自由主義です。今は健康に対する自由がないのです。
それを書いてみました。これを読んでみると、なるほどと思うのです。
それで救世教のありがたいことはこの点に大いにあります。
ところがそう言われてみないとちょっと気がつきません。
「医学革命の書」の本ですが、前に「医学の革命書」と言いましたが、これを「医学革命の書」とします。
その中に入れるものです。ですからちょっと分かりきったような説明も書いてありますが、そのつもりで聞いてもらいたいと思います。
(御論文 医学革命の書「健康の自由主義」発表)
今読んだようなわけで、今の人間が安心して生活できないということは、いつ病気にかかるか分からない、風邪を引いたらたいへんだ、食い過ぎるとお腹をこわすとか。
ともすれば、頭が痛んだり、目がクシャクシャしたり、ヤレ神経痛が起こるとか、どうも体が重いとか、腰がフラフラするとか、なにかしらで年中無事息災だという人は、ほとんどありません。
またそれだから一生懸命に医学衛生をやるのです。
うっかりすると伝染病になるかも分からない、いつ赤痢が起こったり、日本脳炎が起こるかも分からない。
子供などはうっかりすると寝冷えするとか、アイスキャンデーを食ったので腹を下すとか、ヤレ生水を飲むなとか、親の子供に対する心配は病気だけです。
これが年中ピンピンしていれば、子供などはほうり出しておいても育つのです。
ところがそれではいけないと、しきりに政府始めお医者さんが注意するのですから、今の人間くらい年中ビクビクして生きているものはないと思います。
ですから今の人間が一番心配なことは病気なのです。つまり主治医とかいって、今までは少し裕福な人はお医者さんとは親類みたいになってます。
現に私が昔はそうだったのです。
人間はいつなんどき病気が起こるか分からないから、夜中でも電話一つで飛んで来るようなお医者と懇意にしておかなければいけないというので、親戚みたいにしていたのです。
今の家内の仲人はそのお医者さんなのです。
ですからそういうような人がたくさんあるということは、私の経験から言ってもあたりまえなのです。
そのくらい医学を信じさせられ、病気を怖がらせるという教育を叩き込まれてますから、みんなそうなってます。
ですから他のことはどんなに安心ができても、このために人間が心配し苦しんでいることはたいへんなものだろうと思います。
ですから、このことから解放されるということが幸福のまず第一番のものを握ったわけです。
これは別に言う必要はないくらいですが、メシヤ教の信者になると、その点が実によいわけです。
反対の考えですから。このノンビリした気持ちというものこそ本当の自由です。
ですからちょうど自由主義が生まれ、また自由主義がありがたいというのは、
つまり封建的の政治でいろいろ窮屈なことを上からやられて、
そうして苦しんでいた者が(民主主義ですから国民の方が主人だということで国民の自由を得て)、非常に恵まれたわけです。
ところがそれはそれとしても、今の人は健康の方でいつもおどかされて、
そうしてアレを食ってはいけない、これをしてはいけない、あれがどうだと、ビクビクしているわけです。
そうしてみると、これは封建制度よりも、むしろ恐ろしいわけです。
ところがそれを解放されるとしたら、こんな結構なことはありません。
そこで「健康の自由主義」ということを書いたわけです。
けれどもこれはそう言われればなるほどそうだと思いますが、
世間一般の人は「そんなうまいことができるわけはない」と、病気は怖いものではない、病気は浄化作用だから結構だということは知らないし、また信じないから、
たいへんな医学封建に苦しめられているわけですから、
大いに健康の自由主義を世の中の人に知らせなければいけないと思っているのです。」
明主様御講話 「健康の自由主義について」 (昭和28年8月6日)
「それから今日は、日本も昔と違って民主主義になった。
民主主義は自由主義で、束縛がなくなった。
封建的が壊れたというが、封建的ということは、分かりきった話ですが、
つまりなにごとも自由を押さえる、非常に窮屈な、のんびりしないという一つの制度もあるし、仕来(しきたり)もあるし、
実に人民の幸福をそれだけ阻害しているわけです。
そこでだんだん文明になると、人間は非常に自由を欲するということはあたりまえです。
ところが、今日の自由主義ということは政治的の自由主義です。
しかし政治以外に自由主義のあることにみんな気がつかないのです。
そしてそれは政治の封建よりかもっと恐ろしい封建なのです。
それはなにかというと健康の自由主義です。
今は健康に対する封建です。
自由主義はないのです。これに気がつかないのです。
ところが気がついてもどうにもならない点があるのです。
そこでどうにもならないから、気がつかないというよりか、気をつけ得ないのです。
たとえてみれば、ヤレ予防注射をしなければいけないと言うが、これが封建です。
いやだと言っても、規則だからやらなければならないと無理に強制的にやりますが、これが健康に対する封建です。
それから病気になったら医者にかからなければいけない、衛生上こうしなければいけない、こういう物を食ってはいけない、
こういうようにしろ、ということを一々注意したり、半強制的にやっているわけですが、これは立派な封建です。
私はその封建を破ろうとしているわけです。
それで健康保険にはいらなければいけないというのです。
ところがそういう封建をしなければならないようにするということは、つまり健康を守るべき方法がないからです。
またその方法と思っていることが医学であって、その医学がとんでもない間違いだから、
そこで間違ったそれを間違っていないと思い込んでしまっている一つの迷妄が根本になって、
そういう手数だけかけてなんにもならないような、つまり医学の封建制度というものはそれですが、そういうものを作って人間を苦しめているわけです。
この点も分からせるべく、私は書いたのですが、これは「医学革命の書」の中にはいるものです。
だから信者の人は知っているようなことがだいぶありますが、最後の方に今の意味が書いてあります。
(御論文 医学革命の書「健康の自由主義」発表)」
明主様御講話 「健康の自由主義について」 (昭和28年8月7日)
「そういうようで、国が新しいと「良くさえあればよい、病気は治ればよいではないか」という単純な考え方ですが、しかしこの単純が本当なのです。
ところが日本人はその単純を嫌うのです。なんでもややこしいことがよいと思っているのです。
ですから医学なども、微に入り細にわたって細かいです。
黴菌医学ということを非常にありがたがるのは、細かいことがよいと思っているおかしな考え方のためです。
それについて書いてみましたが、健康の自由主義ということです。
といっても、これはみんな知らないのです。それは日本にはないからです。
ところがこれが大いにあるのです。
ふつうの自由主義、これは封建に対する反対のものです。
ところが封建というものは、勿論人間の「したい、やりたい」ということを、それはいかんと制限されるのです。
非常に窮屈にするのです。
そこでそれに反抗してできたのが自由主義ですから、実際日本でも現在自由主義のお蔭で大いに楽になったわけです。
ところが昔の封建よりかもっと封建なのがつまり医学なのです。
この医学封建というものはたいへんなものだが、みんな気がつかないのです。
もっとも気がついてもどうにもならないから、それで満足はしなくても、諦めているというわけでしょう。
ところが神様の医学からみると、それが人間の非常な苦しみになっているわけです。
食いたい物が食えない、したいことができない、無理してはいけない、人込みに行っては空気が悪い、そうしてそれが命にかかわるようなことを言っておどかすのです。
ですから人間は震えあがって、ちょっと汽車や電車に乗っても、隣に変な者がいて青い顔して咳でもすると、
これは肺病ではないか、うっかりして伝染するといけない、窓を閉めきると空気が悪くなるからいけない。
そういったような恐怖はたいへんなものだろうと思います。
そのことを書いてみましたが、これは「医学革命の書」にはいる一節ですから、分かりきったような意味も少しありますから、そのつもりで聞いてください。
(御論文 医学革命の書「健康の自由主義」発表)
今読んだような具合で、ますます医学はそういう面倒臭いことや、ややこしいことを進歩したことだと思っているのです。
そうしてはヤレ注射だとかヤレ、ビタミンをのまなければいけないとか言ってます。
今度は人造米というのができるそうですが、これにはビタミンを入れるようです。
そういうようで、われわれからみると実に滑稽(こっけい)に思うくらいです。
なんでもかんでもややこしく変てこにすることがよいと思っているのですから始末に負えません。
まったく馬鹿と言ってよいか、かわいそうと言ってよいか分かりません。
それでそうすればするほど、だんだん弱い人間が増えてくるので、これはちょうど農業で肥料をやるのと同じことです。
逆効果になってゆきますが、その逆効果を妨ぐのにまた逆方法をやりますから、そうなると、そういう点における文明というものは実に困りものです。
それを段々教えて、要するに教育してゆくわけです。
そうしてこれだけ知っただけで、生きているのがどれほど楽か分かりません。
ビタミンも蛋白もなにもないので、なんでも食いたい物を食えばよいのです。
水は生水を飲んではいけないと言いますが、これは生水の方がずっと生きてますから、体によいのです。
一々沸かしたりすると水が死んでしまいます。
つまり水の精がなくなるのです。死んだ水になりますからたいへん悪いのです。
そういうことを知らないから、なにがなんでも顕微鏡式にやることをよいと思っているのです。
この間も言ったとおり、黴菌というのはごく粗いものだ、つまり本当の原因というのは無限粒子だということは、つまり霊です。
霊と言ってもまだピッタリと来ないかもしれませんが、「気」と言った方がよいかも分かりません。
ごく希薄な目に見えないものです。
それで一番目に見えないつかめないものは、あらゆるものの一番根本です。
ですから「力」というものは一番目に見えないものです。希薄なものです。
そして一番希薄なものというのは人間の想念です。
心でいろんなことを思うという、これは形ではどうしてもつかめるわけはありません。
そういう気がするというものです。」