真の健康について


明主様御教え 「人は健康の器」 (昭和25年11月20日発行)

「昔から、よく人は病の器というが、これほど間違った話はない。

人は健康の器というのが本当である。

それならばなぜそういう事を言われたかというと、これにはもちろん訳がある、

と言うのは、人間は実に病気に罹りやすい。

ヤレ風邪を引いたとか、頭痛がする。腹が痛い。咳が出る。腹が下る。

なぜかしら痛い。寒気がする。胸が悪いとか、その他種々な苦痛が発(おこ)る。

すると驚いて、ヤレ医者だ、ソレ薬だと言って大騒ぎをする。

しかし簡単に治る場合もあるが、ちょっとした風邪くらいに思っていると、仲々治らない。

その内脳炎とか、チフスとか肺炎などという重い病気になったりする。

それもうまく治ればいいが、下手をすると命に関わるような事になる、というのは、最初からお医者様には見当がつかない。

だろう的である。それは確実な診断を下す程に、医学はまだ進歩していないからである。

しかしこれらは急性の病気だが、慢性病や特に結核などになるとグズグズしていて仲々治らない。

治るかと思うとまた悪くなるというように繰返すので、どうしても長くかかる。

それでも治ればいいが、大抵は散々金を使って、苦しんだ揚句あの世行きというのだからやり切れない。

それまでにお医者さんと薬と親類のようになってしまって、縁を切る事など仲々出来なくなる。

ところが病気の苦しみばかりではない、仕事を休むから経済的打撃も大きい。

サラリーマンなどは長年月休むので馘(くび)になり、収入も途絶えるという訳で、二重三重の苦しみとなる。

何しろ近来医者や薬の治療代も高価で、仲々馬鹿にはならない。

長引いたり、入院でもするようになると一財産くらい飛んでしまうし、また運が悪いと命まで、フイになるのだから大変である。


このような訳であるから、現代人の病気を恐れる事は実にはなはだしい。

そこで官民共に病気解決に関する予防や施設などに巨額の金を使う事は大変なもので、

今次政府が計画している結核対策の費用でさえ、最近決った額は八十七億円というのだから、何と驚くではないか、

しかもそれ程、巨額の費用を使い、官民共に大童(おおわらわ)になっているがサッパリ結核は減りそうもない。

理屈から言えば減らなければならないはずだが、事実はそういかないと共に、全般的病気もそうである。

ヤレ、チフス、赤痢、日本脳炎等々、近頃の世の中を見るがいい。

どこもかしこも病人の氾濫はもとより、病院は満員で、収容しきれないそうである。

薬も足りないので如何様(イカサマ)薬や、贋物が横行し、当局も弱っている事など新聞によく出ている。

こんなにまでしても病気は一向に減らないので、誰も彼も今日の人間は、病気恐怖症に罹っている。

従って人は病の器などというのももっとも千万である。


ところが、一度本教の信者となるや、病気は簡単に治り健康は益々よくなるから

病気の心配がなくなるどころか、伝染病など問題にならない。

なぜなれば、伝染病程雑作なく治るものはないからである。

だから黴菌なども恐ろしいとも何共思わないという事だけでも、実に現代の奇蹟であり、

その幸福たるや世界中恐らく類があるまい、

しかもそればかりではない、人の病気まで治せる術を授かる事である。実によく治る。

信じられない程である。


ところがこれを聞いた第三者はいうのである。

何十年も掛って学校を出たり、色々の実験を重ねたりして、一生懸命修業して来た専門家に治らないものが、

素人の癖に三月や半歳修業したくらいで、お医者の見離した病気が治るなんて、そんな馬鹿な事があるものか、

そんな理屈に合わない話をするなんて、頭がどうかしている。

全くインチキ宗教に騙されているんだから可哀想なものだ。

迷信邪教程恐ろしいものはない。

もし本当にそうだとすれば、医者も薬も要らなくなるじゃないかという。

この言葉は紋切型となっていて吾々の耳にはタコが出来る程聞かされている。


なるほどそれももっとも千万で、決して間違っているとは思わない。

そこでちょっと考えてみて貰いたい事はお説の通りだとすれば、

年々病気が減って、ヤレ伝染病の予防だ、注射をしろ一々消毒もしろ、黴菌に注意せよ、

外から帰ったら手を洗え、含嗽(うがい)をしろなどと面倒臭い事は、段々言う必要がなくならなくてはならない。

また医学衛生が本当に立派なものとすれば、国民の健康は年々良くなり、

病院に蜘蛛の巣が張るようにならなければならないはずである。

ところが事実はその逆であるのは一体どうした事か、また真の健康体となれば、大抵の黴菌は身体へ侵入しても発病しないはずである。

なぜなれば黴菌が侵入しても、発病する人としない人があるに見ても明らかである。

すなわち発病しないのは真の健康体で、抵抗力が強いからである。

だからそういう抵抗力の強い人が段々殖え、消毒の手数も年々減るようになるのが、真の医学衛生の進歩でなくて何であろう。

ところが不思議な事にはこんな判り切った理屈に、誰も気が付かない事である。

実に割り切れない話ではないか。


しかしその原因は吾々にはよく判っているが、それを詳しく話す事が出来ないのはまことに遺憾である。

何よりも吾らの説通り実行すれば、誰でも健康者となり、病人は段々減る事は太鼓判をおしても間違いない。

そんな立派なものならなぜ早く世の中へ知らせないかという疑問が起るであろうから、それを左にかいてみよう。

今日の社会制度は近代文化が基本となって形成されたものであって、さきに説いたごとく、

近代文化は根本が唯物主義の建前である以上偏重的で、唯心文化に対する反動的とも言えよう。

この文化を無上のものと心得、あらゆる機構を作ったのであるから、

それに欠陥のあるのは当然で、吾々のいう中正文化との喰違いもある訳である。

そうして何より間違っている事は、この唯物文化は結果というものを余り見ないで、方法のみを重くみる。

これが最も不可解な点である。

この事を知って近代文化を検討すると実によく判る。

その点、一時的結果で物を決めようとする短見的考え方である。

先を見ずしてホンの目先だけで決める。例えば熱が出ると氷で冷す、

ところが熱が出るという事はどこかに出るべき原因があるからで、それに気が付かない。

気が付いてもどうしようもないのかも知れないが、ほとんど末端のみを対象とする。

よく医学を対症療法というが、全くその通りである。

また不幸な人を救うため、社会事業に一生懸命になっており、鳥の羽根募金や何やかやで金を集めているが、

これも結構には違いないが、実はその方法たるや根本を逸している。

不幸な人が出るという事は、出るべくどこかに社会的欠陥があるからである。

従って、その欠陥を無くしさえすればいいのである。

それより以外根本的解決の方法はないが、現代人はそれにも気が付かない、これも対症療法と同様末梢的方法でしかない。

右は、ただ一つだけの例であるが、今の文化はあらゆる点がそのようになっている。

何よりも文化が進歩したと言いながら、到るところ不幸が充ち満ちている。

それらの原因である内面的欠陥、それを吾々は神様から、徹底的に知らされたのである。

神様は一日も早く、一人でも多くの人に知らせ、目を醒まさせ、本当に幸福になる社会を作れという御思召である。

そうして病人のない貧乏人もない、戦争などもない理想の世界を目的として進めと言われるのである。

何と有難いではあるまいが。

それでは今までなぜもっと早く、神様ともあろうものが、それを知らせなかったかと言うだろうが、

それには色々の深い訳がある。

それは本教の信者になれば、段々判ってくるのである。」




明主様御講義 「絶対健康の可能と長寿法」 (昭和10年御執筆)

「恐らく、人間として、絶対健康と長寿を冀(こいねが)わぬ者は一人もないであろう。

しかるに、今までそれを求めようとした人類は、何に求めたかと言うと、

それは科学に求めたのである。これがそもそもの誤謬の根本原因である。

人間の肉体が、科学に依って造られたものならばいざ知らず、そうでない以上、科学で出来た薬や機械で治ろうはずがないではないか。

神に依って造られた人間である以上、生命の神秘やその構造の、霊妙不可思議なる、到底、今日の学問の程度では知る事が出来ないのは当然である。

それは、草木の成長や、太陽の光の正体、天候の予測が付かないのと同じ様なものである。

病気の原因についても、風邪の原因すら、未だ判っていないのであるのを見ても、思半(おもいなかば)に過ぐるであろう。

今日、肺病とか、胃病とか、何々結核とか、何々炎とか言った所で、それは病気として、現われたる現象、

言い換えれば、何らかの原因に生れた、その結果であってそれへ当てはめて病名を付けただけのものである。

例えば、肺病に罹ったとする。なぜ、肺病に罹ったかと言えば、黴菌を呑込んだからと言うのである。

しかるに、黴菌は誰しも、毎日、何万匹呑込んでいるか判らない。

それなのに不公平にも病気に罹る人と、罹らない人とが出来る。


医者は言うであろう。病気に罹るのは、その人が肺が弱いからであると。

ところが、なぜ、肺が弱く生れたのかと訊(き)けば、その先は判らない。

又、胃癌が発生したとする。その原因は判らない。

子供がバナナを食って、疫痢になった事はよく聞く事であるが、バナナを食って疫痢になると決ってはいない。

年中食っても疫痢に罹らない子供もあれば、又、食っても何ともない時と、罹病する時とがある。

まさか黴菌のあるバナナと、黴菌のないバナナとある訳のものではあるまい。

バナナは皮を剥いて食うものであるから、バナナ自身はみんな同じものでなければならない。

しかし、今日の医学上、疫痢は、黴菌の媒介によるという学説である。

そういう様な訳で、黴菌に依って感染するという事はあるには違いないが、

この黴菌を人間に絶対付着侵入させないという事は、この複雑なる社会に生活している以上、絶対不可能であろう。

ある程度までの衛生的予防より以上は不可能の事である。


吾々が電車に乗るとする、お隣りに肺患者が乗らないと、誰が保証し得よう。

又、冬など、閉め切った電車内、満員であれば、五人や十人の保菌者は乗合していない事はあるまい。

まず、冬の電車に二三十分も乗ったら、一万や二万の結核菌は御馳走になると思わなければならない。

次に、吾々が、毎日手で扱う貨幣である。紙幣にしろ、硬貨にしろ、肺患者や、梅毒患者が、タッタ今持ったかもしれない。

それだというて一々消毒をするという事は、絶対不可能である。

又小売商店の販売人等は、貨幣を手にする事、一日何十回なるを知らず、

まさか、その度毎にフォルマリンの消毒をする訳にも行かないから、

その手で飯も食えば、菓子も撮(つま)むのは当然の話である。

菓子屋などを見てると、客から銭を貰い、勘定をすると、その手を以て、次に来た客へ売る菓子を直ぐに撮んで入れてるではないか。

これらの実際を見る時、絶対に黴菌に侵されない様にするという事は、人類生活に一大変革の起らない限り、到底不可能な事である。

絶対不可能でありとすれば、人間自身の身体の方で、たとえ、黴菌がいかなる場所から侵入するとても、

決して病気の起らないという、鉄のごとき健康体を造る事が、理想的ではあるまいか。


そういう不死身の様な身体が出来る方法が有り得るとすれば、こんな偉大な福音があるであろうか。

それは私が創成した、日本式医学衛生を実行する事によって、必ず可能なのである。

いかなる黴菌にも犯されないとすれば、その人は無病息災であるから、自然に、老齢天寿の来るまでは、生き得らるる道理である。

まず、人間の天寿としては、九十から百以上は可能であるから、ここに、長寿の希望は達し得らるるのである。

故に、絶対健康法と長寿は、切っても切れない関係である。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)




明主様御教え 「科学で病気は防げる乎」 (昭和11年5月15日発行)

「現代医学とは、一言にして、これを言えば、あらゆる疾患を、科学で治そうと、

否、科学のみで治るものと信じて、熱心に、研究を続けている学問である。

そうして、その事を一般社会へ信じさせようと、熱心に、努力しつつあるものである。

故に、一般世人は、科学的療法に依らなければ、病気は治らないものであると、決めてしまっている。

その結果、たとえ、病気は、予期のごとく治らなくとも、科学的なるが故に、安心だと言うのである、

それが今日は、社会的常識とさえなってしまって、何らそれへ対して、疑点を挿(さしはさ)まないまでに、なってしまった事である。

そうして又、海外諸国もそうであるから、なおさら、安心し切ってしまっているのも、無理はないのである。


現在医学を進歩させようとして、研究しつつある、その方法と、言えば、

黴菌学と、試験管と、動物試験が、その重なるものである。

そうして、黴菌を発見したと言う事は、病原を発見し得たとしているのである。

それ故、病原が不明という事は、その黴菌を、発見し得ないという事である。

であるから、黴菌を発見し得ないのは、その黴菌が、余りに微小であるが為に、

現在の顕微鏡では、視野に入らないからであるとなし、

それらの黴菌を名付けて濾過性黴菌と言っている。

それ故に、まず、その黴菌を発見すれば、病原を発見し得たとして、

今度は、その黴菌を殺滅する方法を、研究するのである。

それは、人体に無害にして、病菌を殺そうとする、薬剤や、光線や、器械力を発見しようとする。

そうして、それを発見するや、その実験をモルモットや二十日鼠などに試み、

その結果によって、今度は、人体へ実験するのであるが、

その成績の統計が、良好であれば始めて、一般的に施行するのである。

しかし、実は、この統計程不正確なものは無いのである。

否、正確な統計を作る事が、非常に困難なのである。

それは、その統計は、割合、短期間の成績を、基準とするが故に、

一時は奏効せるがごときも年月の経過と共に、反動的に悪化する場合が、多いのである。

その点非常に、不正確で、完全とはいい得ないようである。


現代医学は、大体として、右の順序なのであるから、

病気に侵されないのは、病菌に侵されない事になるのであって、

随って、病菌の予防さえ出来れば、健康は保てるものと、なっているのである。
 
黴菌侵犯さえ、予防出来れば、病気に罹らないと、仮に、保証し得たとして、

果して絶対に、黴菌の侵犯を予防し得るであろうか、これが実に問題である。

恐らくこれ程不可能な事はないであろう。

絶対に、黴菌に侵されまいとするには、まず、人間の来訪不可能な山奥に、一軒家を建てて住むより外に、方法は無いであろう、

現在、この社会に呼吸しつゝ電車汽車に乗り、劇場へ行き、日々貨幣を手に触れ、濁った空気を吸い、人と接触し、人と談話する、

これらの動作は悉(ことごと)く、黴菌侵入に無関係であり得ないのである。

これにおいてか、現代人は、いか程黴菌侵入を予防せんとするも、ある程度以上は、絶対不可能である。

今日食事の前に手を洗うとか、外出して帰宅後、直に含嗽(うがい)するなどは、全く末梢的である。


故に、真の健康法としては、あらゆる病菌が絶えず侵入するものであると仮定し、

それにも係わらず、感染も発病もしないという方法があれば、

それこそ、真の衛生学であり、理想的健康法である。

しからば、病菌が侵入しても、感染も発病もしないという、

その完全なる方法とは、いかなるものであるか、それを、これから、説明してみよう。

それは、黴菌が皮膚面又は、粘膜から侵入した場合、

まず、血液を侵すのであるから、血液に殺菌力さえあれば、必ず防げるのである。

感染するという事は、病菌に、血液の方が敗北するからである。

しからば、殺菌血液とは、いかなるものであるかと言うに、それは、濁らない浄血である。

浄血程殺菌力が強いのである。

この事は、西洋医学の説明も誤ってはいないのである。


故に、浄血保有者こそ、一切の病菌に抗し得て、完全健康者なのであるから、

血液を浄化する方法、これより外にはないのである。

この事さえが可能であれば、問題は解決するのである。

しからば科学によって、血液を浄化し得るやと言うに、それは到底不可能である、

ラジュウムでも、レントゲンでも、あらゆる注射服薬でも、

それは、不可能である事は、医家も知悉(ちしつ)して居るであろう。

しかるに、本療法によれば、血液は一回毎に浄化してゆくのである。

それは例外なく受療者の血色が驚く程迅速に良くなってゆく事である。

又我健康法によれば、漸次、病気に罹らなくなるという、

大事実が、これを証明して、余りあるのである。

これを要するに、科学での絶対健康法は未解決であるという事であって、

世人はまず、この事を、認識しなければならないのである。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)




明主様御教え 「細菌恐るべき乎」 (昭和24年6月30日)

「今日一般人が細菌を恐れる事は驚くべき程である。この点現代人はまことに不幸である。

二六時中戦々兢々として不安極まりなき生活を送っている様を、吾らからみれば実に哀れな小羊と観るより外ないのである。

考えてもみるがいい、まず電車汽車に乗れば、室内の空気中に何千何万の黴菌がいるか判らない、

ドアーのハンドルや吊革に触るればたった今結核患者が触ったのかも判らない、

床屋へ行けば僅かな疵でもそこから猩紅熱(しょうこうねつ)の黴菌が入るかも判らない、

入浴をすればゴノコッケンがいつ付着侵入するか判らない、

もしか眼に入ったら恐るべき風眼となる、

外食をすればチフス菌が食器に付着しているかも判らない、

人と談話をすれば結核菌やインフルエンザ菌が飛込んで来るかも判らない、

また外出から帰れば含嗽(うがい)をしたり手を洗ったりする事もなかなか手数である――という訳であるから、

何人といえども一種の細菌恐怖症に罹っている、

ところでもしかこの苦痛から全く解放されるとしたらどうであろう、

その幸福感はけだし想像に余るものがあろう。

とすればそんな有難い方法はこの世の中にあるかと疑わざるを得まい、しかし立派にある事をここに御知らせしたいのである。

といってマサカ陸地から遠く離れた遥かな海上か人跡未踏の奥山へ一軒屋を建てて生活をしようとするのではない。

もちろんそれなら完全な方法であろうが、そんな馬鹿な事は実際上出来るはずがないから、今まで通りの生活で目的が達しられなくてはならない。


しからばそんな結構な方法はどうすればよいかというと、何よりもまず細菌が付着しても絶対発病しないというような健康体になればそれでいいのである、

ちょうど軍備のない国が戦争を恐れるようなもので、敵に脅かされないだけの軍備が充実しておれば、何らの心配はない訳である。

ここに本教浄霊の偉大さがある、本教浄霊によれば真の健康体になるから、細菌の侵入などは問題ではない。

いささかの恐怖も起らない、全く嘘のような本当の話である、本教信者になれば右の言の偽りでないことを確認し得るのである。

この点だけにみても、本教の救いのいかに絶大なる力あるものであるか、真の神の救いであるかか知らるるのである。」




明主様御教え 「病気は果して恐ろしいか」 (昭和25年3月11日発行)

「およそ現代社会において、何が怖いといって病気程恐ろしいものはないと思わない者は一人もあるまい、

という事はもちろん一番大事な生命に関するものであるからで、今更こんな判り切った事を言う必要はないが、

しかし生命に関しないまでも一度罹病するや、医療費の高い今日長引きでもしたら、その出費と職業放擲(ほうてき)による収入減はもちろん、

中にはいよいよ事業を創めようとする者、または成功半ばのもの、重要な責任を果そうとする者等々、

一日も休めない境遇に置かれている時病気に罹るとすると、今日の医療は絶対安静という、何にも出来ない事になるからそのために煩悶焦慮(はんもんしょうりょ)する精神的苦悩も肉体の病苦と合せて、二重の責苦に遇うのである以上、病気を極端に恐れるのは当然である、

しかも病気の原因がことごとく黴菌感染のためとしているから黴菌を恐れる事はなはだしく常に戦々兢々としている、

これは罹病時ではなく、むしろ健康時がその恐怖に襲われるのだから、何と不安の世の中ではないかといいたくなる、

なるほど一方絢爛たる文化の進歩は、昔と違って民主的であり、自由主義的であり、男女同権で、合理主義的であり、交通の発達、生活の至便等々、確かに人間の幸福は増進したには違いないが、

前述のごとく黴菌恐怖症という新しい一大脅威が生まれたのであるから、あらゆる文化的幸福は、これに抹殺されてしまったといっても誤りではあるまい。


以上の点を深く考える時、人類が文化の恩恵に浴し、幸福を享有し得るとしたら、何よりも病気の不安のない世界たらしめなくてはならない、

としたらその根本である黴菌を全滅する事も、人体に感染させない事も、いかに消毒施設が完備しても絶対不可能である以上、

どうしても感染しても発病しない人体を造るより外に方法はない訳である、これによってのみ病気不安は解消する訳である。

しからば、右のごとき理想的方法がありやというに、吾らが常に言うごとく神示の健康法によれば黴菌に犯されない健康人たり得る事はあえて難事ではないのである、

何よりも吾々は黴菌防止手段など全然行わないにかかわらず、何ら侵害を蒙る事はないからで、病気不安は吾々には遠い昔の事である。」