真の医学について


明主様御教え 「医学の神聖化」 (昭和18年10月5日発行)

「私は現代医学の構成について、常に不可解に思っている事がある。

それは何であるかというと、医学に対し、専門家以外の者、即ち第三者をして一歩も容喙(ようかい)せしめないようになっている事である。

臨床上において特に然りである。即ち病気や健康、衛生に関するあらゆる部面に、第三者の容喙する事を以て危険とさえされている。

その著るしい現われとしては、素人療法は危険であるとか、民間療術者を非医者なるが故に擯斥(ひんせき)しようとする傾向も多分にあるようである。

かように西洋医学以外のものを危険視し、価値を認めないという態度はいかなる訳であろうかを考えてみるに、

多分その理由としては、科学に立脚していないからというのであろう。

従って、そのものの効果いかんは全然問題にしないというのが実情であって、

その独善的なる、ほとんど医学を神聖化してしまっているかとさえ思えるのである。


しかるに吾々としては「病気は治ればいい」と言うのである。

「病気が治って完全健康体になる」ただそれだけである。

それ以外に何を求め、何を望む必要があるであろうか。

吾々の生命も肉体も、その保健は現実の問題である。

この現実を破壊する学理も科学もあり得ない。

この意味において私は、病気が治ればそれは真の医学であり、治らなければ非医学だと思うのである。

故に、治る医術を信ずる事が正信であり、治らざる医学を信ずる事が迷信である事はいうまでもない。

又病原を徹底的に説明し得られ、現実といささかの矛盾も来さないものが真の医学であり、

病原は不明として説明し得ず、現実と齟齬(そご)するという医術は非医学である。

医博国島貴八郎氏の著書「結核と人生」の中にこう出ている。

「彼のチブスが、百年前も全治に四週間を要したが、今日でもやはり四週間を要し、肺炎も同様でやはり一週間を要するという訳であるから、治療医学の進歩はいささかも認め得られないのである」というにみても明かであろう。

そうして神聖化されたる医学によって、たとえ、医療の結果、医家の言のごとく快方に向わざる場合といえども、その理由を訊(たず)ねる者は滅多にないのである。

又誤診誤療によって不幸に陥る場合、相当の疑をもちつつも何らの抗議も苦情も言われないのである。

それは医学の神聖を冒涜するかのように見られ、又医術を施行する上に支障を及ぼすという理由で、法的にも不問に付するという傾向である。

注射後即時に死亡したという例も吾らは余りに多く聞かされている。

チブスの予防注射後反ってチブスに犯されたという例もすくなくないようである。

そうして学問至上主義の弊(へい)は、ここにも現われている。

それは研究の為として、かなり大胆と思われるような手術や新薬の応用である。

それによって幾多の尊い人命が犠牲になっているであろう。

もしこれら隠れたる事実が明かにされたら人々はいかに驚くであろうか。

しかし、それは神秘の殿堂を覗く由もない機構となっている以上致方ないのである。

医学者は言うであろう。たとえ一人の生命を犠牲にしても、万人の生命を助ければいいではないかと、

それに対し私は、万人を殺しても一人も助け得られないではないかと思うのである。


又こういう原因もある。いうまでもなく現在の日本の医学は独逸(ドイツ)医学である。

独逸医学を学ぶ最初の頁には「もし病原の判らざる場合まずメスを以て皮膚と肉を切り開いてみるべし」と出ているそうである。

忠実なる医家はこの教を丸呑みにして手術をするのであろう。

切り開いて病気が無かったという事実は、よく聞く所で、その犠牲になった患者はまことに気の毒なものである。

しかし、切り開いて何も無かったから元通りに縫い、疵(きず)は癒えたとしても、

全体の健康にすくなからず悪影響を及ぼす事は、私の多くの経験によって知らるるのである。

再三言うがごとく、西洋医学はまっしぐらに邪道を進んでいるのであるから、

進歩する程人類に対する危険率は増加するという結果にならざるを得ないのである。

しかるに、人類は全く西洋医学に盲信してしまって、誤謬の片鱗だも観破し得られないから、まことに歎かわしいのである。

前述のごとき国島医博の言のごとく、百年以前と今日と比べて、いささかの進歩もないとすれば、

医学に携わる多数者の労力及び資材等の消耗が、人類にとって何らの稗益する所がない訳である。

私をして忌憚(きたん)なく言わしむれば、右のごとき大消耗によって得るところのものは、福利に非ずして

人類の健康を弱め、病者を氾濫させ、生命を脅かすというのでありとすれば驚かざるを得ないのである。


私は、医学に携わる多くの人達が目覚めなければならない時が、必ず近き将来に来るべき事を信ずるのである。

その時いかにすべきやという事も考慮しなければならない問題である。

しかしながら、相当経験をもち、堪能である医家にして、西洋医学の行詰りに対し目覚めている者の相当多い事も私は知っている。

従って、ある時期に至れば本医術を肯定し、この医術によって国民の健康を解決すべきであるとする医家の続出する事も、私は充分信じて疑わないのである。

ただしかし、現在としては医家としても行掛りや地位や経済問題等の種々なる障碍の為、遅疑する人達もある訳であるが、これら良心的医家の決意を促したいのである。

ここで一番困る事は、西洋医学を絶対無上のものと盲信し、それ以上の優れたる医術はないとし、

又生れるべくもないと確(かた)く定めている医家の未だ多数ある事である。

これらの人達の啓蒙こそ、今後における最も努力を要する問題であろう。

しかしながらあらゆる事物の転換期に当っては、いかなるものといえども大勢に抗する事は不可能である事を知れば問題はないであろう。(「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「明日の医術 第二編 付録」 (昭和18年10月5日発行)

「私は、付録としてこの際ぜひ政府において実行されたいと思う希望を述べるのであるが、

当局者及び専門家は固より大方の識者におかれても、私のここに説く所の論旨に関心を払われん事を冀(こいねが)うものである。


政府へ建議する

「現在日本が直面しつつあるこの重大時局ー即ち大戦争に勝ち抜く為には、今後の時局に即応しない古い機構は一大英断を以て改革すべきである事は、最早論議の余地はあるまい。

政府においてもここに見る所あるか、事変以来今までに見られない程の革新的政策を次々行っているという事実は、まことに快心に堪えぬものがある。

それについて私は、人的資源の問題に関し、この際一日も早く政府において実行すべきであると思う一つの案を提出せんとするのである。

さきに詳説したごとく人的資源の問題を解決するには、何よりも罹病者を減少せしむるという事ほど、良策はないとして、

それには真の治病の力ある医術を要求するのは勿論である。

しかるに、政府は今日まで西洋医学のみに依存して他を顧(かえり)みないという実情は西洋医学以上の治病効果あるものは他にないと断定している為であろう。

しかるにも拘わらず西洋医学的あらゆる方策を講ずるも、予期のごとき効果がないのみか益々悪化の傾向を辿(たど)りつつあるという事実であり、特に結核問題についてしかりである。

私は政府に対し、この際一大改革を要望するものである。

それは西洋医学以上の優れたる療法が民間にあるを知る事である。

しかもそれらの者は黙々として日夜国民保健の為に努力し、絶大なる効果を挙げつつあるに拘わらず、未だ世に認められずして冷遇されつつある一事である。


今日本は、戦力の増強に向って官民共に大進軍をなしつつある。

これに対し私は西洋医学依存の夢から醒める事ほど右に対する効果はあるまい。

否一日も早く目覚めない限り、国家の前途危しと言わざるを得ないと思うのである。

それについて私は、最も容易にして有効なる一案を提唱したいのである。

この方法によれば国民保健問題解決の端緒となるであろうと共に、この様な方法を必ず実行しない訳にはゆかない時の来る事を想うのである。

その案というのは左のごときものである。


一、まず、結核患者十人を選択する。その理由は、この病気は余り差異なき同一症状を択ぶに都合が良いからで、又今日最も解決を要すべきものであるからである。

右十人に対し、西洋医学(内科的又は外科的)、灸点、栄養療法、電気、指圧、精神療法、霊気療法、自然療法、

その他の種類を合せ、合計十種の治療者を選び、最初一ケ月間の予定を以て治病試験を行うのである。

その結果として、ある者は良好に向い、ある者は無効果であり、ある者は悪化するであろう。

しかし一ケ月間のみにては、その結果は確実とはいい難いから右の方法を繰返すのである。

かくする事十回即ち十種の療法を十ケ月続ける訳である。

かようにすれば、有効果と無効果と悪化との区別が判然とするであろう。

従って政府においては無効果及び悪結果の療法は、有効果療法に転向させるのである。

勿論同じ効果であっても、十種の中、最優効果を採択すべきである事は勿論である。

右のごとき、第一位に採択されたる療法こそ一挙に難問題である国民保健問題ー特に結核問題を解決するに役立つであろう。

しかも僅々(きんきん)十ケ月間の日子(にっし)と些細(ささい)の手数によって解決さるるのであり、その効果は根本的、永遠的であり、

しかも重大時局を解決する基本的条件となる以上ぜひ実行すべきであると思うのである。


右の方法実行の場合、相当の困難と思う事は、その治療者の選択である。

これについて私見をいえば、官報又は新聞紙の広告等によって弘く天下の逸材を集めるのである。

しかしながら問題の性質上、余程の自信がなければ応じられない訳であるから、申込者は相当の技能者とみて差支えなかろう。

従って万一多数の場合は前述の十人宛(ずつ)を何組に増加しても良かろうしそれが一ケ月宛の試験によって

無効果又は悪結果は漸次淘汰され、優秀者のみが残る事になり、

その優秀者から又選択せられて、最後に最優者即ち第一位の療法が残る事になる訳である。

但し、いかに優秀な療法であっても門外不出的の一代限りのものであってはならない。

何人といえども修得すれば実効果あるものでなくてはならないのである。

右のごとき試験の結果採択されたる第一位の医術こそ、将来の日本医術と決定すべきであろう。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「神霊医学は民主的医学なり」 (昭和24年8月13日発行)

「現代医学は、人々はあまり気がつかないが、実はすこぶる差別的、非民主的である、貧乏人では高価な薬は買えない、病院に入院することも出来ない、また永く療養を続ける事は、経済的負担に堪えられない、

従って療養の機会均等は望み得べくもない、それがため政府においてもやむを得ず健康保険法によって解決しようとしているが、これがまた思うようにゆかない、

被保険の患者が、病気に罹った場合、保険医へ行っても、保険医は普通の患者と扱い方が違うという声はよく聞くところである、

それがため被保険者でありながら、普通患者のごとく装い普通料金を払うという馬鹿馬鹿しい結果になる、

とすれば、現代医学はおよそ民主的とは掛け離れた存在であるといえよう、

しかし、これも現在社会の経済的実状としては、またやむを得ないところで、差当って改善の方法は見つからないようである。


しかるにわが神霊療法は金持も貧乏人も何ら差別がない、何となれば、物質は一切用いないからで、

ただ眼に見えざる霊の作用で、人体から放射する光波をもって体当りする。

それで医療の何倍かの効果を奏するのであるから、全く理想的というべきであろう。

以上のごとくであるから、本療法こそ、文字通り民主的医学といえよう。


最近の毎日紙上日本医師会理事古畑積善氏の言によればー

「普通の患者であればフトコロと相談の上の治療であって、ある者はちょっとの事でもこれを注射し、ある者は是非注射しなければならない場合でも、フトコロ具合でそれが出来ないというのが多い、

この場合医師として採るべき態度は、残念ながら患者が決めてくれるので容易であり行きすぎる場合は少ない。

いままでのように自由診療の面にこそ制限診療が事実において行われていたが、保険診療にこそ制限のない立派な治療が行わるべきである、

従って自由診療の場合患者の負担となる診療費以上のものが保険診療に計上さるべきであり、

これが実行されぬ限りはやはりわれわれ医師は事実において貧弱なる国家の財布と相談して行わざるを得なくなり、制限なしの診療もカラ念仏となるであろう。」

以上は全く前記の説の裏付であろう。」




明主様御教え 「食わず嫌い」 (昭和24年11月5日発行)

「いかに医学が進歩したと言っても、病人のない家庭を作り、それが漸次殖えるのでなくては真の進歩とはいえまい、

そうして昔から主治医という言葉があるが、これは医学の力のない事をよく表わしている、

もし医学で真に病気が治るとしたら、主治医なる言葉は生れないはずである、

何となれば、健康者が殖え病無き家庭が出来るとしたらお医者に用はなくなるからである、

ゆえに主治医とは、絶えず病気に罹るので常に御厄介になるという意味である、

医師の御得意という事も同様である、医師にかかると治ってしまうとしたら病気中だけの必要で、臨時医もおかしいが、ただの医師の二字で沢山であろう。

ところが本当を言えば常に身体の弱い人や弱い子供がある場合真に健康になるべき方法を教えなければならない、

それはすなわち健康医である、これらは医師の副業にすればいいが、このような事はまず夢でしかあるまい。


ここで、本教の分野である理想医学について言うが、それは薬剤の必要がなくなるから経済的負担もないし、

近来各地に現れるワクチン禍や注射禍も全然ないから実に安心であると共に病気が根本的に治るという実績は文字通り如実に挙げつつある事である、

しかるにそれを見ないで本教に非難を浴びせる人が多いという事は全く食わず嫌いで本教に触れてみないからである、

それも無理はない、何しろ食わず嫌いをつくるところの大きな食わず嫌いがあるからで、

それは本教を迷信邪教といって本教に寄せつけないように一生懸命になっているジャーナリスト達である、

この意味によってまずジャーナリストに味を知らせる事である、しかし彼らはなかなか食いつこうとしない。

警戒おさおさ怠りなく実に用心堅固である、いつもいう通りその原因は子供のうちから数十年かかって、唯物思想で腹の底まで染め込まれているからである、

とすればこの唯物主義の色ぬきこそ問題解決の鍵である。

本教に入信し、数年を経たものは病なき家庭が出来上るのである、こんな素晴しい健康法が世界中どこを探してもあるであろうかという事を言えば足りるであろう。」




明主様御教え 「療病者の資格」 (昭和11年5月17日御執筆)

「現在病者の治療に従事する者としては、医師、療術師、灸治電気業者等であって、その他宗教的の療病者も相当有るであろう。

これらあらゆる療病者に対し、私は厳粛なる意味での資格を検討してみたいのである。

それについて、現在当局者が採っている手段はこれら療病者へ対し、学歴診断書の呈出、時々の健康診断等であるが、

それらの方法は実は真の医術が生れるまでの過渡期としての便法でしかないのである。

何となれば、人の疾患を癒し、又健康者たらしめようとするには、最も厳格なる条件を必要としなくてはならない事である。

それはいかなるものであるか左に述べてみよう。


まず少くとも人の病気を治癒し、なお進んで弱体者をして健康者に転換せしめようとするとしたら、

何よりも自己自身が完全なる健康保持者でなければならないのであって、

完全なる健康保持者というのは、病気に絶対に罹らないという保証の出来得る事である。

この意味から言えば、風邪下痢のごとき軽微な病気以外の病気に罹る場合、もうその時療病者としての資格は消滅した訳である。

なお又、自己の家族の一員にても重病に犯され、又は夭折(ようせつ)する者が出来たとすれば、これももうその時療病者としての資格は零となったのである。

何となれば、自己の身体を完うし得ざる者、もしくは自己の家族の病気を治し得ざる事や、不幸な結果に立到らしむるという事は、手後れや誤診誤療のあるはずがないからである。

それは全くその療病法の無力、又は欠陥があるという証拠であって、その様な技術を以て、一般世人を療病しようとするのは、大いに間違っている訳である。

宜しくその時限り職業を転換して、再び医療に携わらないのが本当であると、私は思うのである。

しかしながら、右の説を直ちに実行する事は、勿論不可能である。

もし実行するとしたら恐らく、全世界の医師は全部廃業しなければならない事に立到るであろう。

故に、前述の条件は、単に理想的標準を示したに過ぎないのであるが、将来はそこまで徹底しなければ、人類からの病気祓除(ふつじょ)は出来得ないであろう。

随って、右のごとき条件可能の時期までは、医学の進歩などという事は実に失当であって、万一進歩を強調するとすれば、それは正にインチキであろう。

むしろ進歩の遅々たるに忸怩(じくじ)し謙遜するのが本当の態度であると私は思うのである。」




明主様御教え 「医師の資格」 (昭和18年10月5日発行)

「医師の資格について、ここに見逃す事の出来ない一大欠陥のある事を私は指摘したいのである。

それは当局が医師の資格を付与する場合現在までの機構においては、

学歴、経験、論文の三者による事でこれは遍(あまね)く人の知るところであるが、

私は実はそれだけでは、最も緊要なる点を逸していると思うのである。

それはいかなる点であるかというと病気治療の技能試験である。

即ち各種の病気に対してより速かに、より良く冶癒せしめ得る技能そのものを第一条件とすべきであろう。

いかに学歴や経験、論文等が優秀であるとしても、実際に病気を治癒せしめ得る技能手腕がなければ、医師としての資格に欠けているといえよう。


再三述べたごとく、医学そのものの使命は、病気を治し健康を増進せしむる以外の何物でもないのである。

勿論、学歴も経験も論文も必要ではあろうが畢竟(ひっきょう)治病目的の為の基礎条件であって、治病の方法そのものでない事は勿論である。

たとえていえばここに一個の飛行機を製作するとする。その場合、いかに機械や構造の説明が学理的であっても、実際に飛ばなければ意味をなさないのと同様である。


この意味において、右に述べたごとく治病技能の優劣によって医師の資格を定むべきであって

学歴、経験、論文は、付随条件とすべきが至当ではないかと思うのである。

かくする事によって、はじめて治病医学は真の進歩を遂げるであろう。

そうして私はその方法として正規の学歴と経験と論文の三者によってまず学士の称号を得させ

なお進んで博士の資格を得んとするには、前述のごとく治病技能の厳密なる試験を経、その優越を確認する事によって付与すべきであると思うのである。


次に、今一つ私は言いたい事がある。それは病者が治癒、不治癒に拘わらず、同一の費額を払わなければならないという事であるがこれも不合理であろう。

いうまでもなく医療の価値を定める場合、全治又はその遅速、不全治又は悪化等の価値の差別は大いにあるが

実際上適確なる計算は困難であるから、私は現在としては左のごとき方法による事はどうかと思うのである。

参考までに書いてみよう。


一、病気全治の場合、現在の診療費の倍額となし、不治の場合、現在診療費の半額とする事。

二、初診の時、予(あらかじ)め全治日数を定め、その期間、現在診療費の倍額とし、右の日数を越える場合、現在診療費の半額に下げる事。

三、初診の場合、予め全治までの日数費額を決定し、その全額を支払わしめ、万一予期に反する場合、半額を返却する事。

しかしてこの方法は、患者の貧富によって増減する事もよいであろう。又等級による事も一方法であろう。


私は、中国人が医療を受ける場合、初診の際、この病気は幾らで治るかと訊くそうである。

これに対し嗤(わら)う日本人があるが、私はある意味においてむしろ進歩的であり、合理的であると思うのである。

何となれば、この方法は患者自身の経済的実情に合致すると共に、医家としても、技能の優劣が公正に酬(むく)いられるからである。

右のごとき私の案を実行するとすれば、その効果として何よりも顕著である事は、医学が真に治る進歩をするという事である。

しかしながらこれらの案に対して、医家は尊厳を傷つけらるるごとき感がするかもしれない。

しかしそれは外形だけの事であって、むしろ私の案を実行する事によって、内容的尊厳即ち心からなる敬意を払わるるであろう。

何となれば患者自身としては、一日も早く疾患から遁(のが)れる事であり、苦痛が解消される事であり、健康が恢復する事であり、

それ以外に何物もないのであるからそれが解決されるとしたら、自ら感謝と敬意が湧き、他の何事をも介意しないであろう。

徳川時代名医と称せられたる医家は、難病を治療し、それによって名声を博したという事を聞いているが、これらは私の提唱する理論と合致しているのである。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「民主的試験制度」 (昭和22年2月5日発行)

「今日医学における試験制度なるものは、日本も外国も大体共通の方法である。

すなわち医学的解釈による理論と経験によって成る学問的形式の作文を唯一のものとしている。

しかしながらこの方法たるや、実際上病患の治癒そのものとの関連があまりに薄いという事である。

なる程右の試験方法は医術すなわち病患治療の基本的条件ではあるが、それだけでは治療技術とはならない。

しかしながら現代医術の程度としてはこれ以上を期待し得られないから、

止むを得ざる便法として無意識に持続して来たに過ぎないのである。

しかるに私が今ここに提唱せんとする新しき試験制度なるものは、最も実際に則する進歩的方法であり、

しかも民主的制度でもあり、これ以上の方法は考え得られない事である。それは次のごときものである。


まず受験者は患者に向かって直接治療を施すのである。

例えば生命の危険のおそれない病症として慢性頭痛、神経痛、首肩の凝り等の患者を施療病院等から試験委員が選択するのである。

この場合治療時間十分位を限定し施術をなさしめる。幾分なりとも効果を挙げる者を及第者となし、無効果はもちろん落第者となす。

なお付帯条件として、施術方法が患者に苦痛を与えない事、すなわち注射針の刺痛、灸点の火傷痛、強圧の苦痛等は点数が減じ、麻痺剤等による一時的苦痛緩和も不可である。


以上のごとき試験制度を採用するとしたら、及第点は真の意味における医師または療術者としての資格を有する訳である。

これこそ最も進歩せる理想的試験制度として何人といえども賛意を表するであろう。

従って従来のごとき方法は、官僚的試験制度ともいうべきである。

何となれば従来の方法とこの私の唱える方法との可否を民衆の輿論(よろん)に愬(うった)えるとすれば、民衆はいずれを希望するであろうか、いうまでもなく後者である事は予想に難くない。


次に今一つ問題がある。それは学位である。

衢(ちまた)の噂によく聞く「蚤の睾丸の研究によって博士になった」とか、

または「数人の博士の診療を受けても効果がなかった」というような事実は何を物語るものであろうか。

全く学位授与の方法が妥当でない結果からであろう。

いかに優秀な論文を書く医家といえども、臨床上の技能がそれに伴わなければ意味をなさない。

この点からいっても現代医学の試験制度が、いかに現実と遊離しているかが知らるるのである。

この事に対しても、私は次のごとき方法を提唱する。


まず患者に対し、苦痛の問診以外例えば既往症や近親者の死亡やその病歴等の問診をなさざる事を条件とし、

ただ患者の肉体のみを対象とし一時間を限定して診断を下すのである。

それによって疾患の原因、重軽、治癒非治癒の予想等を断定する。

次いで一週間位の時日を限定し、実地施術を行い、その結果診断とほぼ同様の治癒成績を挙げ得るとすれば、

それは診断の適確も技能の優秀をも証明し得るのであるから、学位授与の資格は充分である訳である。

この方法こそ実際に即した進歩的方法といえるであろう。


以上のごとき試験制度へ対し現代医家は挙(こぞ)って異議を唱えるであろう。

何となれば現代医学の程度では不可能の一言に尽きるからである。

しかるに、本医術においては可能である事を言い得るのである。

要するにこの新しき試験制度こそは全世界医学界に対する原子爆弾であろう。

しかしながら私は徒(いたず)らに刺戟を与えようとするのではない。

人類文化向上のため止むを得ず全世界医事に携わる人士に向かってこの論文を提供するものである。」 (「天国の福音」より)