医学の無能が本教発展に貢献 1
明主様御教え 「医師は本教の協力者」 (昭和26年10月17日発行)
「この題を見たらちょっと吃驚(びっくり)するだろう、しかし読むに従って、これは本当の理屈であるから、なるほどと思うであろうし、この事も知っておく必要があるから、思い切ってかいたのである。
これは世の中の人は、誰でも知らない人はないくらいに、医学では仲々病気は治らない、
なるほど一時はちょっと治ったようにみえても、時が経つと必ず再発したり、悪化したりする、この点医学ではその根本が分らないから致し方ないが、
そんな訳で少し名のつくような病気になると根治はまず出来ない、
大抵は散々長引いた揚句、命にまで関わるような事になる、
こんな訳で何程信用し切っている医学でも、実際に治らないとしたら、考え直すべきだが、
そうかといって外に方法も見当らないので、仕方なくなくこれに噛りついているに過ぎないのが実状であろう、
そのため病人は民間療法やその他色々なものに迷ってみるが、どれもこれも真に治るものはまずないので、
最後は既成宗教という事になるが、これも同様仲々治らないので、
トドの詰り本教へ来る事になり、ここで初めて本当に救われ、元通りの健康者になって仕事も出来るようになるのであるから、
この事実によってよく考えてみて貰いたい事は、
本教に救われるその元はといえば、何よりも医学では治らないからであって、
もし医学によってドシドシ治るものなら、それで済んでしまうから、
吾々の方にまで来る病人は一人もないという事になる、
ところがここにちょっと気の付かない大問題がある、
というのはもし医療だけで健康になってしまったとしたら、
悪人は善人になる機会がないから、社会悪はいつになっても無くならない、相変らず悪人は横行して善人を苦しめる、
というのは誰も気がつかないが実は大問題である、
しかしながら宗教で救われれば、肉体も健康になると共に、心の底まで浄められて、悪人も善人に変ってしまうから、
これで霊肉共に救われ、結構な世の中になるのである。
右のような訳としたら、つまり医学が病気を治す事が拙(まず)ければ拙い程、宗教で救われる人が多くなるという訳だから、
現在の結果から言えば、医学が宗教を旺(さか)んにしてくれるという訳で、
これは決して皮肉でも何でもない、事実であるから何とも仕方がないであろう、
しかし誰もそこまで気の付く人はほとんどないであろうから、私はかいたのである、またこういう事にもなろう、
罪人が出来るから法律が必要となり、病人が出来るから医師が必要となるのであるが、現在の法律でも医師でも駄目だとしたら、ここに宗教に注目せざるを得ない事になろう、
その表われこそ何よりも本教の発展がよく物語っているではないか、標題の意味はこれで分ったであろう。」
明主様御教え 「空前の難問題」 (昭和24年11月26日発行)
「今ここに論じようとする問題ほど深刻にして解決困難のものはいまだかつてなかったであろう、それは外でもない、
本教発展によって当然発生するところの不可抗力ともいうべき難問題である、という事は本教発展と正比例して影響を蒙る職業層である、
これは誰も知るごとく医師初め病療に関係ある数々の職業者であると共に既成宗教にも多少の影響はもちろんであろう。
以上は実にやむを得ざる性質のもので、本教といえども他の営利事業とか、政治または主義等に関する事と違い、
競争者または同業者の分野を不振にし、己れひとり優越者たろうとするのではない、
人類社会の不幸を除去し幸福者の世界たらしめようとするのが目的で、全く救いの聖業以外他意ないのである。
しからば、なぜ医療やその他の方法で難病不治と断定せられたものが、一転快癒の結果となるかという事で、
これは常に詳説しているから略すが、何よりも本教教線の発展を見れば首肯されるであろう、
前述のごとく他の営業者に影響を与える事実に見ても判るであろう、
この世智辛い世の中に何ら効果のないものに熱烈な信仰を捧げるという無智な者がそうあるはずはない、
考えてもみるがいい、これ程進歩した医学を捨て去るという事はそれだけの理由があるからで、
それを単に迷信と片づける人々こそ、余りに大衆を愚に見るという以外言いようはあるまい、
たとえていえば粗悪なものを高く売れば買手は来ないが優良品を安く売れば買手はいくらでも来ると同様で、
優勝劣敗の鉄則はここにも厳然と行われているのである。
これについて明らかな事実は、今日何人といえども、罹病するや速かに医師の診療を受ける、これは現代人の常識となっている、
初めから迷信邪教と非難されるものに貴重な生命を託するものは一人もあるまい、
ところが病者はいかに大病院や名医等あらゆる療法を受けても更に治らないばかりか、
益々悪化の極、断末魔に陥るので迷信邪教でも何でも助かりさえすればよいという心境になるのは当然である、
その際体験者の奨めに遇い疑心暗鬼恐る恐る本教に来て浄霊を受けるのである、
しかるにたちまち顕著な御利益を頂き全治するという訳で、入信の動機はほとんどそれであって、本教異例の発展の理由もここにあるのである。
以上の事実によって考えれば容易に判る事は、患者が医療を受けた場合順調に全治すればそれで済んでしまうから、
本教に来る者などは一人もなく、したがって信者も出来ない訳である、
とすれば迷信邪教の存在の余地は消滅する外ない事になる、恐らくこれ程判り切った話はあるまい。
この理によって医学が進歩したというにかかわらず迷信邪教に走るというその原因こそ、実は医学が無能のためである事になる、
したがって本教によって全治されたものは、例外なくその後自己及びその家族が罹病の場合医療を嫌い本教浄霊のみに頼る事となる、
全く自己の体験上医療よりも浄霊の方が効果があるからである、
もし医療の方が勝れているとすれば右の反対であるはずである、
次に言いたい事は信仰療法で悪化し、危機に瀕したものが、医療によって起死回生の効果を得たという例は今日まで一人も聞いた事がない、
吾らといえども医学を非難する意志は少しもないが、ただ事実ありのままをかかなくてはならない、
それは病なき世界を造るのが目的である以上、医学の是正こそはその根本であるからである。
ゆえに、この問題の発生を消滅するとしては、どうしても医療は病者を全治せしめる事である、事実によって医学の効果を示す事である、
いかなる病者もどしどし全治させるとすれば何を好んで迷信邪教などに趨(はし)る必要はあろうか、
ところが医家によって医療の効果のない事を自白しているような者さえある、
その表われとしてある地方の医師会などは取締当局を動かし弾圧させようとしたり、
地方新聞などを利用し悪宣伝等によって陰に陽に本教の妨害に努めるがこれらはもちろん邪道で、
医家が本教に敵し難いため苦肉の手段をとらざるを得ないという自己暴露でしかないといえよう、
しかしながらその点吾らも同情に吝(やぶさ)かではないが、
吾らは神の意図によって救世の業に従事させられている以上いかんともし難いのである、
人間としての情と神からの命との板挟みといってもいい。
こういう事を言うと唯物主義者は、神の名を利用した巧みな言訳と解釈するかもしれないが、
それを理解させる事は容易ではない、何しろ見ゆる物質と見えざる霊との根本観念の相違であるからで、
ちょうど上戸(じょうご)と下戸(げこ)との争いのようなものであろう、
ただここに言える事は、ある時期に達するや唯物主義者といえども、必ず唯心主義者に転向する事で、これは断言し得るのである。
最後に吾らの希望するところは、現代医学が神霊療法よりも勝っているとすれば、
吾らも直ちに医師となり大いに人類を救いたいのである、
そうすれば迷信邪教などの非難を浴びる事なく正々堂々と闊歩し得るからである、
ゆえに今日のごとく迷信邪教の横行は、全く医学が病気を解決し得ないからである、
とすればその一半の責任は医学にあるといっても差支えはあるまい、
以上あまり忌憚なく論じたが吾らといえども救世上止むを得ないので、この点大いに諒されん事である。」
明主様御教え 「批判は公平であれ」 (昭和25年1月21日発行)
「現在の世相について吾らの最も納得し兼ねる点は、本教浄霊の場合いかに効果ありとしても偶(たま)には予期に反する事もある、
すると世間はソレッとばかり非難攻撃を浴せるが、それに反し医師が同様失敗した場合よほど顕著でない限り、当然の事のようにいささかもとがめようとはしない、
という事実にみて、宗教による治病がいかに冷酷に取扱われているかが判るのである、
この例はひとり右のような場合のみではない、よくこういう事がある、医師と浄霊と併せて行う場合、失敗した時は医療をとがめないで本教にのみ罪を被せ、
成功すれば本教浄霊のためではなく治る時節が来たからとか、医療によるためと解釈するのである、
その都度吾らの感ずる事は、病気は医療や薬によらなければ絶対治らないと決めているその確信の強い事である、
またサンザ医療で治らないのみか悪化一方なのでやむにやまれず本教に縋る場合、ほとんど例外なく周囲の者は、信仰療法などは迷信であるから止めよと言い、
医療を続ける事を奨めるのであるからいかに医療を信ずるかはほとんど迷信邪宗の信者と何ら変りはない程である、
ところが事実は医療で治らないから止むに止まれず、邪教迷信といわれるものに走るので、
こんな、判り切った事が判らない程に科学迷信に陥っているのである、
もちろんその場合患者は、最初は疑念に満ち恐る恐る浄霊を受けると共に、周囲からの反対はいよいよ激しいにかかわらず
浄霊の効果は素晴しく病勢一転治癒に向かうので、これはおかげばなし中に無数に出ているのでも分る、
以上によってみても世間よくいう信ずるから治るとか、暗示によるからとかいう点はいささかもないばかりか、むしろ反対でさえあるにみて、自力でなく他力効果である事を認めない訳にはゆくまい、
右によって吾らが常に遺憾に想う事は、全く治るべき病を治さず、助かるべき生命を落したり、救わるべき運命を放棄する等、実に悲劇を自分から作る人のあまりにも多い事である、これらの原因はもちろん事実を見ないからである。
右は全く伝統的観念に捕虜となっているからで、不幸これよりはなはだしいものはあるまい。」
明主様御教え 「世のインテリ族に物申す」 (昭和28年8月5日発行)
「およそ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。
ところがこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで問題解決何も残らないはずである。
とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、
そんな戯(たわ)けた事をいったところで始まらないと誰しも言うであろう。
もちろん科学の努力といえどもこの事以外にはないが、今日までのところそれは全然不可能であった。
ところがこの解決方法が発見されたとしたら、これこそ二十世紀の大問題でありしかもその発見者が我救世教であるという事が判ったなら、
何人も驚嘆到底信ずる事は出来ないであろう。
それは事実が証明している。
例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得ない事で、全く夢の現実化である。
むしろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。
何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治すものと教育され、常識となっているからである。
従って本教浄霊医術は、原子爆弾がブッ放されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろう。
そのような訳でインテリ族中の丁髷(ちょんまげ)の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。
それどころではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が浄霊で助った奇蹟を見せられても、
ただ首を捻り溜息を吐くばかりで、進んで研究しようともしないロボット的態度である。
恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。
ところがそれと同様の不思議さがまだある。
それはインテリ中の宗教学者である。
彼らはいわく、元来宗教が病気を治すのは間違っている。
元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。
なるほど一応はもっともらしく聞えるが、一歩退いて考えればこうなるであろう。
それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、
事実は何程医学を信じ、博士や大病院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らないどころか、
反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。
ところが浄霊を受けるやたちまち奇蹟的に全治するので吃驚(びっくり)して入信する。
という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。
これは当然であって何ら不思議はない。
本教異常な発展がそれをよく物語っている。
これを春秋の筆法(註 価値判断を入れて書く書き方のこと)でいえば、新宗教少なくも本教の発展は、全く医学の無力のためであるから、
結果からいって医学が新宗教を発展させている訳である。
ゆえにもし医学が吾々の方で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている吾々の方へ来るかという事である。
そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点において同様であり、
その根本が健康である以上、他のいかなる条件が具備しても零でしかあるまい。
この意味においてどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。
単なる精神的慰安でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分るごとく、そのほとんどが衰退の一途を辿っている。
これに気付かない限り、ついには潰滅の運命あるのみと言わざるを得ないのである。
それに気が付いてか付かないでか、宗教学者は口を開けば現当利益は低級なりと非難し、
額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列をもって高級宗教のあり方としているが、
これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。
もしこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに困らない閑人(ひまじん)か、都会の仙人くらいであろう。
君らがそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、
押寄せる社会不安に怯(おび)え、東奔西走しているのが現実である。
しかもこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。
以上思うままをかいたが、これも世を憂うるの余りで諒して貰いたいのである。こ
こで重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他のいかなるものでもいい、
とにかく人間の最大脳みである病を治す事で、ただそれだけである。
先年毎日紙で懸賞募集した標語の第一等は「先ず健康」の四文字であった事を覚えているが、これだけで多くを言う必要はあるまい。」
明主様御教え 「医学は迷信か」 (昭和28年11月18日発行)
「医学は迷信か否かについての最も分り易い説明をしてみよう。
それは何かというと、外国はともかく我国の現在における治病法と名の付くことごとくは、誰も知るごとく医療と医療以外の多くの民間療法で祈祷(きとう)、禁厭(まじない)、信仰療法等々あるが、これらを総計したら恐らく数においては医師以上であろう。
しかもそれぞれ相当の繁昌を見せている点から考えても、今後増えるとも減る事はあるまい。
としたらこれは何を物語っているかを考えるべきであろう。
これについて有りのまま言ってみれば、医学は世人が思う程進歩していないのである。
もし本当に進歩しているとしたら、大衆は何を好んで国家も有識者も口を揃(そろ)えて礼讃し奨励している医学を捨ててまで、疑惑の雲に包まれている非医学的療法に走るかという事実である。
言うまでもなく一般人は病気に罹(かか)るや例外なく早速医師にかかる。
しかし簡単に治る場合もあるが、中には何程金をかけ、医師も熱心に治療しても思うように治らないのみか悪化する一方で、ついには治る見込はないとして、医師も匙(さじ)を抛(な)げざるを得ない事になる。
こうなると患者も助かりたい一心で、あらゆる療法を探し求めるのは当然であろう。
人間として命程大切なものはないからである。ところがこの際周囲の者達は口を揃えて言う事は、これ程進歩した医学がありながら、
世間からとやかく言われている新宗教などに命を委すのは迷信に違いないといって、常識論を振翳(ふりかざ)し、極力止めさせようとするのが御定法(ごじょうほう)である。
ところが肝腎な病人はそんな事は百も承知であるから応じないのが当然で、このような経緯はお蔭話中にも沢山見らるる通りである。
これを要するに、問題の鍵は医療で完全に病を治しさえすればいいので、それ以外何もないはずである。
ところが医療では何としても治らないからこそ窮余の結果他の療法を求めざるを得ないのであるから、むしろ同情すべきである。
ところがこんなハッキリしている事を棚へ上げて信仰療法を非難し妨害するのであるから、強いて事実に目を蔽(おお)っているとしか思えない。
そうでなければ医学迷信の虜(とりこ)となっているため、盲目となりきっているとしか考えようがないのである。
また医師とても御自分が匙を抛げた病人を、吾々の手で助かるとしたら、大いに感謝してもいいと思うのである。
そのような事実に対し、医療を何程信用せよと太鼓を叩いても無駄であり、どうしても本当に治る方に赴(おもむ)くのは致し方あるまい。
つまり医療が余りに拙劣であるからで、医療で完全に治りさえすれば、黙っていても非医者などに赴く患者は一人もあるまい。
こんな簡単な道理が分らずとやかく言うのは、その人達の頭脳を疑いたくなるのである。
以上のごとくこれ程進歩した時代の一面に辻褄(つじつま)の合わないような事も中々少なくないので、それが社会全般に被害を与えているのであるから、全く盲聾(もうろう)の世の中である。
ところが右は常識論であるが、これに対して我 メシヤ教の浄霊医術である。
信者はよく知っているが、まだ知らない人のために一言いうが、医療は前記のごとく無力どころか、
それ以上のマイナス的存在である事の認識が出来さえすれば病気の心配からは解放され、真の安心立命を得らるるのである。
次に世人の気の付かない今一つの驚くべき事実がある。
それは無薬療法すなわち信仰や民間療法で治るのは、その療法の効果よりも、病気を増悪させていた医薬を中止したからである。
という訳で皮肉な言い方かも知れないが、信仰療法や民間療法が繁昌するのは結果からいって、医学のお蔭といってもいいであろう。」
明主様御講話 「医者の方で病気を治せば、患者は民間療法や新宗教には行かない」 (昭和28年11月7日)
(御論文「医学は迷信か」発表)
「今書いたとおり医者の方で病気を治せばそれでよいのです。
そうすれば人々は民間療法とか新宗教とか、そういう所に行きやしません。
治らないから、しかたなしに行くのです。
ですから新宗教がいけないとか、他の療法がいけないということはおかしい話です。
ご自分が治せばよいのです。
つまり自分が使っている人間に給料をやらないから、ずるいことをするとか、ほかから金を借りるとか、不正なことをして金を得るということになるので、それと同じです。
必要だけの月給をやればよいのです。
そうすればだれが悪いことをするものですか。
ですから医者の方で病気を治せばよいのです。
そうすれば問題はすっかり解決します。
治らないのに治るように見せかけているのです。
そうして金をウンと取って、結局今度は命までとるのですから、
信じろ信じろと言っても信じるわけがないので、しかたがないです。
ですから医者が手を握って、他に行くな、お前はかわいがってやると言って、
横面を張るようなものですから、それでは誰でも逃げてしまいます。
本当に撫でてくれる方に行きます。
これは簡単な分かりきった理屈ですが、そこが間違っているのです。
さんざん横面を叩いて、お前を良くしてやる、かわいがってやると言っているようなものです。
そうして本当にかわいがって良くしている人間をケシカランと言うのです。
オレの方で手を握ってかわいがっている人間を・・・と言うのです。
実際世の中は間違いきっているのです。
結局、一昨日のラジオのニュース解説で、「でたらめな世の中」という題で言ってましたが、
その人はほかの意味から言ったのですが、やっぱりこっちでも「でたらめな世の中」と言いたいくらいです。
それでこんな簡単な理屈を分からせるのに、なかなか骨が折れるのです。
そこでいろんな例をあげてやらなければならないのです。
要するに人間は教育のある馬鹿、文化的野蛮人、野蛮未開人になっているというわけです。
病気が治らないとやたらに手術して臓器を取ってしまって、それが進歩したのだと言ってます。
アメリカの新聞記者も言ってましたが、アメリカは非常に手術が進歩してなんでもやたらに取ってしまうのです。
それで進歩した進歩したと言っているのですから、アメリカ人も「超愚」の点では日本に負けてないです。
ですから「超愚」では足りないくらいで、もう一つ超をつけて「超々愚」でしょう。」
明主様御講話 「メシヤ教が発展する一番の功労者は医者」 (昭和29年2月6日)
「それからジャーナリストに対する論文ですが、これはこの間書いたのですが、もういっそう徹底して書いてみたのです。
(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」)
とにかく問題は、変な新宗教がたくさんありますから、どうもメシヤ教がそれに類似しているように思う、その点にあるのです。
ただ、他の新宗教とは違う、メシヤ教は別のものだということを認識させる、それが一番肝腎です。
それは神様も知りぬいていますが、時期が来て、熱海の地上天国ができることと、自然栽培をする人がたくさん増えること、ということで、
「これは違う。なるほどメシヤ教はたいしたものだ」ということが分かるわけなのです。
それも間もない話ですから、そう気をもむことはいらないのです。
それがちょうど、さっきも話したとおり、節分から霊界が変わるのですから、ちょうど言ったこととよく合ってゆくわけです。
実に、神様がやられることですから抜け目がないわけです。
それでお筆先に「今度は三千世界の大芝居であるから、善の役と悪の役と両方拾えてあるぞよ」ということがあるのですが、
これなどは実にうまいことを言われていると思います。
というのは、悪い役をしているものが、結果はたいへんな良い役をしているわけです。
これはよく知っているでしょうが、メシヤ教がこうして世の中に出て発展する一番の功労者は医者です。
もし、医者が片端から病人を治してしまったら、こっちは用はないのです。
医者や薬が病人を作って苦しませる、それだからしてこっちの発展する意味があるのです。
そうすると「医者はけしからん、薬という毒を瞞して服ませるのは、とんでもない話だ」と言っているが、
実はそれがため、メシヤ教によって神様があるということを分からせられるのですから、本当は悪く言うことはできないのです。
人間の感情と見方・・・小乗的見方と大乗的見方があります。
ジャーナリストが分からないということは、やっぱり、結果から言うと必要なのです。
そこで分からない者や、誤解した者に対して、逆なことを見せるとびっくりしますから、それがやはり一つの必要でもあるし、おもしろいことでもあります。
「メシヤ教とか言って、戦後の波に乗じて、うまいことを言って瞞して、あれだけの金を集めて、シャクに障る」と言う奴が、
いよいよ地上天国ができて、見て、ウワッと言って驚くのです。
ですからそういうのを予期した者に見せるよりか、予期しない者に見せた方が、なんと言うか、張り合いがあるわけです。
大いに痛快味があります。
いつも言うとおり、人間は善悪は決められないということはそこです。
あれまでになるについて、随分悪い人間やいろいろな者がいろいろなことをしましたが、それはイコールみんなプラスになってます。
だからそれをよくみると、世の中というものは実におもしろいものと思うのです。」
明主様御垂示 「御神業が発展するのはお医者さんのおかげ」 (昭和23年12月28日)
信者の質問
「日本観音教団におきましても不正に対する正義感が根強いほどいくたの犠牲に耐え忍び、正しい理性を培い、
喜び勇んで地上天国建設の美しいお手伝いができるのではないでしょうか。」
明主様御垂示
「この不正に対する正義感というのを見ると正義が不正であり、不正が正義になることがよくあるんです。」
信者の質問
「例えば医学の不正に対する正義感ということは・・・」
明主様御垂示
「それは小乗です。
なぜなら私の道が発展するのはだれのためですか? お医者のためですよ。
医者が病人をよく治さぬからこっちが光るのです。
だから大乗と小乗の見方によって違ってくるのです。
また、こいつは悪い奴だと思うのが、時期が来てすばらしく働くこともあるんです。
強羅の観山亭なんか、上野毛に家を建てるのを五島慶太が妨害してくれたのでできたのです。
あのときは一時私も非常に癪(しゃく)に触りましたが、後になってみればかえってありがたいくらいです。」
明主様御教え 「唯物主義者との問答」 (昭和24年4月18日発行)
某日某所、唯物主義者甲、唯心主義者乙との対談
甲 病気は医者が治すんだから、信仰なんか必要がないと思う。
乙 必要がないとすると、医学なら治るという意味か。
甲 そうも言えないが、医学以上のものは今日ないからと思う。
乙 医学以上のものはないとしたら、信仰療法にすがってくる人の多数なのはどういうわけか。
甲 それは迷いだ。
乙 医学で効果があるとすれば、迷うはずがないではないか。
甲 (沈黙)
乙 信仰療法へすがるのは、だれからか奨められるからだが、奨める人は顕著な効果を認めたからである、そのために人を奨める気にもなる、
そうでなければ、人の生命に関わるほどの問題を人に奨めるはずがないではないか。
甲 なるほど。
明主様御教え 「煙草と医学」 (昭和24年12月17日発行)
「専売局では、ピースが売れないので困り抜いた結果、あの手この手の苦し紛れの末ピース嬢まで募集しているのはむしろ滑稽で、的外れもはなはだしい、
ピースの売れない原因はもちろん外国煙草の影響によるのだ、
ただそれだけだというのは外国煙草より不味(まず)いからだ、
味がよくて値が安ければピース嬢などを宣伝に使わなくても売れる事請合だ、
このくらいな事は判りそうなものだが、判っていても出来ないのかもしれないが、実に不可解というべきだ。
これと同一の事は吾々が常に直面している病気についても言える、
それについてある人達は、宗教が病気治療をやるのは怪しからん、進歩した医学があるのに、迷信邪教に触れるなどは危険この上ないと盛んに宣伝や妨害運動するのである、
しかも新聞屋までが提灯持ちをするのだから堪らない、
これらも今日の煙草事情とよく似ている、専売局と同様的外れ以外の何物でもない、
というのは病人を片っ端から治せばいいのだ、それだけだ、
あまりに治らないから止むを得ず迷信邪教に走るという事になる、
医学よりもより治る方へ行くのは当りまえだからだ、
一言にして言えば本教の神霊療法はツマリ外国煙草と同様であるからである。
以上専売局と医師会に提供する次第である。」
明主様御教え 「薬屋さんには御気の毒」 (昭和27年7月16日発行)
「近頃時々耳にする話だが薬屋さん連中が当局に向かって投書その他の方法で本教を非難し
妨害的態度に出ているそうだが、これも決して無理とは思わない。
何しろ病気の原因は薬であるという事を唱えるのであるから、本教を憎むのも当然で、吾々も常にお気の毒とは思っている。
しかし本教の建前は病無き世界を造るにある以上、その目的を達成する必要から、病の根本を明らかにしなければならないので、
つまり小の虫を殺して大の虫を助けるという訳である。
右についてハッキリ言いたいのは、お医者さんでも薬屋さんでも、本来の使命は金儲けのみではあるまい。
人命を救うのが主要目的であるのは今更云うまでもあるまい。
従って人間の命が助かる事なら、それが自己に多少の不利益があっても賛成すべきが当然で、これもまた止むを得ないであろう。
しかし深く考えてみると右のごとく本教に対して、妨害しなければならない程、
薬屋さんに影響が行くとすれば、その効果の著しいかを物語っているのである。
とすればこの効果に対し、いかに反対したとしてもそれは一時的で、いずれは本教の方が勝つに決っているし、
もし本教よりも薬の方が勝つとすれば、本教の方が負けるから問題はないのである。
という訳でまず自然の判定に委せておくのが、最も妥当ではなかろうか、あえて考慮を望むゆえんである。」