医学の非信頼性について
明主様御教え 「医学に欺されてる医師」 (昭和11年5月15日発行)
「西洋医学に依る、治病能力の疑問は再三述べたところであるが、
多くの医師諸君の中には、これをハッキリ、認識出来得ない人もあろう。
それは、薬剤や物理療法に依っての、苦痛の軽減を、治癒されると思う誤認である。
病気軽快と治癒とは、全然異う事も、述べてある通りである。
故に、病気治癒に当って、その余りにも治らない事に、煩悶しない医家は無いであろう。
ただしかし、これ以上に治療法が無いものと、決定的に信じてしまっているので、どうしようもないのである。
医家が、病患を治癒せんとして、あらゆる療法を試みる、
その事が却て、病気を悪化させる作用であるという真理に、気が付かないのである。
その例として、医家が、ある病患を治癒せんとして、種々の療法を応用し、
焦れば焦る程、病症は却て、悪化するであろう。
反対に、それ程の努力を払わない病人の方が、能く治癒せられるという皮肉も多くの医家は、経験されているはずである。
又、何かの事情によって、医療を止めてから、軽快治癒したという例も、数多く聞くのである。
彼の医家自身の病気や、自己の子女の病気に際し、
特に、他の医師に治療を求める事もよく聞くが、これも実に不思議である。
医家が、いかに医術を危うんでいるかが想像されるのである。
これによって見れば、この場合医術は万一を僥倖(ぎょうこう)する賭博のごときものとも言える。
今一つの緊要なる点は、一時的、外面的治癒と、永久的、根本的治癒とは、その本質において、格段の相違がある事である。
前者は、再発の憂があり、後者は、その憂が無い事である。
故に、医家が作成する全治報告、及び治病率統計は、この点まことに不正確である。
予後の短期間の成績を、基準としている事が、多いようである。
又、これと同じく、軽快と全治とは、全く異う事である。
薬剤や物理によって、治療する場合、ある程度の軽快を見るが、
それは治癒ではなくて、病気攻遏(こうあつ)の結果である。
故にこの場合の軽快は、一定時を経れば、猛然として、反動的悪化の作用を起す患(うれい)がある。
これは医家も、しばしば経験されるところであろう。
又今一つは、ある病気を全治さした結果、それは重に手術であるが、例えば、扁桃腺を除去するとする。
なる程、扁桃腺炎は起らないが、それに更(かわ)るに、
他の、疾患、淋巴腺、耳下腺、中耳炎、肺尖加答児(カタル)等に罹り易いという事実、
又、盲腸炎の手術の結果は、腎臓病や腹膜炎を起し易く、
卵巣除去の結果は、子宮癌、腎臓病を起し易いという例も、知らないはずは無いと思うのである。
かくのごとく、本来の病気よりも、手術後に起り易い疾患の方が、より悪性であるという事は、大いに考えなくてはならない事である。
しかし、医家はいうであろう。
手術をしなければ、生命に係わる以上、一時なりとも、その生命を延長し得る効果があるから、よいではないかと、なる程、それも一理はある。
がしかし、それでは、本当の医術ではない。
ちょうど、借金の借換えと同一であって一時的の苦痛は免れるが、借金の返済ではないから、
いずれはその苦痛が増加するという結果になる事である。
故に、これらは、真の医術ではないのである。
しからば、真の医術とは、いかなるものであるか、参考の為、左に条件を示してみよう。
一、治療の場合、メス又は針等によって、絶対に苦痛を与えない事
一、手術の傷痕、又は、灸の焼痕のごとき、醜い痕跡を止めざる事
一、全治後は、再発をなさざる事
一、治療中、余病の発せざる事
一、あらゆる疾患に対し、明確に、全治とその概略の日数を、断言為し得る事
一、薬剤は、必ず、中毒を伴うものであるから、用いざるを原則とす
一、重症といえども、多額の費用と、多数の時日を要せざる事
右の条件の一つにても、西洋医学は可能でありや、恐らく一つも、及第するものは無いであろう。
二千有余年以前、希臘(ギリシャ)時代から、幾千幾万の学者、専門家が、研究努力しつつあるにも係わらず、
右の一つだも、未だ不可能というに到っては、驚かざるを得ないのである。
これによって見るも、たとえ、向後、何百年、何千年経るとも、
まず西洋医学では、病気根絶は、到底見込のない事を、誰しも想像なし得るであろう。
随って、西洋医学を、絶対無二のものとして、信奉しつつある人は、実は、欺されていると、言ってもよい訳である。
故に、私は言う。医家には、罪が無いのであって、医学そのものに罪があると思うのである。
一言にして言えば医家は、医学に、欺されているのである。
とも言えると思うのである。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
明主様御教え 「医学とは何ぞや」 (昭和18年10月5日発行)
「医学とは、言うまでもなく総ての病気を治し国民の健康をより良くし、
それによって国家の進運に貢献すべきものである事は勿論である。
従って、幾多の国家機構中における最も重要部門として、政府から特殊待遇を受けている事もその為である。
しかも刻下の重要案件である人的資源の問題を解決すべき鍵を握っているにみて、
医学の使命たるや、いかに重要であるかは、議論の余地はあるまい。
私は今まで、理論と実証とを以て西洋医学の誤謬のことごとくを指摘したつもりであるが、ここに見逃す事の出来ない問題がある。
それはさきにも説いたごとく、医家及びその家族の健康問題である。
私は思う。現代医学が真の意味において進歩せるものであるとすれば、
その実証が適確に現われなくてはならないはずである。
いかに学術的理論を構成し、新説を発表し、新薬や機械や方法の進歩を誇称するといえども、
それが実際的に効果を示さないならば、何らの意味をなさないであろう。
故に私は、真に医学が進歩したとすれば、その実証を世に示すべきであって、
吾々のごとき西洋医学非難者をして沈黙せしむべきである。
万一それが不可能であるとすれば、医学の進歩という言葉は空虚でしかあるまい。
もしそうであるとすれば西洋医学を一旦解消し事実を基礎とする新しい理論の下に、再建すべきではないかと思うのである。
私がかような事をいえば、それは余りに極端論と思われるかも知れない。
しかし私は、徒らにかような説を唱うるのではない。
唱うべき理由があるからである。それについて忌憚なく解剖してみよう。
まず、西洋医学の価値を実証する上において最も有力であるべき事は、
さきに説いたごとく、医家自身の健康と家族の健康をして、一般世間の水準よりも高くあらしめる事である。
しかるに今日実際を見るにおいて、むしろ一般人よりも水準の低下を疑わしむるものがある。
それはまず医学博士の短命と、医家の罹病率の多い事。
その家族の弱体であり、しかも医家の子女にして結核罹病者の割合多い事である。
勿論医家自身としても、自己の生命を守る上には、常に細心の注意を払うであろうし、
又、家族の罹病者に対しては、早期診断以上の良処置を執るであろうから、手後れなどありようはずはあるまい。
しかるに事実は右のごとくである以上、近来唱うる予防医学なるものも無意味であるといえよう。
何となれば医家自身において、予防困難である事の実験済みであるからである。
故に私は、西洋医学が真に進歩したという事を社会に示すとすれば、
何よりも医家とその家族の健康が、世間一般の水準よりも遥かに高きを示す事であり、
それを見る世人をして、全く西洋医学の進歩を確認しない訳にはゆかないようにする事であるが、それは恐らく不可能であろう。
しかるに、当局者も専門家も、口を開けば一般衛生知識の不足を言い、
又注射その他の方法を強制的に行おうとするのである。
それらに対し、国民中それを忌避する者や、関心を払わない者も相当あるという事実であるが、
これは全く国民が西洋医学に対し、全幅的に信をおかない証拠であろう。
故に当事者としては、まずこの事を考慮しなくてはならないと思うのである。
いかに大衆といえども、人命の尊い事は知っている。
前述のごとく、医家及びその家族の健康が不良であったり、
窒扶斯(チフス)等の注射によって、稀には即死する者もあり、
ジフテリヤの注射によって瀕死の状態に陥るというような事実も相当あるのであるから、
それを知る大衆としては、一応は危懼の念を抱くのは当然であろう。
又手術の過誤によって生命を失うという事実もすくなくない事である。
私は先年、外科の某博士が他人である患者の手術は好んでするが、
家族や親戚の疾患に対しては、決して手術を行わないという事を耳にした事がある。
これは手術の過誤を懼れるからであろう。
これらは全く、西洋医学が実証的に効果を示さないからである。
否、効果を示し得ないからでもあろう。
この結果として、近来灸点や民間療法が繁昌するのもやむを得ないであろう。
そうして今日患者の趨勢をみるに、理論を重んずる者は医学に迸(はし)り
実際を重んずる者は民間療法に趁(はし)るという傾向は否めない事実である。
故に、多くを言う必要はあるまい。
即ち西洋医学は、あらゆる病気に対し確実に効果があり、悪影響などは更にないという事を実証するより以外、
国民をして西洋医学に対し、全的信頼を為さしむる事は不可能であろう。
故に、万一右のごとき効果が実現さるるとしたら国民の方から進んで注射を要望すると共に、
手術の躊躇なども解消するであろう。
勿論、古代印度人が創成した灸治法も、二千余年前支那人が創成した漢方医学も、現在の民間療法も跡を絶つであろう事は勿論である。
しかるに事実は右と反対であるに拘わらず、西洋医学の進歩を云々するのであるから、そこに割切れない何物かが残るのである。
私は、今一つ重要な事を言わなくてはならない。
それは今現に行いつつある健民運動と結核対策要綱である。
これらは勿論、西洋医学的方法以外には出でないのであるから、その結果はどうであろう。
それは医家の家族の健康水準より以上の成績は挙げ得られないではないかと想うのである。
何となれば、医家に最も接近している家族が、一般世人の水準より以上に出でないとすればそうなるべきであろう。
従って多額の国帑を費やし、多数の人的資源をそれに充てるという事が無意義に終らざる事を冀(ねが)ってやまないものである。
右について、本医術の治療士及びその家族、もしくは本医術の修得者ある家庭は、
例外なくいずれもその健康が世間一般の水準よりも遥かに高度である。
全く百万語の理論よりも、一の事実に如かずというべきであろう。
しかもそれが年月を経る毎に益々健康は増進し健康家庭が作られつつあるのである。
従ってこの事によってみるも、本医術こそは理想的医術として真に人類の福祉を増進すべきものであり、
病無き世界の現実化は遠い将来ではない事を私は信ずるのである。」 (「明日の医術 第2編」より)
明主様御教え 「今の医学」 (昭和26年10月31日発行)
「今日の医学は、赤裸々にいえば、病気の治る医学ではない、
治ると思う医学である、否治ると思わせる医学であって、それ以上の何物でもない、
なるほど人間の身体を研究材料として、病気の治る医学を発見しようとして努力はしているが、仲々思うようにならないのが事実である、
といって外に考えようもないので、この方法を唯一のものとして噛(かじ)りついているだけで、
これを続けていれば、いつかしら真に病気の治る医学が進歩するだろうとの予想で、
全世界何十万の専門家が、研究室に閉籠(とじこも)り、
前述のごとく人間をはじめ、二十日鼠やモルモットを研究材料にしているのである。
そうして少し重い病気になると、矢鱈(やたら)に入院させようとするが、
入院すれば治りますか、と質(き)くと、それは請合えない、
マアーこの病状では入院するより方法がないからだという、
しかしこの言葉をよく考えてみると、治る見込がないとすれば、
まず研究材料にする目的より外にない事は分り切った話である、
つまり、多額の入院料を出して研究材料にされ、生命までも捧げて悔ないのであるから、実に奇特な話である、
これについて左記の話はよく似ているからかいてみよう。
彼の二十年八月十四日終戦前日の事である、天皇陛下におかれては、
当時の陸相阿南氏を御呼びになり「お前はこの戦争は勝つと思うか」と御訊きになると、
陸相は「イヤ勝つ見込はありません」という、
陛下は「では勝つ見込のない戦争なら、止めたらいいじゃないか」と仰せられると、
陸相「イヤ止める訳には参りません」というので、
陛下は呆(あき)れ給い「よし退れ」と仰せられたそうである、
ところが翌十五日、アノようになったので、その夜中陸相は自刃されたのは皆知っている通りであるが、
もちろん原因は右の理由である事は想像される、
ちょうど右と同様、入院に際しての医師の言葉がそうであろう、
ただ違うところは、請合えないが入院しろとの言葉を聞いて、
変だとは思いながらも入院する人が多いのは、全く諦めのためであろう、
またもっと酷いのになると、医師がその病気は手術しても、治るか治らないか判らない、と言うにかかわらず、
患者の方で、是非手術をしてくれといって、無理に入院手術して貰う者もあるが、無論駄目に決っている、
何しろ医師が請合ってさえ駄目なのが多いのだからである、
また手術を受ける場合必ず万一の事があっても、否やはいわぬという証書を出すがこれも危ない話で、つまり一か八かの冒険である、
右によってみても、手術は考うべきものであろう。
以上によって、現在の医学がまだ信頼出来る程に進歩していない事が判るであろう、
ところがいつもいう通り、吾々の方はいささかの危険もなく、
十中八九は治ると思って間違いないのであるから、有りのままをかいたのである、
ところが世の中の知らない人は、本教の宗教医学をインチキ迷信だなどと片付けて、
大切な命を棒にふる人が多いのだから何と言っていいか言葉はないのである。」
明主様御教え 「医療とは」 (昭和27年12月3日発行)
「これについて私は、筆に口に常に知らしているので、一応は言い尽したように思われるが、
実はまだまだ足りない気もするのでここにかくのである。
何しろ一般の人は医学迷信に陥っている結果、病に苦しんでいる人が余りに多く、到底見ておれないからである。
といっても長い年月のコチコチに固まった迷信であるから、これを溶かすとしても容易ではない。
そこで私はこれでもかこれでもかというように、あらゆる面から説いて来たがこれなら分らない訳はないと思う程に、
本文は徹底したつもりであるから、その気持で読んで貰いたいのである。
信者の中には標題だけでも直ぐ判る人もあろうが、しかし一般の人に分らせようとする場合、説き方の参考ともなるから、充分玩味(がんみ)されたいのである。
まず人間何かの病気に罹るや、早速御医者さんに診て貰う。
すると御医者さんは二、三の服み薬を呉れると共に、近頃は大抵注射をするからそれでちょっとよくなるので、
これで治るものと思って毎日通うか、御医者さんの方から来て貰うかするが、
実際は十人中八、九人は思うように治らないもので運よく一時治っても暫くすると必ず再発するのは誰も知る通りである。
もちろん薬という毒で一時抑えをするだけで、本当に治ったのではない事はいつもいう通りである。
右のように一時的で完全に治らないのは、御医者さんも充分知り抜いているはずであるが、
しかし分っても現代医学ではどうにもならないから、こういうものだと諦めているだけであろう。
そこでまずお医者さんの肚の中を想像してみるとこんなところであろう。
病気というものは実に分らないものだ。
だが今日までの学者、先輩が解剖や分析、機械などで、研究に研究を尽して作り上げた医学であるから、これを信ずるより外はもちろんない。
これ程進歩した医学でも治らないのだから、まず気長に世界の学者達が協力して、たとえ僅かずつでも進歩するとすれば、
いつかは完璧な医学が出来るに違いあるまいと、ただ漫然と時を待っているにすぎないのが実状であろうから、
まことに心細い話である。だがそれだけなら我慢出来るとしても、
それまでの間いかに多くの病人が出来、その苦しみは固より、生命の犠牲までを考えれば考える程恐ろしい気がするのである。
ところで現在の病理であるが、病原は最初黴菌が口からか、鼻からか、皮膚等から侵入し、繁殖するためとされているが、これはまことに単純な考え方である。
では御質ねしたいが黴菌が侵入しても病が発生する人と、しない人とが出来るのはどういう訳であろうかである。
するとお医者さんは言うであろう。黴菌に負ける弱い身体だから発病するのだとの定り文句であろうが、事実はその反対である事が近来分って来た。
それは結核は腺病質の子供は余り罹らないで、健康な子供の方が罹るという事実である。
これだけでも医学は丸っきり判っていないのである。
右は小さい例だが、大きい例といえば医学が益々進歩する程、病気の種類も増えどこもかしこも病人だらけである。
何よりも薬の新聞広告をみても分る通り、デカデカな広告を出しても、割に合う程病人が多い訳である。
従って真に薬が効くものなら段々病人が減ってゆき、ついには薬の広告主もなくなり、お医者さんは飯が食えず、病院は閉鎖する事にならなければならない。
ところが事実はその反対ではないか、としたら大いに考えざるを得ないであろう。
それについて私は長い間随分医学の盲点や、薬害の恐ろしさをかいて来たが、
もしこれが間違っているとしたら、その道の人は大いに憤慨し凹(へこ)ませに来なければならないはずだが、
今日まで一向そんな人はないのをみると、御説御もっともとしているのであろう。
私といえども宗教家であり、人類愛をモットーとしている以上、悪口や失業者を作るような説は言いたくないが、
何としても記かざるを得ない程悲惨な現状と、神から命ぜられた私の役目を思うからである。」
明主様御教え 「善意の罪悪」 (昭和27年12月17日発行)
「この題を見たなら皮肉に思えるかも知れないが、適当な題名がないから右のように付けたのである。
ではその意味は何かというと、現在のお医者さんであるが、考えると実に割に合わない職業と思うのである。
なるほど医師自身は素晴しい進歩した医学と思っているが、実際は病気なるものの原因は全然分っていない事である。
従って病人から原因や見込を訊かれた場合、病人が満足するような答は出来ないので、常に困っているのは吾々にもよく判るのである。
何よりもラジオや新聞などに出ている病気の質疑応答などを見てもそれがよく表われている。
ほとんどは曖昧極まる一時逃れでしかない事は、医師自身も知っているであろう。
しかも治療にしても医師の言う通りに治る事は滅多にない。
そのほとんどは見込違いで、悪化したり余病が起ったり、請合った患者の生命が失くなる事もよくある。
その都度言い訳に頭を悩ますその苦しみは、察するに余りあるくらいである。
また中には手術や注射のやり損いで、思いもつかぬ不幸な結果になったりするので、怨まれたり裁判沙汰になりそうになることもあるので、これらも大きな悩みであろう。
その上夜が夜中でも呼ばれれば行かない訳にはゆかず、病気によっては容易に苦痛が治まらず、随分困る場合もあるようだ。
何しろ医療は一時抑えであるから、病気によっては一時抑えが利かない場合、手を焼く事も度々であろう。
その上近頃は税金攻勢で経済的にも中々骨が折れるという話である。
以上ザットかいてみたが、要するに医学はまだ至って幼稚であるにかかわらず、実価以上に買カブられている。
それが原因で種々な悲喜劇を起すのである。
滑稽(こっけい)なのはよく新聞やラジオで病気の質疑応答があるが、
少し面倒な質問に対しては「貴方の病気は専門家に診て貰いなさい」というが、これくらいおかしな話はあるまい。
質問者は散々専門医に掛っても治らないから、余儀なく質問するのである。
こんな見え透いたことだから、応答者も気が付かないはずはないと思うが、それを真面目な答をするのは人を馬鹿にしているように思われると共に、問者も満足するとしたらいかに医学迷信に囚われているかが分るのである。
今一つはよく正しい医師にかかれとか、正しい治療を受けよなどともいうがその言葉を本当とすれば正しくない医師と、正しくない医療がある訳である。
では右両者の正不正はどこで見分けるかであるが、この見分け方の方法を知らして貰いたいと言いたくなる。
例えば正しい医師とはどういう人物であるか、学歴か経験か肩書か、あるいは良心か、それの判別は恐らく不可能であろう。
また療法にしても素人である患者に正不正が分るはずはない、とすればこの答は全く一種の遁辞でしかない。
しかし私はこれをとがめようとは思わない。むしろ気の毒と思っている。
というのはいつもいう通り、現代医学は病気を治すことも、病理を知ることも無理であって、全然分っていないにかかわらず、進歩したなどと思うのは錯覚以外の何物でもないのである。
それは白紙になってこの文を読んだら分らないはずはないと思う。
以上によって現代医学こそ世紀における驚くべき謎で、忌憚なくいえば善意の罪悪といっても否めないであろう。
という訳で現在医師諸君は仁術と思って施す方法が、実は逆であるから、一日も速かにこれに目醒めさせ世界から病を駆逐すべく日夜奮闘している吾々である。」
明主様御教え 「刻下の大問題たる国民保健に就て」 (昭和11年御執筆)
「報ずる所によれば、我国民特に壮丁の体格が逐年低下しつつあり、又、弱体児童が激増しつつあるという事実はまことに意想外であって、国家の前途を惟(おも)う時寒心すべき大問題である。
政府においてもこれが対策として今回一千七百万円の予算を計上した事は万(ばん)止むを得ない訳である。
しかしながらいかに多額の国帑(こくど)を費すも、又いかなる対策を実施するといえども、その原因を適確に把捉せざる限り真の効果は得られない事である。
しかるに、政府も専門家の察(み)て以て原因とするそれが、真原因でなくその傍因であるとしたら、これは看過出来ない事である。
当事者が対策としてる各項目を見る時、それは現代医学の方法によって防し得るとしている事である。その重なる方法として結核の早期診断と隔離と衛生知識の普及等であって、
要するに特に下層階級が医療の機会を簡便に普く受け得らるる事が主眼であり、それらによってある程度の成果を挙げ得らるると信じているようである。
これを詮じ詰めれば、現代医学を非常に進歩せりと思惟し、その進歩した医学を一般化す事によって、解決し得らるると信じている様である。
しかるに以上のごとき、現代医学が是と信ずる方法が、実は反対に結核や弱体者を増加する結果であるという、
ほとんど信ずべからざる程の一大事実を私は知ったのであって、国家の為到底黙視する能わず、
ここに拙文をも顧みず、天下有識の士に愬(うった)えんとするのである。
それについてまず根本的概念を得べき理論を述べたいのである。
当局が発表せるところの壮丁の体格が、大正十一年には一千人に付二百五十人の兵役不能者が、十五年を経た昨年度は四百人に増加した事実、及び明治二十四、五年の二人であった結核患者が、今日二十四人に増加したというその事実は何を物語っているであろうか。
大いに考慮の必要があるであろう。それはその当時と今日とを比較して医学の進歩、医療の一般化、衛生の普及等、いずれが優っているであろうか。論をまたないのである。
事実、今日のごとく益々医学が進歩発達したに係らず、その結果は全く反比例であるという事は、全く不可解極る事である。
故に、この理から推せば一層医学が進歩し、医療と衛生が普及するにおいて、結核はいよいよ激増するであろう事は想像されるのである。
この逆説的事実に直面して、なお目覚めないという事は、現代医学の外装に幻惑されてしまっている阿片中毒者とも言えようと思うのである。
右の事実を冷静に批判するにおいて、それは何人も透見し得ない一大欠陥が伏在していなければならないはずである。
当局者が多額の予算を計上したり、結核防止週間を作りながらも、何らか確信的でない不安の有りげなのは、その真因を把捉出来ないのによるからであろう。
最近政府の発表せる理由の中にこういう事がある。
「医術の進歩医療の普及等は結核による死亡率の低下に、ある程度の効果を示したが、結核の発生防止に対しては全然無力なるゆえんを実証した」これによってみても、
流石の政府も、結核発生の防止に対して、医学の無力を認識し得た事は一大進歩であると思うのである。
しかしながら、その真因を把捉出来ないで、漫然といかに対策を実施するとも、その結果は推して知るべしである。
これを要するに、問題の帰結は真因の発見そのものであって、その真因に対しての適切なる方策を樹てるより外に何物もないであろう事は明かである。
しからば、その真因は何か。それを出来るだけ詳説したものが、別冊「結核の病原と其治療」なのである。」