医学の非科学性について 2


明主様御教え 「医学は科学か」 (昭和22年2月5日発行)

「今日何人といえども、現代医学をもって科学であると信じないものはないであろう。

しかしながら私は科学ではないーというのである。

本来自然科学とはあるがままの自然の実体を掘り下げてその法則を探究し、

規準を生みそれによって人類の福祉に貢献する事でなくてはならない。

従って毫末の独断も自然無視も許さるべきではない。

それについて、その前提として知らねばならない事は、まず人間と獣類との相違である。

科学は人間も獣類も共に動物の範疇に入れているが、その事自体が既に独断以外の何物でもない。

彼の医科学はモルモットや二十日鼠を研究して、それを人間に当はめる事をもって唯一の方法としている。

右について人間と動物との相違点の種々の面から考える必要がある。

それはほとんど根本的ともいうべき相違である。

すなわち人間は唯心的であり、動物は唯物的である。

例えば宗教、哲学、芸術、恋愛、同情等の精神活動は動物にはない。

また唯物的にみても形態、動作、体質、食餌、生活等人間との相違の余りにも著しい事である。

彼は蹠(あし)が四本あって尾があり、全身の厚皮、厚毛はもちろん

言語も嗅覚も聴覚もすべての違いさはこれ以上書く必要はあるまい。

以上のごとくであるから、今日の動物実験は自然科学ではなく自然無視科学である。

彼のロックフェラー研究所の碩学アレキシス・カレルのノーベル賞を貰った名著「人間と未知なるもの」の要旨を一言にしていえば

現代科学は「人間については何も知らない」という事である。


次に私は種々の例を挙げてみよう。

ここに医家の家族の一員が病気に罹ったとする。

しかるに不思議な事には大抵は主人である医家が診療しないで友人等の他の医師に依頼するのは周知の事実である。

常識で考えてさえ大切なる家族の生命をして自分の手にかけず他人の手に委せるという事はおかしな訳である。

それは全く自己の医術に自己が信頼出来得ないからであろう。

実験上自分が診療するよりも他人に委せた方が結果が良いからである。

これについては医家として説明はなし得ないであろう。

しかし私はこう想うのである。

医学は浄化停止法であるから、医療を加える程病気は悪化する。

わが家族である以上熱心に能う限りの療法を行う。

もちろん薬剤も高級薬を選ぶであろう(高級薬ほど薬毒が強烈である)から結果は悪いに決っている。

しかるに他人においては普通の療法を行うから悪化の程度が少ない。

それで成績が良いという訳である。


また医家においてこういう経験がよくあると聞いている。

それはぜひ治したいと思う患者程治り難く、あまり関心を持たない患者は反って治りが良いという事である。

これらも前者と同様の理によるのである。


また少し難病になると医師の診断はまちまちである。

一人の患者に対し五人の医師が診断する場合、恐らく五人共診断が違うであろう。

これらも科学的基準がないからで、全く非科学的というもあえて侮言ではあるまい。


そうして医学の診断及び療法がいかに無力であるかを、実例をもって示してみよう。

それは故帝大名誉教授長与又郎博士の死である。

同博士は癌研究においては世界的権威とされている。

妙な事には同博士は余程前から、「自分は癌で斃れる」といわれていたそうで、果せるかな死因は癌であった。

病中各名国手も博士自身も疾病は肺臓癌と診たのであったが、

死後解剖の結果、癌の本原は腸にあって、それが肺臓へも移行したとの事であるから

腸癌の方は生前発見されなかったのである。これによってみると左の結論になる。

一、長与博士程の大家が自身の癌発生を防止し得なかった事。

二、自身の腸癌を発見し得なかった事。

三、博士自身はもとより著名の国手多数が腸癌の発見も治癒も不可能であった事。


今一つの例を挙げてみよう。

有名な故人沢達吉博士の死因は盲腸炎という事である。

その際各地から思師の病を知って馳せ参じた博士は無慮百二十数名の多きに達したといわれる。

これだけ多数の博士が頭脳を絞り、博士自身も苦慮されたであろうが、

最も治癒しやすい盲腸炎のごときが治癒し得ず死に至った事は、

医学の無力を実証して余りありと思うのである。

その時博士は次のごとき和歌を詠んだそうである。
「効かずとは思へどこれも義理なれば 人に服ませし薬われ服む」


そうして医家が診断に臨むや、過去における父母や兄弟姉妹の死因病歴及び患者の病歴等微に入り細にわたって問い質し、

それ等を参考として診断を下すのである。

もちろん患者の身体のみでは適確なる診断を下し得難いからであろう。

私は思う、本当に進歩した医学でありとすれば患者の肉体を診査しただけで病原は判るべきである。

しかるに本療法の診断においては十人の治療士の診断は同一であり、

また現在患者の肉体診査のみにて適確なる診断を下し得るのである。


そうして真の医術とはいかなるものであるかを述べてみよう。

まず施療の場合いささかも患者に苦痛を与えない事、むしろ快感をさえ伴う程でなくてはならない。

また治癒までの期間が速かなる事を条件とし、何年経るも再発しない事、

また発病以前よりも健康を増進する事等の諸条件が可能でなくてはならないのであって、

かかる医術こそ進歩せるものというべきである。


しかるに現在医学の現実をみるがいい。

前述のごとき条件とはおよそ反対である。

すなわち診断の不正確、注射や手術による痛苦、長期間を要する療養、余病や再発の危険、手術による障害等によってみてもその価値は知らるるであろう。


左の記事は、医博國島貴八郎氏著「結核と人生」中より抜萃したるものである。

「我々が医学を学ぶ一番最初に教わる言葉は「病気は自然に治る」ということである。

赤ん坊の時から自然によって生れでる力、自然に身体に生じて来る力に依ってのみ病気は治るのである。

という、生物はじまって七十万年の昔からの真理を教わるのが、医学の第一時間目である。

今日の腸チブス、肺炎のたどる経過も、五十年前、百年前の医学の発達しなかった時代も少しも変らないのであって、

どんな博士が診ようが、薮医者が診ようが、金持のチブスも貧乏人のチブスも同じく四週間はかかるのである。

もし病気が医者と薬だけで治るものならば、百年前に四週間かかったものならば、

今日においては三週間なり一週間で治るということになるべきであるが、

依然としてチブスは四週間かかるのである。

また急性肺炎の場合も同様で、百年前のものも現代のものも一週間かかるのである。

薬の効く時間ではなくて、チブスなり肺炎なり黴菌に侵かされると、

自然にそれに抵抗する力が湧き上って、それ等の毒素を薄めて遂にそれを克服し、組織を復旧するのに要する時間なのであるから、百年前も今も変りはないのである。」


以上の例によってみても医学が進歩せりというのは、

一種の錯覚心理によるのであると共に非科学なりと断じても異議はさしはさめないであろう。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「医学に望む」 (昭和24年3月1日発行)

「昭和二十三年八月二十五日発行東京新聞「筆洗」欄中に次のごとき記事があった。

「医者が家族の者の診察を嫌がる事は大抵の人は知っている。これは結局診断に迷うからだ。」

ただこれだけの事だが、よく考えるとその内面に潜むものにすこぶる重大性がある。

何となれば右は吾々もよく聞く事実であるが、そこには全然科学性がない事である。

医学は進歩せりといいしかも今日何人といえども医学は科学の埒外(らちがい)であると思うものはあるまい。

しかるに家族の者を診断する場合、迷いが生ずるというに至ってはそこに科学性がないと共に、すこぶる危険ではあるまいか。

もちろん医学に信頼性がありとすれば、家族の者に限って他の医師に扱われる事は不安であり、

ぜひ自分が診療しなければ安心出来得ないというのが本当ではあるまいか。

そうでないまでも家族も他人も同一診断を得べきが科学としての基準である。


かく観じ来れば医学の診断なるものははなはだ頼りないもので、ちょうど易者の身の上判断と同工異曲のものと言われても仕方があるまい。

吾々は決して医学を非難する意志は少しもないが、どう推理しても前述のごとき結論とならざるを得ないのである。

聞く所によればあらゆる病気のうち、最も一般的で軽病とされる風邪の原因すら医学においては今もって不明とされている。

ゆえに吾々が要望するところのものはせめて医師が家族のものを自己が診断せざるを得ないようになり

風邪の原因がはっきりするようになるだけでもいいから、その程度にまで進歩されん事を期待してやまないものである。」




明主様御教え 「真の医術」 (昭和25年5月21日)

「よく吾々が医学に対し非難しすぎると云って注意をする人があるが、吾らは決して医学を非難しようとする意図は毫もない。

ただ何物にも促われず、独自の見地からの研究によって得たる説を発表するのである。

しかしその説たるや、飽くまで事実に即しているのである。

そうして、研究においては医学は動物実験を基本とするのに対し、吾々の方は人間を実験台とする。

医学がなぜ人間の病を研究するのに人間以外の動物を資料とするかというと、

これは万一をおもい危険を避ける意味からでまた止むを得ないと云えよう。

右に対し吾々の方は見込違いなどは絶対にない。

もし仮りにありとすればそれは効果が予期したより少ないと云うだけで、いささかの危険も伴わないのである。

何よりもおかげ話の感謝に満ちた報告が机上に山をなし本紙に載せきれない程であるに見て明らかである。

しかし、こういう見方をする人もあろう。

おかげ話は成績のよいのだけが報告され、不良なのは出さないから誠に都合が良いというかも知れない。

しかしこの疑いは訳なく打破出来るというのは本教の異常な発展がよく物語っている。


「本教は都合の良い宣伝や無理な勧誘は決してやらない方針だ。

よく昔から新規開業などの場合チラシを出したいと云って来るがそれを許さない」。

何となれば、そういうやり方ははなはだ力が弱いからである。

どうしても「自分の難病が治り、感激の余り病苦に悩む人を見るに見兼ねて、自己の体験から浄霊や信仰を奨めるのであるから力がある」。

それは「神に感謝報恩の誠が滲み出ているからである以上、人を動かさずにはおかない訳である」。

するとそれに応じ浄霊を受けるや、たちまち大きなお蔭を戴くのでこの人も感激の余り他の人を勧誘する。

かくして漸次発展する。それが本当のやり方である以上本教もこの方針で進んで行くのである。

これによってみても成績良好者の多いからである事は疑いの余地はあるまい。

のみならず、「世間筆に口に本教を迷信邪教、インチキなどとあらゆる非難の声を浴びせるがそれにもかかわらずビクともしないで発展を遂げつつあるのは、どこかに力強い何物かがなくてはならないはずである」。

これに無関心である人もあるがそれこそ食わずぎらいの人である。

右の事実を充分頭に入れて、これから解く説を必読されん事である。


そもそも全世界の医学者が幾世紀に亘って苦心さん澹(たん)努力の結晶とも言うべき現代医学であるから、

いかなる人間といえどもこれ以上のものは絶対にないと信じ、

病気に罹れば医者に行き、薬をのみ種々な最新の療法をうけ、

安心して貴重なる生命をまかせるのである。

もし予期に反し思うように病気は治らず、悪化するようになっても医学に対しいささかの疑心も起さないどころか却って理くつをつける。

自分の体質が弱いからだとか、病気が悪質のためとか、手おくれだったからとかいって飽くまでも医学に頼ろうとする。

実にその信念の固いのは驚く程である。

もちろん、医師もそう説明するからそう思うのである。

それで万一不幸の場合、運がなかったからと言って諦める。

中には何々病院何人の博士に診て貰らっても駄目だったからよくよく命運がなかったからだと思って済んでしまう。

これが現代社会のあるがままの姿である。


しかし、右のような事実を日々見つつある専門家諸君も常に思うであろう。

どうもあの病気は不思議だ、あれ程高価な薬剤や、進歩せる療法や、充分な手当を施したにかかわらずよくならないどころか漸次悪化し遂に死んでしまったというのはどうも判らない。

またあの病人は最新の療法をあれ程一生懸命に施してもとうとう駄目だった、学理から云っても治らない訳はないはずだと言って、歎声を漏らす事もあるようだ。

またやっと治ってやれやれと安心するかしない中(うち)再発と云う、百日の説法屁一つと言う事もよくある。

あれ程医師の言を守り、細心の注意を払い、多額の費用と歳月を費やしたにかかわらず、こうなるのは実に判らないと言って首をひねる事もよくあろう。


ここで面白い事には医師の家族が罹病した場合、大事な妻や子供であるから、どこまでも自分が治療しなければ安心出来ないはずだのにこのまた摩訶(まか)不思議である。

と云うのはどうも自分の家族は恐ろしくて手が出せない。

仕方ないので友人の医師に診て貰う事もよく聞く話である。

こんな理屈に合わない話はないではないか、この理由は漸次読むに従って肯けるであろう。

また一人の病人を数人の医師が診察するとそれぞれ見立てが違う事もよくある。

これはどうした訳か、科学的とすればそんな訳でありようはずがないが、これでは易者の身上判断と同様でマグレ当り的と言えよう。


このような話はまだまだあるがきりがないからこの辺でやめて、次に一つの疑問符を投げてみよう。

一体人間の病気と言うものは何がために存在するのであるかという事である。

造物主が人間を造っておきながら、病気という人間最大な苦痛と生命を脅かすような、厄介至極のものを拵えたのはいかなる理由であるか、神は愛と言いながら人間を苦しめる嫌なものを造ったのは、実に訳が判らないと言いたくなる。

まず何のために風邪を引くのか、しかも何の予告もなく人間の都合などはお構いなしに突如として襲うのだから、はなはだ始末が悪いどころかむしろ無慈悲と言うべきだ。

ところで風邪を引くと寒気がする。身体中がだるくなる。

頭も節々も痛い、これは熱が出たためとしたら一体熱という奴はどこから出るのだとすると、たちまち咳、痰、水洟(みずばな)、盗汗(ねあせ)、下痢、等々代る代るやって来る。

一体これは何のためだ、どうも判らない。

またいよいよこれからと言う年頃になると結核と言う誠にもって恐ろしい命取りの病気に見舞われる。

それも旨く通り越すと今度は神経痛や、リョウマチ、胃痙攣、痔、脳膜炎など我慢の出来ない程の痛い目に遭せる。

また少し面白くなかったり心配したりすると、男は神経衰弱、女はヒステリーとなる。

ひどいのは精神病と言う、太宰治じゃないが、人間失格と言う言葉通りになるのであるのだからやり切れない。

年を取れば取ったで脳溢血、中風と言う半身不随で身体を動かす事も、喋舌(しゃべ)る事も出来ないと言う生ける屍になって、何年も苦しみ抜いた揚句、あの世行と言う悲惨な運命となる人も数え切れない程ある。

ザットかいても右の通りだが、また病気の種類と来たら昔でさえ四百四病もあったのに、文化が進歩した今日益々殖えてその種類は何千に上るか判らない程であろう。

これも摩訶不思議というべきだ。それで医学は進歩したと言って喜んでいるのは人間様だ、健康上から言うと動物の方が優っているかも知れないと思うとはこれも可笑(おか)しな話だ。

御承知の通り霊験神のごとき新薬が続出するし、手術と来ては停止するなき進歩によって、脳疾患には頭蓋骨を切り開いたり、肺病は肋骨を切取って代りにプラスチックスを嵌(は)めたり、最近はピンポンの玉を入れると言うのだから、驚くべき巧妙な技術である。

また少し悪い所があるとメスで切りとってしまう、腎臓などは両方なくともよい、片方だけで充分だと言って除ってしまうかと思えば、気胸療法といって片一方の肺臓の呼吸を止めたりする。

このように医学は進歩したと言って感心したり有難がっている姿を人間を造った神様が御覧になったら、何と仰言(おっしゃ)るだろう。

お喜びになるか、お歎きになるか神様に伺ってみたいものである。


以上長々述べたように、全世界の学者は研究室に閉じ籠り、動物試験に、顕微鏡に、臨床に、新薬発見に苦心惨澹、幾多の新学説を生み出し、ノーベル賞の獲得を最後の目的としているのである。

ところが驚くべし、吾々からみれば右は医学の進歩どころでなく、最初から医学ではないのである。

実を言うと医学はまだ広い世界に一つも生まれていないのであるというと、

馬鹿を言え、これ程立派な医学が出来ており、しかも益々進歩発達しつつあるではないかと仰言(おっしゃ)るだろうが、

実は真の医学と言うものにまだ出遭った事がないからである。

真の医学を知らない以上、致し方ないのであると言うのは、早く言えば医学に似たものを真の医学と錯覚して来たので、実に素晴しい迷蒙であったのである。

しからば、真の医学とはどう言うものであるか、それを何人(なんぴと)にも納得ゆくよう徹底的にかいて見よう。」




明主様御教え 「医学の解剖」 (昭和27年御執筆)

「私は前項までに、医学の誤謬を大体かいたつもりであるが、

なお進んでこれから鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。

といっても別段医学を誹謗する考えは毫末(ごうまつ)もない。

ただ誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心坦懐になって読まれたいのである。

それにはまず事実によって、説明してみる方が早かろう。


まず何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答えはしない。

はなはだ曖昧模糊(あいまいもこ)御座なり的である。

たとえば、患者に対する言葉であるが、何の病気についても言い切る事が出来ない。

貴方(あなた)の病気は治ると思う。治る訳である。医学上そういう事になっている。

この療法が効果ありとされている。この療法以外方法はない。

養生次第で治らない事はない。

貴方の病は万人に一人しかないなどというかと思えば、貴方は入院しなければいけない、と言われるので

患者は「入院すれば治りますか」と訊くと、「それは請合えない」というように、実に撞着(どうちゃく)的言葉である。

また予想と実際と外れる事の、いかに多いかも医家は知っているであろう。

そうして、最初診察の場合、型のごとく打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、

医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判るはずである。

ところが両親や兄弟の死因から、曾父母、曾々父母にまで及ぶのはもちろん、

本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細にわたって質問するのである。

これらも万全を期す上からに違いないが、実をいうと余りに科学性が乏しいと言えよう。

ところがそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、

または治療法が間違っているか、あるいは両方かであろう。

事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。

何となれば仮に治ったようでも、それは一時的であって安心は出来ない。

ほとんどは再発するか、または他の病気となって現れるかで、

本当に根治するものは、果たして幾人あるであろうか疑問と言えよう。

この事実は私が言うまでもない。医師諸君もよく知っているはずである。

この例として主治医と言う言葉があるが、もし本当に治るものならそれで済んでしまうから主治医などの必要はなくなる訳である。


右によっても判るごとく、もし病気が医学で本当に治るとしたら、

段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、

売物が続出しなければならないはずであるのに、事実はおよそ反対である。

何より結核だけに見ても、療養所が足りない、ベッドが足りないと言って、年々悲鳴を上げている現状である。

政府が発表した結核に関する費額は、官民合わせてザット一ケ年一千億に上るというのであるから、実に驚くべき数字ではないか。

これらによってみても、現代医学のどこかに、一大欠陥がなくてはならないはずであるにかかわらず、それに気が付かないと言うのは不思議である。

というのは全く唯物科学に捉われ、他を顧みないからであろう。


そうして、診断についてその科学性の有無を書いてみるが、これにも大いに疑点がある。

例えば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合ほとんど区々(まちまち)である。

というのはここにも科学性が乏しいからだと言えよう。

何となればもし一定の科学的基準がありとすれば、そのような事はあり得る訳があるまい。

もし医学が果たして効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならないはずである。

ところが事実は一般人と同様どころか反って不健康者が多いという話で、これは大抵の人は知っているであろう。

しかも医師の家族である以上、手遅れなどありよう訳がないのみか、

治療法も最善を尽す事はもちろんであるからどう考えても割り切れない話だ。

そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるにかかわらず、

友人とかまたは他の医師に診せるのはどうした事か。

これも不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委せる事など出来ない訳である。

それについてよくこういう事も聞く。

自分の家族となると、どうも迷いが出て診断がつけ難いと言うのである。

としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定憶測が多分に手伝うからであろう。


私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。

それは仲々適確に病気は判るものではない。

何よりも大病院で解剖の結果、診断と異う数は、ちょっと口へは出せない程多いといった事や、

治ると思って施した治療が、予期通りにゆかないどころか、反って悪化したり、果ては生命までも危なくなる事がよくあるので、

こういう場合どう説明したら、患者もその家族も納得するかを考え、夜も寝られない事さえしばしばあり、

これが一番吾々の悩みであるというので、私もなるほどと思った事がある。

このように、医学が大いに進歩したと言いながら診断と結果が、実際と余りに喰違うので、

医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。

彼の有名な故入沢達吉博士の辞世に「効かぬと思えどこれも義理なれば、人に服ませし薬吾服む」という歌は有名な話である。


また私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が羅病の場合、

自分の手で治らないと私のところへよく来るが、直に治してやるので喜んでいる。

以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやったところ、

その夫人は大いに感激して、医師を廃め、本療法に転向させるべく極力勧めたが

地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今もってそのままになっている人もある。


今一つこういう面白い事があった、十数年前ある大実業家の夫人で、顔面神経麻痺のため、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往った事がある。

その時私は何にも手当をしてはいけないと注意したところ、

家族の者が余り五月蠅(うるさ)いので某大病院へ診察だけに行ったが、

その際懇意であるその病院の医長である有名な某博士に面会したところ、

その博士いわく「その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。

だから電気なんかかけてはいけないよ。

ここの病院でも奨めやしないか」と言われたので

「おっしゃる通り奨められましたが、私はお断りしました」と言うと、

博士は「それは良かった」という話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。

その夫人は二ケ月程で全快したのである。

さていよいよ医学の誤謬について解説に取り掛かろう。」




明主様御教え 「薬剤は科学?」 (昭和29年3月31日発行)

「世間よくこの薬は効くとか、アノ薬は効かないなどと言われるが、これを吾々からみるとまことに滑稽(こっけい)である。

それはどういう訳かというと、驚いてはいけない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に異っている事である。

という訳は薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。

この点最も肝腎であるから心得て貰いたいのである。というのはそもそも医学の考え方は病気と苦痛とは離るべからざる一体のものと解しているからで、苦痛が治れば共に病気も治ると思っており、病気と苦痛との判別がつかなかったのである。

従って医学がいかに進歩したとて、病気の治らないのは当然である。ところが私はこの理を発見したのであるから、忌憚(きたん)なく言って世界史上空前の大発見といっても過言ではあるまい。


ここで病理についてザットかいてみるが、病気とは薬毒の固りに対し、自然浄化作用が起って排除される苦痛であるから、言わば発病が主でそれに苦痛が伴なうのである。

それを医学は間違えて、苦痛が主で病気が伴なうように思ったので言わば主客転倒である。

この逆理によって薬を以って苦痛を抑える。

この考え方で生まれたのが医療である。

しかも一層厄介(やっかい)な事は、薬が毒化し病原となる事も知らなかったので、二重のマイナスである。

これが医学の進歩と思っているのであるから、その愚、度(ど)すべからずである。

それを知らないがため臨床家などが、学理通りに治らないので、常に疑問を抱いている話もよく聞くが、さこそと思われる。

その証拠として新聞広告などに出ている売薬の広告を見ても分る通り、決して治るとはかいてない。

何々病には効く、苦痛が減る、好転する、元気になる、強力な効果がある、血や肉を増す、予防にいい等々、それをよく物語っている。


しかも薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ないのは、何々の薬を服めば効くとするだけの事である。

ちょうど未開人が禁厭(まじない)等で治すのと同様でしかない。

何よりも新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生まれ、次いで実験科学に移るべきだが、そんな事はないらしい。

というのはそのほとんどが偶然の発見か、推理による実験であって、それ以外は聞いた事がない。

その例として前者は英国のある学者が、医学に関係のない実験の際、偶然発見された青苔の一種が彼のペニシリンであったり、

後者である独逸(ドイツ)のエールリッヒ、日本の秦(はた)両博士の合同発見による彼のサルバルサンにしても、六百六回の実験の結果、ようやく完成したのであるから、これは根気戦術によるマグレ当りでしかない事が分る。

というように両方共科学とは何ら繋がりがない事である。


またあらゆる病菌にしても、何十年前から研究を続けて来たにかかわらず、今以って決定的殺菌剤は生まれない事実である。

また近来発見の御自慢の抗生物質にしても、最初は素晴しい評判だったが、近頃になって逆効果を認め再研究に取掛ったという話も最近聞いたのである。

これらにみても何病に限らず、決定的効果ある薬はまだ一つもないのであって、それだからこそ次から次へと新薬が生まれる訳である。

故にそのような不確実な薬剤を以って病を治そうとするなどは寧(むし)ろ冒険というべきであろう。

また医学では動物実験を唯一の方法としているが、これなども科学的根拠は全然なく、単なる推理臆測によって、多分この薬なら効くだろうというマグレ当りを狙ったものであるのは、効かない場合次から次へと何回でも試してみるによっても分る。

それがため一種類の動物を数千匹殺してもなお成功しないという話もよく聞くのである。


私は科学者ではないが、真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確実な合理的根拠によって研究し、真理を把握したものであって、効果も決定的で永久性であるべきはずである。

それがどうだ、ある期間がすぎると無効果となり、次から次へと新薬が生まれるとしたら、どこに科学的理論があるであろうか。

ちょうど流行品と同様薬にも流行(はや)り頽(すた)りがある訳で、一種の商品である。

いやしくも人間生命に関する重要なるものとしたら許さるべきではあるまい。

しかも多くは短期間の実験によって売出すのであるから、もし効果のない場合、詐欺行為ともなるであろう。

よく新薬発表当時救世主のごとく仰がれたものが、いつの間にか消えてしまうのも、軽率の譏(そし)りは免れまい。

そのため犠牲になる大衆こそ一種の被害者であり、売薬業者の米びつにされる訳である。あえて当事者に警告を与えるゆえんである。」




明主様御講話 「医学はまぐれ当たり」 (昭和27年6月6日)

「今日は少ないですから、ちょっと変わった話をしましょう。

私はいつも大乗と小乗ということをよく言うんですが、これが本当に腹に入るのは、なかなか難しいらしいんですね。

それで、まったく難しいには違いないんですよ。そこで私は小乗にあらず大乗にあらず、大乗であり小乗でありー両方反対のことを言っているんです。

これは経(たて)と緯(よこ)でいえば、緯が大乗で経が小乗ですね。

そこで大乗でもいけないし小乗でもいけない。それから大乗でなければいけないし小乗でなければいけないですね。

だから非常に難しいと言えば難しいんですがね。解ればやさしいんです。なんでもない。

だから一番それが分かりやすい考え方は、結果を見るんです。

結果が良ければ大乗も小乗もないんです。

たいへん理屈に合っていて結果が悪い人はたくさんあります。

むしろ理屈に合う方が結果が悪いんです。理屈に合わない方が結果が良いんです。


今度は、おかしな話でー理屈ということになりますが、よく昔から理外の理と言いますが、理外の理というのはないんですよ。

理屈に合わないということは、理屈が違っているんですよ。

理外の理という、その前の理というものは、理じゃないんです。理外の理という後の理は本当のものなんです。先のー理外の「理」ですね。そっちが間違っている。

で、世の中の道理というのは、ほとんど間違いが多いんです。

そこで間違った理屈の他の理屈ということになります。ところが、間違った理屈の他の理屈ということは、間違っていないんです。そうすると理外の理という言葉はないんです。理内の理ですね。そこをよく考えなければならない。


だからたとえてみれば医学ですね。医学というものは科学だということを言ってますが、私は科学ではないと言うんです。

浄霊が本当の科学です。結果からみて浄霊の方が効くからね。それから浄霊の方なら、どんな深くでも説明ができますからね。

医学では説明できない。風邪はどこが原因ですかと言うと、まだ発見できない。

先生この病気はどこが原因でしょうと言うと、こういうことになっているが、まだ解りません。

ヒドラジドは効くというが、どういうわけで効くんでしょうと言うと、そいつは分からない。

実験したが分からないと言う。実験したが分からないということは、あれは科学じゃない。つまりまぐれ当たりなんです。たぶん効くだろうといって、効くか効かないか、副作用があるかないか試すでしょう。

動物実験から人間実験からーいろんなことで試すでしょう。それは科学じゃないんです。

科学というのは方程式にちゃんと合ってなければならない。

だから動物実験するということは科学じゃないんです。

鉄砲を射っても、弾道が正確だとちゃんと当たるんです。弾道が正確でないと当たり外れたりするんです。

だから、医学はいろんな実験をする間はまだ科学じゃないんです。つまり推理ですね。

たぶんこうだろう、たぶん良いだろう。これは赤痢に効くだろう。何人やってみたら、それが良くなったから確かに良いとー

それは理屈じゃないんです。まぐれ当たりなんです。薬というものは、みんなまぐれ当たりです。

どういう理屈によって、どういう作用によって効くという説明はできないんです。

まぐれ当たりのような、そんなあやふやなものを学理というんです。

すべてがそういう理屈になってますから、本当の理屈の方が理外の理になっちゃう。

だから、今までの理屈というものは、今みたいに外れている理屈もあるし、やや真理に近い理屈もある。

理屈にもいろいろありますがね。やっぱり医学で ーよしんば薬が効くとして、一時効くのと永遠に効くのとありますね。

半年は大丈夫だ。一カ年は大丈夫だが、その先は分からないというのは、本当に効いたのではない。一時的なものですね。

肥料もその理屈なんです。硫安なら硫安をやると、最初一年なり二年は効くんです。それがだんだん悪くなる。

それに気がつかないで、最初できたからいつまでも効くと、こう思っている。実に人間の目は近視眼になっているんですよ。遠くが見えない。


ところが浄霊すると今までなかった熱が出てくるし、オデキが出てくるしね。

だから一時は悪くなったようにみえるが、それを越せば良くなるんです。

それが医学の方は、一時熱が冷めたり痛みが軽減されたりする。

だから理屈は、向こうの方の理屈は短い期間の理屈ですね。永遠性のない理屈ですね。

われわれの方は永遠の理屈ですから、そこで真理なんです。」




明主様御講話 「神様のトリック」 (昭和29年3月5日)

「それから薬を解剖してみたのですが、解剖してみると、薬というものはぜんぜん科学ではないのです。一口に言えば迷信です。

「そんな馬鹿なことはあるものか」と、第三者としたら思うわけですが、そういうことを言えないように書いたつもりです。

(御論文「薬剤は科学?」) 


今読んだような具合で、薬というものはぜんぜん科学性がないわけです。

ただ「効くだろう」というわけで、最初動物実験で、服ましてみたり注射してみると、どうも成績が良い。

「では一つ人間にやってみよう」というわけで、人間が第二の実験材料にされるのです。

そうして「良い」というわけです。ところが 「良い」というのが短いのです。

一カ月か半年ぐらい効くと「これは良い」と、売り出したり学界に発表するのです。

ところが、一年も二年も先になって逆効果があるのです。

そうなるとすたってしまうということになるのです。

ところが薬は浄化停止ですから、必ず逆効果になり、効かなくなるということに決まってます。

だから一つ薬が長く続いたということはないです。

それにまだ気がつかないのですから、やっぱり「超愚」の方です。


そういうような具合で、薬というものはぜんぜん科学性はないわけです。

つまりまぐれ当たりを狙っているわけです。

それを、さもさも科学で発見したかのように、ハヤシ立ててます。

やっている御本人自身は実に馬鹿げているのですが、またそれをありがたがって信じる大衆も随分「超愚」です。

そのためによく新聞に出ている「心臓が治った」とか「肝臓が治った」とか、よく発表してますが、

あれらはちょっとした実験の結果良いので有頂天になってしまうのです。

しかししばらくたつと煙になってしまうので、そういうことを年中繰り返しているのですから、実にかわいそうなものだと思います。

つまり、医学ではぜんぜん治らないものを治ったように信じて、ちょっと良いと「これだ」というように思っているわけです。

だからその犠牲になる人間こそ実にかわいそうなものです。

けれどもしかし、それはもう長いことはないです。

ちょうど自然栽培みたいなもので、ある時期が来ると、分かり始めると早いです。」




明主様御講話 「薬剤の非科学性」 (昭和29年3月6日)

「次に薬を徹底的に分析してみたのです。これは気がつきそうで気のつかない点を書いたのですが、これを読めばどんな人でも「なるほど」と思わないわけにはゆかないと思います。

(御論文「薬剤は科学?」)


そういうような具合で、薬と病とは関係ないわけです。

薬で病に対し、科学的にどういう理論で治るかということはぜんぜん分からないのです。

それは、病気というものが分からないのだから、分からないはずです。

ただ飲んでみてちょっと具合が良いから、これは効くのだ、この薬に限るというように思ってしまっているのです。

だからたいへん科学的のように見えますが、よく考えてみると、薬というものにはぜんぜん科学性はないのです。

浄霊はどんなに考えても科学であり、また実際に効果があるのです。

薬というものは、一時痛みがなくなるとか、一時気持ちが良くなるとかであって、病とは関係ないです。

それを科学的に病が治ると思っていることは、まったく迷信なので、いわば今の学者というのは実に頭が悪いのです。

それが本当に分かると、どうしても今の科学文明というものは、根本から立て直さなければならないわけです。それを私がやっているのです。

だから本当に薬が科学的に効果があるものなら、なにかの病気に一つの薬があればそれで決まってしまうものです。新しい薬が出るわけがないです。」




明主様御教え 「学理の魔術」 (昭和24年11月20日発行)

「現代人は学理の魔術に罹っているといってもいい。

それは学理とさえいえば、何でもかんでも無条件に信じてしまう。

全く絶対的ともいえる。ところが学理が絶対でない事は、学理は常に変遷している。

例えば肺病は遺伝として長く信じていたのが、近来は遺伝ではないという説になった。

ハンセン病もそうである。

今日、日本脳炎の原因が、蚊の媒介としているが、これも遠からず誤りである事を発見する事は、吾らの保証するところである。

また結核は日光浴を可とし、一時は非常に流行したが、今は反ってわるいとされて来た。

彼の盲腸炎なども冷すと温めるとの可否は、今もって決定的とはなっていないようだ。

また薬剤もそうだ。結核の特効薬としてセファランチンから、ペニシリン、最近はストレプトマイシンというように流行とスタれと交互に現れつつある。


右の数例にみても、医学の学理は、服装の流行のようなものである。

年中、流行ったり廃ったりしている。という訳で、絶対性はまずないのである。

もっともこれが進歩の過程といえばそれまでであるが、

仮に進歩の過程としても、服装などと違い、こと人間生命に関する以上、

その犠牲になる人間こそ全く憐むべきモルモットでしかない。


以上のような訳で、現代人は結果よりも、学理を主にするところに問題がある。

面白い事にはこういう事がある。

本教浄霊は治る事は判っているが、学理で説明がつかなければ受ける気にはならないという人がよくあるが、

これらの人は全く学理の魔術にかかっているというより外に説明がつかないといって、

浄霊を現在程度の学理で説明する事は至難である。

それは、浄霊の真の学理は現代の学理よりも一世紀以上も進歩したものであるから、現代人には理解が不可能である。

ちょうど小学生に大学の講義をするようなものであるからで現代人がこの点に目覚め、何よりも生きた事実とその結果を第一とし、学理を第二にするようになれば、いかに救わるる人が多くなるかという事である。

右について、最近発行の橋本徹馬氏著、「共産主義はなぜ悪いか」という中に、左の記事があったが参考になると思う。」



橋本徹馬氏著作 「現代医学とマルクス」

「私はまたかつて、「現代医学とマルクス主義」と言う一文をかいたことがありますが、

これは資本論をかいたマルクスの錯覚と、現代医学者の錯覚とがよく似ているから、試に比較論をしてみたのであります。

例えば現代医学者は症状に現れた病気の研究を実によくしています。

肺病の黴菌はどんな形をしているとが、あるいはそれが繁殖すると、肺がどのように侵されるとか、レントゲンで写真を撮ればどのようにうつるとか、糖尿病がどうだとか、胃潰瘍がどうしたとか、実に微細に色々と病気の研究をしています。

そうしてその各々の病気に対する投薬の法をも熱心かつ微細に研究をしています。


しかし現代医学者が、いかに多くそのような知識を持ってもそれが既に現れた病気を追いかけて廻るものである限り、決して人間の無病健康時代は来ないのであります。

もし人間を真に無病健康にしようと思うならば、すべからく人間が病気にかかる以前に着目し、人間を病気にかからせないための原理をつかんで来て、これを万人に教えなければならぬのであります。

マルクスが商品や、資本や、労働や、貨幣や、剰余価値などのことを科学的に研究して、その間に存する社会の不合理を細々と指摘しているのは、あたかも現代医学者が人体に現れた症状を最も科学的に、かつ微細に研究しているのと同じであって、どちらもつまらぬ知識なのであります。

もしマルクスが真にそのような社会相を憂えるならば、既に形に現れたそのような社会相――すなわち症状と取組むことをやめ、そのような社会相の現れるゆえんの根源を絶つために正しい宇宙観、世界観、人生観の把握に基づく人間の心構えの変更を教えねばならなかったのであります。

けだし仏者の言うがごとく、三界は唯心の所現であって、人々の心の持ち方が変れば、マルクスが眼に見たところの商品や、資本や、労働や貨幣などの性質も変り、従ってまたマルクスの眼に見たところの社会相も、明らかに変更されるからです。

現にこの頃の事業経営者等の中には、自己の営利を目的とせず、専ら社会奉仕を目ざして、マルクスなどの想像もしなかった型の労資協力の実を挙げつつある者が各所に少なからずあります(拙著『人生を楽観すべし』参照)。

これは人間がその心の持ち方を変えさえすれば、それに伴うて社会相もまた変ると言うことを、実証するものであります。

そこに心づかなかったマルクスは、あたかも病源を絶つことを知らずして、頻りに病気と取組んでいる現代医学者と、好一対の錯覚者であったのです。」