医学の非科学性について 1
明主様御教え 「医学は非科学的なり」 (昭和11年5月29日執筆)
「西洋医学は科学的だというが、それは間違っている。なる程機械的ではあるが、科学的ではない事である。
何となれば、その診断に当って、その病気の測定方針に確乎たるものがないのである。
その証拠として、五人の医師に診察を受けるとして、五人共診断が区々(まちまち)であるという事の事実を誰もが知るであろう。
もし適確なる科学的診断法があれば、それは何人の医師が見ても、同一の診断でなくてはならないのである。
この一事だけにみても、私のこの説の当否は充分であると思うが、今一歩進んでその真相を暴露してみよう。
西洋医学が進歩したというが、実際からいえば、医学としてはいささかも進歩しないどころか、反って退歩否邪道に低迷しているという方が当っているかもしれないのである。
何となれば医学とは、病気を医する学問であるに拘わらず、医する事が出来ない。
医するがごとく世人を欺瞞しているのが事実である。
なる程、医療器械は頗(すこぶ)る巧妙になっている事と療法の複雑多岐に渉った事と、薬剤の種類の増加は僅かにあるが、
それらは医学の進歩ではなくて、療法の巧緻化でしかない。一面から言えば不必要なまでの複雑化である。
又、その外表に世人は幻惑されて、大いに進歩したかの様に錯覚しているだけなのである。
実際を視よ、病理も病原も衛生も、その根本に向っての何ら発見はなく、十年一日のごとしである。病菌の種類の発見は確かにある。
そうして、それの予防による減少の功績も認めるが、一人の伝染病を予防し得て、十人の他の疾患の増加の事実に盲目である。
そうして、風邪の原因も熱の本体も不明である。人間の病気とは何が故に発生し、何が故に治癒しないかという事も全然不明である。
その結果として、国民の健康が日に月に退化しつつある事実に直面して焦慮しつつも、どうする事も出来ないのが現在の状態である。
又、病理といえども、科学的な確定がない。
今療病に当ってまず根本としての方法は、病気の診断である。病原の探究である。
その際病原としての発熱は、いずくにあるかを診査する方法を知らない。
そもそも、発熱は身体のある一部に発生した病素を溶解すべく起ったものであるから、その発熱の根拠だけを治療すれば、速かに全身的に治癒するのであるが、現在医学の診断は、これを発見する事が不可能である。
それは医療から転じて来た患者を、常に扱いつつある吾々は、医学の診断がはなはだしき疎漏(そろう)と杜撰(ずさん)であって、病原不明かあるいは誤診である事が、少くとも半数以上は確かにある事を知るのである。
この事について嘗(かつ)て聞いた事がある。ある一人の医科大学生が常に、解剖実験を見る時、その診断と余りに相違するのである。
ほとんど誤りの方が九十%位ある事実に驚いて教授に質問したそうである。
すると教授の答にいわく、それは君人間の身体を外部から見るんだもの、違うのは当り前だよ、との事であった。
これによってみるも、いかに出鱈目であるかが判るのである。
事、人命に関するにおいて信じられない位の事実である。
次に、病理及びその原因においては、何ら進歩の跡を見られないのである。
病理とは何が故の発熱であり、何が故の痛苦であり、何が故の腫物であり、又、それらはいずれから影響し、何の為にそういう現象が現われたかという、それらの闡明(せんめい)である。
又、原因とはその病理構成以前の否、病理構成状態のその根元の発見である。
しかるに、それら根元の発見などは、未だ医学ではその端緒をさえ掴んでいない。
もし医学において原因の説明をすれば、それは牽強付会(けんきょうふかい)でしかあり得ない。
何ら科学的根拠があり得ないからである。医学においては、病理も原因もあらゆる病原は、頗(すこぶ)る単純にも黴菌一点張りである。
しかも、その黴菌の感染のみによって、病気は発生するものと思っているのだから、発狂や癲癇、中風などの伝染病以外の病気に至っては、その説明は絶対困難である。
それらを偶々(たまたま)説明してあるものをみれば、噴飯に価するごとき出鱈目さである。
以上のごとく、病理も病原も何ら適確なる、科学的根拠がないから、医学の診断なるものは、実にその時における医師の推断が根拠となっている。
故に、診断が的中するという事は、その医師の推理的頭脳が優秀であるという訳である。
たとえていえば優秀なる易者は、比較的的中するようなものであり、相場師が前途の騰落を推断するそのようなものであるとも言えると思うのである。
それがそれぞれの医師によって、診断が違うという原因であると思うのである。
これにみても西洋医学なるものは、器械的ではあるが、科学的ではないというのである。」
明主様御教え 「非科学的医学」 (昭和18年10月5日発行)
「今日、いかなる人といえども、西洋医学を以て科学である事を信じない者はないであろう。
しかし私は、西洋医学は科学とは思えないのである。
本来、自然科学とは、あるがままの自然の実体を掘り下げて、その法則を知る事である。
そうしてそれによって文化の進歩向上に役立たせる事である。
従って、真に自然の法則を把握するにおいては一定の規準なるものが生れるはずである。
しかしながらそれは人間以外のものであって、たとえば動植物は固よりあらゆる無機質類に至るまで、
科学する事によってその本質を把握し、法則を、基準を知り得る事は明かである。
右のごとく科学は、人間以外のすべてに対して神秘を暴き、福利を増進せしめ得るので、
その功績に幻惑し、人間をもそれと同一であると思惟し、科学し続けているのであるが、
その事自体が一大誤謬である事を私は発見したのである。
私の言わんとする所はその点であって、人間なるものは一切とは別の存在で、他の一切の範疇には入らない事である。
即ち人間は現代科学では絶対解決出来得ないという事をまず知る事が人間を科学する法則の第一歩である。
そうして、人間以外の一切を科学する方法がことごとく機械によっている。科学と機械とは分離出来得ない事実である。
従って、人間の生命をも機械によって解決しようと企図したのが西洋医学の根本理念であった。
右の意味を端的にいえば、本来唯心的である人間に対し、唯物的に解決しようとするーそれが根本的誤謬である。
何となれば唯心的である人間に対しては唯心的に解決すべきでそれが真の科学的法則であろう。
勿論人間は肉体を有ってはいるが、その肉体といえども、人間においては唯心的に解決され得るので、それが根本原則であらねばならない。
そうして唯心とは精霊であり、唯物とは肉体であるが、その関係は別に詳細説くつもりである。
これによって、真の意味における人間科学を知り得るであろう。
勿論、非人間科学と人間科学との隔たりがいかに大きいかという事も知り得るであろう。
これを識るにおいて、現在の唯物的科学を以て人間に対する時、それは非科学的になる事である。
以上の意味によってモルモットや二十日鼠をいか程研究して人間に応用しようとしても、それは意味をなさないのである。
又第一人間と他の動物とを比較してみるがいい。その思想感情や、その形体動作、体質、食餌、生活等あらゆる点において人間との異いさの余りにも大きい事である。
彼は足が四本あって尾があり直立して歩けない。
全身の厚皮、硬毛は勿論、言語も嗅覚も聴覚もすべての異いさはこれ以上書く必要はあるまい。
その位異う動物を研究したとて、人間に当嵌まる訳はないのである。
故に一言にしていえば、形而下的理論と方法を以て、形而上の問題を解決しようとしているのが、現在までの医学である。
この意味において、医学上進歩したと思惟し、発見し得たと喜ぶあらゆる方法は、実は真の解決ではなく、一時的非科学的解決でしかないのである。
しかもその一時的解決とその方法が、反って、その方法施行以前よりも悪結果を及ぼすという事に想い到らないーその短見である。
故に、医学は進歩したというに拘わらず実際において、病気が治らない。病人が増える体位が低下する。
結核の蔓延、人口の逓減等々の逆効果の顕著なるのは、やむを得ない事であろう。
以上は全く、私の言う、非科学的医学の進歩による逆効果に外ならないのである。
そうして、現代人の中にも、西洋医学の余りにも無力であるのに対し、
漢方医学や鍼灸や民間療法に趨(はし)る者が、日に月に増えつつあるのも周知の事実である。
又、医学専門家の中にも、漢方医学を研究したり、灸点を応用しているという話も往々耳にするところである。
しかしながら一般人としては、西洋医学の無力と不合理を疑いつつも、誤謬の一部をさえ窺知し得ないが為、
それに生命を委するより外、途がないというのが、現在の社会状態である。
彼のロックフェラー研究所の碩学アレキシス・カレルのノーベル賞を貰った名著「人間と未知なるもの」の要旨を一言にしていえば、
現代科学は「人間については何も知らない」ーということである。
次に私は、種々の例を挙げてみよう。
ここに、医家の子女が病気に罹ったとする。
しかるに、不思議な事には、大抵は父である医家が診療しないで、友人等の他の医師に依頼するのがほとんどであろう。
常識で考えても大切なわが子女の病気を、自分の手にかけないで、他人の手に委せるという事は、ないはずである。
それらは全く自己の医術に自己が、信頼出来得ないからであろう。
実験上、自分が診療するよりも、他人に委した方が、より結果が好いからである。
しからば、これはいかなる訳であろうか。
医家としても、恐らくこの説明は出来得ないであろう。
それに対し私はこう思うのである。
医学は、浄化停止であるから、医療を加えるほど病気は悪化する。
わが子女である以上、熱心と、能うかぎりの療法を行う。
勿論、薬剤も高級薬を選ぶであろう(高級薬ほど、薬毒が強烈である)から、結果はわるいに定(きま)っている。
しかるに、他人においては、普通の療法を行うから悪化の程度が少い。
それで、治癒率が良いのである。又、医家において、こういう経験が良くあると聞いている。
それは、是非治したいと思う患者ほど治り難く、それほど関心をもたない患者は、反って治りが好いということである。
これらも、前者と同様の理に由る事は勿論である。
又、少し難病になると、医家の診断が区々(まちまち)である。
一人の患者に対し、五人の医家が診断するにおいて、おそらく五人とも診断が異るであろう。
これらも、科学的基準がないからである。
故に、私は、医学は機械的ではあるが、科学的ではないと言うのである。
そうして、西洋医学の診断及び療法が、いかに無力であるかを、最近の例を以て示してみよう。
それは、先頃物故した、帝大名誉教授長与又郎博士である。
同博士は、癌研究においては、実に世界的権威者とされている。
それで、同博士は以前から「自分は癌で斃(たお)れる」と言われていたそうであるが、果せるかな、死因は癌病であったのである。
発病するや、各名国手(こくしゅ)も、博士自身も、疾患は肺臓癌と診たのであった。
しかるに、死後解剖の結果、癌の本源は腸に在って、それが、肺臓内へ移行したとのことであるから、この腸癌は、生前発見されなかったのである。
この事実によって、私は冷静に検討してみる時、こういう結論になると思う。
一、長与博士程の大家が、自身の癌発生を防止し得なかった事。
二、又、自身腸癌の存在が、明確に知るを得なかった事。
三、各国手が診察しても、腸癌の発見が出来得なかった事。
四、博士自身は固より、各国手がいかに協力しても治癒し得なかった事。
右に対し、私は多くをいう必要はないと思う。
ただ、現代医学の価値を、事実が証明したと思うのである。
次に、数年前物故した有名な入沢達吉博士の死因は盲腸炎という事である。
その際各地から恩師の重態を聞いて集った博士は百二拾数名の多きを算したという事である。
かような多数の博士が頭脳を搾り、大国手自身においても無論苦心されたと思うがそれにも関わらず
治癒し易い盲腸炎のごとき病気が治癒し得なかったという事は情ないと私は思うのである。
その時同博士は、次のごとき和歌を一首詠んだという事である。
「効かずとは おもえどこれも義理なれば 人に服ませし薬われのむ」
そうして医家が診断に臨んで、過去における関連的事項として、
父母の死因や兄弟姉妹の死因又は病気の有無、患者自身の病歴等、
実に微に入り細に渉って訊問しそれらを参考として診断を下すのである。
勿論、慎重を期するという理由からでもあろうが、
実は患者の身体だけの診査のみでは、適確なる診断を下せない結果、
やむを得ず右のような手段を採らざるを得ないのであろう。
故に、私は思うのである。
本当に進歩した医学とすれば患者現在の肉体を診査しただけで、病原は明確に判明しなければならないはずである。
しかしながら、その様に簡単にして速かなる診断は可能でありやと言うであろうが、私はその可能である事を明言するのである。
何となれば、私が治療に従事していた時、そうであったからである。
又、真の医術とは、その療法がいささかも患者に苦痛を与えない事である。
むしろ治療の場合快感を伴う程でなくてはならないーと私は思うのである。
そうして治癒までの期間が速かなる事を条件とし、
治癒後において何年経るも絶対に再発しない事の保証が出来なければならないのである。
そればかりではない。
予後の健康法を教え、それによって患者は、発病以前よりも健康を増し、
再び医師の厄介にならないようにならなくてはならないのである。
かような理想否空想とも思われる医術が果して生れるであろうか。
という疑は何人も起るであろう。
がそれはすでに生れているのである。
しかるに、西洋医学の現在を見るがいい。
その余りにも非文化的ではないか。
にも関わらず、その非文化的である程、反って文化的と思惟する現代人の錯覚と迷蒙は憐れむべきであろう。
見よ、一寸した病気に対してさえ肉を切り、血液を消耗させ、痛苦を与え、不快に悩まし、しかもそれらに対し、
手術料の名の下に、驚くべき高価な料金を費やさしめしかも治癒までに長時日を要し、
再発の憂を無くするには、身体の一部を毀損しなければならないのである。
これらの現実に対し、医学は進歩したというが、それは全く、真の医術なるものを知らないからである。
今や、この地上には、病気滅消の時が来たのである。私は徒らに大言壮語するのではない。
真の狂人には非ざる限り、確実なる論拠と実証とを把握し得ないで、かくのごとき言を吐けるであろうか。
これをたとえていうならば、既成医学は鶏卵である。
すでに内部にある雛は、時来って小さな嘴(くちばし)を以て、殻を破らんとしているのである。
今や人類にとって真に役立つ所の生きた雛が呱々の声を挙げんとしている。
それを私は、一日も速く、我同胞に知らしめたいのである。 (「明日の医術 第1編」より)
明主様御教え 「医学とは何ぞや」 (昭和18年10月5日発行)
「医学とは、言うまでもなく総ての病気を治し国民の健康をより良くし、それによって国家の進運に貢献すべきものである事は勿論である。
従って、幾多の国家機構中における最も重要部門として、政府から特殊待遇を受けている事もその為である。
しかも刻下の重要案件である人的資源の問題を解決すべき鍵を握っているにみて、医学の使命たるや、いかに重要であるかは、議論の余地はあるまい。
私は今まで、理論と実証とを以て西洋医学の誤謬のことごとくを指摘したつもりであるが、ここに見逃す事の出来ない問題がある。
それはさきにも説いたごとく、医家及びその家族の健康問題である。
私は思う。現代医学が真の意味において進歩せるものであるとすれば、その実証が適確に現われなくてはならないはずである。
いかに学術的理論を構成し、新説を発表し、新薬や機械や方法の進歩を誇称するといえども、それが実際的に効果を示さないならば、何らの意味をなさないであろう。
故に私は、真に医学が進歩したとすれば、その実証を世に示すべきであって、吾々のごとき西洋医学非難者をして沈黙せしむべきである。
万一それが不可能であるとすれば、医学の進歩という言葉は空虚でしかあるまい。
もしそうであるとすれば西洋医学を一旦解消し事実を基礎とする新しい理論の下に、再建すべきではないかと思うのである。
私がかような事をいえば、それは余りに極端論と思われるかも知れない。
しかし私は、徒(いたず)らにかような説を唱うるのではない。
唱うべき理由があるからである。
それについて忌憚(きたん)なく解剖してみよう。
まず、西洋医学の価値を実証する上において最も有力であるべき事は、
さきに説いたごとく、医家自身の健康と家族の健康をして、一般世間の水準よりも高くあらしめる事である。
しかるに今日実際を見るにおいて、むしろ一般人よりも水準の低下を疑わしむるものがある。
それはまず医学博士の短命と、医家の罹病率の多い事。
その家族の弱体であり、しかも医家の子女にして結核罹病者の割合多い事である。
勿論医家自身としても、自己の生命を守る上には、常に細心の注意を払うであろうし、
又、家族の罹病者に対しては、早期診断以上の良処置を執(と)るであろうから、手後れなどありようはずはあるまい。
しかるに事実は右のごとくである以上、近来唱うる予防医学なるものも無意味であるといえよう。
何となれば医家自身において、予防困難である事の実験済みであるからである。
故に私は、西洋医学が真に進歩したという事を社会に示すとすれば、何よりも医家とその家族の健康が、世間一般の水準よりも遥かに高きを示す事であり、
それを見る世人をして、全く西洋医学の進歩を確認しない訳にはゆかないようにする事であるが、それは恐らく不可能であろう。
しかるに、当局者も専門家も、口を開けば一般衛生知識の不足を言い、又注射その他の方法を強制的に行おうとするのである。
それらに対し、国民中それを忌避する者や、関心を払わない者も相当あるという事実であるが、これは全く国民が西洋医学に対し、全幅的に信をおかない証拠であろう。
故に当事者としては、まずこの事を考慮しなくてはならないと思うのである。
いかに大衆といえども、人命の尊い事は知っている。
前述のごとく、医家及びその家族の健康が不良であったり、窒扶斯(チフス)等の注射によって、稀には即死する者もあり、
ジフテリヤの注射によって瀕死の状態に陥るというような事実も相当あるのであるから、それを知る大衆としては、一応は危懼(きぐ)の念を抱くのは当然であろう。
又手術の過誤によって生命を失うという事実もすくなくない事である。
私は先年、外科の某博士が他人である患者の手術は好んでするが、
家族や親戚の疾患に対しては、決して手術を行わないという事を耳にした事がある。
これは手術の過誤を懼(おそ)れるからであろう。
これらは全く、西洋医学が実証的に効果を示さないからである。
否、効果を示し得ないからでもあろう。
この結果として、近来灸点や民間療法が繁昌するのもやむを得ないであろう。
そうして今日患者の趨勢をみるに、理論を重んずる者は医学に迸(はし)り実際を重んずる者は民間療法に趁(はし)るという傾向は否めない事実である。
故に、多くを言う必要はあるまい。
即ち西洋医学は、あらゆる病気に対し確実に効果があり、悪影響などは更にないという事を実証するより以外、
国民をして西洋医学に対し、全的信頼を為さしむる事は不可能であろう。
故に、万一右のごとき効果が実現さるるとしたら国民の方から進んで注射を要望すると共に、手術の躊躇(ちゅうちょ)なども解消するであろう。
勿論、古代印度人が創成した灸治法も、二千余年前中国人が創成した漢方医学も、現在の民間療法も跡を絶つであろう事は勿論である。
しかるに事実は右と反対であるに拘わらず、西洋医学の進歩を云々(うんぬん)するのであるから、そこに割切れない何物かが残るのである。
私は、今一つ重要な事を言わなくてはならない。
それは今現に行いつつある健民運動と結核対策要綱である。
これらは勿論、西洋医学的方法以外には出でないのであるから、その結果はどうであろう。
それは医家の家族の健康水準より以上の成績は挙げ得られないではないかと想うのである。
何となれば、医家に最も接近している家族が、一般世人の水準より以上に出でないとすればそうなるべきであろう。
従って多額の国帑(こくど)を費やし、多数の人的資源をそれに充てるという事が無意義に終らざる事を冀(ねが)ってやまないものである。
右について、本医術の治療士及びその家族、もしくは本医術の修得者ある家庭は、例外なくいずれもその健康が世間一般の水準よりも遥かに高度である。
全く百万語の理論よりも、一の事実に如(し)かずというべきであろう。
しかもそれが年月を経る毎に益々健康は増進し健康家庭が作られつつあるのである。
従ってこの事によってみるも、本医術こそは理想的医術として真に人類の福祉を増進すべきものであり、病無き世界の現実化は遠い将来ではない事を私は信ずるのである。」 (「明日の医術 第2編」より)