各種検査法について


明主様御教え 「結核と其発見法」 (昭和18年11月23日発行)

「結核発見法として現在行われつつあるところのものは、大体ツベルクリン注射、血沈、レントゲン写真、結核菌の顕微鏡検査等の機械的方法

及び微熱、咳嗽、喀痰、血痰、喀血、疲労感、倦怠感、食欲不振、羸痩(るいそう)等の自覚的症状によるものとである。

これらについて、私は忌憚なく検討してみよう


ツベルクリン一名マントー氏注射なるものの液を注射するや、その部の紅潮または腫脹を呈するものを陽性といい、なんらの反応なきを陰性というのである。

そうして陽性は既に結核菌に犯されているとなし、陰性はしからざるものとするのである。

ゆえに陽性者は潜伏結核を既に保有している以上、それを喰止めなければならないとして種々の注意を与える。

しかるに陰性者に対しても無菌者である以上免疫力がないから、万一感染の場合、陽性よりも病気亢進が高いから、菌に犯されないようとの意味で注意すべしというのである。

右のごとく、陽性も陰性も要注意者であるというのであるから困ったものである。

そうして注意を要するとは一体何を意味するものであろうか、これを医学においては、風邪を引かぬようにする事、栄養食を摂る事、過労を避ける事、睡眠を充分とる事等としているが、これらについて、私は徹底的に解剖してみよう。」 (「結核の正体」より)




明主様御教え 「ツベルクリンの注射」 (昭和18年11月23日発行)

「ツベルクリン注射の結果、陽性及び陰性の症状を呈するのはいかなる理由であるかを説いてみよう。

前項に述べたごとく、人体は不断に浄化作用が行われつつあるものであるから、

たまたま急激に異物または毒物等が注入された場合、その局部に速かに浄化作用が発生する。

それがため、その部に紅潮または腫脹を呈するのである。

たとえていえば蚊に食われ、毒虫や蜂に刺された場合、腫脹を呈するのと同様の理である。

これは毒素を急速に解消せんがため、血液が集溜するのである。

これによってみても、血液自体に解毒作用のある事を知るであろう。


右に引換え陰性者とは、血液の解毒力微弱のために腫脹しないのである。

いわば血液に活動力がないからである。

しかるに二回三回にわたってツベルクリン注射を行う時、

はじめて陽性に転化するのであるが、

これは異物である注射液が二倍三倍にも増す訳であるから、

解毒作用微弱の血液といえども、解毒力自体が二倍三倍に増すという結果によって陽性者となるのである。


右のごとくであるにみて、陽性陰性の反応とは、異物注入に対する浄化力の強弱の表われに過ぎないのであるから、

ツベルクリン注射なるものは、結核とはなんら関係がない事となるに拘わらず、

結核を知る唯一の方法とする医学の解釈は不可解と思うのである。

ゆえに、私は多くの資材や労力をかけ、なんらの意味なきツベルクリン注射を行うという事のいかに徒労であるかを嘆かすにはおれないのである。


また、ツベルクリン注射について、医学的理論に不可解極まる点のある事を指摘してみよう。

それは結核生菌に既に侵されているために、抗毒素が発生しておるから腫脹するというのであるが、これはむしろ逆的解釈である。

何となれば右のごとく抗毒素なるものは、生菌に対し、それを防禦するために発生する所の元素である以上

死菌に対しては抗毒素発生の必要がないからである。

今一つの注目すべき事は、それは医学で言うごとく、結核生菌が侵入したために、

抗毒素が発生するものとすれば人間が生れて初めで蜂に刺された場合、

はなはだしく腫脹するのはいかなる訳であろうか、

これを医学の理論に従えば、既に蜂に刺されて、蜂毒に対する抗毒素が発生保有しているからという訳になろう。洵におかしな話である。


また、日本人が南京虫に刺された場合必ず腫脹する。

しかるに中国人においてはなんらの反応がないのである。

それは幼児時代から刺されているため、抗毒素が大いに発生しているためである事はもちろんである。

また原野に発生するブヨに刺された場合、最初ははなはだしく腫脹するが、

度々刺され慣れるに及べば、ついに腫脹しなくなる。これは私の体験である。

ゆえに、右のごとき幾多の事実によってみるも抗毒素が発生すればする程反応はなくなり、

反対にいまだ毒に対し処女である場合、著しい反応がある事である。

従って、医学における解釈は事実と逆である事は、もはや疑いないであろう。

ゆえに、結論はこういう事になろう。

すなわち陰性とは、既に菌に犯され、抗毒素発生のため、反応腫脹の起こらない訳であり、

陽性とはいまだ菌に犯されず処女体であるから、

猛烈に抗毒素が発生し腫脹するという訳である。」 (「結核の正体」より)




明主様御教え 「血 沈」 (昭和18年11月23日発行)

「血沈とはもちろん血液の沈降速度の速いか遅いかを知る方法であって、

沈降速度の速い程濁血であり、その重量によるためである。

医学においては速度十ミリ以上を濁血となし、十ミリ以下を浄血としているが、

ただこれだけならば私のいう濁血者浄血者を機械的に測定する一の方法として異議はないのであるが、

ここに見逃す事の出来ない事は、

濁血者は結核容疑者となし、勤労までも停止させる事で、ここに問題の発生があるのである。

濁血保有者を結核容疑者とみる事はいかなる訳であろうか、

私の推測によればさきに述べたごとく感冒や微熱の原因が、

濁血のための毒素溜結に対する第二浄化作用であるから、

それが結核に罹りやすいとの推定のためであろうと想うのである。

もちろん濁血保持者は感冒的症状が発生しやすいのは事実であるが、

それだけで結核または結核容疑者と断定する事は余りに早計である。

ちょうど焚火を見て火事を予想しポンプを引出すのと同様の慌(あわ)て方である。


そうして浄血者を濁血者たらしめる最も有力なる原因としては、

近来しきりに応用する彼の予防注射の一事である。

さきにも述べたごとく注射液等の異物または毒物を血液に注入するにおいては、

それが濁血の原因となるのであるから、

注射なるものは濁血者を作る方法でしかないという事になろう。

しかしながら、専門家はいうであろう。

注射によって伝染病を予防するのであると、しかし、私は言うのである。

伝染病とは猛烈なる浄化作用で、

これある事によって人体血液中の汚濁を急激に消滅するのであるから、

もちろん天与の生理作用である。

ゆえに体力旺盛なる民族に伝染病が多く、白人のごとき体力低下せる民族程伝染病が僅少であるのは何よりの実証である。

従って、注射によって濁血者となる以上、浄化力微弱となり、一時的伝染病を免れる事が出来得るが、

その後に到って体力の低下、結核発生の素因となる事はもちろんである。

この理によって伝染病を真に解決せんとするには別に方法があるが、

それは結核以外にわたるから割愛する。

その事は拙著「明日の医術」中に詳細掲載されている。


ただ、ここに一言すべき事がある。

それはいかに猛烈なる伝染病といえども、その被害は一時的であり、一区域だけで済むという事である。

従って、国家全体の盛衰に関わるような事はないが、

それに反し、伝染病を防止し得て、その国家は理想のごとく伝染病絶滅したとしたら、

果していかになりゆくやというに、遺憾ながら所期の目的と反する事になるのである。

これは論議するまでもない。

彼の英仏を見よ、人口減少、体位低下という悲観すべき将来に悩んでいるではないか。

ゆえに吾人は一時的効果に幻惑さるる事なく、民族将来の繁栄と幸福をおもんばかり、善処しなければならない事はもちろんである。


次に、今一つ重要な事がある。

それは血沈測定のため、血液採集の場合、腕の肱(ひじ)際(きわ)隆起せる部からであるが、これには異議がある。

それは右の部は、注射液の薬毒が最も集溜しやすい所であるから、

その部から採集する以上特に濁血である事はもちろんである。

しかるに医学の解釈によれば、血液なるものは、人体いかなる場所も同一としている事であるが、

私の研究によれば、人体各部の血液は一定せず、汚濁の濃淡は非常に差異があるのである。

それは浄化作用によって血液が循環しつつ、汚濁を一局部に集溜させつつあるからである。

世間よく鬱血(うっけつ)するというがこの事に外ならない。

たとえていえば血管とは溝のようなもので、

新しいかまたは清潔なる場合、水は広く速く流れるに反し、

不潔なる溝においては、水は流れるには違いないが、

溜泥のため細く遅く流れるという訳である。

これは医家において、各部の血液を試験すれば明瞭となるであろう。

この事の証左として、人体各部の熱の差異の著るしい事であって

人により左右腋窩(わきのした)の体温が五、六分の差違ある者がある。

ゆえに今日の体温計のごとく、腋窩や口中の体温を計るのみでは不完全であるから、

人体各部の温度を測定し得べき、進歩せる体温計が出来ればいいと、私は常に思うのである。


また医学においては、薬毒は体内に入っても時日が経過すれば自然消滅するといわれるが、

これもはなはだしい謬見である。

私の永い経験によれば、人間として摂取すべき飲食物は大体定まっているので、

それら天与の飲食物は全部消化し、吸収し、排泄さるるのであるが、

しからざる場合、異物の大部分は排泄し得られず必ず残存し、凝結し、病原となるのである。」 (「結核の正体」より)




明主様御教え 「レントゲン写真」 (昭和18年11月23日発行)

「医診においては、結核を知る方法として、レントゲン写真の撮影を重要視しているが、

これについてもはなはだしい誤謬である事を指摘してみよう。

レントゲン写真に顕われたる胸部の雲翳(うんえい)の有無によって、医家は結核非結核の断定を下すが、

一体この雲翳なるものはいかなるものであるかという事であるが、

もちろんあってはならないものには相違ない。

しかしながら、雲翳だけによって、必ずしも肺臓内における結核の病巣とはいえないのである。

何となれば写真は平面的に写るものであるからである。

私が多くの経験上雲翳のほとんどは肺臓内ではなく肺臓外、

すなわち胸部及び背部の皮下肋骨付近にある毒素の溜結のそれである。

ゆえに、もし肺臓内に毒素溜結があるものとすれば、

必ず呼吸に異状がなければならないはずである。

その理由は、毒素溜結の容積だけ、肺臓全体の容積が減殺されるからである。


しかしながら、レントゲン写真撮影において、

正面からではなく、側面からも部分部分に撮影し、正面写真と照合する場合、

肺臓内も適確に知り得るので、かような方法を医学も特殊の場合行うのであるが、

普通特に集団的に多数者に、右のごとき方法を行う事は到底不可能であるから、

実際上正面だけの撮影で満足するの余儀ない訳である。

右のごとくであるから、実験上肺臓内に毒素溜結ある者は、

少なくとも結核第三期以上でなければならないはずであるから、

早期診断時の場合、右のごとき重症性すなわち肺臓内の異常者は一人もないといって差支えないのである。

従って今日行われているごとき平面写真の雲翳のみをもって肺臓内に疾患ありと見なし、

直ちに結核と断定する事は余りにも軽率であろう。

これについて、今一つ見逃し難い事は、肺臓外の雲翳が、第二浄化作用すなわち発熱によって溶解し、

液体となった毒素は肺臓内に浸潤し、喀痰となって排泄せられ、浄化が完全に行われ、雲翳は消滅するのである。

しかるにこの場合医学は肺浸潤として、結核の初期のごとく誤解し、その扱いをするので、

患者は精神的にも肉体的にも元気消耗し、食欲不振等によって漸次衰弱し、

ついに真の結核となるという例も少なくない事を私は知っている。」 (「結核の正体」より)




明主様御教え 「顕微鏡検査」 (昭和18年11月23日発行)

「顕微鏡検査とは、もちろん結核菌の有無を知る方法である。

それは結核菌は感染するという学説のためであり、

従って、保菌者を開放性といい最も恐れ、隔離の手段を執るのである。

しかるに、私は結核は絶対に伝染しないものである事をあえて断言する。

それについて私は約二十年間にわたって、私の子女六人をして、

第三期以上の結核患者と同室に起居させ、食事も共にさせ、

しかも消毒はもちろんなんらの感染防止方法も行わなかったのである。

そうして右のごとく宿泊させた結核患者は十数人に上ったであろう。

しかもその中数人は私の家で死亡したくらいであるから、いかに重症であったかを知るべきである。

もちろん大病院において見離されたもののみであった。

しかるに、数年を経た今日に至るも、家族中に一人の結核発病者もないにみて、非伝染である事は疑いないのである。


従って今日においても、もし感染の実験を求めらるるとすれば、何時にても喜んで応ずるのである。

私自身はもちろん、私の家族でも、また門弟等の家族等を、かぞえれば数千人はあるであろうから、それらのことごとくは試験台になるのである。

その他種々の実験によってみても、感染しない事は確実である。

しかるに現在学理上においては感染するとなし、種々の繁雑なる防止法を実行し、

多額の費用と労力、資材等を重点的に費やす以外、感染を恐れる結果として、

産業戦士や社会各方面のあらゆる層の結核患者の労務を停止し、隔離させるのであるが、

これらの方策のいかに無益であり、戦力を消耗させつつあるかという事は、けだし予想外に大なるものがあろう。

従って学理上いかに感染を主張するといえども、事実において感染しないとすれば、

学理と実際の喰違いであり、学理に誤謬がある訳であるから、

大問題として大いに考慮しなければならないのである。

実に誤れる学理のために、国家国民がいかに大いなる犠牲を払わされつつあるかという事をおもう時、私は慨歎(がいたん)に堪えないのである。


そうして医学においての結核感染は、彼のパスツールの細菌空気伝染説、

コッホの結核菌発見等が結びついて、ついに伝染説となった事はいうまでもない。

右についてパスツールが、それまで自然発生説であったのを破って、空気伝染説を主張し、

それが定説となった事のいかに誤謬であるかは、拙著「結核問題と其解決策」中に詳しく掲載されであるから参酌されたいのである。


もちろん私の研究においては、結核菌は自然発生である。

それは喀痰が排泄されずして長く体内に残存する場合、腐敗して発生するのである。

ここに驚くべき事は、右のごとく喀痰を残存なさしむるその原因が、

医療による浄化作用停止のためである事である。

せっかく浄化作用発生し、凝結毒素が溶解しはじめ、順調に喀痰となって排泄さるれば、結核菌などは決して発生し得ないのである。

彼のいかなる物質といえども、虫類や微生物が発生するのは、時日の経過によって腐敗するからである事は

一切に通有の原則であって、結核菌といえどもそれに漏るるはずはないのである。


以上のごとく、各種の機械的診断について述べたのであるが、

そのいずれもが、帰する所結核そのものとの直接関係のない事は明らかである、と私は想うのである。

ゆえに実際上、医学はいまだ真に結核を解決すべき方法も薬剤もない事はもちろん、

結核の原理も、細菌発生の原因も確認せらるる域に達していないのである。

にも係わらず強いて解決せしめようとする所に無理が生じ、誤謬が発生する。

それがさきに不確実なる方法をもって診査をなし、自信のない療法を行うのであるから、むしろ危険ではないかと思うのである。


私は、右の私の説を証するため、一の断案を下そうとするのである。

それは早期診断や注射等が、医学で言うがごとき実際的効果あるものとすれば、

医家の家族には結核患者の発生がないはずである。

もし仮に患者発生がありとしても速かに治癒すべき訳である。

何となれば早期診断も手当も遺憾なく行われ、決して手遅れなどありようはずがないからである。

しかるに、事実は医家の家族においても、結核患者発生も結核による死亡も一般世人となんら異ならない事は何人も知るところであろう。

この意味において、医家の家族に限り一般と比較して結核絶無か、または非常に少ないという実績を表わさざる限り、

現在の医学は結核に対しては全然無力であるといわれても、それの反証は挙げ得られないであろう。

従ってそうであるとすれば、あらゆる結核対策なるものは何のためであるかという事になり、

結局莫大なる浪費に過ぎないという結論になろう。

ゆえに責任者たるもの、この国家大非常時に際し深く自省すると共に、

西洋医学以外の方法による解決策に着眼すべきではないか。

そうする事こそ国家社会に対する国民の責務を全うするゆえんであると思うのである。」 (「結核の正体」より)




明主様御教え 「西洋医学に由る健康診断の疑問」 (昭和11年4月11日発行)

「西洋医学における健康診断は、未だ以て不完全であるという事を最近の事実が示したのである。

それは松山文相の死である。新聞紙の報道によれば、医学界の権威として帝大の古参教授として、令名の高い真鍋国手が死の三時間前に健康診断をしたという事である。

これは軽々に看過出来ない、重大問題である。

三時間後に死ぬという事を、予知出来得ない、健康診断なるものは、果して何の価値があるであろうか。

健康診断を受けようとする目的は、病気の前兆を知る事であり、病気の前兆を知ろうとする事は、万一の事態を免れんとする意図であることは、言うまでもない。

しかるにその最後の目的である、死そのものが、三時間前に予知出来ないとしたら、それは、健康診断などをしないのと同じ結果である。

これによって見れば、西洋医学は、もっともっと進歩しない限り、その健康診断は、未だ信頼するに足りないと言う事が出来る。

又これらの問題に対して、当局も世人も余りに冷淡ではなかろうか、

他方面における割合小さい問題にも、必要以上に神経を尖らす、

現在の社会が、事医学上に関する一切は不思議な程寛大であるのはどうした事であろうか、

この余りの寛大さに蔽(おお)われての為かは知らないが、赦すべからざる程の誤診誤療が頗(すこぶ)る多いという事は、想像され得るのである。

帝大の権威でさえが、今回のごとき不明である以上一般医師の診断の、いかなる程度であるかは、予想し得るであろう。

しかしこれは、医師を責むるのは当らないかも知れない、実は、罪は西洋医学にあるので、

それは世人が想像する程に、進歩していないと見るのが、本当ではなかろうか、

要するに、西洋医学過信の弊が、種々の形となって現れ、それをどうする事も出来ないというのが、現状ではあるまいか。

注射の誤りや、手術の誤りによる急死、その他の確に医師の過失と認むべき事実に対し死者の家族の憤慨談や又、訴訟事件等の新聞記事を、よく見るのであるが、

この場合なぜか医師の方が有利な結果となるようで、その為かは知ら無(ない)が、大抵泣寝入りとなる場合が、多いようである、

もっとも医療に干渉し過ぎる事は、医師の治療における、支障ともなるのであるから、

一概には言われ無が何事も程度があり程度を越えれば、弊害を醸(かも)すのは当然である。

しかも事は、人命に関するという、重大事においておやである。」