扁桃腺・盲腸の切除について
明主様御教え 「扁桃腺炎及び盲腸炎の手術」 (昭和22年2月5日発行)
「近来最も多い病気に扁桃腺炎がある。
この病気は大抵の人は経験しているであろう。
医学においては扁桃腺なる機能は未だ判っていないのである。
何となれば不用として手術によって除去するからである。
考えてもみるがいい。
人体に不必要なるものを造物主が造る筈がないではないか、医学者も人間である。
造物主に造られた人間である。
しかるに、造物主が必要として造られた物を人間が不必要として除去するのは何たる暴逆であろう。
この意味において、医学で扁桃腺が不必要というのは実はその存在理由が未だ不明であるからで、
それを判明したように錯覚するとは、まことに危険千万というべきである。
扁桃腺は、私の発見によれば、非常に重要な役目を果している。
それは人体の上半身中最も毒素集溜する個所は頚部淋巴腺付近である。
それが浄化によって排泄される場合、一旦扁桃腺に凝結し、発熱溶解、液体となって排泄せられるのである。
その溶解時、紅く腫脹し痛むのであるが、放置しておけば簡単に治癒するのである。
医療はルゴール等の塗布薬または氷冷湿布等の浄化停止を行うので、
治癒に時日を要し一旦治癒しても再発しやすいのである。
右のごとき事を繰返すにおいて、ついに慢性となり、固結は漸次膨大、扁桃腺肥大症となる。
かようになると、発病の場合、激痛高熱苦悩はなはだしく、食物嚥下も困難となるので、手術のやむなきに至るのである。
また扁桃腺除去は他に悪影響を及ぼすのである。
それは淋巴腺付近の集溜毒素が排泄されんとしても、出口である扁桃腺がないため、
反対の方向ーすなわち中耳に向かって移行し、耳骨に穿孔、激痛高熱が発生する、それが中耳炎である。
また中耳炎発病の場合、液体膿が多量なる時は、中耳から頭脳にまで移行する。
それが中耳炎と脳膜炎の合併症であって、これは生命に危険を及ぼすのである。
これによってこれを見れば、医学の誤療は最初扁桃腺炎という軽病から中耳炎に発展させ、
ついに脳膜炎にまで進行させ生命をまで危うくするのである。
盲腸炎は、周知のごとく下腹部右側(極稀に左側もある)の一局部の激痛である。
そうして医学においてはその原因を食物に置いているようであるが、
これは誤りで、真の原因は上半身における扁桃腺と同様、下半身における毒素排泄機能である。
発病するや、医療は速かに手術を奨めるが、実は放置しておけば速かに完全に治癒するのである。
自然療法の場合激痛は一日位、二日三日は中痛、四日目位から歩行時痛む位で必ず下痢あり、
一週間位で全治し再発の憂は決してないのである。
医学では生命の危険を伴うといい、寸刻を争って手術を奨めるが、これは非常の誤りで、
手術の結果往々死を招く事があるが自然療法なれば、毫も危険はないのである。
次に医学においては、発病によって盲腸炎を知るのであるが、
本医術の診断においては、未発生すなわち潜伏期といえどもよく診断し得る。
それは熟練によって盲腸部の毒素固結が判り得るのである。
ここで、手術について一言を挿(さしはさ)むが、今日医学の進歩を言う時必ず手術の進歩を賞えるのである。
これはちょっと聞くともっとものようであるが、実は大いなる誤りである。
何となれば病患以外患部の機能をも除去するので、人体における重要機能を消失する以上、他に悪影響を及ぼさない訳にはゆかない。
なる程手術後一時的ある期間は健康であるが、数年後徐々として健康に支障を及ぼす事は確実である。
それは浄化機能の喪失によって、毒素は他のあらゆる機能を侵す事になる。
事実、扁桃腺除去後、首より上方の病気に罹りやすくなり、
また虫様突起除去は腎臓、腹膜、胃腸等に障碍を来し、
婦人は月経不順勝ちになり、頭痛、肩の凝り等に悩み、全身的にも活力減退は争えない事実である。
常識で考えても判る筈である。
最も高級で微妙極まる人体組織の一部なりとも毀損する以上、なんらかの影響がない訳はない。
たとえば、いかなる名画といえども、画面の一部に毀損があれば、それは全体の毀損であり、価値は大いに低下する。
また家屋の場合、一本の柱一石の土台、一枚の瓦といえども除去されたとしたら、
その家屋の安全性はそれだけ減殺される訳である。
かくのごとく手術は病気のみの除去ではなく、あわせて機能の除去でもあるから、
いかに理由づけるとしても医術の進歩とはならない。
医術の真の進歩とは病気だけを除去して機能はそのまま元通りであらねばならないのである。
しかしながら、内科的手術は、外面に痕跡をのこさないから、
直接不自由と外観に影響がないのでさほど恐れられないのであろう。
従って私は思う、手術の進歩とは医術の進歩ではなく、技術の進歩に過ぎないのである。
また思う、メスを揮い、痛苦を与え、血液を消耗させ、人体の一部を障害者たらしむる事は、全く野蛮的行為でなくて何であろう。
医博越智真逸氏は、ある著書に左のごとき記事を載せている。
「虫様垂をもって全然無用の長物で、既に退化しつつある機関であると考えるのは果して自然を正しく理解せる賢き考えであろうか。
恐らくは吾人の知識が未だ浅薄で、神秘の宝庫を開き得ぬためと信ずる。
余は自然は断じて無用有害の機関を吾人に与えないと確信する。」
かような理解ある説を唱うる医学者のある事を私は心強く感ずるものである。」 (「天国の福音」より)
明主様御教え 「西洋医学の大革正と観音力療病の大偉勲」 (昭和11年4月11日発行)
「扁桃腺肥大は切らずに完全に除去さる
近時児童に多い、扁桃腺肥大症は、手術によって切除すべしと、医師は大いに奨めるのである。
しかし、被手術者は児童であるから痛苦の忍耐をし難いのと、
その両親が、吾児の痛苦を見るに忍びない事などの為に、
医師の奨めに応じないで、躊躇逡巡している者が非常に多いのであって、
これをいかにするかは今日の切実なる問題であろう。
しかるにこの困難な問題が、容易に解決されるという、一大福音を、天下に告知したいのである。
それは、いかなる扁桃腺肥大も、手術によらず、一滴の薬剤も使用せず、
随って、何らの痛苦もなく単に指頭の技術によって除去され得るのである。
しかも、数回又は十数回で完全に除去せられ、再発の憂いが無い事である。
扁桃腺についての、医学上の研究、成果は、未だ不完全である。
医学上の解釈によれば、扁桃腺肥大症は、風邪に罹り易く、随って、発熱し易いという事、
今一つは、小児においては、頭脳が鈍感であるというのである。
故に、手術による切除によって、右の諸症は、完全に解消されると言うが、なる程一時的効果は確にあるが、
将来において、ある種の疾患発生の原因となる事を知らないのである。
何となれば、人体のあらゆる機能は、不必要なものは、一つも無い事である。
全智全能である造物主は、決して不必要な物を造られたはずはない訳である。
扁桃腺にしろ、虫様突起にしろ、不必要なごとく見らるるが、実は重大な役目をしているのである。
今、扁桃腺について、いかに重要機能であるかを説明してみよう。
腺病質と言わるる児童は、必ず左右の耳下腺、淋巴腺、扁桃腺に、水膿溜結を見るのである。
それら膿結は、人体における、自然浄化作用に因って、絶えず外部へ排泄されんとしている、
そしてその排泄口が、即ち扁桃腺であるから、
扁桃腺肥大は、その排膿が、停滞固結している状態なのである。
それは、その児童が、弱体の為に排泄する力が足りないからである。
もしその児童の健康が、旺盛であれば、心臓が活動し、熱を吸収して、その停滞膿結を溶解排除してしまうものである、それが即ち急性扁桃腺炎なのである。
扁桃腺切除の結果、一二年は確に効果はあって、風邪発熱は、大いに減少するが、それから後が問題である。
何となれば、排膿口たる、扁桃腺を失った為に膿は、自然淋巴腺及び耳下腺に溜結するからである。
その結果反対の方面、即ち耳孔から、排泄されようとするので、それが、中耳炎である。
しかし、中耳に排泄する力さえ有たない、弱体者の膿結は時の経過に依って、濃悪性になってゆく、それは、微熱を伴う様になるのである。
そうなると、咽喉が乾燥するから、軽微の咳嗽もあり、且つ、風邪に罹り易くなるのである。
この症状の時、ほとんどの医師は、肺尖加答児(カタル)と誤診するのである。
それは、その症状からいえば、無理もないのであるが、実はこの時の肺は何ら異状は無いのである。
そうして、肺患の治療を始めるが、その治療は、病症に適合しないが為に、
漸次、衰弱を増しついには、真の肺患症状にまで進むのである。
又、この際の絶対安静法は、衰弱に拍車を掛ける様なものである。
私が、多くの小児肺患者を取扱った経験上、患者の、七八割までは、
この種の誤診されて衰弱をした、肺に異常の無い、肺患者である事に驚くのである。
又医学上では、扁桃腺肥大児童は、脳神経痴鈍であるというのである。
これも、私の研究によれば扁桃腺肥大そのものは、直接、脳神経に、影響は無いのであって、これも、医学の研究不足である。
それは、いかなる訳かというに、扁桃腺肥大の児童は、例外なく、頸部の周囲に、多量の水膿溜結を見るのである。
それが為、脳へ送流する血液が、妨げられる結果、
脳の血液不足による、器能の不活発が、脳神経痴鈍とならしめている。
この点現在医学の解釈は、余りに単純であると、思うのである。
研究成果が、不充分であるのに係わらず、貴重なる人体機能を、軽々しく切除するという事は少くとも、慎重なる態度とは、言えないであろう。
しかし、一歩譲って、それが、万全であったとしても、患者に痛苦を与え、障害者たらしめ、
費用と時日を、相当要するところの医術は、すくなくとも、文化的と言えない事は勿論である。
私は、メスを使用し肉を切り、血を出し、針を刺さなければならない医術は、実に野蛮であるとさえ、思うのである。
この点において、我観音力療病こそは、世界に誇るべき、完全医術であり、二十一世紀の医術であろう事である。」
明主様御教え 「医学の考え方」 (昭和26年9月26日発行)
「現代医学においての、根本的誤謬をかいてみるが、それは考え方のいかにも浅い事である、今その二、三をかいてみるが、
例えばビタミンが不足しているから、それを補えばいいというが、本来ビタミンが不足するという事は、ビタミン生産の体内機能に故障があるからで、その故障を除けばいい訳である、
ところが悲しいかな、医学ではその故障の発見が出来ないので、止むを得ず口からビタミンを入れるのである、
そうして不思議な事には、ビタミンなど知らない時代の人間の方が、現代人より余程健康であったようである、
またいつもいう通り下痢であるが、これは汚物の排泄作用であるから、腹の中の掃除が出来て、健康上頗る結構であるにかかわらず、
医学はそれを止めて出さないようにするのであるから、恐らくこんな間違った話はあるまい、
ところが滑稽なのは下痢に対し、よくお腹が壊れたというが、これを吾々からみれば、こんな馬鹿馬鹿しい話はあるまい、
この事について私はいつも言うのであるが、人間の腸は瀬戸物や硝子(ガラス)で出来たのではないから、壊れるなどという訳はないと大笑いするのである、
それと同じように咳や痰、鼻汁、汗等の汚物排泄も、医学は停めようとしたり、熱が出れば氷で冷し、盲腸が痛めば切って除ってしまうのである、
盲腸が痛むのは痛む原因があるからで、その原因を除りさえすればいいのであるが、それが出来ないので切るのだろうが、それに対する言い訳が拙(まず)い、
いわく盲腸など人間の体には余計なもので、無い方が安全だというのであるから、恐れ入ってしまう、
人間を造られた神様も、呆(あき)れて苦笑なさるであろう、
また腎臓もそうで、悪いと剔出してしまう、こうみてくると病気に対する考え方の、安直で乱暴なる驚くべきだと言えよう、これが医学の進歩だそうである、
ちょうど悪い人間を善くするのでなく、邪魔だから放り出してしまえというのと大差あるまい、実に非文化的なやり方ではあるまいか、
これについて以前私は現代医学の手術は、野蛮極まるとある論文にかいたら、早速警察へ呼び出され、散々御目玉を喰った揚句、過料に処せられた事があったが、
これでは野蛮は医学のみではなく、司法行政も同じだと思った事がある、
これを一層分り易く言えば、熱が出て冷すというのは、ちょうど怒った人間を殴って押静めるようなものである、
痰や洟(はな)、汗、下痢などを止めるのは、ゴミ箱の蓋(ふた)を釘付けにして、掃除が出来ないようにするのと同様であろう、
ところが世間一般はこれが進歩した医学と、随喜(ずいき)渇仰(かつごう)して生命を御委せしているのだから、開いた口が窄(すぼ)まらないのである、
以上のごとく私は忌憚なく現代医学を批判してみたが、これを読んだら少しは判るであろうと思うが、こうまで言わなければならないのは、むしろ悲しむべきである。
最後に結論をかいてみるが、つまりこれまでの医学の考え方は、表面に現われた結果を押えつけようとして、それのみを研究して来たので、今一歩深く掘下げる事に気がつかないのである、
その結果真の原因が掴めないまま、相変らず邪道を進んでいるのである、一切は原因があって結果があるとしたら、
現代医学者も何とか目が醒めて、考え直して貰いたいのである。」
明主様御教え 「造物主に反抗する医学」 (昭和24年10月8日発行)
「この標題をみた人はちょっと変に思うであろう、ところが、厳然たる事実であるから仕方がない。
今日医学は手術の進歩を誇称しているが、これほど間違った事はあるまい、
例えば、盲腸炎に罹ったとする、医学はたちまち虫状突起を切りとってしまう、
その理由にいわく「盲腸は人体の健康に対し無駄なもので、このようなものがあるから盲腸炎が起るのだから切りとるに限る」というがこれは実に恐るべき事だ、
何となれば、万物を創った造物主が、その作品中の最も傑作ともいうべき人体である以上一つの無駄も造ってはないはずである、
爪一つ、髪の毛一本といえども決して無用なものはない、それぞれ有用な役目をしているのである、
それを単に無駄と決めるのは、人体機能の根本が判っていないからである、
とすれば、現代の外科医学は野蛮の二字につきるといってもよかろう、
この意味において、真の医学とは機能の一片といえども毀損せず、原形そのままで病原である膿や毒血を完全に除去する事である、
それに向かって一歩一歩進むべき事こそ真の医学であろう。
ゆえに、現代外科医学は一時的苦痛を緩和させるだけの手段で医学ではない、強いていえば一時的苦痛緩和の便法でしかない、
のみならず一時的緩和の結果は、全身的衰弱者となり、生命の短縮する事ももちろんである、
全く造物主の作品に傷つける訳で造物主に対する反逆行為であろう。
この意味から言っても本教浄霊こそは造物主へ対する順応であり、真の医学であるといってもいささかの誇称とはなるまい。」
明主様御教え 「医学の発見に就て」
「最近中村医博が死人の眼球を利用し角膜移植によって、盲眼を治癒し成功したという報告があり、それをよく聞かれるからここに解答するのである。
白内障等にて水晶体が曇った場合、程度艶消硝子(つやけしガラス)のようなものであるから、透明硝子を入れ替えれば一時見えるのが当然である。
しかし時日が経つに従ってまた元通り見えなくなるのである。
何となれば白内障の原因は前頭内にある毒素が、浄化作用によって眼球から排除されようとして集溜するものであるから、
一時消失してもいつか元通りに再び集溜するのである。
それは原因である頭脳内の毒素が皆無にならない限り、そうなるのは当然で、しかも頭脳内の毒素は案外に多量であるものであるからである。
従って根本的に治癒するには現在眼球に集溜せる毒素と、前頭内に残存せる毒素との両方を排泄されなければならないのである。
今日まで医学における新療法または新案は例外なく一時的効果であって、決して永久的効果はただ一つもないのである。
例えば手術にしても一時治癒したように見えても事実は再発するか、または他の病源が新たに作られるかどちらかで、
決して発病以前の状態にまで全治させる事は不可能である。
これは医家も充分知っているはずである。
これを二、三の例を挙げてみるが、彼の扁桃腺除去によって扁桃腺は起らないとしても、淋巴腺や耳下腺炎が起りやすくなり、
頭脳にも影響してその活動力が鈍化し、根気が薄くなり、集中力が薄弱になるのは、吾々が常に経験するところである。
また盲腸炎手術の結果は腹膜炎、肝臓障碍、萎縮腎等を起しやすく腹力が弱まり労働力が減退し精力が衰える事はこれまた常に見る所である。
また腎臓病の療法として、一方の腎臓を剔出除去する結果、
残りの腎臓は二重の負担がかかるから障碍が起りやすく全身的にも精力の減退は著しく、
まず一人前の人間としての生活力はなくなるのである。
その他胃癌直腸癌の手術など、成功して廃人同様となり生命も数年を保つに過ぎないのである。
しかしながらこれらの手術について医学がいつも言う事は、数ケ月しか保てない生命を手術によって数年延びるとすれば差引き有利ではないかというのであるが、
これがまた大変な間違いで、吾らの経験上数年保つ寿命を手術のために数ケ月に短縮される方がずっと多いのが事実である。
これに目覚めない医学にいつも長大息(ちょうたいそく)するのである。
次に薬剤についていうが彼の肺結核の特効薬としての薬剤であるが、昔はクレオソート剤を唯一のものとして盛んに用いられたもので、
これは防腐剤で肺臓の腐敗を防止するというのであるから、いささか滑稽で今日は電柱等の防腐剤として用いられている。
近年に至りセファランチンが一時推奨されたが、ペニシリンが出てこの方法が流行の勢を示したが、
最近はストレプトマイシンが代って流行するかと思えば、昨今それ以上の特効薬が出来たという事である。
これらによって見ても判る通り、新薬を試験するや、一時的効果に幻惑され、有頂点となって発表し宣伝するのであるが、
もちろん一時的で持続的効果がない事が判り、たちまち放棄せられ、次から次を求めるというのが真相である。
故に今後何十何百の特効薬が出ても、全部無効果である事を吾らは断言して憚(はばか)らないのである。」
明主様御講義 「灸、電気、鍼、按摩、手術」より (昭和10年御執筆)
手 術
「言うまでもない事であるが、手術程悪いものはないのである。
しかし、医師に言わしむれば、病症に依っては、手術をせねば、万に一つも助からぬという患者に施すのであるから、これもまた、止むを得ないとの理由があろう。
しかし、私が多年の経験上、手術をしなくてもいい場合、手術をしたり、手術をした為に、反って病勢を悪化せしめ、遂に、死に到らしめた様な実例が余りにも多いのである。
手術の為に生命が助かった人より、手術の為に、生命を落した人の方が多いのは、実験上、疑いないところである。
西洋医学も血を出し、肉を切る手術などと言う、野蛮極まる方法を用いないで、病気を治療する様にならなければ駄目である。
それについて、手術療法がいかに誤謬であるかの一例を挙げよう。
近来、よく、扁桃腺抜除の手術をするが、これらも非常に謬(あやま)っているのである。
その訳は、人間の血液は、絶えず浄化作用を行われつつその結果として、血液中の不純物が膿汁となって、一旦頸部に溜積さるるのである。
それが、なおも外部へ排泄せんとする時、扁桃腺なる最も好適の出口を求めるのである。
故に、扁桃腺抜除の暁は、膿汁は、出口を塞がれたるを以て、淋巴腺又は耳下腺等に、溜積せらるるが故に、却て、扁桃腺よりも、膿汁排泄に非常に困難を来すのである。
即ち、淋巴腺へ膿汁滞結すれば、瘰癧(るいれき)となり、耳下腺へ滞溜すれば、中耳炎の原因となるからである。
従って、最も簡易なる膿汁排泄機関を抜除して得々(とくとく)たる、現代医学の愚や、実に恐るべきものがある。
故に、手術は、自然の自己治病工作の妨害をする医薬と等しく、折角の自然治癒を妨害して、病気を悪化させるか、
又は、より症状の悪い病気に変化させるだけのものである。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)
「実談、虚談 神懸りな話」より (昭和27年10月25日)
米国医学を救う書
明主様御発言
「いまね、米国は非常に病人が多い。年々増える傾向なんだ。
というのは、まるっきり嘘をやっているから、ますます増える。
だから、こうすれば減るということを具体的に教えるわけだ。
米国の人間が、なんと日本の生意気な野郎だと思うかもしれんが、しかし、私の言うほうが本当だ。」
日置氏の発言
「どういうような方法ですか。」
明主様御発言
「つまり薬です。米国の現代医学は病気を治すのでなく、作る結果になっている。
そこを衝いてある。それもね、ただ独善的ではなくて、本当にいろんな根本的理論から説いて、どうしてもそうである、
それが本当だということを思わないわけにいかないように書いてある。
例えば手術は米国で非常に進歩しているが、手術の進歩というものは医学の退歩だ。
治らないから手術する、仮に盲腸が悪いという場合、盲腸をとる。
ところが臓器をとるということは医学ではない。
臓器をそのままにして病気だけをとるのが本当の医学だ。
まあ、こういうことだね。
この点は日本の医学でもわたしの説に対して困っている。
病気はもともと毒素がそこへ固まって臓器を圧迫するんだ。
だから、その圧迫する毒素だけをとって臓器をそのままにしておく。
そうすれば元通りの健康体になる。
盲腸をとるとか腎臓をとるとか内部を手術するということは患者を内部的障害者にする。
それを医学の進歩とはとんでもない。医学が進歩したらとる必要はない。
医学が進歩しないからやむを得ずそういう野蛮的行為をするんだ。
米国人は読んで癪(しゃく)にさわるらしいけれど、なんとも言わない。
とにかく、わたしのほうでは、外からとれるのだからいばれる。
とれなかったら、ただ理屈だけにすぎない。」
日置氏の発言
「薬も使わずに、そんなことになるというんだから、やっぱりわれわれ常人は、奇蹟扱いするほかないですね。
奇蹟なんてものの存在を、教祖さんはいつごろから信じられたのですか。」
明主様御垂示 「盲腸の機能」 (昭和28年10月1日)
信者の質問
「文明の創造の中の手術の項に「盲腸の機能は背部」とありますが」
明主様御垂示
「背部ではちょっと違います。背部の腎臓というのなら合ってます。」
信者の質問
「アメリカを救うでは「下半身の毒素」とあります」
明主様御垂示
「そうです。下半身の毒素が背部腎臓部に溜まって盲腸のほうに出てくるという順序です。」