手術について 2
明主様御教え 「手術について」 (昭和28年1月1日発行)
「日本もそうだが特にアメリカにおいては、近来手術の進歩を誇称し、大いに励行しているが、これは大変な誤りである。
というのは手術の進歩とは、医術の進歩ではなくむしろ退歩であるからである。
何となれば真の医術とは、病に冒されている臓器その物を除去するのではなく、臓器はそのままにしておいて、病だけを除去するのが本当であるからである。
しかもそのため肉を切り、出血をさせ、非常な痛苦を与えるのみか、内部的障害者にするのであるから、
医術どころか非医術であるにかかわらず、これを進歩した方法と信じているのであるから、その無智なるいうべき言葉はないのである。
しかも人間は、身体の一部といえども毀損する以上、その影響のないはずはない。
例えば盲腸炎にしても、膿だけ除るのならいいが、医療はそれが不可能なため、虫様突起までも共に切除してしまうのであるから、野蛮極るというべきである。
何となれば造物主は人体に不必要なものは一つも造ってないはずである。
これについてよく医家は盲腸は不必要だとか、腎臓は両方なくても差支えないなどというが、これは全くその必要性が不明であるからで、
いかに今日の医学が幼稚であると共に、一面神への冒涜でもある。
何となればそんな理屈をいう医学者自身も神から造られたものではないか。
何よりも盲腸手術後一時は健康になったようでも暫くすると他の病気が必ず起る。
というのは元来盲腸の役目は下半身の毒素排除の機関であるからである。
今それを詳しくかいてみるが、初め毒素は背面右側腎臓部に集溜固結し、少しずつ溶けて盲腸部に移行し固結する。
それがある程度に達するや浄化が起って発熱し溶解される。
その苦痛が盲腸炎であるから、その際右の腎臓部を見れば必ず固結があり、圧(お)すと痛むからよく分る。
そこを浄霊するやたちまち盲腸の痛みは去り、間もなく下痢があって治るのである。
この理によって盲腸炎発病するや、なんら治療もせず、寝ているだけで三、四日ないし一週間も経てば必ず全治し、生命の危険などいささかもないのである。
ところが医師は手遅れになると生命の危険ありとし、手術を奨めるが、吾々からみればその盲点に呆れるばかりである。
右のごとく毒素排除の役目である盲腸がなくなるとすれば、そこへ集溜せんとする毒素は、止むなく腹膜や腎臓部に溜る事となり、
それが原因となって、反って盲腸炎よりも始末の悪い病気が起るし、なおまた手術の際の消毒薬が膿化し排除されようとし、種々の病を起す事がある。
それは悪性歯痛、中耳炎、結膜炎、顔面の腫物等である。」 (「アメリカを救う」より)
明主様御教え 「手術に就て」 (昭和28年御執筆)
「近来医学においては、手術の進歩を大いに誇称しているが、実はこれほど間違った話はない。
むしろその反対で手術の進歩とは、医術の不進歩を表白する事は私は常に唱えている。
従って真の医術とは、患部の機能はそのままにしておいて、ただ病気だけを除(と)ってしまう事で、これが真の医術である。
それはほとんどの病気は機能の近接部に毒素が集溜固結し、器〔機〕能の活動を圧迫阻害するからであって、機能自体には関係がないのである。
従って治病とは右の毒素だけを除去してしまえば、それで完全に治るのである。
ところが医学ではそのような巧妙な事が出来ないため、止むなく機能も共に除去してしまうので、全く無力の結果に外ならないのである。
従って病気を治す目的のため、患部全体を切り除るとしたら、原始人的方法であって、少なくとも文化的でない事は言うまでもない。
しかもその手段たるや肉を切り、血を出し、骨を削るなどの残虐的行為により、患者に非常な痛苦を与えるに至ってはむしろ悲惨事である。
なるほど手術中だけは麻酔薬を用いて痛苦を免るとしても、その後の傷口が治るまでのガーゼの取替や日数のかかる事、莫大な費用を要する等を考えたら、患者の負担は容易なものではあるまい。
それでも順調にゆけばまだしもだが、中には経過が悪く再手術を要する場合もあり、切開してから誤診が分り慌てて口を閉ぐ事などもよく聞く話で、たまには手術の失敗で生命を失う事さえあるのだから、全く一種の冒険である。
そればかりではない、外部的病気の場合手や足はもちろん、指を切って障害者にしたり、腫物などは醜い傷痕を残す等、
一生涯の不幸の種を残す等忌憚(きたん)なくいってみれば、現代医学は野蛮医学といってもよかろう。
しかしながら医師はいうであろう。
「なるほどそれは分っているが、もし手術をしなければ生命に関わる以上、障害者や傷痕など云ってはおれないから、止むを得ず行うのだ」との理由もあろうが、これが大変な誤りである。
というのは手術を要する程の病気なら、無論固結毒素に強烈な浄化が起ったからで、熱も痛みも相当激しいに違いない。
つまり旺(さか)んに治りつつある状態であるから、放っておけば迅速に毒は溶けて、排泄され必ず治るのであって、苦痛はそれまでの期間と思えばいい。
それを手術の苦痛に比べたら何分の一で済むのであるばかりではなく、堪えられない程の苦痛であればある程短期間で済む訳で、
長くとも数日くらいと思えばいいので、しかも自然療法なら順調に治るから心配がなく、むしろ楽しみとなるくらいだから我慢し易い訳である。
ところが世間よく何十日も痛む患者があるが、これは元の病気の外に薬毒を追加するため、その痛みが増したからである。
しかも自然治癒なれば障害者にもならず、醜い痕も残らず、短時日で順調に治り費用もかからず、生命の危険さえないのだから、この事を知っただけでも大きな幸福を得たのである。
しかしこれを読む医師も一般人も、今までの考え方との余りの異いさに、容易に信ずる事は出来まいが、
これこそ絶対の真理である以上、白紙になれば簡単に分るはずである。それについての二、三の例をかいてみよう。
手術について最も多いのは、彼の盲腸炎であろうが、この病気の原因は服み薬の毒が胃壁を滲透して右側腎臓部に集溜し、それが少しずつ溶けて一旦盲腸部に移行し固結するので、
健康であっても盲腸部と右側背部腎臓部を圧(お)すと、多少の痛みがあるのはそれであって、これがある人は早晩盲腸炎が発るとみていいのである。
これがある程度に進むとここに浄化作用発生し、高熱に激痛を伴い、右の固結が溶け下痢になって排泄されて治るので、これが順序である。
ところがその際溶けた毒素は腹膜を通過するので、医師は間違えて、「これは大変だ。早く手術しないと虫様突起が破れて、腹膜炎を起すと最早手後れで助からない」というが、これを吾々からみれば笑えないナンセンスである。
というのは右は順調な経過であって、命に関わるなどは絶対ないからである。
従って盲腸炎の場合何ら手当もせず、放っておくだけで、一週間以内に必ず治るのである。
しかも盲腸は重要な機能である以上、それが失くなれば他に影響を及ぼすのは当然で、前記のごとく腎臓部に溜った薬毒の移行する個所がなくなるから、その毒は他へ氾濫する。
それが腹膜及び腎臓部である。
そうなると反って盲腸炎より始末の悪い病気となり、容易に治り難くなるのである。
このように放っておけば簡単に治るべきものを、誤れる医療は反って将来の禍根を残すのであるから問題である。
次に多い病気に扁桃腺炎がある。これは液体薬を服む場合、それが口内の粘膜から浸入し、膿化し、扁桃腺部に集り固るが、それに浄化が起って熱で溶けて腫れ、破れて膿が出て治るのである。
ところが医療はルゴール等の塗布薬で固めるから、一旦治っても必ず再発するというように癖になってしまう。
もちろんその度毎に増大し、ついに手術の止むなきに至るのである。
次によくある病気にひょう疽(そ)と脱疽(だっそ)があるが、この原因はひょう疽は右なら右、左なら左の頸部淋巴腺に固結している毒素が溶けて、指の先から出ようとするそのための激痛であるから、
その際頸部を探れば必ず固結と発熱があるからすぐ分る。
ゆえに吾々の方ではひょう疽でも指先に構わず、頸部だけを浄霊すればたちまち痛みは去り、長くも数日で全快するのである。
ところが医診では指が腐るなどというが、これこそ噴飯物(ふんぱんもの)である。
この間違いは最初指先にちょっとした腫物が出来ると、それが段々上の方へ拡がって行く。
ちょうど腐れ込むように見えるからである。しかしこれはある程度拡がれば必ず停(とま)ってしまうものである。
また脱疽はひょう疽と同様鼠蹊部淋巴腺に溜った固結毒素の浄化作用で、これは略すが、この両方共医療では必ず手術するから障害者になるので、
これも浄霊か自然治療なら必ず元通りに治るし、その他の腫物や皮膚の湿疹にしてもことごとく薬毒であるから、自然療法に限るのである。
すなわちすべての腫物類は放っておけば、腫れるだけ腫れて最後に小さな穴が穿(あ)き、そこから血膿が排泄して全治する。
しかもどんな大きな腫物でもいささかも痕跡は残らないから、今後この理を心得ておれば、驚く程の膨大な腫物でも何ら心配はない。
しかもこれは非常に結構な浄化で、もし右の毒素が内攻すれば、内臓の病気になるところを外部に排泄されたので、大難が小難で済んだ訳である。
また傷や火傷(やけど)の場合よくその部へ膿が集るので、医師は黴菌浸入のためとしているがそうではない。
その付近にある毒素が、刺戟のためそこへ集まり排除されるので、それだけ毒が減るからこれも結構である。
ここで大いに注意すべきは消毒薬中毒である。
手術とか外傷の場合消毒薬を不可欠のものとしているが、何しろ何十倍に淡(うす)めても黴菌を殺すだけの劇薬であり、直接筋肉から滲透するので、時が経てば必ずどこからか出ようとする。
その場合多くは頭痛、眼(失明)、中耳炎、歯茎等であり、時には下降して肛門(痔)、陰部、手足の関節等へまでも集溜し、腫物か湿疹となり、痛み痒みの苦痛が伴うが、ただ消毒薬に限って激痛であるからよく分る。
その場合これはアノ時の消毒薬だなと思うと必ず肯くであろう。
また近頃膝から下に腫物の出来る人が多いが、これは予防注射の薬毒が下降したもので、放っておけば膿が出て必ず治り、少しも心配はないのである。」
明主様御教え 「手術・総論」 (昭和27年御執筆)
総 論
「私はこれまで病気に対し、詳細に直接的解説を与えて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学がいかに誤っているかが分ったであろうが、
まだ知らなければならない点が種々あるから、これからあらゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思うのである。」
手 術
「近来、医学は進歩したといい、取り分け手術の進歩を誇称しているが、私から見ればこれ程の間違いはあるまい。
考えるまでもなく、手術が進歩したという事は、実は医学が進歩しないという事になる。
というと不思議に思うであろうが、手術とは言うまでもなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病そのものを除去する手段ではない。
判り易く言えば、病気とその機能とは密接な関係はあるが本質は異(ちが)っている。
従って真の医学とは病だけを除って、機能は元のままでなくてはならないはずである。
ところが医学がいかに進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、
止むを得ず二義的手段として、機能をもあわせて除去してしまうのであるから、
この事を考えただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであろう。
こんな分り切った理屈でさえ気がつかないとしたら、今日までの医学者は驚くべき迷蒙に陥っていたのである。
従って何としても大いに覚醒して、初めからやり直すより外あるまい。
すなわち医学の再出発である。
ところが今日までその意味を発見した者がなかったがため、盲目的に邪道を驀進(ばくしん)してきたのであるから、何年経っても人類は、病気苦悩から解放されないにみて明らかであろう。
以上の意味において考えてみる時、手術の進歩とは、医術の進歩ではなく、技術の進歩でしかない事が分るであろう。
そしてなお深く考えて貰いたい事は、造物主すなわち神が造られた万物中最高傑作品としての人間であるとしたら、
仮にも神として人体を創造する場合、五臓六腑も、胃も、筋肉も、皮膚も、何も彼も無駄なものは一つも造られていないはずである。
これは常識で考えても分るであろう。
ところが驚くべし、二十世紀に入るや、人間の形はしているが、神以上の生物が現れた。
その生物はいわく、人体内には種々な不要物がある、盲腸も、片方の腎臓も、卵巣も、扁桃腺もそうであるから、そんな物は切って除ってしまう方がいい。
そうすればそれに関した病気はなくなるから安心ではないか、と言って得々として、メスを振っては切り除ってしまうのである。
何と素晴らしい超人的、否超神的存在ではなかろうか。ところが不思議なるかな、この大胆極まる暴力に対し、現代人は無批判どころか、随喜の涙をこぼしている。
しかも、人民はおろか、各国の政府までも有難がって、これこそ文化の偉大なる進歩であると心酔し、援助し奨励までしているのであるから、その無智蒙昧さは何と言っていいか言葉はないのである。
としたらこの現実を見らるる流石の造物主も、呆れて唖然とされ給うと察せらるるのである。
そうして右の超神的生物こそ、誰あろう近代医学者という人間である。
としたら全く彼らの人間を見る眼が強度の近視眼にかかっており、近くの唯物科学だけが見えて、その先にある黄金の宝物が見えないのであろう。
しかし私は、唯物科学を敢(あ)えて非難する者ではない。
人類はこれによって、いかに大なる恩恵を蒙り、今後といえども蒙るかは、最大級の讃辞を捧げても足りないくらいである。
といって何も彼もそう考える事が早計であって、唯物科学にも自ずから分野があり、越えてはならない境界線がある。
ではそれは何かというと、有機物も無機物も同一視する単純な考え方では、駄目であるという事である。
つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や植物とを混同している錯覚である。
というのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないにかかわらず、どう間違えたものか、入れてしまった事である。
これが根本的誤謬で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術という人体を無生物扱いにするやり方も当然であろう。
またこういう点も見逃す事が出来ない。それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかったため、何も彼もこれによって解決出来るものと信じてしまった科学至上主義である。
ところが実際上動物はそうはゆかない。なるほど医学によって、一時的には効果はあるようだが、
根本が誤っている以上、真の効果が挙らないにもかかわらず、それに気付かず、相変らず邪道を進みつつあるのである。
そうして右のごとく私は生物と無生物の関係を大体かいて来たが、今一層掘下げて見れば生物の中でも人間と他の動物とを同一視してはならない事である。
といってもこれは根本的ではないが、相当の異いさがある。
たとえば人間に対って結核といえば直に神経を起し、悪化したり、死を早めるが、牛の結核を牛に言っても何ら影響もないのである。
従ってモルモットや二十日鼠を研究して人間に応用しても決して良い結果は得られないのである。
ここで前に戻って、再び手術について筆を進めるが、なるほど一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫くすると必ず何らかの病気が発生するが、医学ではその原因に気が付かないのである。
そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。しかし考えてもみるがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言わば体内的不具者となるのであるから、全然影響のないはずはない。
たとえば外的障害者で足一本、手一本どころか、指一本、否指の頭だけ欠損しても、その不自由さは一生涯の悩みの種である。
いわんや内的障害者においてをやである。
しかも外的障害者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。
例えば盲腸の手術で、虫様突起を失うとすればどうなるであろうか。
元来盲腸なるものは、重要な役目をもっている。
それは人間の背部一面に溜った毒素が、一旦右側腎臓部に溜って固結し、少しずつ盲腸部に移行固結するが、
ある程度に達するや急激な浄化が起り、発熱、痛み等が発生し、溶解された毒素は下痢となって排除され、それで治るのであるから、実に結構に出来ている。
ところがおかしいのは、この際医師は手遅れになると大変だから、一刻も早く手術せよというが、このような事は絶対ないので、手遅れになる程反って治る可能性が多くなる。
これは理屈ではない、私は何人もそのようにしたが、一人の間違いもなかったのである。
むしろ手術のため不幸になった例はときたま聞くのである。
また盲腸炎潜伏を知るのは訳はない。
医学でもいう通り、臍から右側斜めに一、二寸くらいの辺を指で押すと痛みがあるから直ぐ判る。
しかし原因はその奥にあるので、盲腸部だけの浄霊では全部の痛みは除れない。
盲腸炎の場合、右側腎臓部を指で探ると必ず固結があり、押すと痛むからそこを浄霊するや、たちまち無痛となり全治するのである。
治るまでに早ければ十数分遅くとも三、四十分くらいであって、間もなく下痢があり、それで済んでしまうので、再発等は決してない。
としたら何と素晴らしい治病法ではなかろうか。ところが医学では手術の苦痛も費用も、並大抵ではない。
その上 障害者とされ、運の悪い人は手術の跡の傷が容易に治らず、数年かかる者さえある。希には手術のため生命を失う者さえあるのだから、我浄霊と比較したら、その異いさは野蛮と文明よりもはなはだしいと言えよう。
ところが手術によって盲腸炎は治ったとしても、それだけでは済まない。
前述のごとく盲腸なる機能は、背部一面の毒素の排泄機関であるから、それが失くなった以上、毒素は出口がないから、大部分は腹膜に溜ると共に、腎臓部の固結も大きさを増すから、それがまた腎臓部を圧迫し、腹膜炎に拍車をかける事になる。
これが主なる悪影響であるが、その他の個所にも溜るのみか、手術後腹力や握力が弱り、持久力や粘り強さなども薄くなり、性欲も減退する。これなどは体験者の知るところであろう。
次は腎臓剔出であるが、この手術は腎臓結核の場合であって、痛みや血尿があるので、そう決められ剔出するが、この成績も面白くない。大抵は何かしら故障が起る。
その中で一番困るのは、残っている一つの腎臓は二つの負胆を負わされるから、病気が起り易いと供に、剔出する事も出来ず、どうしていいのか判らないという惨めな人もよくある。
というのは誰しも保有毒素が相当あるから、残った腎臓へ溜結するのである。
その外全身的には弱体化し、歩行にも困難があり、腰を捻ったり、正坐すら出来ない人もあって、まず半分廃人である。
ところが最初から浄霊によれば、手も触れずして簡単に全治するのである。
次は胃癌の手術であるが、これも仲々厄介である。これについて遺憾に思う事は、切開して見ると、癌が見当らないという過失をよく聞くが、患者は全く災難である。
幸い予定通り切り除っても、大抵は時日が経つと僅かでも残った癌が広がってゆき、再度の手術をするようになるが、三度目になると不可能で、最早致命的である。
そうして手術が成功しても、縮小した胃と腸と繋ぎ合すので、食物も少しずつ何回も摂らねばならず、しかも医学の統計によれば、手術後の寿命は平均二年半とされている。
それについて医学はこういうのである。
どうせ半年か一年で死ぬべきものを、手術によって一年でも二年でも延びるとしたら、それだけ有利ではないかと。
なるほどその通りにゆけばいいが、事実は放っておけば三年も五年も生きられるものを、手術のために縮められる例を、私は幾人となく経験したのである。
また医学は癌の治療にラジウムの放射をするが、これは反って悪化する。
というのはラジウムは癌を破壊すると共に組織までも破壊してしまうからである。
右の解説は真症胃癌についてであるが、実は真症は少なく、大部分は擬似胃癌であり、擬似はもちろん薬毒が原因である。
それは薬の性質によるが、一旦吸収された薬は、時を経て毒に変化し胃へ還元し固まる。
それが癌とされるのであるから、これは浄霊によれば非常に衰弱していない限り、必ず治るのである。
右の外卵巣除去、乳癌の手術、中耳炎、瘍疔(ようちょう)、眼科、肋膜炎の穿孔、痔疾、横痃(よこね)、睾丸炎、ひょう疽、脱疽、整形外科手術等々種々あるが、これらも大同小異であるから略すが、ここに二、三の書き残しをかいてみよう。
それは各種の腫物であるが、これは手術をせず放っておけば、腫れるだけ腫れて自然に穴が穿き、そこから血膿が出て完全に治ってしまうものである。
ところが患者は痛みに堪え兼ねるので、医療は早く治そうとして手術するが、これが大変な誤りである。
というのは手術にも時期がある。充分腫れてからなら左程の事もないが、そうならない内に行うと、今まで一か所に集中していた膿は、その運動を止めてしまい、他の近接部へ腫れ出すのである。
これは手術どころか、ちょっと針で穴を穿けたくらいでも、ヤハリ集溜が停止されるので、これは知っておくべき重要事である。
これについてこういう例があった。
以前私は頼まれて某外科病院へ行った事がある。患者は四十歳くらいの男子で、よく訊いてみると、初め頸部淋巴腺に鶉(うずら)の卵くらいの腫物が出来た。
早速医者へ往って穴を穿け、膿を出して貰うと、間もなくお隣へ同じような腫物が出来た、それを切るとまたお隣へ出来る、という具合で、ついには反対側の方にも出来、
それも次々切ったり出したりする内、ついには腫物の数珠(じゅず)繋ぎとなって、私を招んだのである。
そんな訳で外部には腫れる場所がなくなったので、今度は内側へ腫れ出した。ちょうどその時であったので、私といえどもどうする事も出来ず、断って辞したが、
その後数日を経て、咽喉が腫れ塞がり、窒息で死んだとの知らせがあった。
これらは全く手術のための犠牲者である。
というのは最初腫物が出来た時、放っておけば段々腫れて、恐らく赤子の頭くらいに大きくなったであろうが、
それでも放っておけば、終(つい)には真ッ赤にブヨブヨになって穴が穿き、多量の血膿が出て、完全に治ってしまい、痕跡も残らないのである。
次は、近来一部の医師で、脳の手術をするが、これらはもちろん癲癇(てんかん)とか、脳疾患等の場合行うのであるが、これは何らの効果もない。
なぜなれば頭脳の機質性病患でなく、精神的のものであるからで、つまり霊的原因である。
これについては霊の項目に詳記するから、ここでは略する事とする。
次は近頃流行の結核に関する手術療法で、これは肋骨を切り除ったり、空洞のある患者には、合成樹脂の玉を入れたり、横隔膜を手術したりするが、これらは一時的効果で、反って後は悪いのである。
要するに再三言う通り、手術なるものは、いかに有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分るはずであるから、最初に述べたごとく手術のごとき、野蛮的方法は、是非全廃して貰いたいのである。」
明主様御垂示 「医療被害例 (淋巴腺炎より手術・失明)」 (昭和25年5月1日)
信者の質問
「私は昭和二十二年一月入信させて頂きました。
昭和十四年頃より湿性肋膜炎及び湿性腹膜炎にて各々一年程患いましたが医師に罹り全治致しました。
その後、十八年頃より下顎に拇指大位のグリグリが出来、段々大きくなり、
医師は化膿性淋巴腺炎と診断致し、その後、化膿の様子にて切開致しましたが、化膿不充分で少量のキミズや血が出たのみで御座いました。
それ以後、毎日病院に通いましたが、下顎全体が爛れたようになり、耳の後方にグリグリが出来、化膿して潰れてはカサブタが出来、痛みますので、
医師と手を切り二ケ年許り自然に放置致しました。
その中徴兵検査に合格致しました。
当時左眼が悪くなり、目頭の所に針で突いたような穴があき、絶えず涙が流れ出し、軍医は結核性涙嚢炎と申し、下顎の方は淋巴腺炎と診断致しました。
数日を経て、両眼の中間より左眼によった所に豆粒大のものがポッとふくれ上り、
具合が悪く、手術を致し、涙嚢を除去致しました所、手術の結果骨膜となり削骨致しました。
以後毎日洗眼塗薬致し、淋巴腺の方と両方にて太陽燈及びレントゲン治療を行っておりましたが、
両方共に益々悪化致し、右頬、下瞼、下顎等が爛れ、痛みますので医師と手を切り、自宅にて自然放置致しましたが、
現在では鼻孔、鼻、右頬、下瞼、鼻下、耳の後等にカサブタが出来ておりますが、痛みません。多少痒みは御座います。
見た所全体にかなり赤味を帯びております。
下瞼は引き付けて動きません。
二十二年十二月頃より疥癬にて五ケ月位休み、二十四年二月、熱海に御参詣以来右眼に御浄化を頂き、激痛を伴い、眼を風にあてると痛み、涙が出て開いている事が出来ず、現在失明致しております。
御浄霊を頂いておりますが、カサブタが取れては出来て、同じ事を繰り返しております。
どう致しますれば宜しゅう御座いましょうか。
御教えをお願い申し上げます。
なお、家には大光明如来様も御屏風観音様も御祀りさせて頂いております。」
明主様御垂示
「医療で作った病気で、これこそ常に言う医学のそれで、神の救いの目標はここにある。
結核性というのは出鱈目で、淋巴腺の膿が涙になって出た。
放置しておけば治ったものを、手術して出なくした。
涙嚢という大事な器能を除ってしまった。
それで骨の方へ集った。外へ出なくすると中へ腫れてゆく。洗眼や塗薬で薬毒をドシドシ入れた。
レントゲンは固める。これが実に悪い。方々から出ようとして・・・。
出来るだけ浄霊して段々出す外ない。
月々か年々に良くなる。十年位はかかろう。
外へ出られぬから眼の裏へ溜って失明した。治る。」
明主様御垂示 「医療被害者 (淋巴腺手術)」 (昭和24年9月16日)
信者の質問
「私は昭和十八年淋巴腺炎にかかり、直ちに切開手術を受け、六ケ月程にて全快致し、
その後、昭和二十四年七月海水浴に行き右病気が再発し、レントゲン診察を受けしところ、肺浸潤と診断されました。
この方の苦痛はあまりありませんが、淋巴腺炎の再発が最も苦痛であります。
本年八月十日に入信させて頂き、毎日浄霊を受けておりますが、
入信間もなき事とていかにすれば救われるものか不安な気持であります。
母は信仰心なく半信半疑の心境です。いかにすればこの苦痛より救われる事が出来ますでしょうか。御教示願います。」
明主様御垂示
「これも医療の被害者である。傷をつけるときっと出なくなる。」
明主様御垂示 「モルモットと施療 (神経切断)」 (昭和24年9月5日)
信者の質問
「私の父、右足の激痛と左半身が少々きかないため、種々の医療を受けつつ悪化、
遂に昭和二十一年東大に入院、激痛を止めるためとて運動神経に関係なく脊髄神経を二本切断致しました。
ところが逆に絶対的に歩行不能となり、なお続く激痛をおさえるためアルコール注射を致しました。
しかも膝も少々攣(つ)れたまま固まり、痛みに堪えかね、十ケ月の入院も何の効果なく、
逆に医療に愛想をつかして退院、その後約二年マッサージを続けて来ましたが、
施療した時は痛みが軽くなるだけで一向よい方向に向いません。
約一ケ月前より本教を知り、浄霊させて頂きまして、一時は楽になり、
寝返りを打ったりあぐらをかいたりする事が出来るようになりましたが、痛みはむしろひどいようです。
脊髄神経を切断し、アルコール注射をして神経を麻痺させたため、つねっても何しても何等の刺激も感じないのですから、痛みはない筈ですのに、
なお激しく、特にタバコを吸いますと、その瞬間、局所が猛烈な激痛を覚えます。
いかにしたならば早くこの苦痛から救われましょうか。その原因もあわせて御教示願います。」
明主様御垂示
「憤激すべきである。原因は医者にやられたのである。治すためにしたんでない。研究のためにやったものである。
大学に入院するという事は、モルモットや二十日鼠と同じ事である。
昔は施療患者というのがあった。
これこそ真にモルモットだ。研究のために殺してもよいというのである。
浄霊をすると麻痺はとれる。
一時は痛みを増すが、それを越すとズーッとよくなる。」
明主様御垂示 「鼻骨付近の致命筋」 (昭和24年6月28日)
信者の質問
「面疔の手術の場合、天庭は生命にかかわると言いますが、顔面の他の場所でも手術の際即死するものがあります。いかなる原因でしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「真中でなくとも、顔の横にも恐ろしい筋があるという。
蓄膿の毒を除ろうと手術しようとしてよく死ぬ。
よほどこの近くに重要な腺がある。(鼻横骨付近)
先に児玉博士が新潟医大で、鼻の手術をした際、筋を間違えて切った所、室内を狂い廻って死んだという。」