固め療法について 2
明主様御教え 「固め方法と溶かす方法」 (昭和28年御執筆)
「以上のごとく現在までの療法という療法は、ことごとく固め手段であるから、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事がよく分ったであろう。
そうして薬剤以外の方法としては彼(か)の電気、レントゲン、種々の光線療法等、いずれも固め方法であり、氷冷、湿布、塗布薬等も同様であるが、
ただ灸点、鍼(はり)、吸瓢(すいふくべ)だけは右と異い、刺戟によって浄化中の毒素を患部へ誘引し、一時的苦痛緩和を狙ったもので、もちろん治るのではないから、灸など毎月というように定期的に据えるのはそのためである。
このように今日までのあらゆる療法は浄化停止であるから、病を治すのではなく、結局治さない方法でしかないのである。
この理によって真の病を治す方法は、右とは反対に固結した毒素を溶かして体外へ排除させる事で、それ以外真の療法はないのである。
それを理論と実際とによって、これから詳しく解説してみるが、それについて前もって知っておかねばならない事は、人間なるものの実体である。
これを医学では一個の物質と見なしているが、もちろん医学は唯物科学から生れたものである以上、そう見るのも当然であるが、この見方こそ誤謬の根本である。
というのは人間が単に物質のみであるとすれば理屈に合わない事になる。
何となれば人間には意志想念という目にも見えず、手にも触れないものでありながら、確かに存在しているからで、こればかりはいかなる科学者といえども否定は出来ないであろう。
とすればこの無なるものが、実は人間を自由自在に操っている本尊様という事になる。
近来医学でも精神医学といって、精神的に治す方法を試みているが、これが案外奏効するので、漸次関心を持たれて来たという話である。
してみると医師の中にも、人間は物質のみでない事を認識された訳である。以上のごとく人間は肉体以外見えざる心があり、心を包んでいるものを私は霊と名付けている。
従って霊と肉体との両者併合によって成立っているのが人間である事は余りにも明らかである。
ところが医学は右のごとき人間の本体である霊を無視し、体のみを研究して来たのであるから、
一方的跛行的であって、言い換えれば肝腎な主人公たる魂を無視して、その配下共を対象とした訳である。
つまり肉体は外殻で中身ではない。中身とは見えざる霊であるから、これを主としてこそ真の医学は成立つのである。
医学がすべての病原を細菌のみに持ってゆくのもそのためである。
ではなぜ科学は霊を認めなかったかというその原因こそ、霊は肉眼で見えず、機械でも測定出来なかったからである。
というのは全く現代科学のレベルが低いにもかかわらず、それに盲目であったため科学を実価以上に信じ、科学で把握出来ないものは一切無と決めてしまった。
つまり科学過信の結果である。従って将来科学が幾層倍進歩した暁、霊の確認はもちろんだが、
ただそれまでにいかに誤った医学による多数の犠牲者が出るかを想う時、一日も早くこの迷盲を目覚めさせなければならないと痛感するのである。
という訳でこの発見が現在科学の水準より余りに進み過ぎているため、容易に信じ難いのである。
とはいうもののこの説こそ不滅の真理である以上、遅速はあろうが必ずや、全人類理解の時の来るのは、さまで遠くはないと思うのである。
ここで前へ戻るが、病の根本である霊の病とは何かというと、これこそ霊へ発生した曇りであって、これを除去する方法を浄霊というのである。
すなわち霊の曇りがなくなれば、体へ映って濁血は浄血となり、最も濃厚な分だけ種々の排泄物となって体外へ出て病は治るのである。
そうして濁血の古くなったものが膿であるから、彼の排泄物には膿と濁血と、両者混合のものとの三種あるのもそういう理由である。
以上のごとく濁血が霊の曇りの原因としたら、一体濁血は何によって作られるかというと、意外も意外これこそ薬剤であるから、初めて知った人は開いた口が窄(すぼま)らぬであろう。
ところが今日までそれを知らないがため、薬剤をよいものとして使用して来たのである。
しかし薬毒は医学でもある程度認めてはいたが徹底しなかった。
すなわち医学では自然に排除されるとしていた事である。
それについて次に説明してみるが、本来人間の食物としては五穀、野菜、魚鳥、獣肉等ことごとくは、人間の嗜好に適するように出来ており、
その味を楽しんで食えばそれで必要なだけの栄養が摂れ、生が養われるので、これが自然である。
この点生殖と同様で、子を造る目的ではなく、他の目的によって自然に出来るのである。
このように食うべき物は自ら決っており、体内の消化機能もそれだけを完全に処理するようになっているので、
他のいかなる物も処理されないのはもちろんであるから、薬は異物である以上処理されず、大部分は残ってしまう。
しかも浄化を停止するだけの強い毒である以上、その毒分は残り血液中に吸収される。
これが濁血である。
この理を知って医師も患者も既往を顧みれば必ず分る。
この病気は何年前、何十年前に、アノ病気の時服(の)んだアノ薬、アノ注射のためであったと気が付くのである。
というのは薬毒の執拗なる容易に解消するものではないからで、この例として私が五十二年前肋膜炎を患った時の薬毒が今も残っており、数年前から私自身毎日のように溶かしており、近頃は大分減ったが、それでも少しはまだ残っている。
今一つは三十七年前歯痛のため約一ケ年間、毎日のように薬を塗(つ)けたための痛みも今なお残っており、これも毎日浄霊しているくらいであるから、薬毒の恐ろしさは到底想像すらつかないものである。
このように薬毒は一生涯の悩みの原因となるばかりか、全部の解消はまず困難といえよう。
この理によって我浄霊法とは薬毒溶解排除の方法であって、現に薬毒が減っただけは快方に向うにみても判るであろう。」
明主様御教え 「医学革命の書 結論」 (昭和28年御執筆)
「今まで説いたところによって、読者は大体の概念は得られたであろう。
これを最も大乗的にいえば、今までの医学は人智から生まれた医学であり、
本医学は神智から生まれた医学であるといったらよく判るであろう。
すなわち前者は病原を固める方法であり、後者は溶かす方法であり、
前者は病原である毒素を出さないのを目的とし、後者は出すのを目的とする。
前者は逆理であり、後者は正理であり、前者は野蛮的方法であり、
後者は文明的である事は充分頷けたであろう。
ところが右は単なる理論であって、これに事実が伴ってこそ真理の具現である。
というのはすなわち医学では治らない、浄霊では治る、ただそれだけである。
以上のごとくこの厳然たる事実によってみても、
現代医学は当然滅亡の運命に近寄りつつあるのは否定出来ないのである。
何となれば長い間の医学の過誤が、私によってここに明らかにされたからである。
ちょうど暗夜に光明が輝き初めたと同様であって、
この意味において医学の革命などという大事業は、私の意志から発したものではない。
私はただ神の命のまま病気の根本を教え、治す事であって、これが私の使命である以上、
現在全身全霊を打込んで活躍しつつあるのである。
これによってすでに医学は革命される運命となっているのである。
すなわち偽は到底長く続くものではない。
ある時期に至れば滅亡すると共に、真はある期間は埋もれていても、
時来れば必ず世に輝くのは不滅の真理であり、到底人力の及ぶところではない。
この意味において私は医学に携わる人々も救わなければならないのは、
滅ぶべき決定的運命に措(お)かれていながら、
それに気付かない哀れな人々をも救わなければならないからで、
取敢(とりあえ)ずこの著によってまず最初の警鐘を発するのである。」
明主様御教え 「アメリカを救う 結論」 (昭和28年1月1日発行)
「最後にこの著の結論をかいてみるが、理論と実際によって、病気とはいかなるものであるか、
現代医学がいかに間違っているかは充分判ったであろうが、
要するに人間は健康で、休みなく働けるよう神が造られたものであって、これこそ不滅の真理である。
それだのに病気に罹り人間の役目が果せないとしたら、それはどこかに不合理な点があるに違いないからで、
その点を発見し、それを矯正する事によってのみ治るので、それ以外治病と健康の要諦は断じてないのである。
ところがこれ程ハッキリしている道理に気が付かなかった人間の迂闊(うかつ)さは、不思議とさえ思えるのである。
しかも飛んでもない間違った考え方によって、薬と称する毒をもって治そうとした事で、
それが反って病を作る元になるなどとは、夢にも思わなかったであろうが、
この誤謬のため今日までいかに大多数の人間が、被害を受けたかは計り知れないものがあろう。
そうして今一つ言いたい事は、人間は平常薬をのんで健康を保っているのではなく、無薬で健康で活動しているのが自然の常態である。
それをどう間違えたものか、病気に罹るや全然的外れである薬で治そうとするのであるから、その迷妄驚くの外ないのである。
何よりももし薬で病が治るものなら、今日までの人間が先祖代々いかに多量の薬を体内に入れたかは分らない程であるから、
病は疾(とっ)くの昔に無くなっていなければならないはずである。
それだのに何ぞや、至るところ病人の氾濫である。
何よりも薬のなかった時代の人間は健康で、普通百歳以上の長寿者が大部分であった事は、歴史がよく示している。
以上長々とかいた通り、進歩したと誇称する現代医学も煎じ詰めれば、
治病方法としては溶けかかった毒素を固めて病気以前に戻す事と、
病んでいる臓器をメスをもって切り除ってしまう事のただこの二点であって、外には何にもないのである。
それのみか逆理によって病人をふやし、人間の寿命を縮めて来ながら、それに気が付かないどころか、
政府はじめ一般人民も信頼し謳歌しているのであるから、その損害たるや戦争よりも甚大であろう。
また別の例として、近来スポーツ競技を見ても分るごとく、白人に比して黒人の方が目立って体力の強い事である。
しかしこれは黒人が強くなったのではない。
白人が弱くなったのである。
これも医学衛生の進歩のためとしたら、実に恐るべき進歩である。
ゆえにこれに目醒めない限り、文化民族の将来は全く悲観の外ないと思う。
従ってこの真相が世界に知れ渡るとしたら、当然医療に関係ある人々は、失業か営業不可能となるであろうから、今からその対策を考究しておく必要があろう。
その事を考える時、実に気の毒の限りではあるが、事は全人類永遠の幸福に関する重大問題であって、
小の虫を殺して大の虫を助ける意味において、当事者は充分理解の上、善処されん事を望むものである。」
明主様御教え 「明日の医術 第二編 結論」 (昭和18年10月5日発行)
「私は、現代医学に対し、あらゆる面から解剖し、忌憚(きたん)なきまでにその誤謬を指摘し批判を加えたつもりである。
しかしながら、帰する所その結論は左のごときものであろう。
一、病気に対する医学の解釈が、浄化作用である事を知らなかった事。
二、従って、病気を悪化作用と解し、浄化作用停止を以て、病気治癒の方法と誤認した事。
三、薬剤はすべて毒素であって、その毒素が浄化作用を停止するのみならず、その残存薬毒が、病原になるという事を知らなかった事。
四、病気は浄化作用である以上、自然が最も良医であるというー彼のヒッポクラテスの言を無視し、すべて人為的療法を可とした誤謬。
五、医療は一時的効果を以て、永久的と誤認している事。
大体右のごときものであろう。
それについて、右の内四までは詳説したから、読者は充分諒解されたであろうから、ただ五に対して大いに解説する必要があろう。
まず医療としてのあらゆる方法は、一時的治癒であって、それを真の治癒と錯覚している事である。
しかも一時的治癒の方法が、その後に到って逆作用を起させ、病気悪化の原因となり余病発生の動機となるという事も知らなかったのである。
これに対し種々の例を挙げて説明してみよう。
さきに詳説したごとく、薬剤や氷冷、湿布等を行えば、一時的苦痛が軽減するので、これによって治癒するようにみえるのである。
又耳鼻の洗滌胃の洗滌等や点眼薬、コカインの鼻注、含嗽(がんそう)薬、すべての塗布薬、膏薬等も勿論一時的苦痛軽減法である。
又下熱剤、利尿剤、下剤、睡眠剤、モヒ注射等も同様である。
又、歯に対する含嗽薬は歯を弱らせるし、殺菌剤応用の歯磨は殊に悪いのである。
ここに面白いのは、歯科医が歯孔をセメント等にて充填する場合、殺菌剤にて消毒するが、これらも大いに間違っている。
なぜなれば、充填後大抵は痛むものである。
それは殺菌剤が腐敗し、毒素となって排除されようとする。
その為の痛みである。故に充填の場合、全然殺菌剤も何も用いない時は、決して痛みは起らないのである。
私は、歯科医に厳重にそうさせて以来、決して痛まないのである。
従って、歯科医がこの事を知って薬剤を用いないようになれば人々はいかに助かるであろうかと、私は常に思っているのである。
又、仁丹なども少し位は差しつかえないが、常用者になると害がある。
以前私は、仁丹中毒の患者を扱った事がある。
この人は拾数年間、常に仁丹を口に入れていたので、最初来た時は顔面蒼白で痩せ細り、胃も相当悪るかったが、
その原因が仁丹にある事が判ったので、大いに驚いて廃止し、その後漸次健康を恢復したのである。
次に、世人の気の付かない事に、薬湯の中毒がある。
それは元来風呂の湯は何ら異物の入らない純粋の水が良いのである。
しかるに、薬湯のごとき異物が混入すると、その薬毒が皮膚から侵入し、一種の中毒となり、健康に害を与えるのである。
故に薬湯に頻繁(ひんぱん)に入る人は顔色が良くない事を発見するであろう。
そうして薬湯が温まるという事をよくいうがこれはいかなる訳かというと、微熱のある人は常に軽い悪寒があるから寒がりである。
しかるに薬湯へ入ると、薬毒が皮膚から侵入するので、浄化作用が停止し、一時的微熱が無くなるから悪寒がなくなり、ちょうど温まるようになるのである。
又温泉の湯花(ゆばな)を入れるが、これらも温泉へ入るのとは違うのである。
何となれば温泉は山の霊気が含まれているから、それが身体に利くのであるが、湯花は霊気が無くなったーいわば滓(かす)であるからである。
次に扁桃腺及び盲腸の手術はさきに説いたごとく、二、三年の間は成績がいいが、その後に到って悪い事や、
又胃病に対し消化薬を服み、消化し易い食物を摂るにおいて、
漸次胃が弱るという事や疲労を恐れたり、睡眠不足を恐れるという事なども一時的を主とした誤りであり、栄養食もさきに述べた通りである。
故に、何よりも私の理論の誤りでない事は幾多の事実によって知る事を得るであろう。
彼の上流社会の子女や医家の子女等をみるがいい。
それらの人々は、常に充分栄養を摂り、西洋医学的衛生を出来得るだけ実行しているに係わらず、いずれも弱々しく、大方は腺病質である事である。
又医師の短命も近来著るしい現象である。
私は種々の博士の中、医学博士が一番短命ではないかと思うのである。
これは誰かが統計を作ってみれば面白いと思う。
少なくとも人の病気を治し、健康を増進させる役目である以上、何よりも自己自身が健康であり長命でなくてはならないし、
又その家族の健康においても、医学的知識の少ない世間一般の人々よりも良くなければならないはずである。
そうでなければ医家としての真の資格は無いと言っても、あえて侮言ではなかろうと思うのである。
たとえていえばいかに道徳を説くといえども自己が実践出来なければ人を動かす事が出来ないのと同様である。
故に、今日の医学衛生の理論を最も信奉する人々がふえるに比例して、青白いインテリが増加するという事によってみても明かであろう。
以上によって、私の創成した日本医術が、既存医術に比していかなるものであるか、読者は大体諒解されたと思うと共に、
ここに最も重要なる事は、その治病力のいかに素晴しいかという事である。
私としては、事実ありのままを告白するとすれば、それは余りに自画自讃に陥らざるを得ないが、言わなければならないから敢て発表するのである。
病気の根源は毒素である事、毒素とは膿汁又は毒血の凝結したものである事はいうまでもない。
勿論西洋医学においても、その点は認めているのであるが、
ただ異なる点は、西洋医学においては、黴菌によって毒素が増殖せられるというに対し、
私の方は、浄化作用によって毒素が集溜するというのである。
故に、西洋医学の伝染に対し、私の方では誘発と解し、
又西洋医学においては、あらゆる病気は、抵抗力薄弱によって、外部から黴菌による毒素が侵入繁殖するというに対し、
私の方は、体内において集溜凝結した毒素が、浄化溶解作用によって外部へ排泄される為というのである。
故に、その療法原理においても、西洋医学においては、体内に毒素を固むるのを目的とし、
私の方は毒素を溶解して体外へ排泄するのを目的とする。
一は、固むるのを目的とし、一は溶かすのを目的とする。
従って固むる結果は病原を残存させ、再発の因を作るのである。
これに反し溶かす結果は、病原を排除し、再発の因を無くする事である。
右のごとき、両々相反する理論は、いずれが真理であるかは言をまたずして明かであろう。
しかしながら、私の右の理論に対して、特に専門家はいうであろう。
なるほど病気の根原は毒素であるが、その毒素を溶解排除するなどは、実際上不可能で、それは理想でしかない。
故に止むを得ず次善的方法として手術か又は固むるので、固め療法の発達したのも止むを得ないのであると、
しかるに、私が創成したこの日本医術は、毒素の溶解排除の方法に成功したのである。
現代医学がいかに進歩せりと誇称するも、皮下に溜結せる毒素に対し、
切開手術を行わなければ、膿一滴といえども除去し得ないであろう。
しかるに私の方法によれば、外部からいささかの苦痛をも与えずして、
いかなる深部といえども自由に膿結を溶解排除する事が出来得るのである。
盲腸炎は一回の施術によって治癒し、歯痛は外部からその場で痛みを去り、
他のいかなる痛みといえども数回の施術によって無痛たらしめ得るのである。
肺結核も完全に治癒せしめ得、癌も解消せしめ得るのである。
その他疫痢も精神病も喘息も心臓病も痔瘻(じろう)も医学上難治とされている疾患のそのほとんどは治癒せしめ得るのである。
ただ私の療法で困難と思うのは、医療を加え過ぎた患者である。
特に薬物多用者とレントゲンや深部電気、ラジウム等を幾十回も受用せられたものである。
又、種々の療法を受けた結果、衰弱はなはだしい患者においては、病原を除去し終るまで生命を保てないので、
かような場合は、不成績の止むを得ない事があるばかりである。
故に、発病後速かに本療法を受ければ、そのことごとくは全治するといっても過言ではないのである。
従って、私の方では研究という言葉は無いのである。
何となれば、病原も明かであり、治癒も確定しているから、その必要がないからである。
そうして今一つ重要なる事は、私の医術は何人といえども修練をすれば出来得るのである。
医学的知識のない者でも、男女年齢のいかんを問わず出来得るのである。
しかも修練期間は普通一個年位で、数人の医学博士が首を傾(かし)げた病気でも治癒するので、そのような例は日々無数にあるのである。
私は、事実そのままを述べているつもりであるが、あるいは誇張に過ぎると思われはしないかと、それを心配するのである。
そうして何千年来、医学における根本的誤謬に人類がなぜ気付かなかったかに対し、読者は大いなる疑問を起すであろう。
それと共に、私のような医学的知識のない者が、いかにして、その誤謬を発見し得たかという事に対しても、同様の疑問を起さずにはいられないであろう。
右の二点を徹底的に説く事によって、一切は闡明(せんめい)されるのである。
勿論それは、宇宙の実体から歴史の推移、文化の変転、霊と物質との関係、霊界の真相、人間生死一如の真諦にまでも及ばなくてはならないのである。
特に今、全世界いかなる人種といえども、圏外に立つ事を許されないー現に行われつつあるところの空前の大戦争、大禍乱であって、誰もが言っているところの世界の大転換である。
そうしてこの大転換の由って起った根本原理と、私の創成した日本医術との根本原理が、まことによく一致しているという事である、
これ故に、この根本原理を知るという事は、独り私の医術のみに止まらないのであって、
将来における世界の趨勢(すうせい)が、いかになりゆくやについてもおよその見透しをつけ得るであろう。
これら一切を説示する事によって、人間の生命、健康、病気等、数千年来、人類の知らんとして知り得なかった神秘は、白日の下に曝(さら)け出さるるであろう。
そうして日本を主とする八紘為宇の道義的新世界が建設された暁、
全世界の人類が王化に浴し、平和を共楽せんとするも、その健康にして全たからざるにおいては、何らの意味も為さないであろう。
基督(キリスト)は言った。「爾(なんじ)、世界を得るとも、生命を失わば如何にせんや」-と、実に宜(むべ)なりというべきである。
以上の意味において、私は健康の世界新秩序を創建すべき重大時期が来つつある事を信じて疑わないのである。
それは猶太(ユダヤ)人の創成した唯物的医学の旧秩序を以てしては、ついに人類の生命は破滅に陥るより外はないからである。
ちょうど、自由主義国家群が、ついに崩壊せざれば熄(や)まざらんとするそれのように!
私は、自分の研究の成果を余す所なく説いたつもりである。
しかしここに断わっておきたい事は、私として西洋医学を誹謗(ひぼう)する意志はいささかももたないつもりであって、
ただ是(ぜ)を是とし、非を非とする公正なる見解の下に批判したつもりであるが、
あるいは読む人により西洋医学に対し、余りに非難に過ぎると思うかもしれない事を懼(おそ)るるのである。
又私の説にも幾多の誤謬があるかも知れないが、その点は充分御叱正を給わりたいのである。
従って、この著書の論旨は一個の学説として読まれん事である。
勿論有用な点があれば採り、無用と思惟する点を捨てればいいであろう。
ただ私としては自分の知り得たと思う真実を発表する事ーそれは国家に稗益するところ大なりと信じたからでそれ以外に他意はないのである。
そうして私の説が真理であるか非真理であるかは、時が判定してくれると思っている。
次に、この著書は非売としたのである。
それはいかなる訳かというと、一般的に頒布(はんぷ)するには、時期未だ尚早と思うからである。
何となれば、現在の西洋医学によって樹てられたる機構に対し、万一、何らかの影響を与えるとすれば、それは面白くないと思うからでもある。
従って、私のこの著書を国家社会が要求する時期の必ず来るべき事を信ずるが故に、その時の来るまで待っているつもりである。」
明主様御教え 「結核問題と其解決策 結論」 (昭和18年5月5日発行)
「以上のごとく、結核の原因及び結核増加の真因並びに本医術の効果等、各般に渉って説いたつもりであるから、
読者は結核の正体を充分突止め得たと共に、何ら恐るべきものではない事を知ったであろう。
そうして、右を要約すれば、病気なるものは浄化作用である事、特に結核は旺盛なる浄化作用であるから、
元気旺盛なる青少年時代に発病するものであるという事、結核菌は絶対伝染しないという事、必ず全治するという事等である。
又、浄化作用という事を知らない西洋医学は、その療法のことごとくが、
折角溶解し始めた毒素を再び固むるのを目的とし、それ以外の何物でもない事。
即ち浄化発生以前の擬健康に還元させる事を以て、唯一の治療目的としている事。
故に、その結果として多くは再発の危険がある事。
又、固結法を行うについては、絶対安静法、薬剤その他の方法等により、多額の費用と長事実を要するを以て、国家にも個人にも莫大なる負担を蒙(こうむ)らせる事。
次に、幼時及び少年時代、先天性毒素の浄化作用発生の場合、医療によって固結させ、薬毒を追増させ、ついに腺病質たらしめる結果、
青年期の活力旺盛時になると、急激な浄化作用又は執拗な浄化作用が発生する。
その場合医療は、誤診誤療によって、多くは不幸な結果に陥(おちい)らしめるという事実。
近時盛んに予防注射と称して、血液中に異物を注入する。それが浄化作用によって一局部に集溜固結する。
しかるに、体位錬成又は強制労務等の強労働をさせる。
その結果、右固結に浄化作用が起こり有熱者となる。
それに対し早期健康診断の名の下に診査をなし、有熱者の発見となり、これらを結核容疑者又は開放性結核患者となし、診療又は隔離させる。
これが為生産を阻害し、人的資源の消耗等、現在の国家目的に対し、すくなからぬ悪影響を与えつゝある事。
又、自然発生の病菌であって、絶対に伝染の憂いなきものを伝染するものであるとし、繁雑極まる防止法を行い、
それが為個人生活の不安や能率の低下は固より、国家全体が無益なる支出と施設を行わせしめらるる事。
右のごとく真相を知ってみるとき、国家の為一日も忽(ゆるが)せに出来ない大問題であって、まことに憂慮に禁(た)えないのである。
しかしながら、私は結核に対し、完全に解決なし得る対策を示したのであるが、
これをいかにして国民全般に知らしめ又は応用するかという事は、政府当局者はじめ、それぞれの専門的権威者又は指導者があるのであるから、
それらの人士が、国家の為奮ってこの医術の研究と応用とに着眼さるゝ事を冀っ(こいねが)って熄(や)まないものである。」 (「結核問題と其解決策」より)
明主様御講義 「氷で冷すのは最も悪い」 (昭和10年9月15日発行)
「子供の疫痢も最初は胎毒(水膿)が胃へ来るのであってその為に吐いたり熱が出るのである。
それを医者は吐いたり熱が出て自然治癒工作をしているのを止めるから自然治癒の妨害をするのである。
西洋医学は治癒の妨害であるから治らんのである。
氷で冷すのは最も悪いので、治すには熱が必要であるのを反対に冷すから熱の活動を止めて終う為癒らんのである。
反って悪くなるのは当然である。
熱が出て毒を道筋方面へ送ろうとするのを冷すから道筋方面へ行けずこれが肺の辺りへ寄るから肺気腫なぞになるのである。
腫物の出来て腫れるのは活力があるからよいのであります。
活力がなければ腫れ出る事が出来んから膿を取る事が出来ぬ。
これを永く続けて居れば死ぬより外に仕方がなくなるのは当然なのだ。
腫れ物を捨てゝ置けば腫れて膿が出て終うのを医者のある国に生れ医者を保護する法律のある国に生れたのが不幸なのであります。」 (「観音講座 第七講座」より)
明主様御教え 「小児の呼吸を止める療法」 (昭和11年4月13日御執筆)
「昭和十年夏のある日、私は、日本橋区の某大商人の家へ招ばれた。
見ると、患者は三歳位の男子であった。その症状を聞けば、数日前から淋巴腺が腫れて、医師の指示に従い、氷冷をしておったところ、
昨夜頃から鼻孔が時々閉止しては、窒息しそうになるので、まことに心配に堪えぬと、言うのであった。
それは、なぜかと言うと、自然排除による膿が、淋巴腺へ集注しようとするのを、氷冷した為、その活動が停止されるから、
止むを得ず、鼻孔へ向って、その膿が溢出したので、それで塞がるのである。
しかもその児は、普通の児らしくなく、口を固く結んで居るので、なお更呼吸が停止されようとする訳である。
私の一回の治療で、呼吸は非常に楽になった。そこで今、一回位で治るから、明日連れて来るように言い、
又、氷冷の不可を固く、いましめて帰ったのであるが、それきり私のところへは音沙汰が無かった。
それは、多分私の言う事を先方で、諒解する事が出来なかった為であった、と思ったのである。
これによって見るも、氷冷のいかに誤れるかが分るのである。」
明主様御教え 「疥癬について」 (昭和24年2月28日御執筆)
「本教団に疥癬(かいせん)が盛んという批評があるが、これは色眼鏡で見るからである。
大体、疥癬病は経験上地域的に流行するもので、これは医家もよく知っているはずである。
ゆえに、その流行の地域にある本教の支部へは、自然、多数の患者が浄霊に来る訳である。
それは、浄霊によって非常に効果があるからである。
それは、完全に治癒する事、全然患部へ触れないから伝染の危険のない事、全快後、罹病以前より健康増進する事等である。
特に、この病気に注意すべき事は、薬剤塗布、または薬湯等によれば、湿疹は速やかに消滅する。
しかし、これは治癒ではない。毒素排除を止めたのであるから、当然の結果として全身浮腫を生じ、肺及び心臓が圧迫され、生命の危険に及ぶ事は、吾々のしばしば経験するところである。
この意味によって、本教の浄霊による限り何ら生命の危険もなく、伝染の憂いもないという理想的方法である以上、政府は大いに奨励すべきであると思う。
このような効果を挙げつつある本教が迷信とすれば、迷信と評する人士こそ、立派な迷信者である訳になる。」