固め療法について 1


明主様御教え 「愚昧なる医学」 (昭和11年2月25日御執筆)

「西洋医学の蒙昧は、実に驚くべきものがある。

全世界の医学者と称するものの頭脳は、一種の変質者ではないかとさえ思うのである。

といって私は、いささかも悪口を言うつもりは無いのである。

ただ厳粛なる事実はいかん共する事が出来ないからである。

故に今日の医学なるものが根本的革正をしない限り、恐らく全世界の人類は、千年を出でずして滅亡するかも知れないとさえ危惧するのである。

何となれば、現代医療は病気を治癒するのでなくて、実に悪化さす方法であり、病気を作る事である。

この様な事を言えば、狂人の言葉としか思われないかもしれない。

しかし、私は理論でも仮説でもない。全く生きた事実を根拠として言うのであるから、恐らく何人といえども飜然と目覚めない訳にはゆかない事を信ずるのである。

まず二三の実証を挙げてみよう。


まず第一は扁桃腺肥大症である。

この病気は実に医家が作るのであって、そうしておいて手術で抜除しようとするのであるから、全く困った事である。

それはこうである。元来扁桃腺なるものは、人体不断の浄化作用によって作出さるる、その不純物即ち膿が淋巴腺に集注し、それが又外部へ排除されるその排け口が扁桃腺である。

それが為一旦膿が扁桃腺に集溜されるのである。

しかし、その際の膿は濃度であるから、排泄を容易ならしむるには稀薄にする必要がある。

それが為の発熱である。故に、発熱のまま放任しておけば、極めて順調に膿は排泄され治癒するのであるのに、医療はそれに不明である為、その熱を薬剤を以て解熱させ、あるいは氷冷法を行うのである。

元来、一切の物質は熱に因れば溶解し、冷によれば固結するのが法則であるから、この誤れる医療によって膿は扁桃腺に固結してしまうのである。

これが扁桃腺肥大である。故に、解熱療法を行わなかった明治以前は、扁桃腺肥大なる病気は一人も無かったはずである。

そればかりではない、もっと怖ろしい事がある。

扁桃腺肥大によって、膿の唯一の排除口が閉止される結果、淋巴腺へ集溜した膿は、止むを得ず反対の方向へ排泄口を求めるのである。

それは中耳であって即ち中耳炎である。扁桃腺炎より中耳炎の方がいかに重症であるかは、誰もが知っている通りである。

近来中耳炎患者が激増した原因はこれである。そうして中耳炎の治療としては、鼓膜を破るか、耳後部を穿孔するかであるから、その結果は一種の障害者となるのである。


次に盲腸炎であるが、これも手術の必要が無いのである。この病気は浄化作用の結果としての膿が盲腸部に集溜し、発熱に依って溶解し、大腸を通じて下痢として排泄されるだけのものであるから、放任しておけば完全に、遅くも五六日で治癒するのである。

全く人体の健康を保つ上における浄化作用の工程であると言ってもよいので、病気とは言えない位のものである。

それを知らない医学は、又しても氷冷をする。

それに因って、扁桃腺炎の場合と同じく膿が固結し、浄化作用が停止される結果、危険にさえ瀕するという事になる。

こうなれば手術をしない訳にはゆかなくなるのであるから、いわば医療が手術の原因を作るという事になるのである。

それのみではない、膿が充分盲腸部に集溜した時手術をすればいいが、多くの場合、医家は周章して早期に切開する。

それが為に手術後、膿の後続があるので、それが再手術となり、又手術に因る疵(きず)が容易に治癒しないのもそれである。

中には二三年にも及んでなお指頭の先位の傷口から絶えず排膿されているという症状も少なくないので、これは医家も屡々(しばしば)経験される所であろう。

そればかりではない、膿の排泄機関として、最も適切に作られてある盲腸機能が欠除せる結果、自然浄化に因る膿は他の方面即ち各、腸、腎、肝、胃、腹膜等に滞溜する事となるから、種々の疾患が起り易くなるのが実際である。


次に最も滑稽であるのは、制帯バンドという珍妙な器械を作って胃の下垂を防ぐ事である。

これの原因は消化の良い食物を摂らせ、消化薬を用いるからである。

本来、胃は普通食を摂り、普通の運動をしておれば、何ら異常なく健康であるのに、前述のごとき誤れる養生法を行う結果、胃は活動の必要がないから、漸次衰退する結果緊張の力が無くなるので下垂するのは当然である。

それをバンドで窮屈な思いをして防止しようとするのであるから、一方で原因を作りながら、一方で防止するというその愚さは、実に及ぶべからずである。


次に今日の病人に与える食物であるが、医家は味噌汁、香の物、餡(あん)等を不可としている事である。

これはなぜかといえば、現代医学は西洋所産のものであるから、西洋にない食物は医学書には書いてないに決っている。

それが為直訳医学が奨めないのであると思うのである。実は日本人には右の食物は非常に効果があるので、それは誰しも実験すれば、必ず確実である事が判るであろう。


その他、数限りない程の誤謬は一々挙ぐるの遑(いとま)はないが、右の点だけにみても、現代医学がいかに誤っているか、否いかに恐るべき蒙昧であるかは何ら疑う余地はないであろう。

これが為に、幾千幾万の人は日々病苦に悩みつつあるであろうし、又貴重なる生命を短縮されつつある人は、幾何(いくばく)に上るか量り知れないであろう。

それを憶(おも)う時、私は慄然としない訳にはゆかないのである。

しかもかくのごとき蒙昧医学を、大いに進歩せりと崇信している現代人こそ全く不幸の極みである。

噫(ああ)ー、これが啓蒙運動こそ、実に観世音菩薩の救世本願の第一歩である、と吾らは思うのである。」




明主様御教え 「肺結核を作る医療」 (昭和11年5月25日御執筆)

「近来、肺結核激増の趨勢は実に驚くべき程であって、官民共に甚大な努力を払いつつあり、

又、進歩せりと誇称せる現代医学の最善を以てしても、なおかつ防遏(ぼうあつ)出来ないという事はいかなる訳であろうか。

ここに疑問を起さなくてはならない。

それは根本において一大誤謬があるからであって、その誤謬とは実に現代医学の治療法が、反って肺患を作りつつあるという驚くべき奇怪事である。

それを今詳細に述べてみよう。


まず肺結核と称する疾患の症状から説明してみる。患者の症状としてはこの病に特異なる点は微熱と咳嗽とである。

勿論食欲不振、疲労、下痢、盗汗等もあるが、順序として最初の特異症状から説いてみる。

微熱の原因としては例外ないという程、各患者に共通点の症状がある。

それは淋巴腺及び肺尖上部即ち頸部の付根、肩胛部、背部及び両胸部、主に乳の付近の肋骨膜に、膿の溜結と汚血の滞溜を見るので、これは容易に診断が出来るのである。

それは前述の部に掌を触るれば、必ず発熱がある事を知る(稀には無熱のもある。それは長時日絶対安静をさせ、自然治癒力即ち浄化力を衰退さした結果であるから、これらは浄化力恢復に従って再び発熱するものである)。

それは膿結の為であるから、指頭で圧すれば必ず痛みがあると共に、大中小のグリグリがあるのである。

それが石のごとく固結したものもあるが、これは昔から言う瘰癧(るいれき)である。

これらの症状の原因は何であるかというと、それは実に、医療が作ったとも言えるのである。

そうして最初の発病は、ほとんど風邪が第一歩である事である。


そもそも、風邪とはいかなるものであるか、それから説いてみよう。

前述のごとき各部における膿の溜結を最も簡単に排除する為の自然治癒力の発動が風邪である事を知らねばならない。

故に、その際の発熱はこの膿の溜結を溶解せんが為である。

それは溶解して稀薄にし、鼻汁及び喀痰として排泄するのである。

その際の血痰及び喀血は、膿の溜結の外に汚血の排除が加わるからである。

故に、風邪なる浄化法によって重症を避けるべく、早期において自然に確実に治癒されるよう人体は作られてあるのである。

しかるに、それら真因に盲目である医学は、この発熱を非常に怖れるのである。

病患治癒に対し最も重要なる役目を行う発熱を、反って病患悪化と思い、何よりもまず解熱療法をする。

これがそもそもの一大誤療の出発点である。

そうして、解熱法として薬剤と氷冷法を行う為、その結果として膿の溜結は溶解するどころか、反対にいよいよ固結してしまうのは、理の当然である。

これからがいわゆる肺結核の症状となるのである。

それは自然の方では飽くまで治癒しようと、膿結を解溶すべく発熱の工作をするのに対し、

錯覚してる医療は、この発熱を防止しようとするから、事実は治癒しないように努力している事になるので、実に恐るべきである。


次に咳嗽であるが、多くの場合その原因はさのみ重症でない、喘息と耳下腺の膿の溜結が気管を圧迫する為とである。

そうして、医学では喘息の真因は未だ不明であって、現在は気管の故障とされているが、実は気管の苦痛は結果であって、

その根本は臍部両側から胃及び肝臓部へかけての膿の溜結であって、これが溶解して喀痰となり、その喀痰排除の為の咳嗽である。

故に、咳嗽に因って膿が排除さるるのであるに拘わらず、医学は咳嗽を止めようとする。

又、この際も発熱に因っての膿の溶解を、医療の解熱が固結させるから治癒困難となるので、この点においても医療が治癒を妨害する事となるのである。


次に胃の外廓に右のごとく膿溜が固結すればする程、胃は圧迫されるから、消化不良になるのは当然である。

加うるに愚かなる現代医学は消化不良を治さんとして、反って悪化の方法を行うのである。

それは消化薬の服用と絶対安静とである。元来、胃は胃自身の活動によって食物が消化されるのが本当である。

しかるに、消化薬によって胃は活動の必要が無くなるから自然衰退する。

なる程、消化薬服用によって一時は食欲を増進させるが、時日の経過によって胃が退化するから、ついに食欲不振になるのは当然である。

この場合食欲不振を治癒しようと益々消化薬を用いる。益々不振になる、という循環作用によって、ついに睡眠状態の胃にまでなる例は頗る多いのである。

それへ拍車をかけるのが絶対安静であるから、全体的衰弱は倍々(ますます)病勢を悪化さす事になるのは当然である。


次に、胸部の肋骨の一本一本に膿が溜結する症状である。これを大抵の医家は肺患と誤診するのである。

何となれば、その部に微熱とラッセルとあり、又、レントゲン写真に暗雲のごとく顕出するからである。

しかし、この際肺には何ら異常がないのが事実である。


次に、盗汗は浄化作用の一つであるから、大いに好いのである。

これは膿結が熱によって溶解し漿液となり、それが汗に変化して排除されるのであるから、実験上盗汗のある患者程恢復し易いのが実際である。

その事を知らない医学は、又してもこれを止めようとするから、矢張り治癒妨害である。


次に下痢症であるが、これは末期の患者に多いのである。

この原因は、まず第一は胃部の膿の溜結が、腸部にまで移行蔓延して腸を圧迫する為と、滋養物と称して牛乳、肝油、肉食等、脂肪多量の食餌が、衰弱せる腸の負担加重となる為であるから、これらも治癒妨害の方法でしかないのである。

大体部分的としては右のごとくであるが、広汎的にいって他に大誤謬がある事を告げなくてはならないので、それは病気軽快と治癒とを混同して居る事であって、真相はむしろ反対でさえあるのである。

本来、病気現象としての苦痛即ち発熱、咳嗽、痛み等は自然治癒としての浄化活動であるから、それがはなはだしければはなはだしい程、浄化活動が旺盛である事である。

浄化活動が旺盛とは活力が旺盛であり、活動が旺盛であるのは血液の循環が旺盛であるからである。

それは血液が清浄であるという、その為である。


この理によって、血液を汚濁させる事と、運動不足であるほど血液循環の衰退する事になるのであるから、浄化力は薄弱になるのは当然である。

浄化力薄弱になれば病症は還元し、それによって苦痛は緩和される訳である。

医学はこの緩和を軽快と信ずる結果、治癒に向うものと解釈している。

であるから、現在の医療は、薬剤の注射と服用によって血液を溷濁(こんだく)させ、絶対安静に因って血液の循環を衰退さすのであるから、実際を観れば能(よ)く判るのである。

それは、一旦ある程度の軽快に至ったまま、それ以上の進展をみせないで、二年も三年も、中には数年もの同一経過を辿(たど)って、決して全治しないという例は随所に見るのであるが、これは前述の理由によるからである。


次に、今一つの重大事がある。それは肺結核は絶対に感染しない事である。

元来、結核とは膿の溜結が時日の経過によって頑固性になった為であって、こうなった膿はついに腐敗状になるのである。

その腐敗膿に黴菌が自然発生するのである。たとえて言えば、あらゆるものが腐敗をすれば、蛆が湧くのと等しい理である。

これについてよく経験する事は、新しい膿は臭気がなく、古くなるに従って臭気が増すので、その最もはなはだしいのが肺壊疽の膿である。


又この事の実証として、本会で養成された百数十人の治療士である。

彼らはこの真髄を知っているから、肺患者に対しても何ら恐怖はない。患者の口唇と二三寸位まで接近する事が常にあるが、一人の感染者も無いのである。

又、私の子供数人は十年位以前から、結核患者と伍して常に食事をさしているが、何ら異常がないのにみても明かである。

故に、この真相が社会へ知れ亙(わた)ったなら、世人は結核菌恐怖の不安から解放され、その幸福は蓋(けだ)しすくなからざるものがあるであろう。

これを要するに、現代医学はいかに錯覚と誤謬の巷(ちまた)に昏迷しているかであり、一切の方法が実に姑息と不徹底極まる事である。

その結果結核を防止せんと努力しつつ、事実はその反対の結果を招来し、煩悶懊悩(おうのう)しつつあるのである。

この事を知悉(ちしつ)する吾人は、この重大危険事に対して、一時も晏如(あんじょ)たる能(あた)わず、一大警鐘を鳴らして社会を覚醒せしむべく、この文を草したのである。


最後に、今一つ述べたい事がある。

それは最近の結核防止運動に対してである。

それによれば、早期診断をすれば大抵は治癒するという宣伝であるが、これは事実に当はまらない虚偽と思うのである。

何となれば、中流以上の子弟、医師の家族、看護婦等は、早期診断の絶対可能性があるに拘わらず、罹病者が一般人と何ら変りがない事実である。

又、時々健康診断を受けろというが、吾人はこれは実際において、反対の結果になると思うのである。

何となれば、病気を悪化させる誤れる医療であるからである。反って医療を受けずして無意識的自然治癒される方が、より安全であると思うからである。

この文を書き終った時、新聞紙を見ればこういう事が書いてある。

最近、徴兵検査の結果、壮丁の胸患者が百人中二十人という恐るべき数字である。

しかるに、明治三十二年にはそれが百人中二人であったという事である。

その頃よりも医学は非常に進歩したと言うに拘わらず、右の結果から見れば、私の説の誤りでない事を事実が示しているのである。」




明主様御教え 「現代医療の大誤謬」 (昭和11年御執筆)

「現在進歩せりと誇称し、世人もまたそう信じている医療なるものは、恐るべき程の大誤謬に陥っている事である。

それが為に病が治癒される所ではない。病は大いに悪化されていたら、それを治ると信じて行っているとは、何と恐るべき事ではないか。

難症という程でない一寸した病気に罹っても、容易に治らないというのはそれが為であり、又一度病気に罹るや持病になったり、慢性になったりするのもそれが為である。

多額の費用を使い苦痛を堪え忍びつつ受くる医療が病気を良化するのでなくて悪化さしているという事は、何と恐るべき事ではないか。

忌憚なく言えば、医療に救われるよりか、医療に害(そこな)われる方が多いという事は事実である。

たとえて言えば、三人助けて七人殺すという様な訳である。

この根本的大誤謬は、近き将来において必ず専門家は固より一般に知識さるべき事は、火を睹(み)るよりも瞭(あきら)かである。

何となれば、誤謬や錯覚は決して長く続くものではない。

しかしながら、暴露するとしても、一日早ければ一日だけ人類は救われるのである。

私はそれらの点について悉(くわ)しく述べてみよう。


病気とは、人間自身の自然浄化作用の課程現象であるという事は、再三述べてある通りである。

故に、発病するや発熱する。この発熱なるものは頗(すこぶ)る貴重なものであって、発熱によって半分は治病されるのである。

これについて実際の例を挙げてみよう。


結核患者における発熱に対し、医学は病勢悪化の為と解釈しているが、これは大いなる謬りである。

医学における結核患者と見なすものは、そのほとんどが頸部付近の水膿溜結と胸部背部におけるある部分の肋骨膜及び、その付近の水膿溜結であり、

又、肺より出ずると思う咳嗽は実はそうでなくて、喘息の為のそれである場合がほとんどである。

未だ医学では喘息の原因が判らないが、これは胃部及び肝臓部付近に滞溜せる水膿が喀痰となって排泄される為の咳嗽である。

故に、発熱によって各部に滞溜せる病原である水膿溜結が溶解されるのである。

溶解した膿結は喀痰となり、又は排便と共に出ずるのである。

故に、発熱が高ければ高い程それは水膿がより固結せる為である。

この理によって病気治療上、発熱程貴重なものはないのであるに係らず、それに盲目である医学は、発熱を非常に恐れて下降せしめんとするのである。

これが為に、折角膿結を溶解せんとする作用を妨害するのであるから治癒するはずがないのである。

この理によって、医療を加えず放置しておく方が治癒する可能性がある訳である。


今一つの例を述べよう。それは扁桃腺炎である。

本療法によって扁桃腺炎は一、二回で完全に全治するのであるが、これは発熱がよく溶解させるからである。

しかるに、小児の扁桃腺肥大は治癒するのに、本療法によるも十数回を要するのである。

何となれば、発熱がないからである。発熱がないという事は、患者が弱性の為に浄化活力が欠乏しているからである。

浄化力旺盛が発熱をさせるのである。

今一つの例を挙げてみる。

本療法によって驚く程速かに治癒する病種はまず、盲腸炎、肺炎、肋膜炎、腎盂炎、睾丸炎等の熱性病であるにみても明かな事実である。


次に結核予防として、風邪に罹る事を非常に恐れるのであるが、これも非常な誤りである。

結核の原因となる各部に滞溜すべき水膿溜結を、少量の時代に簡単に排除する自然浄化が風邪なのである。

故に、風邪こそ結核予防上最大な効果があるものである。

故に、風邪に再三罹る程、その浄化によって結核を免れ得るのである。

これに盲目である医学は、反対に風邪に罹らせまいとするから、そうすればする程、結核に犯されるという結果になるのである。

これを以て今日叫ばれている結核防止の手段は、実は結核増加の手段を執っているのであるから、官民ともにいかに努力するといえども、益々激増するのは当然な訳である。

噫(ああ)、医学の誤謬やまことに恐るべきである。


次に、薬剤による病気悪化は、黙視出来ないものがある。

就中(なかんずく)、最も恐るべきは消化薬、下剤、解熱薬、強心剤、沃度剤等である。

その一々を説明してみよう。

近来頗(すこぶ)る多数に上りつつある慢性胃病患者はその原因として尽(ことごと)く消化薬である事は一点の疑がないのである。

これは私が毎度言う通り、消化薬を服みつつ、消化のいいものを食する時は胃が退化する。

胃が退化するからそれを行うという循環作用に因ってついに重症となるのである。

これと同じ様に、下剤を服めば排便器能が退化するから便秘する、便秘するから下剤を服むという循環作用によって、頑固性便秘症になるのである。

そうして、薬剤はその成分はほとんどが毒素である。

毒素であるが故に、効果があるのである。それは実際をみれば能く判るのである。」




明主様御教え 「医療誤点の種々相」 (昭和27年12月1日発行)

「医療は毒素を固めて体外へ出さない方法であり、浄霊はその反対に溶かして体外へ排除させる方法である事は、充分判ったであろうが、

何しろ人間は今日まで医学を信じ切っている以上、右の理屈が仮に分かったとしても、直に頭脳の切換えは無理であろうから、なお色々の面から解剖のメスを入れてみようと思う。

まず今日流行している彼の気胸療法であるが、これも肺の外部にある膜と膜との間に空気を入れ、肺を圧迫して活動を弱らせ、呼吸を微弱にする方法で、

それによって肺の内部にある毒素の浄化は弱るから、それだけ下熱し、咳も痰も減って空洞は縮小し、治るように見えるので、言わば肺臓だけの局部安静法である。

このように医療は固める事を原則としている以上、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事は、余りにも明らかである。

何よりも安静中少しでも運動をすると、たちまち熱発するが、これは幾分でも浄化が発(おこ)るからで、医師は慌てて戒めるのは、毒結溶解を極度に恐れるからである。


次に結核の特効薬であるが、これも同じ道理で、近年次から次へと新しい薬が出来るのは、残らず人体を弱らせ、固める効果を狙ったものであるから、

よく効く薬というのは、副作用を紙一重というところまで起こさないようにして、毒を出来るだけ強めたものである。

以上によってみる時、現在の結核療法は別段治病上の進歩ではなく、単なる固め方法の進歩でしかないのである。

彼の造りつけの人形か生ける屍のごとく、何年でも寝たきりにさせているのは、自然に固まるのを待つ訳である。

しかもそのため多額の費用を要し、仕事も出来ず感染の心配さえあるとしたら、何と憐れなものではなかろうか。


滑稽なのは大気安静療法である。寒風膚をさす冬の夜、窓を開ッ放しにしてジット寝ているのであるから、これでは健康者でさえ我慢できない寒さの中で、衰弱骨と皮ばかりになっている上に、多少の悪寒もあるのだから、全く悲惨そのものである。

それでも治るならまだしもだが、そのようにしてまでも悪くなったり、死んだりするのだから、その虐(むご)たらしさは言語に絶するのである。

これも良い空気を吸わせんがためであろうが、実際からいって空気の善悪は、吾々の経験上余り影響はない。何となれば浄霊で治す場合、

都会の悪い空気の中にあっても、治り方に異いはないからで、第一空気に関係がありとすれば、農村に結核は少ないはずだが、近来は都会と余り異いがないとは、医学でも唱えているところである。

そのほかこういう事もある。

以前はサナトリウム等で日光療法を勧めたものだが、近頃は悪いとして廃めてしまった。

これなども日光に当れば新陳代謝が旺盛となり、浄化が発り易いからである。

要するに現在の結核療法(これは他の病気もそうだが)の根本的誤りは、再三いう通り病毒を固める方法を、治す方法と錯覚するにあるので、この点れに目醒めない限り、根治は不可能である。


次に感冒について今少し言いたい事がある。

それはまず風邪を引くや早速医者にかかるか、そうでなければアスピリン、葛根湯(かっこんとう)、お手製の玉子酒、蜜柑の黒焼などを服んで蒲団(ふとん)を被り、できるだけ汗をかくのをよいとしている。

また懐都合のいい人は、姑息(こそく)な療法は危険であるとして、掛かりつけの医者に行くが、何しろ現代医学は風邪の原因すら分っていないのだから、患者の安心のいくような診断は言ってくれない。

極力安静を勧めるくらいで心細い事夥しい。もしか肺炎にでもなったら大変だとビクビクもので、一日中体温計と首ッ引きである。

ところがたびたびかいた通り、風邪くらい結構なものはない。

身体のどこかに溜っている毒が、熱で溶け痰や洟水、汗などになって出るのだから、出るだけ出ればそれで治ってしまい、後はサッパリとし健康は増すので、早くいえばロハで体内の掃除が出来る訳である。

ちょうど入浴は外部の清潔法だが、風邪は内部の清潔法と思えばいい。

つまり皮膚に溜った垢を落すと同様、体内に溜った垢を落すのである。

もちろん皮膚は手で洗えるが、腹の中はそうはゆかないから、自然は風邪という体内入浴法で洗ってくれるのである。

これを考えてみれば実に造物主は巧く造ってくれたもので、全く風邪様々である。

だから人間はできるだけ風邪を引くのが天理に適っているので、風こそ第一の健康法であると言ってもいい。

しかもこれで治った以上、真の健康者となるから、結核感染の憂いなどは絶対にないのである。

右のごとき自然治癒によれば、それだけ毒が減るから、風邪引く毎に軽く済むようになり、ついには全く引かなくなる。

こうなった健康者こそ、通勤者、通学者は無休となり、いかなる階級の人も無病息災、年中無休で働かれ、日々愉快に仕事ができ、家族一同も病気の心配がなくなるから、これが本当の安心立命の境地である。

そうして家庭の集合体が社会である以上、ここに天国世界は実現するのである。


ところが今一つ知らねばならない事は、医療によって病気の治る場合もあるにはあるが、その理由は二つある。

一は薬剤その他の方法をもって毒素を極力固めるので治ったようにみえるが、真の全治ではないから、いずれは必ず再発する。

しかしそれを知らないため、医療で治ったものと思うのである。

今一つは医療で固めようとしても、浄化力旺盛な人は固まらないで、自然に少しずつ排除されて治る事があるが、これは真の治り方であるから再発はしないが、こういう人は滅多にない。

しかし最初から医療を受けず、自然に放っておけば、一層早く治るのである。


この意味を今一層徹底してみるとこういう事になる。

それは病気の苦痛のある間は浄化が行われているのだから、毒は減りつつある訳である。

だがそれを知らないためと苦痛の我慢が辛いためとで、一時でも楽になりたいから薬を用いるのだが、

ちょうどこれは借金を返すのは辛いから、一時延期するようなもので、日の経つに従い利子も溜り、再び借金の請求が来る。

また延期をするというように、段々元利が増え、請求も厳しくなり、ついに延期が利かなく破産するのと同様である。

ではどうすればいいかというと、最初の時に苦痛を我慢すればいいので、そうすれば苦痛は一時的で、順調に毒素は減ってゆくから、さほど長く続くものではない。

急性病ならまず二、三日で済むと思えばよい。それ以外確実有効な方法としては本教浄霊のみである。


また結核の間接的原因としての肋間神経痛であるが、この原因は意外なところにある。

それは首から上の病気で手術をする場合、使用する消毒薬のためが多いのである。

しかし医療は消毒薬は不可欠のものとしているが、この薬毒こそ実に恐るべきもので、

この毒分は非常に強烈であると共に、筋肉から直接滲透するから量も多く、それが下降して肋骨部に固結するので、

なお下降して下半身に及んで、種々の病原となる事もある。

しかもこの毒性は執拗で激痛があり、治るにも長期間を要するもので、この消毒薬の害が判っただけでも、いかに多くの人が救われるかを私は常に思っている。


次に医学の原理であるが、医学には原理がないと言ったら驚くであろうが、真に病原が分かっているとしたら、動物実験の必要はない訳で、

何を好んでモルモットや二十日鼠など、多数の殺生をしなければならないかである。

彼の駆黴薬六百六号にしろ、この薬は六百六回の実験を経て、ようやく完成したというのであるから、これだけにみても原理不明をよく物語っている。

全く現代医学は原理ならざるものを、原理と錯覚しているにすぎないのである。

元来病気なるものは、人体に現れたる現象であって、実体ではない事で、この区別を医学は知らないのである。

何よりも病気の種類が多いという事は、現れたる部分が多いからで、その異いさが種々の病名となり医療もそれぞれ異うのである。

ところが吾々の方ではあらゆる病原は一つなりとしている。

この証左として、本教の療法を見れば分るが、いかなる病気でも、浄霊一本で治してしまうのである。

ところが医学で唱える病理というのは、実は機械的測定の結果を基準とした推理憶測でしかないので、

何よりも根本原理が分かっているとすれば、その原理通りに治療を行えばそれで治るはずで、あえて動物実験などの必要はないはずである。

従ってこの事だけでも全世界の医学者に分らせたなら現代医学は科学的ではなく推理、機械、実験の三者による苦痛解消手段でしかない事に目ざめると共に既成医学は揚棄せざるを得なくなり、ここに医学の再出発となって、真の医学が生まれるのである。」 (「結核信仰療法」より)




明主様御教え 「結核ナンセンス」 (昭和25年1月20日発行)

「この題とこの論文を見た専門家も一般人も、大いに憤慨する人と軽蔑する人と感心する人とがあるであろう。

しかし私はただ真理そのものを伝えるので、可否は見る人の心々に任せるだけである。

しかしながら真理である以上、いずれ何年か何十年後には一人残らず承服し、礼讃するであろう事も一点の疑う余地はあるまい。


さていよいよ本論にとり掛るが、近来、結核の早期発見を奨励しており、

その唯一の手段として用いるものにツベルクリンの注射がある。

そうして反応のないものを陰性といい、紅く腫れるのを陽性といい、

陽性に対しては、まず半ケ年間は結核発病の危険がありとなし、その間一ケ月に一度の試験注射を行うを可としている。

半ケ年を経て異常のないものは一まず注射を解くが、それでも当分三ケ月に一回の注射を勧めるのである。

したがって、最初の半ケ年の要注意期間中はなるべく過激な運動を避けるよう注意を与える。

というのはそれを守らないと、発病の危険があるからというのである。

以上のごとき医学の解釈は果して妥当であるや否やを検討してみよう。

それに先立ち私の研究とその成果を発表する事にするが、それによって右の可否は一層明らかとなるであろう。


そもそも私の唱える神霊医学は、病気とは自然に発生するところの浄化作用の過程としているが、

結核といえどもその理に漏れるはずはない。

最初ツベルクリンの注射によって陰性であるという事は、体力劣弱にして浄化発生の力がないからで、

それに引換え紅く腫れるのは、浄化力旺盛であるからである。

すなわち紅く腫脹する理由は、体内に注射液という異物が侵入するためその異物を体内深く侵入せしめざるよう、いわば防衛手段が発生するのである。

その防衛手段とは血液が異物侵入局部に集中し、異物との闘争を開始する。

その結果異物の毒分を弱めて、侵入の害から免れようとするのである。

右の理は最初陰性であったものが、再三注射するや陰性が陽性に転化する。

これを医学では陽転というが、この訳は注射液が少量の場合、弱体者は浄化発生の必要が余りないが、

多量になる場合はそれを防止するだけの浄化力が発生が必要となるのは当然で、

自然は人体擁護の手段を遺憾なく具えているのである。


そうしていかなる人間といえども、一人も漏れなく先天性及び後天性の種々の毒素を保有している。

その毒素は平常時は体内あらゆる局所に固結しているが、一度浄化発生するや溶解し始める。

もちろんその場合発熱、咳嗽、節々の痛み、食欲不振等の初期結核の症状が表わる。

それによって保有毒素は排泄され、健康体となるのであるから、浄化発生こそ大いに喜ぶべき事で、神の大なる恩恵である。

ところが医学はこれを反対に解釈し、病気をもって健康上不可なるものとして恐れ、極力鎮圧手段に出る。

すなわちせっかく毒素排除活動が発ったのを元通り固めようとする。

それが医学の療法であるから、今日までの医学がいかに誤っていたかを知り得るのである。

これを一層詳しくかいてみよう。


元来、肺臓という機能は、前述のごとく体内各局部の固結毒素が、発熱によって溶解液体化したのを、一旦肺臓が吸収する。

その毒素は、間もなく喀痰となって、次々体外へ排泄さるるのである。

その際の咳嗽は、喀痰を吸引するポンプ作用であるから、咳嗽の後は、必ず喀痰が出るにみて明らかである。

かくして体内の不純物は清掃され、その結果、健康は増進されるのであるから、実に自然は人体の健康保持に対しよく出来ているのである。

右の理を知れば、肺患などはあり得るはずはないのである。

何となれば、右のごとく体内毒素が排泄の際の一時的停留所ともいうべき機能であるからである。

その理を知らない医学は、右のごとく一時的滞留の喀痰を肺自体から作られたものと解釈する。

ゆえにその際診断の結果ラッセルを認める。

ところがラッセルは呼吸による喀痰の響きであり、それを病気と誤り、滞溜喀痰を固める手段をとる。

その手段とは安静、薬剤使用、湿布、氷冷等で、これを忌揮なくいえばせっかく清掃のために、汚物が肺臓という中途の器官まで来たのを喰止めて、排泄されないよう極力固めようとするのである、

それがため、濃度化した喀痰がレントゲン写真に雲翳となって写るや、結核と断定する。これが結核の真相である。


ゆえに、右によって考えれば、結核は全く医学が作るといっても誤りではない。

何と怖るべきではあるまいか。何年経っても結核が減らないばかりか、反って殖える傾向にあるのは前述のごとく全く誤れる結核の解釈によるので、医学が結核の大量生産をしている、という訳になる。


それについて、昭和二十四年十二月十一日発行報知新聞に次のごとき記事が出ている。

「結核の現状を統計で見ると、総死亡千につき結核の死亡率は大正七年の九四、昭和七年の九八から戦争中の十八年は激増して一四一となり、昨年度は一五一となっている」云々。


ここで特に注意すべき事は、結核菌は感染するとして恐れられており、今日巨額の費用を投じ、この防止手段に官民共に大童(おおわらわ)であるが、これがまた大変な誤りである。

右のごとく最初のある時期までは菌はないのである。

しかしながら無菌喀痰といえども排泄されずして、長く滞溜する以上固結するから益々排泄困難となるばかりか人間の体は体温という微生物発生に好条件があるから、喀痰が古くなれば結核菌が自然発生するのは当然である。

これらも医学の誤謬は結核菌を作り培養するという訳になるから、この点パスツールの菌の自然発生否定の説は全然誤謬である。


今一つ見のがすべからざる事は、陽性の際、結核発病を注意するが、この事は逆効果となる。

何とならばその一言によって患者は地獄の門に入ったと同様、前途不安に襲われる。

もちろんそのための神経作用によって意気消沈はもとより、食欲不振、不眠、神経衰弱を惹き起すのである。

中には神経性結核となり、生命を奪わるる者さえ往々見受けるのである。

また陽性後の強労働を戒めるのは、浄化力が発生するからで、医療の固める目的とは反対であるからである。

そうして特に水泳を戒めるが、これはこういう訳である。

水泳のごとき一定動作を持続するものは、一局部に毒素が集溜しやすい、水泳選手の身体を見ればよく判る。

肩部の一個所に往々卵大の固結をみるのである。

これが浄化発生によって、発熱を始め、結核初期の症状を呈するからである。

前述のごとく、結核菌は自然発生であって、決して感染ではない。

私は今日まで幾千の人に対し菌の防衛手段をとらないばかりか、むしろ感染するようにしたが、一人の感染者も出ないにみて明らかであるから、この事が判っただけでもいかに救われるであろうかを想うのである。

この一文を、当局及び専門家に提供すると共に、一日も早くその蒙を啓かれん事を冀(こいねご)うて止まないのである。」




明主様御垂示 「昼の世界になると固めることができない」 (昭和23年5月8日)

信者の質問
「この道は現代科学をすべて否定するか否か。」


明主様御垂示
「すべては否定しない。

いままでの医学でも体の構造、内臓の働きなどは参考になり功績である。

また黴菌もたいへんいいです。

また非常に間違った点は根本的には、いままでの世界は夜で病気を固めるほうが早く、溶かす力が弱かった。

そこで釈迦は薬を服めと言われ薬草喩品という経もある。

また薬師如来とは観音様の変化でもあった。

観音様さえ固めの方法を摂られたんです。

昼の世界になると固めることができず、溶かす方法がよくなる。

それを私が早く知ったんです。

いずれはみんな知るんですが、薬で固めるより溶かすほうがいいことも知ったわけです。

医者はこれに気づかず、いまもって固めんとしているのです。

西洋医学はいいこともあり、いままではよかったのです。

ちょうど冬は綿入れを着るが、暑くなればそんなものは着ない。

いまの医療は夏になったのにますます綿入れの綿を厚くして着ているようなものです。」