毒素療法について 2
明主様御教え 「薬 毒」 (昭和25年4月20日発行)
「前項のごとく今日まで、病気の浄化作用を知らず、それを固める事のみ専念したが、固めるという事はもちろん浄化発生以前に還元させる事で、本当の事が判った眼からみれば愚の一字に尽きるのである。
もちろん自然は毒素を排除しようとするのを一生懸命に排除させまいとする事を治る方法と錯覚したのであるから全然反対であった。
したがって今日までの医学は健康者にしないように一生懸命骨折って来た訳である。
しからばどうしてそのような誤謬に陥ったかというと、浄化は苦痛が伴うので薬剤を使用すると、苦痛が幾分か緩和するから、これで病気が治ると思ったのである。
一言にして言えば、一時的効果に眩惑され、知らず識らず医の本道を踏違え今日に至ったのであるから、薬剤を唯一のものと思ったのも無理はなかったのである。
これがため長い間薬剤本位に進んで来た医学は、真の医道ではないから治りそうで治らないため次々新薬が出来る。
この結果現在薬の種類の多い事は恐らく何百何千に上るであろう。
しかも今もって新薬の出現が絶えないのは右をよく物語っているのである。
右のごとく薬剤迷信に陥った医学であるから、今日吾々が病気の原因が薬剤のためである事を説いてもあまりの意外に到底信じ得られないのである。
よく言う言葉に、薬はいくら服んでも注射してもさっぱり効かないとは長い病人のいつもいう言葉であるが、これを聞く毎に私はこう答えるのである。
薬が効かないなどとはとんでもない間違いである。効かないものなら心配する必要はないが、実は効き過ぎるくらい効くのである。
というのはよく効くのではなく悪く効くのである。
すなわち薬は病気を作るからで、もし人間が薬を用いなくなれば病気は消滅してしまうであろう。
とすれば人類史上これ程意外であると共に大問題はあるまい。
これによって私は薬毒を知らしめる事が、まず人類救済の第一歩であると信じ徹底的に説くのである。
したがって、この地球上に薬というものは一つもない。全部毒である。
毒によって人体を衰弱させ、浄化停止される程よく効く薬という訳である。
私はいつも言うが新薬を造って金儲けをするのは訳はない、それは死なない程度の毒の強い薬を造ればよく効くから最も効果ありとされ、流行薬となる事請合である。
以上の理によって今後といえども何程新薬が出現しても真に病気を治し得るものは一つもない事を断言してはばからないのである。
近来注射が流行るが、服めば中毒を起す程の強烈な毒薬であるから服む薬よりよく効く訳である。
そうして薬毒によって一時的苦痛緩和の結果はどうなるかというと、その薬毒は人体に残存するのである。
ところが医学では副作用のある薬毒もあるにはあるが、薬毒はすべて消失するというのであるが、これほどの間違いはない。
それは薬毒発見までに医学は進歩していないからである。
何となれば、人体の消化器能は天与の食物のみに限定されており、それ以外の異物は処理されないように出来ているからである。
実に造化の妙は自然の二字に尽きるので、処理され得ない異物である以上、薬毒はほとんど残存する。
それが時日を経るに従い、各局所に集溜し固結する、これがあらゆる病原となるのである。
何よりも医療を受ける程病気は殖え次第に悪化するにみて明らかである。
また余病発生という事もそのためである。すなわち一の病気を治そうとして二となり、三となるというように病気が殖えるのは、医家も常に経験するところであろう。
もし真に薬剤で治るとしたら三の病が二となり一となり零となるべき順序ではないか、この判り切った事に今まで気がつかなかった事は実に不思議というべきである。
右の理によって罹病するや、放任しておけば大抵は治るものである。
もし容易に治らないのは薬毒多量のためであるから、そのような場合気永にすれば漸次治癒に向かうのは当然である。
ところがその理を知らない医学は、人為的に治そうと骨を折れば折る程逆効果となり、漸次重体に陥り死にまで至るのである。
嗚呼、医学の誤謬たるや何と評すべきか言葉はないのである。
今日まで数千年間この理を知らなかったため何億の人間が犠牲になったかは計り知れないであろう。
しかるに私がこの発見をしたという事は、時期到って神が人類救済のため、私を通じて公開されたのである、という事はいよいよ人類の理想である病無き世界がここに実現するのである。」 (「自観叢書10編 神示の健康法」より)
明主様御教え 「病気とは何ぞや」 (昭和27年御執筆)
「いよいよこれから病気についての一切を解説する順序となったが、そもそも病気とは何かというと、
一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。
従って体内に汚物さえなければ血行は良く、無病息災で年中溌剌たる元気をもって活動が出来るのである。
としたら一体汚物とは何であるかというと、これこそ薬剤の古くなったもので、毒血または膿化した不潔物である。
ではなぜそのような病気の原因となるところの薬剤を使用し始めたかというと、これには大いに理由があるから詳しくかいてみるが、
そもそも人類は未開時代はともかく、漸次人口が増えるに従って、食物が不足になって来た。
そこで人間は食物を探し求め、手当たり放題に採っては食った。
もちろん農作法も漁獲法も幼稚の事とて、山野、河川至るところで木の実、草の実、虫類、貝類、小魚等を漁ったが、
その良否など見分ける術もないので、矢鱈(やたら)に食欲を満たそうとしたので、毒物に中(あ)てられ、その苦痛を名付けて病気と謂(い)ったのである。
そこで何とかしてその苦痛を脱れようとし、草根木皮を試みたところ、たまたま苦痛が軽くなるものもあるので、これを薬と称して有難がったのである。
その中での薬の発見者として有名なのが、中国漢時代に現れた盤古(ばんこ)氏で、別名神農という漢方薬の始祖人であるのは余りにも有名である。
右のごとくであるから、食物中毒の苦痛ももちろんその浄化のためであり、薬効とはその毒物の排泄停止によって苦痛が緩和されるので、
すでにその頃から浄化停止をもって病を治す手段と思ったので、
この迷盲が二千有余年も続いて来たのであるから驚くの外はない。
そうして西洋においても草根木皮以外あらゆる物から薬を採ったのは現在といえどもそうである。
従って薬で病気を治す考え方は、これ程開けた今日でも原始時代の人智といささかも変っていないのは不思議といっていい。
さていよいよこれから実際の病気について徹底的に解説してみるが、そもそも人間として誰でも必ず罹る病としては感冒であろうから、これから解説するとしよう。
まず感冒に罹るや発熱が先駆となり、次で頭痛、咳嗽、喀痰、盗汗、節々の痛み、懈(だる)さ等、その内の幾つかの症状は必ず出るが、
この原因は何かというと、体内保有毒素に浄化作用が発り、その排除に伴う現象である。
ところがその理を知らない医療は、それを停めようとするので、これが大変な誤りである。
今その理由を詳しく説明してみるとこうである。
すなわち人間の体内に毒素があると、機能の活動を妨げるので、自然はある程度を越ゆる場合、その排除作用を起すのである。
排除作用とは固まった毒素を熱によって溶解し喀痰、鼻汁、汗、尿、下痢等の排泄物にして体外へ出すのであるから、
その間の僅かの苦痛さえ我慢すれば、順調に浄化作用が行われるから毒素は減り、それだけ健康は増すのである。
ところが医学は逆に解して、苦痛は体内機能を毀損(きそん)させる現象として悪い意味に解釈する結果、極力停めようとするのであるから、全く恐るべき誤謬である。
そうして元来浄化作用とは、活力旺盛であればある程起り易いのであるから、弱らせるに限るから、ここに弱らせる方法として生まれたのが医療である。
もちろん弱っただけは症状が減るからこれも無理はないが、実際は無智以外の何物でもないのである。
その弱らせる方法として最も効果あるものが薬である。つまり薬と称する毒を使って弱らせるのである。
人体の方は熱によって毒素を溶かし、液体にして排泄しようとして神経を刺戟する。
それが痛み苦しみであるのを、いつどう間違えたものか、それを悪化と解して溶けないよう元通りに固めようとする。
それが氷冷、湿布、解熱剤等であるから、実に驚くべき程の無智で、これでは病気を治すのではなく、治さないようにする事であり、一時の苦痛緩和を治る過程と思い誤ったのである。
ところが前記のごとく苦痛緩和手段そのものが病気を作る原因となるのであるから、由々しき問題である。
つまり天与の病気という健康増進の恩恵を逆解して、阻止排撃手段に出るその方法が医学であるから、その無智なる、評する言葉はないのである。
近来よく言われる闘病という言葉も右の意味から出たのであろう。
右のごとく感冒に罹るや、排泄されようとする毒素を停めると共に、薬毒をも追加するので、一時は固まって苦痛は解消するから、これで治ったものと思うが、
これこそ飛んでもない話で、却って最初出ようとした毒素を出ないようにして後から追加するのであるから、
その結果として今度は前より強い浄化が起るのは当然である。
その証拠には一旦風邪を引いて一回で治り切りになる人はほとんどあるまい。
また陽気の変り目には大抵な人は風邪を引くし、風邪が持病のようになる人も少なくないので、そういう人がこれを読んだらなるほどと肯くであろう。
このように人間にとって感冒程簡単な体内清潔作用はないのであるから、風邪程有難い物はないのである。
ところが昔から風邪は万病の基などといっているが、これ程間違った話はない。
何よりも近来のごとく結核患者が増えるのも風邪を引かないようにし、たまたま引いても固めて毒素を出さないようにする。
従って結核予防は風邪引きを大いに奨励する事である。そうすれば結核問題など訳なく解決するのである。
それを知らないから反対の方法を採るので、益々増えるのは当然である。
そうして右のごとく病原としての毒素固結であるが、これ原因は先天性と後天性と両方ある。
先天性はもちろん遺伝毒素であり、後天性は生まれた後入れた薬毒である。
ところがその両毒は人間が神経を使う局部へ集中固結する。
人間が最も神経を使うところとしては、上半身特に頭脳を中心とした眼、耳、鼻、口等であるから、毒素はそこを目掛けて集中せんとし、一旦頸部付近に固結するのである。
誰でも首の周り、肩の付近を探ればよく分かる、そこに固結のない人はほとんどないといってもいい。
しかも必ず微熱があるのは軽微な浄化が起っているからで、頭痛、頭重、首肩の凝り、耳鳴、眼脂(めやに)、鼻汁、喀痰、歯槽膿漏等はそのためである。
ところが毒結がある程度を越ゆると自然浄化が発生するし、その他運動によって体力が活溌となったり、気候の激変によって自然順応作用が起ったりする等の諸原因によって風邪を引くようになる。
よく肩が張ると風邪を引くというのはこれである。
また咳嗽は液体化した毒結排除のためのポンプ作用であるが、これは首の付近とは限らない。
各部の毒結もそうである。次にくしゃみであるが、これはちょうど鼻の裏側、延髄付近の毒素が液体となったのを出すポンプ作用であるから、この理を知れば実際とよく合う事が分るのである。
右のごとく頭脳を中心とした上半身の強烈な浄化作用が感冒であるから、この理屈さえ分れば、たとえ感冒に罹っても安心して、自然に委せておけばいいので、
体内は清浄となり、順調に割合早く治るのであるから、この事を知っただけでも、その幸福の大なる事は言うまでもない。」
明主様御教え 「病気とは何ぞや」 (昭和28年1月1日発行)
「序論にもある通り、現在米国における病気の漸増(ぜんぞう)は何がためであるかを、その根本から説いてみるが、
まず病気なるものの発生原因であるが、驚くなかれ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。
つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし、増やしているという到底信じられない程の迷妄である。
そうしてこれは説明の要のない程明らかであるにかかわらず、それに気が付かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。
それどころか益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。
ではそのような不可解な原因はどこにあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気をもって悪い意味に解釈しているからである。
それをこれから徹底的に解説してみよう。
本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と、後天性毒素とを保有している。
先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。
というと何人も意外に思うであろう。
何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。
特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。
ゆえにもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならないはずであるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。
元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、ことごとく毒物であり、毒だから効くのである。
それはどういう意味かというと、薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。
では薬がなぜ毒物であるかというと、そもそも人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。
そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。
すなわち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、
それで栄養は充分摂(と)れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分るはずである。
この意味において生きんがために食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、
ちょうど生殖と同様、子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。
右のごとく人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているので、
薬は異物である以上、含まれている栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。
これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。
その集溜個所としては神経を使うところに限られている。
神経を使うところといえば、もちろん上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。
いかなる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。
これが凝りであって、ある程度に達するや自然排泄作用すなわち浄化作用が発生する。
その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。
これを名付けて感冒というのである。
ゆえに感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し、治るという実に結構なものであるから、
感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるにかかわらず、
それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、いかに間違っているかが分るであろう。
そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程起り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。
そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬(がんやく)、塗布薬、注射薬等色々な形にして、浄化停止に応用したのである。
それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しずつのませる。
このため一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。
このように薬毒をもって溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間がいかに有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧(やかま)しく言ったり、感冒を恐れるのもそのためである。
また人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。
というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死のためで、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。
右のごとく医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、そのための絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、すべての療法は固め手段ならざるはないのである。
その中で一、二異(ちが)うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が経てば元通りになるから何にもならないし、
またラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。
以上のごとく現在までの療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。
何よりも医師は「治す」とは言わない。
「固める」というにみて明らかである。
しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く、悪化するのは当然である。
その結果ついに生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。
治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞くところである。
また衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞くところである。
面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、「自分は病気した事がないから、医者や薬の厄介になった事はない」などというが、
吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。」 (「アメリカを救う」より)
明主様御教え 「現代医学論」 (昭和28年御執筆)
「この著を編纂するに当って、私は非常な決心をした。
というのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずにはいれないからである。
これほど進歩したと思い、世界万民が謳歌し、信頼している現代医学に対し、私は真向から鉄槌を下すのであるから、人類救済のためとは言いながら、まことに忍び難いものがある。
しかしながら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私といえども絶対者の命に従わざるを得ないと共に、
現在病魔のために地獄の苦しみに呻吟しつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬にある以上、到底晏如(あんじょ)たるを得ないのである。
ゆえにもし現在のままの迷蒙を続けるとしたら、人類の将来は果していかになりゆくや、思うさえ慄然(りつぜん)とするのである。
そうしてこれをかくに当っては、まずその根本から明らかにせねばならないが、それにはまず現代人の科学至上観念である。
序論にもある通り科学さえ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、そのため事実よりも学理の方を重視し、いかなる発見創造といえども、既成学理に合わない限り拒否して取上げないとする偏見であって、これが文化的と思っているのであるから困ったものであるが、むしろこれこそ文化の反逆でしかない。
何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇なくそれを取上げる、ここに文化の進歩があるのである。
ところがそれを頭から否認するという丁髷(ちょんまげ)思想であって、この代表ともいうべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはないはずの新しい封建である。
という訳でこの著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、しかし事実が何よりの証拠である。
それは今日のごとく医学が進歩したにかかわらず、至る所病人の氾濫である。
ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞くところで、現代人残らずといいたい程何らかの病気をもっており、真の健康者はほとんど皆無といってもよかろう。
これらにみても分るごとく、もし現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者のことごとくは失業者とならねばならないはずであるにもかかわらず、事実はその反対であるとしたら、
ここに疑問が生ずべきだが、一向そういう気振(けぶり)はみえないどころか、益々迷路を驀進(ばくしん)している有様で、その危うさは到底観てはいれないのである。
従って私はこれから徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添えてある以上、いかなる人でも飜然(ほんぜん)として目覚めない訳にはゆかないであろう。
そうして現代人の病気を恐れるのはなはだしく、一度病に罹るや早速医師の診療を受ける。
ところがこれがまた意想外であって、治るようにみえてもそれはある期間だけの事で、根治とはならない。
そのほとんどは慢性か再発かのどちらかである。これを常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのはこれも迷信のためである。
そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。
もちろん入院すれば多くは手術を伴うから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験するところであろう。
右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさえ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決っている。
その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事もしばしばあるが、ほとんどは泣寝入りである。
ところが手術も受け、あらゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金は費い果し、二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなり、
果ては自殺を図る者さえ往々あるのは、よく新聞に出ているが、そこまでゆかないまでも病気が原因となって、色々な忌わしい問題を惹起(じゃっき)するのは衆知の通りである。
今日あらゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言いたいくらいである。
それに引換え我浄霊医術によれば、いかなる重難症でも短期間に、しかも僅かの費用で快癒するので、これを医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶っているからである。
ここにおいていかなる無神論者といえども、今までの不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。
次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何がために生まれ、誰が造ったかという事である。
これこそ昔から誰もが最も知りたいと思っている問題であろう。
もちろん人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主すなわち神が造ったものに違いないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。
というのは人間は神の御目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きている限り健康で活動出来るのが本来である。
しかるに何ぞや、病気に罹るという事は異変であって、そこに何らか真理に外れている点があるからで、この点に気付き是正すれば治るのが当然である。
ところがこれに盲目なるがため、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れているからである。
そうして今日までの病理は、大体左のごとくである。
すなわち漢方医学においては、五臓の疲れまたは不調和のためであるとし、西洋医学においては黴菌感染によるとしている。
このどちらもまことに浅薄極まるものであって、いささかも根本に触れていない迷論である。
しかも後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであろうが、それは事実が語っている。
今日医師は患者から訊(き)かれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めているであろう。
つまり病気の真因が分っていないからである。
そうして医学における誤謬の根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。
すなわち医学は苦痛そのものをもって人体を毀損(きそん)し、健康を破り、生命を脅(おびやか)すものとしており、苦痛さえ除れば病は治るものと解している。
この考え方こそ大変な誤謬であって、今それを詳しくかいてみよう。
そもそも病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それがある程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。
これを吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、この苦痛を称して病気というのである。
ゆえに病気とは体内清浄作用の過程であるから、これによって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、これが真理である以上、この著を読めば必ず納得されるはずである。
ところがいつの頃どう間違えたものか、これを逆に解釈して出来たのが医学であるから、この逆理医学がいかに進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。
右のごとく医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、この考え方によって進歩発達したのが現在の医療である。
そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、これを停止するには健康を弱める事である。
そこで弱らす手段として考え出したのが毒を服(の)ませる事で、それが薬であるから、薬とはもちろんことごとく毒である。
すなわち毒をもって浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るから、それを治ると錯覚したのであるから、世にこれほどの無智はあるまい。
従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなくむしろ治さない方法である。
ゆえに医師も治るとは言わない、固めるというにみても明らかである。
右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるようにし、排除を速(すみや)かならしめ、無毒にする事であって、これが真の医術である。
これなら再発の憂いも罹病の心配もなくなり、真の健康体となるのである。
ところが一層厄介な事は、右のごとく毒素排除を止めるための薬が毒素化し、これが病原となるので、つまり病を追加する訳である。
この証拠として医療を受けながら、余病といって病が増えるのが何よりの証拠である。
本来なら治療をすればする程病気の数は減るはずではないか。
それがアベコベとしたら、これほど理屈に合わない話はあるまい。
知らぬ事とは言いながら、医学はいかに迷蒙であるかが分るであろう。
以上のごとき逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、服むと中毒するくらいの薬なら一層効くから、近来のごとく注射流行となったのである。
また近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼(か)の有名な蘭方医の泰斗杉田玄白先生は「病に薬を用いるのは、毒をもって毒を制するのだ」といったのはけだし至言である。
従って熱、咳嗽、吐痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、ことごとくは排毒作用であり、腫物、湿疹、疵(きず)や火傷後の化膿等も同様であるから、実に結構なものである。
ゆえに何病でも何ら手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行われ、速かにしかも確実に治るのである。」
明主様御教え 「毒素とは何か」 (昭和28年御執筆)
「病気の原因は体内に溜った薬毒の固結が、溶解排除される苦痛である事と、医学はその苦痛を逆解し、溶けようとする毒素を固める事であるが、それには毒を体内に入れて弱らす事である。
というのは毒素排除すなわち浄化作用なるものは、人間が健康であればある程旺盛なものであるからである。
そこで浄化作用を停止する事で、それには健康を弱らす事である。
その理を知らない人間は、昔からその毒を探し求め飲ませたところ、からだが弱り、浄化が弱り、苦痛が軽減したのでそれで治ると思い、有難いものとして薬と名付け、病気の場合これを唯一のものとして用いたのである。
これについて有名な蘭方の名医杉田玄白のいった事は、「薬は毒である。治病に薬を飲ませるのは、毒をもって毒を制するのだ」との言葉は至言である。
ただいささか徹底しない点は、毒をもって毒を出さないようにするといった方がなおハッキリする。
この理によって毒の排除を止めるに毒をもってする以上、古い毒素の上に新しい毒素を追加するので、古い毒の固りの外に新しい毒の固りが増えるから、最初より浄化が悪性となる。
それに対しまた新しい毒を入れるから、段々毒が増えてゆき、からだは弱る上に弱るので、浄化の力も弱くなる。
こうなった人は顔色悪く、風邪引き易く、元気なく、常に医者と薬に浸りきりになり、生ける屍のごとくなって、年が年中苦しみ通しであって、一人前の仕事など到底出来ない哀れな者である。
しかもそうなってもその原因が分らないから、相変らず次から次へ医師を取換え、新薬を探し求め、灸や禁厭(まじない)、民間療法、信仰等に遍歴しているが、
それでも根本が分らないため、散々金を使った揚句(あげく)、苦しみながらあの世行となるので、この因はといえば医学の誤りであるから、
この罪悪こそ驚くべく恐るべきもので、結果からいえば医学は悲劇の製造元であるといってもいい。
このように私は思い切って赤裸々にかいたが、これを読んだ医学関係者は何と思うであろう。
中には憤慨する者もあるであろうが、全人類救済上止む事を得ないので、小の虫を殺して大の虫を助ける訳であって、これこそ神の大愛によるのであるから、むしろその恩恵に感謝すべきである。
その結果病なき人間が増えるとしたら、この世界はどうなるであろうか。
今までの地獄世界は一転して、地上天国、極楽世界となるのは必然で、想像するだに歓喜幸福の希望が湧くであろう。」
明主様御教え 「毒素は頭脳に集中・法話 二」 (昭和28年2月25日発行)
「薬毒の溜る場所は必ず神経を使うところに限られ、上半身、特に頭脳を中心として眼、耳、鼻、口などでここに毒素が集中して一たん頸(くび)の周りに固まる。
これをコリといって、ある程度に達すると浄化作用(自然排泄作用)が発生する。
この場合、発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿などになって排除される。
この状態を普通感冒と名付けている。
感冒は、毒素排除の一つの過程だから、少し苦しいかも知れないが、我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄になって治る。
これを知らないからこの浄化の苦痛を悪い意味に解釈して考え出したのが医療だ。
この医療というものがどんなに間違っているものだか解るだろう。
ところがこの浄化作用は人体の活力が旺盛であればある程、起り易いもので、これを停めるには、人体の活力を弱らせるに限るというわけで、薬を用いたことになる。
またよく効く薬とは、中毒を起さない程度に毒を強めたものだといえる。
このように薬毒で溶解排除しようとしてかえって毒素を固めてきたから、今の人達がいかに有毒者であり、病気が起り易くなっているかはよく解ると思う。
最近人間の平均寿命が六十何歳になったといって喜んでいるが、これはおかしい。
人間は病気さえなければ、百歳以上は楽に生きられる。百歳以下で死ぬのは病気による不自然死のためで、無病となれば自然死だから当然長生きする。
要するに医療は病気をなおすのでなくて、一時的苦痛の緩和手段に外ならない。
医療の中でちょっと違うのは灸点(きゅうてん)と温熱方法だが、これも一時的な熱の刺激によって、その場所へ毒素を誘導させるので楽にはなるがまた元にもどってしまうから、結局なんにもならない。
ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織そのものまで破壊してしまうから差引きマイナスだ。
つまり現在までの療法は徹頭徹尾固める方法で毒素を溶かして、排除させはしないわけだ。
このことは病人が医者の所に行っても、医者は決して「治す」とはいわず、「固める」というのを見ても解る。
余談だが、治そうとして高い薬などを使っている人ほど病気がなおらず、その反対に「どうでもいい」と思う病人程、治りがいいという話を、医者からよく聞くが、これはよく解る話だ。
昔の諺(ことわざ)に「ウヌボレとカサッ気のない者はいない」というのがあるがこのカサッ気は、俗に胎毒といっており、近代医学では遺伝黴毒ということだ。
これは薬毒の古くなったもので、一度は排除作用が発生しなくてはならないのだが、この現象を天然痘といっている。
昔ジェンナーが種痘というものを発見して、天然痘をまぬがれたが、種痘によって天然痘の毒素が完全に消滅したわけではない。
これは単に排除の力を弱まらせただけで毒は依然として体の中に残っている。
この残っている毒素がいろいろな病源にもなっている。
その順序をいうと、毒は時が経つと、身体のうちのどこかの場所に集まって固まる。
この浄化作用が感冒でありまたいろいろの皮膚病、擬似小児麻痺、脳膜炎でもあるがイギリスや、フランスの国民の健康が衰えたのは、種痘が発見されてからという事実から見ても、
人類から天然痘を失くすためには、薬を全部海にでも捨てなくちゃいけないが、こんなことをしても急には効果が現われない。
なぜかというと、何世紀もの間、薬詰めになってきた人間だから全部治すには、二、三代はかかると見なくてはいけないだろう。」
明主様御教え 「医業者に警告する」 (昭和29年4月21日発行)
「これから追々わがメシヤ教が発展するに従い、最も脅威を感ずるのは、何といっても医師と売薬業者であろう。
それかあらぬか近頃目には立たないが売薬業者はその対策に腐心し、密かに協議しているとの噂も耳にするが、さもありなんと思う。
この事について私は以前から相当の考慮はしていたが、それかといって大善は小悪を伴なう以上、
全人類を病苦から救うという大聖業であるとしたら、その関係者がある程度の犠牲もまた止むを得ないと思うのである。
しかしこれまでのところさしたる事もなく済んで来たのであるが、いずれはそういう時の来るのも予想はしていた。
何しろ本教によって救われる人々が日に月に増えるに従い、追々世間の注目を引くようになるから、医業者に与える影響もまた少くないのは当然である。
そうしていつも言う通り現在進歩したと称する医学は、進歩どころか逆に病気を作り、悪化させる事と、薬も同様毒物であり、
病気に効くのは一時的で、結局は病気を作り、増悪させる以外の何物でもないのであるから、
この事が一般に知れ渡るとしたら、嫌でも問題にならざるを得ないであろう。
しかし現在はそれが分らないため、逆に健康上不可欠のものとして、
むしろ奨励さえしているのであるから、実に重大問題である。
ここでこの大発見がどうして生まれたかという最初からの経路をザットかいてみるが、
ちょうど今から二十数年前であった。私は生来の病弱を解決せんがため苦心努力の結果、
自らの体験によって医薬の誤謬を根本から知り得たので、
これは容易ならぬ問題として引続き熱心に研鑚を続けている内、
たまたま信仰生活に入るに及んで、病理、健康、治病の要諦が分ると共に、治病の力をも与えられたので、
ここに動かすべからざる確信を得、一大決意の下に普く天下に知らしむべく邁進して来たのである。
ところが予想のごとく追々知れ渡るに従い、救われる者数知れず、
いずれは世界的大問題になるのは、最早決定的といってもよかろう。
以上のごとく私は今日まであらゆる方法によって、医学の迷蒙と薬の害毒を分らせるべく努力して来たが、
何しろ長い間の医薬迷信に捉われている現代人の事とて、その困難さは並大抵ではない。
しかしいかに頑迷であっても、真理は飽くまで真理である以上、
結局は兜(かぶと)を脱がざるを得なくなるのも分っている。
何しろ現在日々数えきれぬ程の重難病者が救われつつあり、救われた人々の感謝感激の礼状は、現在一カ月二百通以上に及んでおり、なお日に月に増えつつある現状である。
この趨勢(すうせい)を以ってすれば、社会一般に知れ渡る日も左程遠くはあるまいから、
その時になって医業者諸君の慌(あわ)て出すのは分りきっているから、そうならない内に一日も早く頭の切替えをする事である。
それを予想してか近頃当事着が内密に対策を講じている話も聞くが、それは表面からの対抗は困難であるからである。
本当からいえば、この病院で、この療法で、この薬で、この通り全治した、という証拠を見せるべきだが、それが不可能であるから、問題は極めて深刻である。
しかも事は人命に関する重大問題であり、一方前記のごとき画期的真の医術が生まれた以上、既成医学の崩壊は時の問題でしかあるまい。
故に事ここに至っては、どうしても大乗的見地に立って善処するよりほか致し方ないであろう。
しかもこの救世の大業たるや神意の発動であるから、免れる道のないのはもちろんであるから、当事者は一日も早く一大決意をされん事である。
そうでないとしたら、近き将来容易ならぬ事態に直面するのは、火を瞭(み)るよりも明らかである。」
明主様御教え 「抵抗力」 (昭和25年2月18日発行)
「よく医学では「病気に侵されないようにするには抵抗力を強くしろ」というが、これは反対である、
何となれば抵抗力があるから病気に罹るのである、
言うまでもなく抵抗力とは浄化作用であるからである、
ところが逆理的医学は、病気に罹らないようにするには抵抗力を強めるとなし、
薬毒を入れるので反って衰弱する、そのため浄化力が発生しない、抵抗が弱まるから病気に罹らないという訳で、いかに間違っているかが判るであろう。」