毒素療法について 1
明主様御教え 「毒素療法」 (昭和11年5月15日発行)
「病気は、自然浄化作用であるという事は述べた通りである。
故に、人間は、病気という、浄化作用があるから、健康を保っていると言ってもよいのである。
であるから真の病気治療とは、病気を外部へ排泄する事であって、内へ押込む事ではない。
例えば、腫物が出来ようとする場合、それを散らそうとするが、それが、大変な誤りである。
肉体自身の自然浄化作用が、折角、内部の汚物(膿)を排除しようとして、
皮膚面にまで、押し出して来たのを、再び元へ、押込めようとするのであるから、
もし、その目的通りに内部へ還元したなら、その汚物は、内臓へ絡んで、内臓の病気を起す事になる。
故に、飽くまでも、外部へ膿を排泄し、残余の無いように、しなければならないのである。
膿の排泄であるところの、浄化作用が起るという事は、
それは、その人がより健康で、生活力が、旺盛であるからである。
それが不純物である膿を、排除しようとする。
その現象としての病気発生であって、それに伴う苦痛である。
故に、苦痛があればあるだけ、肉体は浄化されつつある訳である。
随って、その場合として余病などは、決して、起るべきはずが無いのである。
しかるに、実際は、医療中、よく余病が起るのであって、
はなはだしいのは、幾つもの余病が起るという事は、排泄さるるべき汚物を、押込めるからである。
例えば、ある一部に病気が起るとするとそれを散らそうと、氷冷法などを行う、
それが為、そこへの膿の集溜運動は、停止されるから、
膿の残部は、他の方面へ、方向転換をする。
それが他の部分へ余病となって表れるのである。
その一例として中耳炎を氷冷するとする。
熱に因って溶解された膿が、中耳に向って進行し、そこから外部へ出ようとする、
それを氷冷によって、停止をさすから、
膿はたちまち、方向転換をし、小脳へ向って、進行する。
その結果が、脳膜炎である。
手当をしなければ、中耳炎で済むべきものを、
手当をして反て、脳膜炎という余病を併発さすのである。
医学の誤謬は、実に、及ぶべからざるものがある。
故に、今日までのあらゆる療法は、病気を治癒しようとする場合、
薬剤やその他の方法に依って実は、血液を汚濁させようとするのである。
それは、血液は汚濁すればする程、浄化作用の力が、弱まるからである。
浄化作用が、弱まっただけは、病気現象が衰退するのは、理の当然である。
即ち、病気が一時引込むのである。
それがちょうど、病気が治癒されるように、見えるのである。
動物の血や、牛乳を飲むとか、蝮、蛇等を呑むとか、注射で、薬液を血液に注入する等は、いずれもみな、血液を汚濁させるのである。
それによって、病気を引込ませるのであり、
それを、軽快又は、治癒と誤認するのである。
故に、一旦、治癒の形を呈するも、時日を経過するにおいて、再び、自然浄化による、病気発生となるが、
今度は、本来の病気以外、血液汚濁療法の、その膿化の排泄も加わるから
捲土重来(けんどちょうらい)的に病勢は強まるのは、当然である。
かくのごとく、今日までの療法は、根本的治癒ではなく、一時的逆療法であって、
その根本に気が付かなかった事は、蒙昧であったとも言える。
人類を短命ならしめた真因は、ここにあるのである。
今日のほとんどと言いたい程膿と毒血によって弱体化しつつある現状は、これに外はないのである。
しかも、それに気の付かない、近代の日本人が、益々、薬剤や動物性食餌を求めようとするのは、全く戦慄そのものである。
これを他の事でたとえてみよう、ある一国に、敵が侵入したとする。
その侵入した敵を、味方の軍勢が段々、国境付近にまで、追詰めて、今一息という時、
別の敵が、他の方面から侵入して来るのである。
その新しい敵の、後背からの脅威によって、国境にまで敵を追詰めていた味方の軍勢は、後退するの止むを得ない事になる。
そこで、国境に追詰められていた敵は、俄然として踵(きびす)を返し、再び内部へ侵入して来る。それと同じ訳である。
これを以て、真の治療としては、味方に声援を与えて、一挙に敵を国境外へ、放逐してしまう事でなければならない。
この道理を考える時、今日までの治療方法は、いかに誤っているかという事が、判るであろう、
故に、世間よく効く薬というのは、最もよく血液を溷濁(こんだく)させる力のある訳である。
彼のサルバルサンが、一時的にも卓越せる効果があるという事は、
元来が、恐るべき毒薬である砒素(ひそ)を原料として、作られるからである。
今、自然排除によって、黴毒が発疹等の現象を呈するや、
サルバルサンを注射する時は、前述の理によって、その現象は速かに、引込むのである。
サルバルサンの効果が一時的であるというのは、この様な訳である。
昔有名なる漢方医先生の著にはその事が書いてある。
元来病に効くのは、薬ではなくて、毒である。毒であるから効くのである。
それは、毒を以て毒を制するという訳であると、いうのであるが、
実にその通りであって、私の言う、毒素療法の意味である。
かように、今日までの間違った治療が、段々人間の血液を汚濁させ不健康ならしめ、
ついには、生命をまで短縮したのである。
病気が起れば、毒素療法をし、又、病気が起れば、毒素療法をしては、ともかくも一時的安易を得て来たのである。
言い換えれば、汚物を排除しようとすれば、それを引込める。
又、排除されようとすれば引込めるという手段を、執って来たものであるから
時の経過によって免る事の出来ない最後の自然大浄化によって、たおれるのは当然である。
その時は、加重されての多量の猛毒であるから、肉体が浄化作用に堪えられないからである。
吾々が、今日の人間が、膿塊毒血であるというのも、この理を知れば、能く肯けるであろう、
世間一旦、病に罹るや、治療後相当長い間虚弱であるのは、毒素療法の為である。
彼の窒扶斯(チフス)のごとき、薬剤を用いずして治癒されたものは、
予後、頗る健康になるのも、この毒素療法に依らないからである。
今日の人間体内に、堆積しつつある膿毒に対(むか)って、新日本医術による、不思議な光波を放射する時、
完全に浄化作用が行われるのである。
そうして現在、この光波以外に血液を浄化すべき方法は、全世界に無い事を断言して慣らないのである。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
明主様御教え 「誤れる毒素療法」 (昭和11年御執筆)
「そもそも、浄化力の強弱は、血液の清濁に因る事は前述の通りである。
故に、血液が清浄であればある程、浄化力は旺盛であって、これが真の健康体である。
この状態の人は罹病はするが、いつも軽微である。
それは前に述べた通り、毒素が多量にならない内、早く排除されるからである。
故に、罹病はしても発熱は無いのであって、伝染病にもほとんど罹らないのである。
今日、健康であるという人も、第一種の人は極稀であって、普通健康者と言っても、第二種に属する人である。
この第二種の人が偶々(たまたま)病に罹るや、薬剤の注射又は服用、滋養物と思って肉食を摂る為、血液は汚濁する。
血液汚濁は浄化力が弱められるから、病気発生の勢を挫(くじ)かれ、病気現象は一時引込むのである。
それを治癒したと誤認するのが今日までの医療であった故、
治癒したと思った病気の再発が多いのは、この理由に寄るのである。
又、近来流行する絶対安静法も、同一の理であって、
それによる新陳代謝の退化、運動不足に因る胃の衰弱等により、
浄化力が弱る故に、病気発生が一時停止される訳である。
即ち、解熱、喀血、咳嗽減少により、病気軽快と誤認するのであるが、
焉(なん)ぞ知らん、毒素還元の為による血液の汚濁、絶対安静に因る器能の衰弱と相まって、
全体的衰弱は実に著しいのであるから、大抵は死に到るのである。
これらは最も医療の誤謬であって、結核患者に対する医療は、ほとんどこれであるから、死亡率の高いのも無理はないのである。
浄化力停止の例として、二、三を挙げてみよう。
彼の梅毒に卓効ありとするサルバルサンであるが、これを注射する時、梅毒症状は速かに軽快するのである。
宛(あた)かも一時治癒したごとくである。
しかし、この薬剤は毒素である砒素剤が主であるから、
その毒素に依って汚濁された血液は、浄化力が弱まるからである。
発明者エールリッヒ氏が苦心惨澹の結果、漸く六百六回目に完成したというのは、
その毒素を、生体の生命に危険なからしむる程度まで成功し得たという訳である。
故に、この注射によっての治癒は、一時的であるというのは、
毒素療法に因る浄化力停止であるからである。
次に、喘息における注射であるが、これも一時的顕著な効果はあるが、治癒力は毫も無いのである。
医学上での理論はともかく、要するに一時的麻痺による毒素療法に外ならないのである。
元来喘息は、横隔膜の下部に水膿が溜結するので、
その排除作用としての咳嗽、喀痰、発作時の呼吸困難であるが、
注射に因る薬剤麻痺によって、浄化作用を停止さすのである。
故に、これが為に一種のモヒ患者のごとき中毒症を起すのは勿論、
チアノーゼや呼吸困難の症状が、増大するのは実際である。
又、肺結核における喀血の場合、止血注射をするが、これらも浄化力停止作用であって、
折角排除されなければならない毒血を、停滞さす結果となるから、実は病気治癒の妨害でしかないのである。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「病気を治す薬は一つも無い」 (昭和11年4月21日御執筆)
「薬では、病気が治らないという事は、医家自身も常に痛感している事であろう。
しかし、ただ、苦痛を緩和する効果はある。
要するに、病気を弾圧するか、又は、麻痺に依って一時苦痛の感受を軽減し得るだけの事である。
薬剤とは、それ以外の何物でもないのである。
しかしながら、常に私も言うごとく、苦痛とは病気治癒工作の過程であるから、
苦痛緩和はそれだけ、病気治癒を遅らす道理である。
のみならず、それに、薬剤の余毒が伴うのであるから、二重の不利を受ける訳である。
実に薬剤による血液の汚濁は恐るべきものであって、
それは、いかなる薬剤といえども、多少の血液汚濁は免かれないのである。
血液汚濁の害としては、浄化力を衰耗させる結果、著しく活力を減退さす事である。
故に、その結果として、病気に罹り易くなり、病気治癒の力が弱まるのである。
それは、濁血程殺菌力が無いからである。
かくのごとく、薬剤なるものは病気治癒を遅らせる事と、血液を汚濁させる害がある以上、
他面、苦痛を緩和させるという益と比較してみる時、
それは、害の方がはるかに優っている事を知らねばならないのである。
しかるにも不拘(かかわらず)、近代人は無暗に薬剤を用いたがる。
それは全く薬剤の害を知らないからであるから、
一日も早くこの理を知悉させなければならないのである。
近代人の罹病率や短命の多きと病気治癒の遅々たる事実は、少くともこれが原因である事は、争う余地が無いのである。
二六時中、薬餌に親しみながら、これという病気もなく、
といって健康にもならないという人は、大抵皆、薬剤中毒患者と言ってもよいので、
そういう人は薬剤使用を廃止すれば、漸(ぜん)を逐(お)うて健康は恢復するのである。
私は大いに叫びたい。
国民保健は、薬剤廃止からである・・・と。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「病気を悪化させる医療」 (昭和11年4月22日御執筆)
「現代医療は、病気治癒でなくて病気遅延であり、病勢を悪化さすのであるという事は前述の通りである。
その点について、今一層徹底的に説いてみよう。
人がまず病気に罹るとする。
そこで、医者にかかる。
この場合医療は発熱に対しては解熱療法をし、咳嗽は止めようとし、
腫物は散らそうとし、痛みには薬剤を塗布し、患部へは湿布又は氷冷法等を行うのである。
これらはいずれも苦痛緩和の方法ではあるが、実は病気治癒の妨害である。
浄化作用であるべき病気現象を軽減せんとするのは、取不直(とりもなおさず)治癒の妨害をする訳である。
それ所ではない。もう一層大いなる誤りがある。
それは、病気に対する抵抗力を強めようとして、滋養物と唱え、獣性食餌を摂らせようとするが、
これは血液を溷濁(こんだく)させるので、即ち毒血増加法である。
毒血は殺菌力弱く抗病力が薄弱であるから、
結果としては病気を悪化させる事になるのである。
又、薬剤の注射及服用は、これまた非常に血液を溷濁させるのである。
特に、注射においてはいかなる注射といえども、
血液に入る時、血液から言えば、不純物の侵入であるから、
不純物侵入に遇った血液は、その血液本来の使命である浄化力が弱まるのは当然である。
浄化力が弱まる結果、病気現象が一時引込むので、宛(さなが)ら治癒されるように見えるのである。
これは後段、毒素療法の項に詳説してあるから、ここでは略する事とするが、
ともあれ、前述のごとく、獣肉営養及び薬剤による血液溷濁が病気悪化に拍車をかけるのであるから、
今日一朝罹病するや、その治癒の遅々たる事、余病の発生する等、悉(ことごとく)この理によるのである。
実に恐るべきは誤れる医術と、それに因る無智な療法である。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「殺菌か養菌か」 (昭和11年御執筆)
「西洋医学唯一の治病法は殺菌であるとしている。
そうして、その殺菌法としては、現在薬剤と光線応用である。
しかしながら、いかなる薬剤を以てしても、
組織に無影響で殺菌し得る事は、到底不可能である事は瞭(あきら)かであるが、
他の方法が無い為、止むなく不確実と知りつつ行っているのに過ぎないのである。
奏効不確実だけならよいが、その殺菌法が、反って病菌繁殖となり、
病気悪化の原因となる事は知識しないのであるから、まことに危険この上も無いのである。
しからば、それはいかなる理由であるか、ここに説明してみよう。
今、殺菌の目的を以て薬剤の服用又は注射をするとする。
それら薬剤を吸収した血液は勿論、殺菌の目的は達し得るはずが無い。
ただ溷濁(こんだく)するのみである。
例えば結核にせよ、薬剤が幾種もの消化器能を通過し、
又は、血管を通過するにおいて、その変化による殺菌力は薄弱になるのは当然であるから、
患部へ作用する頃は、いか程減退しているか測られないであろう。
この点試験管内で直接殺菌する事とは、比較にならないであろう。
そうして、時日を経るに従い、血液の不断浄化によって
薬剤は毒素となって、血液から遊離する事になるのである。
それが時の経過によって、ついに膿汁化し、それがあらゆる病原となるのである。
しかし、そればかりではない。異物によって溷濁せる血液は頗る危険である。
何となれば、その殺菌力がまことに弱いからである。
言い換えれば、濁血は病菌の繁殖力に都合が好いからである。
この文の最初に述べた薬剤は病気悪化の原因となるという事は、以上のごとくである。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「医家の観たる医薬」 (昭和18年10月5日発行)
「左の記事は私の弟子が聴講した記録であるが、専門家が観た薬物の批判として面白いものとおもう。」
一、時 日 昭和十八年六月十日 午後四時二十分より六時
一、場 所 東京帝大法学部二十五番教室
一、人 東京帝大医学部助教授(薬理学教室) 医学博士KY氏
一、主 催 東京帝大・厚生科学講座
一、要 旨
「日本人は薬を服(の)み過ぎる。病気になったら薬を服むものと考えている。
しかし、医者は罹病の場合は服まないで寝ている。私自身なるべく服まない。
何故か、それは薬の効目(ききめ)というものを知っているからだ。だから服まない。
服まないで治ればなるべく服まない方がいいとの理由から服まない様にしている。
一体医者程質の差のはなはだしいものは少い。
上手な医者と下手な医者との距離は実にはなはだしい。
生命を扱う人のこの違いさを思うと慄然(りつぜん)たるものがある。
中国の諺(ことわざ)にうまい事を言っている、上手な医者は病人を治す。
中位の医者は何もしないが、下手な医者は人を殺す。
それは投薬によって即ち薬を用いて人を殺すのである。
薬は、医者の武器であると共に兇器でもある。
毒とは何か、薬とは何か、これはつまる所同一物である。
即ち匙(さじ)加減によって同一物が毒にもなり薬にもなる。
匙加減とは分量の事で、一定の量に達せぬと薬の効目はあらわれない。
零(ゼロ)である。零であれば服んだだけ無駄である。
一定の量即ち限量がある。毒とはこの使用する限量を越ゆる場合をいう。
毒薬劇薬とはその意味に外ならぬ。即ち量が大変使い難くて危いものである。
薬が効くとは何を意味するか。
外の生物と異って複雑な人体となると、平常の生きる働きが判らぬと、薬が効くという事は判らぬ、故に健康な時の生活の機能を知る事が肝要だ。
この方面を研究する学問が生理学又は生化学といわれるものである。
人体は断えず活動している。そこへ薬をいきなりもってゆくのだから急激な変化が起る。
池に石を投ずると波紋が起るように人体に波紋が起る。波動が起る。その薬の動きをしらなければならない。
薬の副作用というものを防ぐためにもこの研究が根底にならねばならない。
薬の性質についていうと、純粋なものは非常に得難い。
紙の上の(研究上の)薬の構成式は純粋なものであるが、実際にこの通りのものを作れーとなると中々至難である。
水でさえ純水は中々得られない。
普通の水から不純物を除こうとしても用器そのものの成分が溶け込むからなかなか困難である。
又水は不純物が入っているから飲めるので、純水はうまくも何ともない。
反って毒だ。即ち純水は毒物に外ならぬ。
この純、不純という事が厄介である。
しからば、不純物とは何か、薬の純なるものを作る事は、今言った通りなかなか出来ない。
マアこの位なら純といってもいいだろう位の約束のもとに出来ているのが、現在日本薬局方で規定している薬である。
しからば、不純物を除けば効用があるかというと必ずしもそうでない。
僅かに混っている不純物のお蔭で効目が顕(あら)われるという事がある。
そういう場合が非常に多い。だから薬は純物にすると効かない。
不純物が効く。これでは主客顛倒(てんとう)であるが、正しくその通りで、主人の純物の方が役に立たなくて、邪魔と思われる不純物が反って役に立つ。
又組合せによって効果が挙がる事がある。
この事は古い漢薬でよく知られている。
何が効くかははっきりしないがその組合せによって効く。
漢薬は草根木皮で、これは自然界から採取したものだが、自然界から採取するには、採取の時季、季候が大切になってくる。やたらに採取したって効はない。
又化学上の双生児であって効用がまるで違うものがあるが、何の原因であるか判らぬ。
その原因を見付けるのに研究上の苦心がある。
人体は極めて複雑で、スムーズな敏速な無駄なき工場である。
その上細胞が皆生きている素晴しい工場である。
こんな精密工場に突然薬が入るのであるから、何とかしてこれを排除しようとする働きが起る。
一つの原料から種々変化さして作った薬が心臓を強めたり弱めたり麻痺させたりする様に、
一つの薬から変化したものではじめて効用があるものがある。
これを体内でやらず体外で試験管で作り出すのが随分あるわけである。これを研究しなければならない。
初めは、毒でも何でもないが人体に入ってから、これが変化して毒になるというものもあるが、これは極めて少い。
まあ人体はなるべく毒になるものを造らぬ様に出来ている。
害になるものはなるべく早く体外に出す様に出来ている。
化学療法の事を申上げる。彼の独逸(ドイツ)のエール・リッヒが日本の波多博士と協力して作った六百六号というサルバルサンを発見して黴毒を駆除した。
黴毒の病源体を殺して治したという所から起った。これは砒素を使ったものである。
これは人体に砒素が向わずに細菌にだけ向うというのである。
所が細菌を殺すと共に人体もいためる。
それで人体に無害であって細菌だけを殺す薬をというので、苦心の末六百六号といわれる複雑な所作(しょさ)の末、まあ人体に無害と思われるサルバルサンに成功したとなっている。
この事はキニーネ剤についてもいえるが、マラリヤにはこれでいいかといえば、なかなかそうはいかぬ。
このように吾々は病気を治すという一つの孔(あな)を開くために無数の鍵を以て、あの鍵、この鍵という様に一々孔にはめて見て、
ちょうど合う一つの鍵、しかも唯一つしか合わない鍵を探し出す為にあらゆる苦心をしている訳である。
人体には自然に治る力が備わっている。
自然に治ろうとする力があればこそ、薬が助けるのである。
自然に治るのを助ける助け方に工夫が要る。
薬で菌を殺すが、殺し尽すことは出来ない。
菌が生き残る。この生き残りの菌がなかなか厄介で、この菌を殺すのに、今の薬では用をなさない事になる。
そこで自然治癒をまつという事になる。
今日、ホルモン剤、ビタミン剤ということがよくいわれるが、大体ホルモンは人体内で造られる。
ビタミンは食物から採れるものである。
体の働きが衰えたから外から補う訳であるが、これを過剰(かじょう)にやるといけない。
薬は異物である。吾々の体の成分の不足を補うものが薬である。
健康に薬はない。薬はいらぬ。
だが今日大東亜戦争上の要求によって、健康にも薬が要ることに要求せられて来た。
即ち生活力を拡大するために「健康をより健康にする薬」が要求されるに至った。こゝに吾々研究上の苦心があるのである。」 (註 記事はここで終了)
「右の説に対し、私の立場から簡単に批判してみようと思うのである。
罹病の場合、医家が薬を服まないというこの事は私はしばしば聞いている。
従って、無服薬の医家は相当多いようである。
純粋の薬分が利かないで、不純物の方が効目があるという事は不思議と思う。
私は以前聞いた話であるが、航海中船員が蒸溜水即ち純水を飲用すると猛烈な下痢を起すそうである。
又、薬剤がその量によって毒となり、薬となるという事は、私の解釈によれば、
薬となる限度とは浄化停止の限度をいうのであり毒となるという事は浄化限度を超えるという意味に外ならない。
故に、浄化停止の力あるほど、目的の病気には効いても、それだけ体内いずれかに悪影響を与える訳である。
病気を治す鍵穴は一つであるが、その鍵を探そうとして努力しているのが医学の研究であるという比喩はまことに適切であると思う。
しかし、何程探し求めても永遠に見付からない事は、私の説によって明かであろう。
ここに見逃す事の出来ないものは、人体には自然治癒力があるが、それを薬が補助するというので、この説こそ根本的誤謬なのである。
勿論一時的治癒がそう思わせるのである。又最後にある「健康をより健康にする薬の要求が医学者の研究上の苦心」というが、これらも私の説と反対である。
即ち私の方では薬を服めば弱り、薬を服まない程健康になるというのである。
要するに、現代医学者の薬剤に対する観念は混沌としていて、何ら決定的の発見はあり得ない。
たまたま決定的と思惟さるる六百六号のごときものも、実はその目的である駆黴力よりも一層悪性の病患の原因となるという事によってみても明かである。
私は右を一言にしていえば、全然鉱物のない山に向って、多数の人達が長年月に渉(わた)って、営々として鉱物を探そうと掘鑿(くっさく)しているようなものが医学の研究ではないかと思うのである。」 (「明日の医術 第2編」より)