西洋医学は苦痛緩和法 3
明主様御教え 「西洋医学の大誤謬 (一)」 (昭和11年1月25日発行)
「そもそも病気とは何ぞや、言うまでもなく、人体の一部又は全部に、異常現象が発生し、それに因る苦痛である。
しからば何故に異常現象が表われたのであるか、これは現在までの医学では更に判っていないのであるから、治療法が確立されないのは当然である。
これについての私の研究を発表し、世の専門家並びに識者に問いたいのである。
本来あらゆる動物は、霊と体から成立っており、この両者の密接不離の結合によって生命があるのである。
この霊を支配するに意思想念があり、意思想念を湧起するのが心魂である。
しかるに、西洋医学は全然、この霊を無視し、体一方のみを本位として微に入り細に渡り、分析研究しつつ今日に到ったのである。
唯物主義によって構成された科学である以上、それは致方のない事であろう、
しかしながら、病気の本体、即ち病原なるものは、実は体に在らずして霊に在るのであって、
最初病気は霊に発生し、しかる後に、体に移るのである。
故に病気は霊が原因であって、体は結果である。
この霊体の関係を発見し得ない限り、向後千年万年に渉って研究するといえども、西洋医学では絶対、病気は治癒されない事を断言する。
とは言うものの科学の進歩が、現在の程度である以上、霊の実在を機械的に、測定し得られないから止むを得ない事ではある、
たとえて言えばちょうど現在は、空気の発見以前の文化と斉(ひと)しい訳である。
しかし、空気の構成原素を発見し得た科学は、霊の実在を発見し得ないと、言えない事は勿論である。
空気の発見に因って、科学は俄然飛躍したように、科学によって、霊の実在を発見されたとしたなら、
真の医術が治療が確立され、これによって同じ様に否それ以上に、医学は大飛躍をなすであろう、
ここに到って初めて、人間が天寿を全うし得らるる時代になるであろう。
又宗教と科学も一致するであろう、今日のような、唯心主義と唯物主義との闘争も、ここに全く跡を絶つであろう。
この霊を主としての治療の原理によって、現に今、驚くべき成績を私は挙げつつあるのである。
それは、死の宣告をうけた幾多の難症が快癒せられる、手術を言渡された盲腸炎が一二回で治癒せられ、
肺患も、中風も、喘息も、癌腫も続々治癒せられて居る。
しかも吾々の所に来る患者は、あらゆる療法で成功しない、拗(こじ)れたもののみであるに係らず、
八十パーセンテージ以上の治癒成績を挙げつつあるが、
それら全快者が、更生の歓びに燃えて、絶望視していた職業に、再び従事して居るという事実は、実に枚挙に遑(いとま)ない程である。
吾々のこの日々の治病成績に驚いて、誰もが一大奇蹟というのである。
しかしながらこの霊を主とした、無薬、無物理療法の原理が判れば治るのはむしろ当然であって、些(いささ)かも怪しむに足りないのである。
これと同一の理によって、体を主とした療法に依って、もし完全に治癒せらるるとしたら、
吾々はそれこそ実に不思議であるとさえ思われるのである。
しかし、私は医学の誤謬を指摘しているのであって、科学を非難しているのではない、
何となれば、科学の進歩によって人類は、いかに偉大なる福祉を与えられたるかは測り知れないので、
将来益々進歩発達させなければならない事は勿論、
望むらくは、宗教と一致するところまで進歩されたい念願なのである。
しかしここに誤られ易い一大事が伏在している、
それは、科学という魔法使は、器械を活物の様に働かせる、
実際、生きた人間の代りさえしてくれる、
それだからと言って、生きた人間をば、器械として取扱う事は出来ない、
これは最初に言った様に、器械には霊がない、意思想念もない、
しかるに人間には、霊も、意思想念もあるからである。
器械は物質であるから、破損した場合、それは物質である所の、器械や油や薬で、修繕出来るのは当り前な話である。
しかるに、人体の破損であると言ってもよい所の、病気に対して、器械や油や薬で治せる道理があるはずがない。
人体は物質のみではない、血も神経も、生きた細胞も、絶えず流転し、新陳代謝してやまない、実に霊妙不可思議な、Ⅹである。
言うまでもなく、人体は学理によって物質で造ったものでもない、
実に造らんとして造る能わず、造らざらんとしても造られるところの、一大神秘なる、造化的産物である。
そうして植物でもない、鳥獣や魚族とも、全然異なるところの、高等霊物である。
病気の原因と発生
病気の原因について、西洋医学は未だ何ら、確定的発見がない、
風邪の原因すら、未だ以て不明であるに見ても瞭(あきら)かである、
西洋医学においての病理の説明は、肉体に現われたる現象に病名を付し、その進行過程の説明に過ぎない、
従って、その療法としては、現象に対応する、対症療法が主である、
対症療法とは即ち、苦痛の軽減である。
しかし苦痛の軽減と治癒とは、全然別問題であって、
苦痛を軽減する事によって、病気が治癒されるとなす事は、一大誤謬である。
苦痛を軽減する対症療法が、何故に誤謬であるかを説明すれば、次のごとくである、
元来病気の苦痛、例えば、発熱、咳嗽、痛み、嘔吐、眩暈、不快感等、
それらの現象の本体は何であるか、これが明白にならなければ、真の治療は確立しない道理である、
病気の発生には、発生すべき原因があり、病気が発生するや、
同時に苦痛の発生も、その理由があるべきはずである、
要するに病気の発生は、ある原因に対する結果であり、その結果から生ずる結果が苦痛である、
故に、苦痛の本質と、病気の原因が、徹底的に分明されないとすれば、真の治療は確立する訳がないはずである、
西洋医学は病原不知なるが故に、止む事を得ず、結果の結果であるところの、苦痛軽減にのみ没頭し、研究しつつあるものである、
結果を生むべきその原因の奈辺に在るやを究め得る能わず、
従ってその原因剿滅(そうめつ)の工作など思いもよらず、
故に忌憚なく言えば西洋医学は、病気治療に対しては、全然無力であると言っても過言ではあるまい、
西洋医学によって治癒せらるる患者は、実は、対症療法に依って、苦痛を軽減されつつ、
人体自身の自然治癒力によって治癒されるのであるから一種の自然療法である。
かくのごとくにして、苦痛軽減の対症療法を受けつつ、自然治癒さるれば、苦痛軽減だけの効果があるからよいが、ここに又一大誤謬が潜んでいる、
それは、苦痛軽減の方法として、薬剤と器械を用いる、この物質的方法による、苦痛の軽減は、
その結果として、何倍の苦痛増加になるという事である、
一時間の苦痛軽減はやがて五時間も十時間もの、苦痛加重となる事である、
私はかような事を言えばあるいは、奇を好む逆説とも解(と)らるるであろうが、
しかし、事実は事実として一点の誤りがないから、何程でも実証するに吝(やぶさ)かでないのである。
対症療法による病気悪化
しからば、病気の結果である、苦痛の本質は何であるか、
それは、病気を治癒すべき、人間自身の工作が、神経を刺戟するからである。
例えば、発熱とは病気を溶解し、又は殺菌する治癒工作であり、
痛みとは病素を排除し又は縮小する工作であり、
嘔吐下痢は、毒素を排除する工作であり、
咳嗽は気管の浄掃及び汚物(喀痰)の、排除作用である。
かかるが故に、本来から言えば、病気の苦痛は、否苦痛時こそ、病気は治癒されつつあるのであって、
苦痛が大なれば大なる程、治病工作は猛烈に進行しているのである。
しかるに西洋医学は、苦痛そのものを、病気の悪化作用と解釈する、これが一大誤謬である、
病気治癒の為の浄化作用を悪化作用と誤認する。
そうして成立ったところの医学である以上、実に根本錯覚の途を歩んでいる。
これがそもそも西洋医学では、病気治癒は不可能であるという真因である。
この根本的原因を認識せざる限り、いかに研究努力を続けるといえども、
労して効なく国家経済上から言っても、絶大なる損失を累(かさね)つつあるのである、
医学はいかに進んでも病人が減らないという事実は、この事によって充分解釈なし得るであろう。
しかしながら、一時的にもせよ、苦痛が緩和さるるという事は、
医師も患者も治癒さるると思うのは無理のない事ではあるが、
いつしか事実は逆作用に転向して、病気は悪化するのである。
その顕著な実例としては、モルヒネやその他の中毒患者である。
他の例としては、便通の為の下剤服用が、反って便秘を促進し、健胃剤が、弱者を作り、消化薬が不消化の原因となり、
胃薬連続服用の結果が、胃潰瘍を起し睡眠薬が不眠症とならしめ浣腸を重ねる程便秘者とならしむる等、
悉(ことごと)く薬剤の逆作用である。
これに依ってこれを観れば、西洋医療の実際は、病気治癒の妨害的作用となるのである。
又医学衛生は、人間をして、恐怖観念を抱かしめ、神経質とならしめ、
虚弱者を作るごとき結果を齎(もたら)す事も、往々見受くるのである。
医学衛生を重んずる上流家庭の子女及び医師の子女又は看護婦等に比較的虚弱者の多いと言う事実は、この私の説を証拠立てているのである。
しかしながら、病気の苦痛は、治癒工作である事を知ったとしても、
その苦痛を堪え忍ぶ事は出来得ない事であるから、
たとえ治癒妨害と知っても苦痛軽減を欲するのは真情である。
ちょうどモヒ中毒者が生命を賭してまでも一時的苦痛を免れんとするのと同様である。
ここにおいてか、苦痛を緩和しつつ、真に治病の目的を達し得る医術が発見されたとしたら実に人類を救うべき、真の大医学である。
しかるに、我観音力治療こそ、この条件に合致する唯一の治療法であって、
これによれば完全に万病は治癒されるのである。
西洋医学によって治癒せられたる患者に二種ある、一は薬剤や物理療法によって、
ある程度まで治癒せられたるごとき状態を呈するのであるが、
ある時日の経過によって再発する症状である。
これは薬剤物理の力によって一時的に、病苦を弾圧した訳で、根本的に治癒されたのでないから、再発するのは当然である、
この症状はまことに多いのである。今一つは、完全に治癒さるる場合がある。
これは、実に自然治癒であって、人体自身の治病力がそうさせたのである。
しかしこの場合、医療に妨害されるから、長時日を要するのは止むを得ない事である。
しかし、医療によって、苦痛を緩和されるから、延長さるるも止むを得ないであろう。
この真相を知らない患者は医療によって治癒されたと思い医療に感謝するのであるが滑稽も極まれりと言うべきである。
私は、かく言うものの、西洋医学に携わる人士中には、既にある程度の疑問をもった結果、
灸治法、漢方医学、自然療法、信仰療法、無薬療法等に研究の歩を転じつつある、
賢明なる士の在る事をすくなからず聞知(ぶんち)している。
これは実に、喜ぶべき傾向であって、かかる士こそこの私の説を首肯し得るであろう事を信ずるのである。」
明主様御教え 「医学が結核を作る」 (昭和27年12月1日発行)
「標題のごとく、結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒してしまうであろう。
事程それ程医学を信じ切っているのが現在の社会である。
そうして序文にもある通り、私は二十余年以前結核医学の盲点を発表したが、
その当時は言論の自由がないため、思い切ってかく事が出来ず、かなり加減してかいたので、不徹底は免れなかったし、
その頃は今日程結核問題もやかましくなかったから、それでもよかったが、今日はどうであろう。
衆知のごとく事実は国家の最大問題となっている。
今年から行う事になったという結核に対する施設及び、その他の国家的負担は千億に近いというのであるから、民間費用を合算したなら、実に驚くべき巨額に上るであろう。
そこで深く考えてみるべきは、なぜこのような事態に立到ったかという事である。
もちろんこの問題に対しては余程以前から政府も専門家も大わらわになって、あらん限りの対策を練り努力しつつあるにかかわらず、今もって見るべき成果がなく、
近来相当減ったとしているが、これはB・C・Gやストマイ等の新薬が出来たため、一時的発病の勢いを挫(くじ)いたまでで、根本的でないことは医学でも認めている。
何よりももし今までの対策が当を得ていたとすれば、結核問題はとっくに解決されていなければならないはずであるのに、事実は前記の通りである。
としたらそこに何らか割切れない大きな誤りがあるに違いあるまい。ところが医学はそこに気付かないのである。
しかしながら喜ぶべし、いよいよ私によってその根本原理が判明し、全治の方法をも完成した以上、人類にとってこれ程大きな救いはないであろう。
無論この原理に従えばこの難問題も容易に解決され得るからである。
ところでここで厄介な事は、以上のごとき大発見を知らせるとしても、体験者以外直ちに信じ得る人は、ほとんどないであろう事である。
ただ驚きの眼を瞠(みは)るか、あるいは見逃してしまうかも知れないが、この著にかいてあることごとくは絶対真理である以上、
読むに従って納得され、翻然(ほんぜん)眼を醒ます人も相当あるであろう。
さていよいよ本論に取り掛るが、そもそも人間は誰でもオギャーと生まれるや、例外なく先天性毒素を保有していると共に、生長するに従い、大多数の人は後天性毒素をも追加する。これは別項に詳しくかく事として、右の両毒素こそ結核の真の原因である。
今一つ重要な事がある。それは人体における自然良能力の活動である。
それは一秒の休みもなく、不断に浄化作用が行われている事である。
浄化作用とは体内にあるあらゆる毒素の排除作用であって、この過程をかいてみるが、
元来右の両毒素とは、血液中に含まれているというよりも、充満していると言った方がいいくらいのいわゆる濁血である。
ところがこの濁血に対して浄化作用が発生し、それによって毒素分は分離し、毒血または膿となって体内各局所に集溜する。
その場合主に神経を使う箇所に限られているので、人間が神経を使うところといえば、
上半身特に首から上で、頭脳をはじめ、目、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて集溜せんとし、一旦その手前に固結する。
いかなる人でも頸の周囲を探ってみれば、淋巴腺、延髄部、扁桃腺等の部に必ずそれがあり、微熱もある。
するとこの固結がある程度に達するや、自然浄化作用が発生する。
この浄化作用こそいわゆる感冒であって、感冒に罹るや発熱が先駆となるが、これは右の固結を出易くせんがための熱で、この熱によって溶解し、液体化したものが喀痰であり、鼻汁であり、盗汗(ねあせ)、濃い尿、下痢等であるから、
感冒とは全く体内にあってはならない汚物の排除作用である。
その結果濁血は浄血となり、健康は増すのであるから、感冒とは実に貴重な生理作用であって、神が人間の健康保持のため、与えられた一大恩恵である事は余りにも明らかである。
それがいつの頃どう間違えたものか、逆に解釈したのが、今日までの医学の考え方であった。
それがため「風邪は万病の基なり」などと言い恐るべきものとされ、感冒に罹らないよう注意するとともに、罹っても色々な手段をもって、毒素排除を停めようとする。
すなわちせっかく溶けかかった毒素を元通りに固めようとする。
この手段こそ実は結核の原因となるのである。
これを一層詳しくかいてみると、まず感冒に罹るや、その症状としては前記のごとく、咳嗽はじめ種々の苦痛がおこるが、その中での特に重要なものが彼の喀痰である。
これが口から排泄されようとし、一旦肺臓内に入り咳というポンプ作用で吸い上げ、咽喉を通って出るのであるから、そのまま放っておけば順調に排毒作用が行われ、血は浄まり、治るべきものを医学は逆解して、飛んでもない間違いをする。
それは痰を出さないようあらゆる手段を用いて、肺臓内に固めてしまうのである。
そうすれば病気症状は消えるから、それで治ったものと思うが、何ぞ知らん一時的固めたもので、本当に治ったのではないから、日が経てば再び風邪を引く。
もちろん残りの毒結に浄化がおこるからである。その際医診を受けると、肺の中に残っている痰の固まりが、レントゲン写真に映るので、ここに結核の初期と診断するとともに、
前の時肺の外部すなわち肺膜や肋骨付近にも固まりを残すので、それが溶けはじめ外へ出ようとし肺に侵入する。
これを医診は肺浸潤と言い、肺の上部の場合肺門淋巴腺、または肺尖カタルというのである。
これによってみるも、最初感冒の際毒素を出さないよう固めて、結核の種を蒔いておいた訳である。
それだけならまだいいとして、これからが大変である。
右のごとく結核の初期、またはその他の診断をされても、放っておけば二度目は少々日は掛るが必ず治るべきものを、医療はまたしても固めようとする。
絶対安静、服薬、注射、湿布、氷冷等々がそれである。何しろ身体自身は、毒素を排泄しようとするのを、医療は飽くまで固めて出さないようにする。
つまり治ろうとするのを、治さないようにする訳であるから、何と驚くべき間違いではなかろうか。
ここでなぜ浄化作用なるものがおこるかというと、前記のごとく人間は体内に毒素があるだけは弱体で充分な活動が出来ないから、感冒は言わば自然の摂理である。
という訳で人間活力が旺盛であればある程発り易く、青少年に多いのもその理によるのである。
従って浄化を停止し弱らせるに限る。弱っただけは病気症状は減るからで、これを医学は治るものと誤解したのである。
医学の療法が徹頭徹尾衰弱方法であるのは、この事を知ってみればよく判るはずである。
見よ絶対安静を最も奨めるが、これ程弱らすものはない。
今仮に健康者を何ヵ月もの間絶対安静にしてみるがいい。
運動不足、食欲減退、無聊(ぶりょう)等で元気は喪失し、必ず痩せ衰えてしまう。
ましてや結核患者においてをやである。
しかも薬剤はもちろん、種々の衰弱療法をも行うとともに、精神的には前途に希望を失い、絶えず死の恐怖に脅えており、近親者も寄りつかず、
毎日毎日天井を見詰めているばかりか、仕事も禁じられているので、経済的不安もいよいよ募り、それやこれやで漸次悪化し、どうにもならなくなる。
というのが一般結核患者のたどる道程であろう。
以上によってみる時、医学の誤謬の中心は何といっても病気症状についての誤った解釈である。
それは医学は苦痛そのものを病気の本体としているから、苦痛を無くす事が病を治す事と思い、ただ苦痛を減らす事のみに専念し発達したものであって、これがそもそも誤謬の根本である。
ところが本当は苦痛そのものは病の治る作用でプラスであり、喜ぶべきものである。
というようにその考え方が反対であって、すなわち医学の方は浅く、吾々の方は深い訳である。
しかし苦痛といっても必ず峠があって、その時だけを我慢して越してしまえば、後は漸次快方に向かうのが原則であるから、苦痛も左程長いものではない。
これについて医師はよく手遅れなどというがこれも反対で、手遅れになっただけは治るので、むしろ放っておけばなおさらよく治るのである。
それを逆解して早く手当をするから治らなくなる。つまり人体は治ろうとするのを、医療は治さない手段であるから、この摩擦が快くなったり、悪くなったりして拗(こじ)らしてしまい、ついに慢性となるのである。
この理が分れば発病の場合放っておくに限る。
そうすれば順調に浄化が行われるから、はなはだしい苦痛もなく容易に治るのである。
ゆえに医学の進歩とは病気を治す進歩ではなく、治さない進歩であり、単なる苦痛緩和のための固め方法の進歩でしかないのである。
何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみても、うなずけるであろう。
ここで早期診断についてもかかねばならないが、これも実は結核増加に拍車を掛ける方法なのである。
それについてさきに感冒の浄化停止をかいたが、そのような訳で現代人は残らずと言いたい程肺の内外に毒素の固まりがあるから、大抵な人は常に緩慢な浄化が起っている。
微熱、だるさ、軽い咳、食欲不振等がそれでこれらも放っておけば長くは掛るが必ず治るのに医学は早期診断を行い、
レントゲン撮影によって溶けかかった肺臓内の痰の固まりが雲翳(うんえい)となって映るとともに、
前記のような軽い症状もあるから、ここに結核初期の烙印(らくいん)を捺すのである。
そこでまず絶対安静を始め色々な浄化停止を行うが、取り分け薬剤を主とするため、これが毒素の原料となり、この毒の浄化も加わって漸次悪化しつつ本物の結核患者になってしまうのである。
そうして早期診断の方法として、ツベルクリン注射を行うが、その結果陽性でも陰性でも警戒の要ありとする。
この理は陽性とは浄化力が旺盛なためであり、陰性とは反対に微弱のためであるが、医師はどちらもB・C・Gの接種によって発病を止めようとする。
発病さえしなければそれで済むと思うからで、その際患者にむかって、一、二年は余り過激な運動をせず、なるたけ静かにせよと戒めるが、これは浄化をおこさせないためである。
といっても人間はいつかは必ず浄化が起るように出来ているから、普通の生活をし、仕事をするようになると浄化発生する。
これが発病または再発である。
という訳で近頃の流行薬の効果はそれであって、ただ発病の時日を延ばすだけである。
この証拠として最近本教団の信者で、米国駐在の宣伝員からの報告によると、同国においても近来急激に結核患者激増し、昨年度の死亡率は、他の病気の総計よりも、上廻っているという事であるから、現在結核は同国死亡率の第一位を占めた事になり、私の説を裏書している。
右について左の新聞記事はよくそれを物語っているにみて、ある程度医学でも分っているのである。」
昭和二十七年二月五日付読売新聞に掲載の記事
「化学療法の手段」 東京慈恵医大教授 医博 片山良亮
「ストレプトマイシンその他の化学療法剤の発見は、従来の治療に大きな変革を来さんとしているが、マイシンでも結核の牙城を揺がす事は出来ない。
マイシン治療を行っている内に、結核菌が次第に抵抗性を得て、効果を減滅するからである。
その抵抗性の獲得は六~九週以上の投薬の持続によって発生するが、その間に結核菌を絶滅する事は出来ない。
だがマイシンを使えば病状は急に著しく回復するが、結核菌は消失しないから、その中止によって再発の危険がある。
そこで現在の研究はその事実を、いかに補うかという事になる。・・・(後略)」 (「結核信仰療法」より)