罪と病気について 1 (先祖の罪が子孫に来る)


明主様御教え 「病気の原因と罪穢」 (昭和11年御執筆)

病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、その汚血と水膿は精霊の曇の移写であるという事は、既に述べた通りであるが、

しからば、その曇はいずれから発生流転して来たかというと、それが罪穢なのである。

しかして、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。

即ち先天的は多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。

まず第一の祖先の罪穢を、悉(くわ)しく述べてみよう。

今、現在生きている吾々個人は、突然と涌(わ)いたところの、いずれにも係りのない存在ではなくて、

実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、その尖端に存在呼吸する一個の生物であって、

それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。

大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言えば、親と子を繋ぐ楔子(くさび)でもある。

祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、すなわち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。


人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体という衣を脱ぎ棄てるのである。

人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属しているものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃(たいはい)して使用に耐えない以上、

精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。

そうして霊界において再び現世に出生する準備をしなければならない事になっている。

その準備とは浄霊作用である。しかるに大部分の人間は、生存中における罪の行為による穢が相当に多いので、霊界においての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。

地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、

その際罪穢の浄化による、残渣(ざんさ)とも言うべき霊的汚素が、現世に生を営みつつあるその子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。

それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するという、一種の因果律的贖罪法である。

これは万物構成における主神の神律である以上、いかんともし難いものであって、人間はこれに服従する以外、何事も出来得ないのである。

それはこの霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、その汚素が人間の精霊に入るや、忽(たちま)ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。

これがあらゆる病原となるのである。


第二の個人の罪穢を説いてみるが、これは誰しもよく判るのである。

いかなる人間といえども、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくという事は、出来得べからざる事である。

しかし罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。

また行為に表われる肉体的の罪もあり、心で思うだけの精神的罪悪もある。

基督(キリスト)がいった、女を見て妙な心を起しただけでも、姦淫の罪を犯す事になるという戒めは、厳し過ぎるとは思うが、間違ってはいないのである。

かように、たとえ、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやりたいとか、姦淫したいとか想うのは、誰しも罪とは思わない程の微細な事ではあるが、これらも長い間積り積れば、相当なものになるのである。

又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。

又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違えるとか、嘘言を吐くとか、いう様な事も知らず識らず侵す一種の罪である。

かくの様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。

しかし、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであろうと思うが、決してそうではない。

すべて人間は、親の膝下(しっか)を離れて、一本立になればともかく、親によって養われてる間は、親の罪穢も分担する事になっているのである。

ちょうど、樹木にたとえてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、その又枝が孫である。

幹であるところの親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。

この後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(み)よう。


人の眼を晦(くら)ました結果、盲になった二つの例がある。

以前浅草の千束町に、経銀という表具師の名人があった。

彼は贋物を作るのに天才的技術を有っており、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、

晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。


今一つは、やはり浅草の花川戸に花亀という道具屋があって、

ある年静岡地方の某寺の住職が、その寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。

ところが、失敗して帰郷の旅費に困り、その御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。

その後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払ってしまったので、

彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。

そこでその僧侶は進退谷(きわま)り、遂に花亀の軒下で首を溢って死んでしまった。

ところが、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、その後トントン拍子に成功して、その頃数万の財産家になったのであるが、

晩年に至って盲目となり、しかも、その跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、

ついには見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれながら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、その謂(いわ)れを父から聞かされたのであった。

これは全く僧侶の怨念が祟ったのに違いはないのである。


今一つは親の罪が子に酬(むく)った話であるが、それは以前私が傭っていた十七、八の下女であるが、

この女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊(き)いてみた所が、以前奉公していた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。

なお訊いて試(み)ると、その下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨(ゴム)等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。

それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、その贋玉を高く売付けられた人の怨みが大変なものであったろうと思う。

全くその罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。

しかもその女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたろうにと、惜しくも思ったのであった。


今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。

十日以上も治療したが、なかなか良くならない。

不思議に思って、その老人の信仰を訊いてみたところ、〇〇様を二十年以上も信仰していると言うのである。

そこで私はその為であるから、それを拝むのを罷(や)めさしたのであった。

ところが拝むのを罷めた日から、少し宛(ずつ)良くなって、一週間程で全快したのであったが、これに似た話は時々あるのである。

正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでいると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、これは全く間違った神仏を拝んだ、その罪に因るものである。


これらの例によって察(み)るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、

病気や災難で苦しみつつある人は、この後天的罪穢をよくよく省みて過(あやま)っている事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。

今一つは別項種痘の記事にあるごとく、陰性化せる天然痘の毒素である。

故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、この三つが主なるものであると思えば、間違いないのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「病気の原因と其解消」 (昭和10年9月15日発行)

「現在、生きている人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。

又言い換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。

無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合っている。

ちょうど、紙風船の糸の形を想像すれば判る。


故に、祖先が負うている、諸々の罪穢なるものは、霊界における、その天律的浄化作用によって、

その残渣(ざんさ)たる霊汚素が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、

それが人間の精霊を曇らせる原因である。

その曇りがある程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現われるのである。


西洋医学は、肉体へ現われたる病気を、薬剤や器械で治そうとするのである。

しかし、よしそれで治った所で、精霊の曇を払拭されない限り、再び肉体へ病気が現われるのは当然である。

これも社会事業と等しく結果のみを治す膏薬張式で根原を無視した行き方である。

一時的方法でしかないのである。

観音の光。それはラジュウムより、何十層倍の価値ある光であるから、精霊がそれを浴びるや曇りは解けてゆく。

精霊の曇りが無くなれば、肉体の病は治るに決まっている。


観音は救主であられる。罪を赦す御方である。

祖先の罪穢による、精霊の曇りを払拭するという事は、その罪穢を赦す事である。

これが根本的の治病法であるから、再発の憂いが無いのである。

否 益々健康になってゆくのは少しも不思議ではないのである。

この様に精霊の曇りが浄められるという事は、さかのぼれば、祖先の罪が赦されるという事になるから、

地獄界に苦しんでいた祖霊達が向上して、天国へ救われる事になるので、その信仰の徳は予測出来ない程の洪大無辺なものである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御講義 「祖先の罪穢は脊髄を中心にして来る」 (昭和10年9月15日発行)

「人体全体の曇りはどこから来るかと言うと祖先から来るのである。

祖先と現在の人間との間は霊線で繋っているのである。

医学では遺伝といっているが、この遺伝も事実遺伝せぬ時もあるのであるから、遺伝学説も絶対とはならなかったが、しかしこの事は絶対なものであるが、

その間に偉い人が出て徳を積むとその徳によりその罪が除かれるから切れて終って遺伝せぬ事になるのである。

この遺伝は絶えず霊界から流れて来るのである。

祖先は霊界において審判されて浄化されるからその審判され洗われた罪が現界人へ流れて来るのである。

祖先等が霊界から飛出して来て憑るのは生前無信仰の為霊界へ行っても所属すべき団体がないので行くところがないので

致し方なく出て来て自分の子供へ憑くので病気になる。


祖先の罪穢は脊髄を中心にして来る。

祖先―頭―脊髄―尾―子孫。

我々は現在子孫だから尾である。

男も女も皆子孫であるからこれより来ているのである。

この脊髄へ流れて来た罪穢は下へ降って方々へ行く。

頭、目、鼻、心臓、腎臓とどこへでも行くのである。

脊髄は万病の源である。


万病は自然に癒るが、それにつき痛み、熱、痰、毒血を吐く。

腫物、下痢、毒血の下るのは赤痢であるから毒血が出て終えば一日位で癒る。

罪穢は脊髄の三分の一位の所と尻へ出て来るのが普通である。」 (「観音講座 第七講座」より)




明主様御講話 「病気で死ぬのは罪の重荷に堪えきれないため」

「どういう形で祖先の罪は子孫へ来るかというと、多く脊髄へ来る。

御自分の犯した罪は外へ来る。

頭と脊髄へ来る、これはなにか、祖先から子孫へ流れる形は経である。

祖先の霊線は頭へ来ている、目の上へ来る。

よく頭が重いというが、これは祖先が霊界で苦しんでる証拠で、

頭へ来てオッかぶさってるわけで、頭へ重荷を負ってるわけである。

首筋から脊髄へ来、よく脊髄カリエスになる。

これは罪が直接流れて来て膿になってくる。

肺など脊髄から膿が出て肺に入るのが非常に多い。

そういうわけであるからして、祖先の罪穢ということによって病気発生し、それにより早く死ぬ。

これが根本原則である。

霊統というのは、霊線といい霊に線があり、これはたくさんあって、

いままで霊的事実にぶつかって霊統というものは争えないことをたくさん経験していますが、

よく霊が乗り憑ったり、死霊が祟ることがあるが、ぜんぜん縁もゆかりもない所へはできない。

善いにつけ悪いにつけ、必ず霊統のものに祟ったりなどする。

どんな方でも、祖先の霊線は何百本、何千本、霊の巣のごとく引かれている、総合されてる。

これは切っても切れない、どうしても繋がってゆく。

草木とすれば、種が落ち実がなり、また、種ができ、実がなると・・・

そうなって、どこまでもその種の霊統が繋がっている。

米なら米として、どこまでも米は米で、多少の変化はあっても、麦はどこまでも麦である。

粟はどこまでも粟である。

どうしてもそれだけの特色をもって続く。これが何種何億にもなる。

自分自身は霊線により繋がってる。

ぜんぜん関係なく繋がっているものでない。

祖先がまるっきり罪なく往生することもない、めったにない。

なにでそれは証拠立てるかというと、寿命でないのに死ぬことがある。

なぜ死ぬかというと、罪の重荷に堪えきれずに死ぬ。

病気はすべて罪の重荷に堪えきれず死ぬのである。」




明主様御講話 「すべて罪により病気が起こる」

「擦(こす)って治した代わりとして、草根木皮をコスリの代わりに用いた。

コスリが転化して薬となり、手をあてるから手あてとなった。

ところで、人間の身体に草根木皮の薬なるものが入った。

それが人間の血の濁った根本、薬が人間の身体に入ったため、

血濁り、身体弱り、病気に罹りやすくなった・・・と、こういうわけである。

いまのは東洋における話であるが、西洋においては、西洋医学がだんだんできて、ますます人間の寿命を縮めてきた。

それであるからして、いま私がこういうことをいうと、たいへん非文明的で、あまり反対のことゆえ受け取り難いことかしらぬが、

病気のない世界、病人のない人間・・・そういうことも最初嘘のように思えたが、

だんだん観音様にやらされるということが本当だと判った。


事実 数千年前は病気のない社会だったそうである。

ただその時分のことしかご存じなかった。

神からみれば、実に不思議に思し召しの、

病気あって寿命短い、ちょうどいまの人間が病気のない世界ができるというと、不思議に思うと同しことである。

病気治しは非常に進歩したというが、医学は、実は人間の生命をたいへん縮める役目をしていたことが判る。

私がふだん、病気はほったらかしておけば治る、それ以上治すのは観音様のお光をいただくことだといっていたこと、それは間違いでなかったのであります。

病気はこういうふうであります。

ほかのあらゆることはやはりそうで、人間はたいへん間違ったことを長い間させられていた。


肺は七代前の祟り、あるいは喘息は何代前の祟りとか、それは合ってることもあり、違ってることもありましょう。

これは的確に説明できない話であります。

違っているといっても反証をあげることはできないから、その教徒だけ信ずるよりほかしかたない。

なんの罪か、なんの穢れか、あっても、それよりもっと早く治り、後続かない、それだけでいいわけであります。

そのことについてお話しするわけですが、祖先の罪というようなことは、どっちかというと、いつもよく話すが、どなたでもひとりでに外へ生まれるわけでない。

厳然たる事実、そのお父さんお母さん、またそのお父さんのお父さんが生まれた・・・だんだん古いこの祖先を尋ねてくると何千人あるか判らぬ。

すると自分は自分であって、祖先の延長であって、どこへ繋がって霊体へ繋がっている。

肉体は絶縁さるるとも霊統は繋がってる。


天照大神様が岩戸がくれ遊ばされたことは、天津祝詞にある通りであります。

天照大神様が天下を知召した所、五月蝿(さばえ)なす仇の曲事いやつのり・・・とある。

つまり、あれのことなんであります。それで暗黒になったんであります。

そのため病気が発生したわけなんであります。

で、しかしながらこの間も話した通り、まだ神武天皇から何百年、約千年くらいまでというものは、あまり病気はなかった。

文献をみても、伝染病が日本に発生したのは、仏教渡来した約千七、八百年前から発生して、

伝染病といえば病気の中でも悪性に属するので、性の悪いやつはみんな伝染病にした。

仏教の渡来した同しころから伝染病が発生したのは、よほどわけのあることと思う。

特に黴毒、淋病などの花柳病は足利時代から発生したと文献にある。

これはヨーロッパからという話もあり、またアフリカの黒色人種から出たともいうが、これは、白人が言うのだから、

体裁のわるいため黒色人種から出たと言ったと思う。

伝染病は本来日本にはなかったらしいのであります。

そういうようなこともあって、日本でも約千年あるいは千五百年前までは、おおよそ百くらいまで生きた。

三千年くらい前は百歳、二百歳はザラにあった。

人間はときどき病気のような障りがあった。

それを病気といった。それをどうして治したかというと、その時分病気を治す神があった。

間違った世の中に呼吸していたため、間違ったことを本当と思われた。

生存競争など、いろんな言葉が真理のように考えられた。

それは間違ったことが何千年も続いたため、それが本当と思われたのであります。

私が観音様からお知らせを受けた世界からみると、ほとんど反対くらい間違っている。

人間の思うようにゆかぬ、人間の作った学問と実際は反対になるわけである。

その間違った世界を本当に直す、それが観音運動でありますから、たいへん大きな運動でありますから、

できるかできぬか判らぬくらい難しいことで、それは間違いなくできる。

いろんな観音様の御霊験、不思議があるが、これはなんでもない、あたりまえのことで、

さっき武井さんが観音様が掛物から抜け出た話をした。

たいへん不思議なことですが、それはあたりまえのことなんで、

そういうことを知らなかったから不思議で、今後どんな奇想天外なことが出るか分からぬと思う。

なるほど、病気のない世界は結構であり、また、薬のため人間の生命も縮んでいたが、

しかし当面の問題、このほうが差し迫った問題であります。

ですから、当面の問題を解決し、それから世界中だんだん拡げて行かなくてはならぬ。

ところが、病気の本源とはいったいなにかというと、これはあらゆる宗教で言っている、罪穢が出るという、

そのことは絶対間違いないことで、ただ罪穢が宗教によっていろんな解釈している。

観音運動の根本は病気を治す、ということは前にお話ししてあり、御承知のことと思う。

それについて、この前ちょっとお話ししたが、その後まただんだんくわしいことが判ってきたんで、それをこれからお話しします。


日本でのお話でありますけれども、三千年以上前は病人はなかったそうです。

つまり、病気がなかったんだそうであります。

私はそういうことを知らされびっくりしたんであります。

それはなぜかというと、医学というものがなかった・・・、と申しますと・・・、

この世の中を支配されてる神様の御光が強かったからなんだそうであります。

それでちょうどその時分は、天照皇大神様が御支配なさった。

それがためその御光によって病気がなかった。

ところで、光の神で絶対力をもった天照大神様が岩戸隠れなされた後は下の神様が支配なさった。

神様の世界は人間で想像できぬが、事実そういう下の神様が、

・・・の神が、御守りをこしらえた。

いまでいえば医者みたようなもので、御守りを首へかける。

病人があると患部を擦る、あるいは手をあてる、それだけだった。

それで病気がないから長生きしたんであります。

それで長生きしたが、今度私が指圧療法を始め、御守りをかけて治病する人を養成し始めたが、そのときと同じ方法なんだそうであります。

そうしてみると、ごく昔やったことで、新発見ではないのであります。

光がなかったら病気を治すことはできぬ。

やむを得ず禁厭(まじない)あるいは草根木皮を見つけ出し、

それによって一時凌ぎをやった。そういうものでは病気は治らぬ。

罪は科学ではない。

罪は溜まって、祖先の何千、何百の罪はみなその人にくる。


で、たいていの宗教は祖先を祀ってその罪を許してもらう、ここで、この話も、観音会では祖先を祀らぬ。

なぜかというと、ほかの宗教とはぜんぜん反対で

他の宗教は病人が出ると、祖先の罪といい、

病気そのものはみな地獄へ落ちて苦しんでる、

たくさんの祖先の苦がくる、それを祀れば少なくなるから苦しみがとれる。

一口にそういうけれど、非常に複雑で、祖先の罪にはいろいろあり、

人を殺した人、人を苦しめたり、ひどい目にあわして怨んでるのもあり、怨みのため蛇になるものあり、

そういうのは動物に生まれ代わり、動物が死んで・・・。

霊界で、その霊が苦しめたりするものあり、調べたらどのくらいあるか判らぬ。

要するに達者になればいい。


ともかく、だいたいそんなわけで、すべて罪により病気が起こる。

その罪なるものは、早く解消することが肝腎で、それは観音様のお額をお祀りすることが肝腎で、

それ以上はどうするかというと、徳を積む、いいことをする。

よく積善の家に余慶ありというが、これは絶対真理です。

一つでもいいことすれば箔がつく、徳がつくとよくいうが、

それはなにかというと、例えば自分が病気を治された、それでいいのではない、いつ祖先の罪がかかわってくるか判らぬ。

他の人にも話すという誠がなくてはならぬ。

一人でもよくなるように、商売の間を一人でも多く導き救うということは、たいへん結構なことである。

一人を救ったばかりでなく、その人により何人救われるか判らぬ、たいへん大きなことになる。

一人が救えばまた他を救う。

こうして徳を積む、これがたいへん結構で、

これによりどうしても、観音様は御褒美として良いことがくる。

特に今度の観音様はそういう点の栄えは大きい、いままでにもたくさんあるが、

観音様はとても大きくくださる。

なんとなれば観音様は主神で、全世界を自由にし得る神で、

金持ちでいえば日本一の金持ちだし、

否世界一の金持ち、同じ金持ちでも中位のと小位のと違う。

同し番頭でも、同し働いてもたいへん違う。

要するに観音様は、世界一の所有者で、なんでも持っておられる。

観音様にいただくということは、どんな大きなことになるか判らないのであります。

その人は徳がつくから、善いこともたくさん出てくる、思わぬ良いことが出てくる。

家は栄える。よくなるなど、徳を積んだ報いは、仏教のほうなどで説いてあるから・・・。

言うまでもなく、特に観音様は全世界を救われることを始められた。


で、治るのは、罪の重荷を観音様がとってくださる。

一般では、その罪をお医者や薬がとってくれると思うから違う。

顕微鏡みたようなものなど、そんなもので罪はとれぬ。

それは罪をとるためにできたものではない。

肉体に現われたものを消滅しようとする。


観音会では、人間に観音光を与える。

すると子孫が祖先から受けた罪は解消し、

この人の魂が光り、光が放射して祖先の罪は許されて天国へ行く。

天国ではみな観音様のお側へ行く。

ですから祀るより早く行く、根本的であります。

いままでの宗教には、こういう実例がある。

神道や大本教などで、祖先を祀ると子孫は救われたと思う。

それで、いままで信仰した宗教で祀ったものを撤廃する。

ところがそうではないので、祖先もその宗教に必ずしも入らぬ。

現在一家の家でも、いままでの宗教をすてて、すぐに新しい宗教へ入ることはできない。

生きてる人でさえすぐに入れぬ。

一家揃ってすぐに新宗教へ入るなどめったにない。

中には反対するものあり、弘法を信仰していて、霊界で弘法の側など行けば結構で、

それを阿弥陀など子孫が祀るとはなはだ迷惑する。

祀るから行かないわけにはゆかぬ。

中には仏により非常に怒るものもある。

しかも仏壇へチョイチョイ行く霊は怒って反対に病気を起こさす場合がある。

よく何教、何教と他宗へ行って、病気になるのがある。

実に不思議というが、多くはそういう関係である。

この点は本当に困るのであります。


ところが、観音様はそんなことは関係はない。

なんの宗教だろうが関係がない。

祖先の趣く所へ行く、血の池地獄などにいても。

キリスト教ならば、イエスの側とかキリストの側など行きたい所へ行ける。

これは要するに自由無礙の観音様のお働きの一部であります。

でありますから、観音会へ入ると必ず病気は治る。

祖先は喜ぶ。観音様は天国の一番上におられるから、観音様は最奥天国の主宰者であるから、一番よく分かるわけである。

観音様を祀った方は、青空に紫や金色などの雲をみたり、月と星をみられる方がよくある。

これは最奥の状態をみられるのである。

要するに、生きながら天国に住む。

でありますから、天国には病気はない。」




明主様御垂示 「罪による苦しみは自己責任」 (昭和26年4月1日)

信者の質問
「大慈大悲ということが前にありましたが、それを受けとるのは救われますが、

大悲の場合に悩み苦しみのために曇りを増やすというのも多いわけですが。

それはどういうふうに解釈したらよろしいのでしょうか」


明主様御垂示
「そうすると、殺人強盗をやって懲役に行くとか、死刑になるが、それで裁判官を怨むということになる。

苦しみ悩むのは、罪は自分が作ったものだからね。

解らないから怨むので、人間のわがまま感情です。

一応話をして解ればそれで良いし。

解らなければしょうがないですね。

自分が作らなくても、前の世で作ったのもあるし、祖先が作ったのもあるし・・・多くの場合には、何代前かの自分であったんです。

祖先といっても、自分がいくども祖先になっているから、そのとき罪を作っている。」