歴史の探訪者さんのブログより
http://ameblo.jp/xp2012zx/entry-11305455484.html
<転載開始>
2012-07-18 07:11:04
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「日本に第3の原子爆弾が落ちた」
 外国人の世界的発見が日本を破滅の危機に追いやる

1:蚯蚓φ ★:2012/05/26(土) 23:59:47.12 ID:???



▲武寧王陵から出てきた「墓誌石」は国宝163号。小さな穴の下に見える文字「崩」が日本の歴史偽造を満天下に暴露した決定的証拠物である。



▲原形保存のために閉鎖した武寧王陵入口。



▲韓日古代史最大の発掘、公州武寧王陵内部。

それは偶然だった。すでに41年前の1971年夏7月5日、公州松山里(ソンサンニ)古墳団地で
排水路を掘っていた人夫が土の中から墓の入口を発見したのは天がさせた歴史的偶然だった。
武寧(ムリョン)王陵の発見!韓国の驚きと喜び!それより大きく驚いたのは日本だった。

武寧王とは誰か。日本天皇家の中間始祖という偉大な百済大王、その王陵が発見されたので韓日古代史を歪曲操作した犯罪が天下にあらわれてしまった。そんな証拠物をなくそうと総力を傾けたのに!

明治維新以後<天皇万世一系>を創作した日本は韓日併呑をするやいなや総督府に歴史チームを結成した。「天皇が韓国系という証拠を隅々まで探して抹消せよ!」歴史記録物数十万冊を押収して燃やし百済地域の古墳群をあちこち盗掘して行った総督府ではないのか。完全犯罪はない。
総督府調査団は松山里古墳が伝統的な百済形式と違った‘レンガ墓’であることが分かるとすぐに「王陵ではない」と発掘を放棄、武寧王陵は日帝のツルハシを避けてそっくり私たちの手で発掘されたのだ。

遺物4600点余り、現在の国宝と指定されたものだけでも17点になる。その中の核心は墓誌石だ。
瓦の大きさの薄い石に彫られた被葬者説明文!<寧東大将軍、百済斯麻王62才、癸卯年5月7日崩御。乙巳年8月12日大廟に礼を尽くして左の如く記録する(寧東大将軍百済斯麻王年六十二 歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安?登冠大墓立志如左)>。

武寧王は523年5月に崩御、525年8月王陵に安置され王妃は526年11月臨終、529年2月合
葬した。従来の百済古墳様式と異なる'レンガ式'は両国形式を導入したものという。驚天動地!韓国ではなく日本に第3の原子爆弾が落ちた。恐ろしい文字「崩」。歴史犯罪集団、日本史学界には核爆弾!それはなぜだろうか。

誰にでも「崩」を使わないからだ。政治学者で歴史学者、蘇鎮轍(ソ・ジンチォル)氏は彼の本<百済武寧王の世界>(2008)でこれを詳細に扱っている。かつて孔子は四書の‘礼記’にこのように定めた。『天子死曰崩、諸侯曰薨、大夫曰卒、士曰不録、庶人曰死』-そして実際に天子が死んだ時史官に「崩は天王の崩を言う(崩曰天王崩)」と記録を残すように慣例化した。その後、司馬遷は「史記」に「秦始皇崩、周王薨、孔子卒」とその地位と身分により表記の差別化を定着させた。

これは韓中日3国で長い間の伝統につながり、そのため、武寧王の死を‘崩’と表記した誌石は彼が天子または天子級であることを証明する決定的証拠物である。ここで'日本書紀‘を広げてみよう。日本が誇る最大の史書、しかしいつ誰が編纂したのか不明なままAD720年ごろ書かれたと主張する「歴史でない歴史書物」が「日本書紀」だ。歴代天皇の即位と没年を記録した書紀は百済王の即位と没年も共に記録している。いわゆる「神功紀」(三韓征伐女王)を創作しながら天皇の死は「崩御」と書き、百済王は「薨去」と表記した日本書紀、武寧王も例外でなくて「百済25代斯麻王(諡号武寧)薨去」だ。

ソース:ニューデリー(韓国語) 死んだ武寧(ムリョン)王、日歴史操作を暴露する
http://www.newdaily.co.kr/news/article.html?no=114091

「崩」の文字は天皇とその縁者にしか使われない文字です。
この【墓誌石】は百済王室が天皇家の分家であることを明らかにしています。

昨日の記事は肝心の事を書いていません。
秦氏は藤原家と婚姻を結び日本の重金属を独占します。
そして「倭」や「越」「出雲」の金属氏族を統制したのです。全てを奴隷として鉱山で働かせます。秦氏は支配者と手を組み封建制度を管理する立場として日本の民を呪縛した張本人なのです。
各地の地名を見ると「野田」の名前もいたる所に存在しています。彼らは先祖の時から民を弾圧して来た家系そのものです。
その仲間が「野中・前原・谷垣・岡田」で太古からの因縁です。
それぞれの本家・拠点は重要な神社の氏子総代を担っているのでそうした構造を解体する必要が有ります。
前原・谷垣家は京都府の福知山から兵庫県の出石神社。
岡田家は多度大社。菅家は大三嶋の大山祗神社。枝野家は宇都宮・二荒山神社。

百済王家が天皇家の分家であれば当然高句麗も同様であり朱蒙も天皇家の人間であることを示唆するのです。

白村江の戦いとは唐と大東亜共和圏-日本との最後の決戦地だったのです。
この戦いに敗北した日本には2万人の進駐軍が駐留しその総司令官が中臣一族ですから神武東征とは中臣氏による畿内制圧を時代を遡らせて書き込んだのです。

しかし唐も「牡牛神・ハルと蛇女神・キ」の子孫が作った国です。そのため王統が入れ替わっていたとしても「神の子孫」という万世一系は不変なのです。
<転載終了>