病気と憑霊について 1 (天国の福音より)


明主様御教え 「病気と霊」 (昭和22年2月5日発行)

「病気とは浄化作用の発生とその過程である事は詳細解説した通りであるが、ここに霊に因る病気の相当多い事も知る必要がある。

これ等も昔から相当唱えられてきた事で、特にある種の宗教の如きは病原のほとんどは霊作用としている位であるが、

私の研究によれば霊作用と浄化作用と両方あるが、

両者は実に密接不離の関係にある事を知るのである。

何となれば病霊憑依は病者の霊体の曇りの部分に限られるものであるからである。

故にその曇りの解消によりある程度浄化されたる霊体においては

肉体の病患もなくなるのみか、病霊の憑依も不可能となり、心身共に健康者たり得るのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「肺結核」 (昭和22年2月5日発行)

「医学上、結核は病菌の感染によるとされているが、実際はさきに説いたごとく誤れる医療のためと、

今ここに説くところの病霊によるというこの二つが真の原因である。

まず一家庭内において子女の一人が結核に罹って死亡する。

と間もなくその兄弟姉妹の誰かが結核に罹りまた死亡するという具合に、次々罹病し死亡する。

また夫婦の一方が結核のため死亡すると、暫くして他の一方が罹病する。

この事実を見る時、全く感染としか思えないのである。

しかもそれを裏書するかのように彼のコッホ博士が結核菌を発見し、感染という理論を立てたのであるから、

それを一般が信奉するに到ったのも無理からぬ事である。

しかるに右の学説は一大誤謬である事を私は指摘するのである。


しからば真の病原は如何というに、まず結核によって死亡した霊が霊界に往き霊界生活に入るや、

孤独に堪え難いため生前親しんでいた兄弟、姉妹、友人、夫、妻等を自分の方へ引寄せようとするーそのための憑依である。

もちろん霊界人となっても病気は持続しているから、

憑依の場合結核症状となるのは当然で全く恐るべき事である。

そうして憑依の場合、人間が元気旺盛であれば憑依し難いのでその時期を待っている。

たまたま感冒や心身過労等によって衰弱する場合たちまち憑依するのである。

この過程を医学においては、過労を結核の原因と誤ったのである。

この例として次の事実は洵(まこと)に適切なものである。


先年私の妻は突然発熱、咳嗽、血痰等の肺患三期程度の症状を起こした。

早速私は治療したがすこぶる効果が薄い。二、三日経ても症状は一進一退である。

そこでこれは霊関係ではないかとおもったので、憑依霊の有無を査べてみたところ、果せるかなそうであった。

その憑依霊というのは一年程前死んだ、私が扱ったS某という青年の結核患者であるが、

その青年は父親と二人暮しで、長い間病気のため財物を費い果し赤貧洗うがごとくであったから、

死後の追善供養などほとんど行わなかった。

従って霊は霊界において孤独不遇であるため、

私によって改めて祀って貰いたい希望で、私の妻に憑依したという事が分った。

これは妻の口を通じて途切れとぎれに語ったのである。

もちろん表情も言語もSに間違いはない。

私は「それでは明晩祀ってやるから、この肉体から速かに離脱せよ」と言ったところ、

彼は喜んで厚く礼を言い離脱するや妻はケロリとなし、なんら平常と異ならない状態となったので、

私もあまりはっきりした現象に驚いたのである。

右の霊は今でも私の家に祀ってある。


これはある花柳界の中年の婦人で、長い間咳嗽に苦しみ、結核的症状に困っていた。

私は招かれて早速患者に対したところ、憑霊らしいので霊査法を行った。

果せるかな、突然その場に打ち倒れ、手足を縮めた姿は動物そのままである。

そこで私は査問を開始したところ果して狐霊の憑依であった。

狐霊の語った要領は次のごとくである。

すなわち「自分は伏見の熊鷹稲荷の眷属で、憑依の目的は遊んで楽をしながら、美食をしたいからだ」というのである。

私は「この婦人より以前に誰かに憑いていたろう」というと、

彼は花柳界専門と見えて、「ある芸妓に憑いていた。医師は肋膜炎といい、相当長期間病んで死んだ」との事である。

私は狐霊の悪業を咎め「速かに改心して去れ」と言うや狐霊は三拝九拝して離脱した。

患者は夢から醒めたようで、病気は拭うがごとく治癒したのである。しかも狐霊の喋舌(しゃべ)った間

「全然無我で知らなかった」というので、その由をくわしく話したところ大いに驚いたのである。

その時私はつくづく思った。

万物の霊長などと威張っている人間が、狐霊などに自由に翻弄され、病苦に悩み、ついに生命までも失うに至っては人間の価値いずれにありやと言いたいのである。


次は矢張り私の妻が突然胃痙攣を起こした。

胃部の激痛でノタ打廻るのである。

早速私は胃部に向かって治療を加えたところ、痛みは緩和されたが全く去らない。

しかるに痛みの個所は一寸位の円形で、漸次上方へ向かって進行しつつ咽喉部辺に来たと思うや、妻は「モウ駄目だ」と叫んだ。

そこで私は「これは憑霊だな」と想ったので

「お前は誰だ?」と訊くと、憑霊は言わんとしたが口が切れない。

そこで私は「三月程以前に脳病で死んだ○○の霊ではないか」と気が付いたから訊いたところ

「そうだ」というので、それから種々の手段で聞質(ききただ)した結果、

憑霊の目的は、私がその霊の生前の悪い点を人に語った事が数回に及んだので、

憑霊は「是非それをやめてくれ」と言うのである。

私は謝罪し今後を誓約したので、霊は喜んで感謝し去った。

去るや否やたちまち平常通りとなったのである。

そうして昔から死人の悪口を言うなと言うが全くその通りである。

以上のごとき実例を体験する時、病気と霊とはいかに密接なる関係があるかという事を信じない訳にはゆかないのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「精神病」 (昭和22年2月5日発行)

「精神病は全くの霊的病患であるが、ただ発病の動機は、肉体的毒素の誘引による事がそのほとんどである。

まず原因から説いてみるが例外なくこの病気は不眠の持続からである。

不眠の原因は内的と外的との二種あってまず内的より説くが、それは頭脳の血液不足のためで、

既説のごとく毒結による頚部周囲の血管圧迫のための脳貧血である。

そうして被圧迫の血管は、右側延髄部に、

次いで左右いずれかの頚部淋巴腺及び頭脳全体の毒素の影響であり、

外的とは精神的打撃すなわち心配事である。

しかしこれとても内的原因による脳貧血の影響ももちろんあるのである。


ここで血液について説明するが、血液そのものは物質であるが、

これを霊的に観る時、活力の源泉である霊細胞で、いわば霊の物質化が血液である。

従って純血であれば霊細胞は濃度であり、貧血または濁血は霊細胞も稀薄である。

元来憑依霊なるものは、霊細胞が稀薄でなければ憑依出来ないもので、稀薄の程度に比例する。

判りやすくいえば霊細胞が充実し十の場合は絶対に憑依は出来ない。

それが九となれば一だけ憑依出来得、八となり七となり五となり四となれば、憑依霊は六を占領する。

すなわち本霊四憑依霊六となるから憑依霊の方が勝ち人霊が負ける結果憑依霊の意のままとなる。

それが精神病である。

そうして精神病の場合は狐霊の憑依がほとんどで、稀には狸霊もある。

昔から狐憑きというのは、これを指したものである。


ここで狐霊の性格を知る必要がある。

本来狐霊の性格はちょっと人間には解し難い程の特異性がある。

それはいかなる訳かというと、狐霊は実によく喋舌(しゃべ)り、連続的で決して中絶はない。

かつ速度も著しい、よくある種の婦人などが昂奮の結果威猛高(いたけだか)になり

相手の口を開かせず喋舌り続ける場合がある事を経験するであろう。

しかも論旨は辻棲(つじつま)が合わない。

これは狐霊が人間の口を借りて喋舌るのである。

その揚句本人は何を喋舌ったか分からないという事がよくある。

それと同じように物の考えも連続的で果しがなく、それからそれへと考える、

これが睡眠を妨げ不眠の唯一の原因となるのである。

精神病者がよく出鱈目な事を喋舌りつづけるのはそういう訳であり、

また医学上でいう幻聴、幻覚なる症状も、狐霊の性能が表われるからである。


精神病は、本医術によれば必ず全治する。

それはまず不眠の原因である圧迫毒素を溶解し濁血を浄血化し頭脳への送血が多量になるため、

ここに霊細胞は充実し、狐霊は移動し、萎縮し離脱する。

この実例を次に書いてみよう。


二十五歳の婦人、産後半ケ年位経過、ある事情により精神的打撃の結果、相当重症の精神病となった。

日夜喋舌り続け、断えず自殺を計ったりするので、男子三人で警戒した。

治療によって漸次意識を恢復した。

それは狐霊が頭脳から移動したからで、狐霊は肩から胸の辺に下降し絶えず喋舌り続けている。

私は時々「今どこで何を言っているか」と訊くと「今左の胸の辺でかくかくの事を喋舌っています」という。

もちろんこの頃は自分の意識を取戻し、狐霊を支配するまでになっていたからである。

狐霊の言う事は馬鹿馬鹿しい事ばかりである。

一例を挙げればこういう事があった。大分快方に向かい狐霊が腹部にいる頃である。

ある日映画を観せるべく映画館に入った。

その時、「今何を喋舌っているか」と訊くと

「映画なんか詰らねえや、音楽は聞えるけれども、肚に居ちゃ何も見えやしねえ」と言うので、私も噴き出したのである。

その様な具合で、腹部から最後には肛門付近に下り、ついに離脱したのである。

もちろん下降するに従って、喋舌る言葉も漸次小さくなり、終り頃は極微かで聞とれぬ位だとの事である。

この患者は全快後五、六年間は幾分違う事が時々あったが、

その後なんらの異状もなく二十数年を経た今日、普通の人といささかも異ならないのである。


次は石川某という三十五、六歳の男子、これは精神病になりかけの症状で、

この男が飯を食おうとすると、耳元で「その飯には毒が入っているから食うと死ぬぞ」と言われるので、

驚いてやめ、家を飛出し、蕎麦(そば)屋へ入り、蕎麦を食おうとすると、また耳元で同様の事をいう。

また寿司屋へ入るとまた言われるという。

その他夜寝ようとすると、往来を二、三人の人が通り、

その人達が「石川は怪しからん奴だから、今夜殺してしまおう」という声が聞えるので恐ろしくて寝れないというのである。

これに対し私は「それはみんな狐霊の悪戯(いたずら)である。

人のいないのに話声が聞える時は狐霊が言うのだと思い決して信じてはならない」と懇々説いたので彼は翻然と目覚め全快したのである。


次に二十五、六歳の自動車の運転手で、この男の特異症としては屋根に上り、

駆廻っては瓦をめくり往来の人に抛(な)げつけるのである。

それが治療によって意識を快復した頃、種々訊いてみた。

彼いわく「屋根へ昇る時も、屋根を駆る時も足の裏が吸着して少しの危険も感じない。

故に人間の登れないような所も不思議に登れる」との事である。

全く狐霊の蹠(あし)の裏の作用によるのである。

故に動物や虫類がいかなる場所も昇ったり這ったりするのは蹠の吸着作用、

すなわち真空になるからだという事を知ったのである。


次に十七歳の女学生の精神病を扱った事がある。

これは非常に暴れ、ある時は裸体となって乱暴する。

その際三人位の男子でなくては制えられない程の力である。

また大いに威張り母親を叱りつける事がある。

しかるにこの原因は左のごときものである事が判った。

すなわち娘の父は数年前没し、現在は母親のみであった。

その母親は、数ケ月前ある宗派神道の信者となったので、祖霊を祀り替え、仏壇や位牌を処分した。

それがため父の死霊が立腹したのが動機となった。

ところが父の未だ生きている頃その家は仙台から東京へ移転したが、

元の邸宅を売却し邸内に古くから祀ってあった稲荷をそのまま残したので、

買主は稲荷の祠(ほこら)を処分してしまったため、

その狐霊が立腹し上京した父に憑依し、父は精神病となりついに死亡した。

その様な訳で父親の霊と稲荷の霊との二つが娘に憑依したのであった。

故に発作時父親の霊は母親を叱り、狐霊は常軌を失わせるといったような具合であったが、

私の治療によって全快し、その後結婚し、今日は二児の母となり、なんら普通人と異ならないのである。

右のごとく古くからある稲荷を処分した事によって精神病になる場合が非常に多いのである。


今一つおもしろい例をかいてみよう。

これは、二十幾歳の青年で、大方治癒した頃私の家で使用した。

いつも庭の仕事などやらしていたが、私の命令に対し狐霊が邪魔するのである。

例えばある場所の草を全部刈れと命令し、暫くして行ってみると一部だけが残っている。

私は「なぜ全部刈らないか」と訊くと、「先生が『そこだけ残せ』と言われました」という。

私は「そんな筈はない。それでは『一部残せ』と言った時、私の姿が見えたか」と訊くと

「見えないで、声だけ聞えました」と言うので、

私は「それは狐が私の声色(こわいろ)を使うのだから、以後注意せよ」と言ったが、

直に忘れて右のような事がしばしばあった。


また精神病者が常に空間を見詰めるが、狐霊が憑依すると、霊が見えるのである。

また何物かと問答をしている事がよくあるが、これは狐霊の話声が聞えそれと応答するのである。

狐霊は人の声を真似る事が巧妙で、驚かしたり脅迫したりする。

たとえば「今お前を殺しに来るから逃げろ」というので、患者急遽飛出したり、

「地震や火事が起こるから遁(に)げろ」といったり、

また「人を殴れ」といい、はなはだしきは殺人をさせる事さえある。

この様に狐霊が自由自在に人間を翻弄(ほんろう)するのであるから堪らない。

また狐霊が患者に憑依しながら外部の狐霊と応答したり、多数の狐霊が次々入れ替り憑依する事もある。

そうしてなぜ狐霊が人間に憑依するかというに、

人間を騙す事に興味を感ずると共に、人間を誑(たぶら)かす事が巧妙になる程狐仲間では巾(はば)が利くのである。

かような事はあまり不思議で読者は信じられないであろうが、

いささかの誤りも虚偽もない厳然たる事実である。


そうして本病といえども根本原因は萎縮腎であるから、腎臓部の治療を充分行うべきである。

狐霊の憑依する個所は前額部中央すなわち眉と眉との中央部一、二寸奥であるから、その辺に霊の放射を行うべきである。

また霊の種類とその場合によって憑依局所の異なる事がある。

すなわち狸霊は精神病の場合のみ頭部であるが、

普通は胸部及び腹部の左側であり、龍神は腹部が多く人霊はおもに頭部である。

しかしながら霊は伸縮自在であるから、人霊などは全身に拡充する場合と、縮小して一局部にいる場合とがある。

これらは経験の積む程判り得るのである。


ここに注意すべき事がある。

それは普通人にして幾分か頭脳の平衡を欠く人がある。

この種の人は日本人中恐らく八、九十%程度に及ぶであろう。

しかも指導階級である政治家、宗教家、教育家、事業家、芸術家等各界の名士にして少なからずあるから驚くべきである。

それはいかなる訳かというと、前述のごとく頭脳の霊細胞が稀薄になる場合、一ないし四までを憑依霊に占有される結果である。

すなわち脳の霊細砲の濃薄によって憑霊も伸縮するので、平常は真似目(まじめ)にして人格的行動の時もあるかと思えば、

この人がと思うような行為のあるのは右の理によるのである。

故に人格者や善行者がフトした事から過ちを犯す場合があるがそれは憑依霊に負けるからである。

また平常真面目な人でも飲酒によって人格転換したり、不良児童、不良青年等の発生ももちろん憑依霊によるのである。

ドイツウーファの有名な映画「ジーキル博士とハイド」などは憑霊現象をよく描いておりおもしろいと思った。

何々主義などと唱え、奇矯な言動を為す者のごときは、

邪神界からの伝流によって行動するので、

これは邪神が自己の野望を遂げんとする意図からである。

従ってこういう人の主義思想を深く検討する時、必ず辻棲の合わぬ点を発覚し得るのである。

最も表われている特異性としては、人類愛がなく闘争と破壊を好み自己の利益を本意とし、

他人の不利は顧みないという非協調的であり冷酷である。

おもしろい事にはこの種の人に肺病が多い。

それは肺患による貧血が憑霊しやすからしむるからである。

しかしながらこういう思想者といえども、文化進展にある役目を受持っている訳であるから、

結局世界経綸に対する神意の一部であると想うのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「癲 癇」 (昭和22年2月5日発行)

「癩癇(てんかん)は、精神病と等しく原因は憑霊であるが、

ただ異なる所は癲癇は一時的発作的である事と、その症状が多種多様である事とである。

そうして癲癇のほとんどは死霊の憑依であるから、

発作するや死の刹那(せつな)の状態を表わすのである。

たとえはよく泡を吹く、これは水死霊で俗にいう水癲癇であり、火癲癇は焼死者の霊であり、

また脳溢血によって急死した霊も多いが、これは半身麻痺状態になるからよく判る。

その他変死者すなわち轢死、縊死、墜死、銃死等々、すべては死の刹那の苦悶の状態そのままを表わすのである。

近来医学において癲癇療法として、頭脳の切開手術を行う医家もあるがこれらは患者に苦痛を与え、障害者となすだけで寸効もないのである。

何となれば原因は霊作用で、全然見当違いであるからである。


次に夢遊病者といって、発作するや自己意識を失い、家を飛出し、所定めず彷徨するという始末の悪い症状であるが、

これらも一種の癲癇であって、この憑霊は幼児の霊である。

癲癇の例として、数年前から私の家に使用している下婢の事を記いてみよう。

これはよほどおもしろい例で、最初の頃は発作するや意識を失い、所構わず倒れるが、

その際の面貌は物凄い程で、顔面蒼白、唇は紫色になり、舌を噛み口唇から血液が流出している。

その状あたかも殺害された死人と少しも異ならないのである。

それが本医術によって漸次快方に趣き、近来の発作は極軽微で意識を失う事はなく、多少の不快を伴う位である。

その際前額部深部を霊射するや、憑霊は悲鳴を挙げ「助けてくれー」と繰返す。

私は「助けてやるからこの肉体から出よ」と言うと「行く所がない」という。

憑霊が行く所というのは人間である。

この場合全然他人では憑る事が出来ないから始末が悪い。

そうして右の下婢を施術するや前額部へ霊射二、三分にして肩、腕、腹部等へ次々と移動する。

おもしろい事にはその局部を圧査すると必ず毒結がある。

そうして憑霊の逃げ廻るのを追いかけるように一々霊射する結果、霊は極度に萎縮し、苦痛は一時解消するのである。

この下婢の霊は、祖母にあたる者が不義の子を宿し、出産するや圧死させた。

その嬰児の霊である。

その嬰児の霊へ、祖母に関係ある狐霊が憑依し、同化霊となって活動するのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「小児麻痺」 (昭和22年2月5日発行)

「この病気は真症と擬似と両方あるが、医学ではその区別を知らず混同している。

しからば真症とは何か、というと、原因は霊的で、その多くは脳溢血で急死した霊の憑依である。

従ってその症状は脳溢血と同様で言語不能、半身不随等である。

そうして発病は幼時と少年期とが多く突如として発病する。

今まで学校の成績もよくなんら異状なき健康児が、高熱、痙攣を起こし脳溢血的となるので実に恐るべき疾患である。

なぜ死霊が憑依するやというに、重症脳溢血は発病と共に死の転機が速かなるため、霊は死の覚悟がないから、

霊界人となってもその想念は生きているつもりでいるが肉体が無い。

従って無意識に肉体を求めるが、その場合他人には憑依出来ないから近親者に憑く。

何となれば近親者はすべて霊線の繋りがあるから、その霊線を辿って憑依するのである。

ここでこの霊線について説明してみるが、夫婦間は最も太く、親子、兄弟、親類、子弟、友人等縁の薄くなるに従って細るのである。

そうして死霊憑依の場合、成人者より小児の方が憑依しやすい事と、

たまたま感冒等によって高熱、食欲不振等、衰弱時を好機とするのである。

その場合、祖父母の霊は孫に憑る事が多く反って親の霊が子に憑る事は少ないのである。

この事についておもしろいのは医学上においても遺伝性疾患は一代おきになっている事である。

彼の癲癇もそうであり、人間の性格においても、両親よりも祖父母に似る方が多いのはそのためである。

右の外変死のごとき突然死の霊も憑依して小児麻痺となる事がある。

この場合も死の覚悟がないため、脳溢血と同様、人間を求め霊線を通じて憑依するので、もちろん死の刹那の状態を表わすのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「胃 癌」 (昭和22年2月5日発行)

「この病気も既記のごとく真症と擬似とがあるが、真症だけを書いてみる。

真症はほとんど霊的原因で、最初胃部に固結が出来るが、

気の付かない位小さいものが漸次膨大し、拳大またはそれ以上に及ぶものさえある。

そうして固結が胃部または幽門部を圧迫、食欲不振となり、痛苦を伴い、衰弱死に至るのである。

右の固結は一個あるいは数個のものもあり、

指頭をもって探ぐれば柔軟なるがごとくで、

中心はすこぶる硬く治癒は非常に困難である。

この病気の特異性としては末期に至るに従い必ず頻繁なる嘔吐を伴い特に吐瀉(としゃ)物は

透明なるヌラで、その多量なる事驚くべく、ほとんど無際限とさえ思われる程である。

またこのヌラは癌毒から発生せる液で普通は無臭であるが、

人によりすこぶる悪臭のものもある。

重症はこのヌラが胃中に充満し、食欲を絶無ならしむるのである。

さきに説いたごとく、真症癌は霊的で、特に胃癌はその代表的のものである。

しからば、その原因は如何というに、龍神の再生者が、前世龍神時代の罪穢によるのである。

龍神は蛇であるから、蛇の時代多くの生物を呑み、

その多数霊の怨霊が残存し人間に再生してから執拗に苦しめるためで、その霊の物質化が癌とそうしてヌラである。

もちろんこれらも一種の浄化作用である。

故に真症胃癌患者の面貌はほとんど龍神型である。

本医術による時、患者の衰弱がはなはだしからざる限り治癒するが、症状により相当長期間を要するものである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「カリエス」 (昭和22年2月5日発行)

「カリエスは大体 脊椎カリエス、肋骨カリエス、腰骨カリエス等である、

なかんずく脊髄カリエスは脊柱彎曲が特徴で、重症は彼の傴僂(せむし)となる。

発病の場合、医療は脊柱の彎曲を防ぐため、胴体にギブスをはめ仰臥させしむるが、

幾分の効果はあるが、患者の苦痛ははなはだしい。

この病気は多くは腰部、大腿部等に一個所ないし数個所穿孔し排膿されるが、

その場合自然穿孔と人為穿孔とあり、その排膿は多量にして、重症は数個所の孔から断えず排膿し、数年に及ぶものさえある。

従ってその量を計算する時、人体全部を膿と仮定してもそれより多い位であるから不可能である。

また軽痛者と激痛者とあるが、痛みの原因は薬毒であるから、薬毒のない者は軽痛または無痛である。

人により腫脹だけで無排膿もあるが、それらは浄化微弱のためである。

本病は医療では不治とされているが、本医術においては必ず全治する。

全治しても、脊柱の彎曲は相当矯正されるが、復旧する事は困難である。

病原は霊的であるから次に説いてみよう。


霊界において多数の祖霊が地獄に苦しみ、罪穢の浄化作用が行われる場合、

その罪穢のことごとくを払拭する事は出来ない。

それは罪穢の残渣(ざんさ)が生ずるので、それを子孫が分担する事になっている。

ちょうど物を燃焼すれば灰が残るようなものである。

その場合子孫の誰かが選ばれてその犠牲者となるが、

一家の主人を犠牲者にする事は不都合を生ずるので、大抵は青少年子女または妻女を身代りとする。

そうしてその残渣は患者の頭脳に向かって絶えず霊的に流入する。

それが脊柱または腰骨へ流下し物質化する。

それが膿であるから、何十人何百人の祖霊の罪穢浄化である以上、多量なるはまたやむを得ないのである。

悪性の化膿性肋膜炎、肺結核、痔瘻等も右の原因による場合が相当あるのである。

それは右の疾患中、排膿や喀痰がすこぶる多量である事によって判定し得るのである。

肋骨カリエスは右と異なり、これは単なる薬毒が骨膜の裏面に溜着し、

浄化によって外部へ排泄されんとして肋骨または骨膜を穿孔する。

それがための激痛であるから、本医術によれば容易に全治する。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「眼病・霊的原因」 (昭和22年2月5日発行)

「眼病にも霊的原因が相当ある。

最も多いのは失明の原因が蛇霊の憑依である。

それは蛇を殺す場合、多くは急所として頭脳を打砕くから、眼球も共に滅失するので、それが憑依する以上盲目となるのである。

その他夜盲症、一名鳥眼は鳥類の霊の憑依であり、色盲は動物が人間に再生せる場合、未だ動物の性能が残存しているためである。

それについて人間と動物との関係を次に説いてみよう。


そもそも造物主が森羅万象を創造され給いし時最後に造られたものが人間である。

それはあらゆる生物の特質を綜合して成った、いわば神が造った綜合芸術品である。

従って人間にはあらゆる生物すなわち鳥獣虫魚に至るまでの一面を保有している事はいうまでもない。


この意味を解りやすくするため、人間以外の動物を解剖してみよう。

あらゆる動物はその種別により特質をもっている。

たとえば馬の性質は従順と勇敢で、音声はハヒフヘホであり、犬は忠実でワヰウエヲであり、

猿は狡滑でカキクケコであり、猫は怠惰横着でナニヌネノであり、

鼠は吝嗇でタチツテトであり、牛は遅鈍でマミムメモであり、豚は愚鈍でバビブベボである。

鳥類においても雀のタチツテト、鶯のハヒフへホ、カナリヤのパピプペポ、

烏のカキクケコ、家鴨(あひる)のガギグゲゴ等によっても識らるるのである、

従って彼等の物を見る眼も物体の色彩が単一であって、

赤青紫黄白等一種または二種がせいぜいである。

色盲の原因も右の理によるのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「聾耳、便秘、ジフテリヤ」 (昭和22年2月5日発行)

「聾耳(註 聴覚障害のこと)は霊的原因による事が多いのである。

一は前生において、変死による鼓膜の喪失が、霊界において完全に復せずして早生する場合と二は木龍の再生または憑依である。

既記のごとく木龍は樹木の憑依霊で、それが伐り倒された場合、その当事者の子孫に憑依する場合がある。

しかしながら木龍による聾耳は最も治癒に困難である。

聾という文字は「龍の耳」と書くが、こういう事を古代人は知っていたと見えるのである。


次に霊的便秘は幼児に限るが、生まれるや最初からの便秘症がある。

この原因は前年において便秘症のまま死亡した霊の再生である。

こういう赤児の顔は成人者特に老人のごとくであるからよく判る。

故に放任しておけば、普通一、二ケ月後には常態となるので、

その頃は面貌も赤児らしくなるものである。

この意味において出生児の顔を注意して見る時、老人のごときものが多いが、

これによってみても人間再生という事は疑い得ないのである。


次にジフテリヤは猫の死霊の憑依が多く、この場合霊的か否かを見分ける方法がある。

まず患者の鼻に向かって霊射をすると、猫のごときくしゃみや泣声をすれば、それは正に猫霊である。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「霊的病気の種々相」 (昭和22年2月5日発行)

「霊的原因による疾患は実に千差万別である。

その中珍しいものを一つ二つ書いてみよう。

四十歳位の男子、一日に一回か二日に一回位、突如として全身が硬直する。

その状あたかも石地蔵のごとく全身いかなる部分も全然不動、目も口も開けっ放しで、そのまま数十分も続くのである。

もちろん死霊の憑依で、死の刹那の表われたものである。

これらは砒素(ひそ)剤のごときものの服毒自殺であろう。

次は十五、六歳の男子数年前突如発熱、痙攣を起すと共に顔面に大変化が起った。

それは一見六、七十歳位の老人の顔で、しかも苦悶の形相物凄く、正視に堪えぬものがある。

故に患者は外出はもとより人に顔を合わすさえ避けている。

これらも老人の死の刹那でよほど苦悶したものであろう。

次は十歳位の小児、これは先天的で、その状態は両手両足を縛られたごとき交叉状をなし苦悶に堪えぬ相貌である。

これらも手足を縛られたまま変死したものであろう。


ここで生霊について一言する。

死霊の外に生霊の憑依がある。

生霊はそのほとんどは男女関係が原因であって、善悪の二種がある。

善の方からいえば純なる恋愛、たとえば男が女を愛する場合、

その生霊が女に憑依すると、女は一種の快感を催すものであるが、それは女もその男を愛しているからで、

もし愛していない場合、すなわち一方的愛の生霊は反対に不快を感ずるものである。

そこに相愛と片愛との異いさがある。

そうして相愛の場合は霊線によって愛の想念が交流するために、

その思慕の情禁じ難く、別離している事の苦悩に堪えないもので、

ついに前後を忘れて、情死や駆落ちするまでに到るのである。

しかるにこの際注意や意見等をするがそれは逆効果となり、

反って取返しのつかぬ不幸な事態が生ずる危険があるから放任しておくに限る。

何となれば霊線の交流は一時的のもので決して続くものではないからで、恋愛は熱病というが全くそうである。

また片愛の場合、失恋者の生霊が憑依するから、失恋者の想念通りの感じがし、淋しく味気なく憂欝に堪えないのである。


次に悪の場合、本妻と妾との霊的葛藤などが最も多い。

たとえば一方が一方を呪う場合と両方で呪い合う場合とがあり、全く修羅道である。

そうして呪われる結果としてブラブラ病のごときものに罹るが、医診ではもちろん判る筈がない。

これが重症に進み、生命を奪われる事さえある。

しかるにかかる霊が霊界に往くや復讐せんとして生残った相手をたおすに至る事がある。

もちろん霊的で見えざる事とはいいながら、一旦夫婦の道を外し、妾などを蓄える結果、

女の生命まで犠牲にするに到ってはその罪軽からず、大いに慎しむべきである。

そうして死霊の憑依する場合は悪寒を感じ、生霊の場合は反対に温熱を感ずるものである。」 (「天国の福音」より)