結核の分析について 5


明主様御教え 「結核問題」 (昭和22年2月5日発行)

「結核問題はヨーロッパにおいてはほぼ解決せりといわれているに拘わらず、日本においては輓近(ばんきん)大問題となっている。

この同一の結核問題がヨーロッパと日本と反比例しつつありという事は洵(まこと)に不可解である。

私はそれらに対し以下解説してみる。

世界の主要文明国での結核は四、五十年以前より逐次減少しつつあるに対し、独り日本においては逆に増加している。

まず現状についての日本における結核による死亡者を見れば三十年前に比較して約三○%の増加を示し、昭和八年(一九三三年)には十二万六千七百四人に達し、彼の赤痢、チフス、コレラのような伝染病による死亡者の総数に比較し優にその四、五倍に上っている。

なお結核患者の数は専門家の推定によると、死亡者数の十倍すなわち百二十万人を下らないものと認められている。

これを人口に割当てる時五十人に一人という事になる。

しかしながら実際は右の三倍に上っていると当局者は言明している。


次に各国における古い時代から現存に至る療法の概略を示してみよう。

結核が初めて医学史上に表われたのは古い事である。

すなわち西暦紀元前四百年にギリシャの医聖ヒポクラテスは肺癆(はいろう)を説き、

その後紀元前後の頃にはその療法としてはチェルズスは海浜、プリニウスは林間説を唱え、ガレノスは山獄及び牛乳療法を主張したのであるが、

今より約百八十年前に到って初めてドイツのへルマン・ブレーメルが一定の療則を定めて療養所を創設し、今日のサナトリウム療法の基礎を築いたのである。

その間日本においては天正五年(西暦九八二年)丹波康頼は「医心方」を著して肺結核を伝死病として論じ、

また文化二年(西暦一八○五年)橘南谿(たちばななんけい)は肺結核に伝染と遺伝とあるを説き、本間玄調はこの病毒が伝染毒なる事をもっぱら論証したのであった。

西暦一八八二年にロベルト・コッホが結核菌を発見してから初めて結核の本体が判明し同一八九○年コッホは有名なるツベルクリン療法を創始したのである。

しかしこの療法は病巣を刺激して抵抗を増させる事実は認めらるるが、これが病症のいかんに係わらず応用されたために重症者や悪化する者が続出し予期の成果を収め得られなかった。

このツベルクリン療法に刺戟されてその後夥多(かた)の免疫化学両方面の真摯な研究が続けられたのであるが、いずれも臨床上確実なる効果ある方法が発見されなかった。

ここに至って再びブレーメルの自然療法が結核療養の本道として認識されるようになったのである。

現在世界に有名な米国のトルウドウ療養所、スイスのレーザン療養所同じくダヴォス療養所等はいずれもこのブレーメルの自然療法に影響されて設立したものであって、この自然療法は栄養療法と共に結核療養に不可欠のものとなったのである。


次に、医学においては治病作用として抵抗力発生に重点を置くが、医学の解釈によると、抵抗力とは吾々の人体に侵入してくるすべての有害物に対して自然の防禦作用が備わっている。

すなわち体内に侵入した黴菌を溶解し殺菌しその毒素を打消すべき抗菌物質があるというのである。

それは白血球の食菌作用などで、これらの力を総称して抵抗力というのである。

現在ブレーメルの自然療法や栄養療法が推奨さるるのも、結局体内に栄養を充実さして抵抗力を強め、自然治癒を計るを目的としたもので、いわゆる「自己の病気を治すものは自己の力以外にない」という信念を具体化したものである。

以上は現在医学上の理論と対策を述べたのであるが、私の発見した結核についての解説をなすに当って現在結核の最も多い日本を対象として述べてみよう。


それは近代日本が特に青年層に結核の蔓延が著しくなったのはいかなる理由によるものであろうか。

そうして国家的大施策を施しつつあるに拘わらず反って逆効果を来し、国力に及ぼす影響は蓋(けだ)し甚大なるものがある。

それは私の観る所では、政府及び専門家の結核防止の対策それ自体が結核を増加するという逆効果となりつつあるからである。

忌揮なくいえば医学が結核蔓延の主動的役割を遂行しつつありという事である。

今日医学が肺結核と診断する患者、特に初期の患者においては、肺に異常は全然無いのであって驚くべし、そのほとんどが誤診である事である。

今日医学上の診断法としては種々あるが、まずラッセル(水泡音)の有無、マントウ氏反応、赤血球の沈降速度、結核菌の顕微鏡検査、レントゲン写真等であり、

症状としては持続熱、咳嗽、喀痰、血痰、喀血、羸痩(るいそう)、盗汗、胃腸障碍、呼吸困難、疲労感等であるが、それ等について順次説いでみよう。


病気の真因の項目において詳説したごとく、感冒防遏(ぼうあつ)の結果、漸次身体各局部に然毒及び尿毒、薬毒(この三毒については別に詳説する)が集溜凝結する。

しからばその局所とはいかなる所かというに大体一定している。

すなわち頭部の全部または一部、頸部淋巴腺、延髄付近、肩部、腕の付根、肋骨及びその付近、横隔膜及び胃部、肝臓部、腹膜部付近、鼠蹊部淋巴腺、肩胛骨付近より脊柱の両側及び腎臓部等である。

これら局部または数局部の毒結が第二浄化作用によって発熱し、咳嗽喀痰その他種々の症状を発生する。

その際医家は感冒と診断し浄化停止を行うが、その結果幸いに奏効すればしばらくは健康保持の状態を続けるが、毒素は依然として残存固結し、しかも薬毒の追増によって復び浄化発生する。

また停止するという事を繰返すにおいて停止力よりも浄化力の方が勝ち、発熱その他の症状は慢性的となる。

これが一般結核初期までの経路である。

しかるに近来医学の進歩によって結核の早期発見ととなえ、種々の機械的診断法を行い断定するのである。

そうしてそれらの機械的診断法が、医家はもとより社会一般にいかに信じられいるかは周知の事実である。

しかるにその診断方法が実は誤謬の因となり、結核増加の役目をしているというのであるから問題は大きいのである。それをここに詳説してみよう。


(一)「ラッセル」とは肺臓の一部に滞溜せる喀痰が、呼吸のために一種の喘音を発するのである。

この原因は、身体各局部に固結せる毒素が発熱によって溶解すると共に一旦肺臓内に浸透滞溜し、咳嗽による吸出をまっているという訳である。

故に吐痰によってラッセルは消滅すべきであるが、後続喀痰がある以上容易にラッセルは消えないのである。

この状態を医診はその局部に病があるごとく誤解するのである。


(二)「マントウ氏反応」とは、ツベルクリン注射によって陽性または陰性の区別を知るのであるが注射の結果その部に紅潮または腫脹を呈するを陽性といい、何等異常なきを陰性という。

医学の解釈によれば陽性は既に結核菌に侵されており、陰性は未侵というのであるが私の解釈によればこれは反対である。

その理由を事実によって解いてみよう。人間が毒虫や蜂に刺された場合腫脹を呈するのは、もちろん虫毒による浄化作用のためであるがそれは毒に対するに処女的肉体であるからである。

彼の中国人の一部には南京虫に刺されても何等の症状のないのは、既に抗毒素の発生によって解毒せしむるからである。

また私の体験によればブヨに刺された場合非常に掻痒を感ずるが、頻繁に刺され慣れるに従い漸次掻痒を感じなくなる。

これらもブヨ毒に対する抗毒素発生のためである。

これらの例によってみても陽性とは結核生菌に対し抗毒素未発生のためであり陰性とは既に生菌に侵されて抗毒素既発生であるからである。

そうして結核菌はなんら恐るべきものではない。何となれば決して感染するものではないからで、この事については後段に詳説する。


(三)「赤血球の沈降速度」
これは血液の清濁を測定する方法であるが、いうまでもなく濁血者は血液中に不純物を保有しているから、浄化作用発生しやすく罹病の機会が多い訳である。

しかしながら濁血者は結核のみ発病するとは限らない。

あらゆる病原となるのであるから、結核のみの病原に限定する点に医学の誤謬がある。


(四)「結核菌の顕微鏡検査」
医学は結核菌の有無によって病症の重軽を判定する。

すなわち保菌者を解放性と称して警戒する。

これはなんらの意味はない。

何となれば結核菌は前述のごとく感染の憂はないからである。


(五)「レントゲン写真」
医学の診断においてはレントゲン写真をすこぶる重要視しているがこれについて解説してみよう。

レントゲン写真に表われたる胸部の雲翳(うんえい)の有無大小によって診断を下すのであるが、一体この雲翳なるものは何であるかという事である。

私の研究によればこれは胸部または背部に滞溜せる毒素の固結である。

しかるに多くの場合、肺臓の外部すなわち肺膜外、肋骨及びその付近の筋肉中に溜結せるものであって、肺臓内部に固結のある事は極めて稀である。

ただこの場合肺臓外か肺臓内かの区別は容易に判明する。

それは肺臓内の場合は呼吸に影響するからで、呼吸に異常のない場合、肺臓は健全であるとみてよいのである。

また写真は平面的であるから、肺臓の内外前後等の判別は付け難いのであるが、医学は雲翳さえあれば直に肺結核と断定するのであるから洵(まこと)に軽率というべきである。

故にレントゲン写真の診断は不正確というべきである。

もっとも医学においても正面側面背面等部分的に撮影し、繋ぎ合わしてみるという方法を執る場合もあるとの事であるが、これらは非常に手数を要し、一般的利用は不可能である。

また何人といえどもレントゲン写真によれば多少の雲翳は必ずあるもので、全然ない人は極稀である。

医学は大体右のごとき数方法を唯一のものとして診断を下すのであるが、その適確性を欠く事は右の解説によってみても識らるるであろう。


次に症状について概略説明してみよう。

持続熱、咳嗽、喀痰はさきに説いたから略すが、血痰は毒血が少量ずつ痰に混入するのである。

ちょうど腫物の破れたる場合、膿液に血液の混入をみるのと同様の理である。

また喀血は毒素が排泄されんとして肺臓外の一局部に血管の亀裂を生ずるためで、これは脳溢血の場合と同様でただ脳溢血は脳に近接せる血管が亀裂するのである。

もちろんこれらも浄化作用のためであって、毒血はいずれかの排泄口を求めて必ず出血するもので、痔出血、赤痢等も同様である。

右の理によって喀血性結核は医学においても治癒しやすいとしてあるが、私の経験からいうもその通りである。


羸 痩(るいそう)
結核者に羸痩(やせ衰えること)は付物である。

この原因は発熱、食欲不振、運動不足等によるのであって、特に発熱は体力の消耗おびただしいものがある。

また食欲不振を緩和するため健胃剤を用うるが、これは一時的効果はあるが、その後に到って反動的に食欲不振を増進させるものである。

次に運動は体力増進に効果ある代り発熱の原因ともなるので、この取捨按配が難しいのである。

要は自然に心の欲するままに行動するのが最良の方法である。


盗 汗(ねあせ)
医学の解釈によれば疲労のためというがこれは逆である。

何となれば浄化作用の一種であって、熱によって溶解され液体化した毒素が毛細管から滲出するのである。

ちょうど汚れ物を熱湯で洗濯した・・・その洗い水のごときものである。

故に盗汗者は割合体力がある訳である。

老人に盗汗者の少ないに見ても明らかである。

私の経験上、盗汗者は概ね経過良好である。

また感冒の場合、発汗すると治るのも同一の理である。


胃腸障碍
絶対安静によって結核者は運動不足となり非常に胃腸を弱らせる。

これは健康者といえども絶対安静を永く続くるにおいて、胃腸は睡眠状態となり衰弱するのが当然である。

いわんや病者においておやである。私はこの絶対安静程不可なるものはないと思う。

この点も後段に詳説する。

すなわち消化薬連続服用が逆効果を来し、発熱が食欲を鈍らせる等、実に結核者の胃腸障碍は多くの場合致命的ともいうべきである。

そうして特に注意すべきは、結核と診断された患者の大多数は化膿固結性腹膜炎を保有している事である。

この症状は腹部は普通の腹膜炎のごとく膨大がないので、医診は発見出来得ないのであろう。

腹部はむしろ縮小している者さえあるが、触診すると硬化著しいのと熱感によって知らるるのである。

故に硬化が胃腸を圧迫し、食欲不振の原因となり、腹部の固結が浄化排除さるる場合持続性下痢となるので、医家はこれを腸結核と誤るのである。

またこの固結膿は咳嗽、喀痰、呼吸逼迫の原因ともなるので、これらの腹部症状の患者に対し医家は結核者となすが私はこれらの患者に対し、腹膜治療を施すにおいて漸次快方に向いついにいわゆる結核は治癒するのであるから、医家の誤診もまたはなはだしいというべきである。


呼吸困難
この症状も結核者に最も多く、患者によって差異がはなはだしいが、いずれかといえば悪性である。

そうしてこの原因は左のごとくである。

(一)肺臓内に毒素滲透し、それが多量の場合肺の容積が減少するため、必要量の空気を吸収するには呼吸回数を多くせねばならず、その為の場合。

(二)肺膜外に、既往症である湿性または化膿性肋膜の治癒後、その残存膿結のある場合浄化発生によって呼吸に支障を与える。

(三)横隔膜付近の膿結に浄化発生の場合、これが呼吸に圧迫を及ぼす。

(四)発熱により全身各局部特に肋骨付近にある毒結が溶解し肺臓に滲透せんとする場合肺自体がそれを吸収せんとし、呼吸運動が強化さるる場合


疲労感
これは発熱及び体力消耗による全身的衰弱のためである。」 (「天国の福音」より)