病気の体的分析について 1 (天国の福音より)


明主様御教え 「胃疾患」 (昭和22年2月5日発行)

「日本人に最も多い病気として胃疾患がある。

この病気は周知の通り種々の症状があるが、最初はほとんど軽症であるに係わらず、療法や摂生の誤謬のため漸次慢性となり、一進一退の経過をたどりつつついに重症にしてしまうというのが大部分である。


最初は消化不良、胸焼け、胃痛等の軽い症状であるが、それ等の原因は胃の外部に溜結せる毒素の圧迫であって、それよりもそれを治癒せんがための消化薬服用と消化しやすい食餌摂取が問題である。

それ等の方法は一時は有効であるが、連続するに従いついに胃の弱化を促すのである。

従ってまた服薬する。弱化するという訳で、遂に消化薬を放す能(あた)わざるに到り慢性症となるのである。

また消化薬連続は胃壁をまで柔軟にする。

それへ固形物が触れる場合亀裂を生じ出血する。

それが胃潰瘍である。

故に胃潰瘍の原因はそのほとんどが消化薬連続が原因であるから、かかる場合薬剤を廃止し柔軟食を摂る事によって漸次快方に向うのである。

また胃壁に腫物を生じ出血する場合もあるが、これは時日を経て血便または吐血する。

この際 医家は胃潰瘍と誤診する事がある。

右は自然療法によって全治するものである。

また大酒家に胃潰瘍が多いが、これは酒害よりもよく酒後に用うる薬剤のためで、酒のために充血せる胃壁に対し、薬毒は特に悪影響を与えるのである。


次に、胃痙攣は激痛が特徴であるが、これには二種あって、一は第一浄化作用による毒結強化のため胃を圧迫する場合と、第二浄化作用による毒結溶解の場合とである。

前者は無熱にして後者は有熱で、これは治癒しやすいのである。

これらの原因は服薬が時日を経て胃に還元し一種の毒素に変じて固結したものである。

次に胃酸過多症は消化薬服用が原因で消化薬の変化によるのである。


世人に恐れられているものに胃癌がある。

胃癌には真の胃癌と擬似癌とあり、前者はほとんど霊的原因が多く霊的は後に説くが、ここでは両方共体的に説いてみよう。

胃癌の初期は、胃の外部上方または心窩(しんか。みぞおちのこと)部に小固結を見、食欲やや不振位にて他はなんらの苦痛なきもので、

この際 医診においては癌の疑いを起し、多くは手術によって除去するが、手術後大抵一時は良好であっても再発しやすく、

医学上の統計によれば、手術後平均二ケ年半の生命を保つに過ぎないという事である。

医療においては手術に依らざる場合ラジウム放射療法を行う事になっている。

しかるにこの方法は既記のごとく癌組織を破壊すると共に内臓をも破壊するので、事実は反って悪化するのである。


また真症癌は末期に到るに従い、癌毒は胃部はもとより腹膜腎臓部等までも犯し、最も悪性なのは上半身全部を犯す事さえある。

かつ盛んにヌラを嘔吐し食欲の減退著しく衰弱死に到るのである。

このヌラが真症癌の特徴である。

そうして普通は緩慢なる進行をとるが、人により非常に速かに進行するのもある。

稀には一両日間に半身全部を犯すものさえある。

真症癌は、本医術によるも初期なれば完全に治癒するが、中間以後はまず快復困難と見るべきである。

またこの病気の特徴として、発病早期から急激に痩せる事であって、はなはだしきは一ケ月間に一貫目位ずつ体重減退するものさえある。

かつ皮膚は光沢と弾力を失い、極度の貧血に陥るが、割合不快や苦痛はないのである。

故にこの病気を診断の場合右のごとき症状によってよく知り得るのであるが、医家は種々の理学的方法を行い、診断は容易に下せないのである。

また医学においては結核を、滅減性疾患といい、癌を増殖性疾患というのである。

そうして癌の毒素は特異性のもので膿ではないから医学においても癌には菌がないとされている。

また真症癌は霊的であるから、唯物的医学においては全く病原不明と共に治療も確立し難いのである。


擬似癌の原因は、膿及び毒血の固結せるもので、初期においては真症癌と同じく胃の外部に固結を生じ、漸次腹膜、腎臓部等に及ぶのであるが、

これは治癒しやすく、衰弱がある程度を越えざる限り、ほとんどが全治するものである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「腎臓及び糖尿病」 (昭和22年2月5日発行)

腎臓病は急性と慢性とあり、前者は稀で一般にいう腎臓病はほとんどその後者である。

急性は高熱及激烈なる腰痛を伴い動くさえ不可能であるが、これはすこぶる治癒しやすいのである。

それに引換え慢性は、医療では治癒に時日を要するよりもほとんど不治とされているが、本医術によれば完全に全治する。

また慢性は浮腫が特色で原因は既記のごとく腎臓萎縮による余剰尿の滞溜である。

そうして医学は腎臓病と断定するには尿中の蛋白によるので、蛋白を非常に恐れるがこれははなはだしい誤謬である。

何となれば蛋白とは、腎臓周囲に固結せる余剰尿が浄化溶解し、尿に混入して排泄せらるるからである。

医学は蛋白を滅失すべく、牛乳飲用あるいは安静を奨めるが、もちろんこれは両者によって衰弱を促し、浄化停止を計ろうとするので、これによって蛋白が減少するから効果ありと思うのである。

またこの病気に対しよく利尿剤を用いるがこれも一時的で連続するに従い逆効果を招き、慢性の原因となる。


糖尿病は、医学上膵臓の疾患とされている。

それは膵臓によって製出されるインシュリンの欠乏が原因といわれ、医療はインシュリン注射を行うが、一時は若干の効果はあるが、根治法でないからほとんどは慢性となる。

また医学においては極端な食餌療法を行い、糖分を与えないようにする。

それがため患者の苦痛と経済的負担は容易ならぬものがある。

特に米食を不可とするので日本人には困るのである。

糖尿病は本医術によれば、膵臓外部に溜結圧迫せる毒素溶解排泄する事によって完全に治癒する。

しかも食餌は普通食であるから、その点患者は大いに助かるのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「肋膜及び腹膜炎」 (昭和22年2月5日発行)

「肋膜炎は医学上三種に分けられている。

すなわち湿性及び化膿性及び乾性である。

湿性は肺臓を包囲せる膜と膜との間に間隙を生じ、水すなわち尿が溜るのであり、化膿性は膿が溜るかまたは溜尿が時日を経て膿化せるものをいうのである。

乾性は肺膜に間隙を生ずるも、液体集溜はない場合をいうが、この症状は激痛を伴うもので、医診は肋間神経痛を誤診し乾性肋膜炎という場合が多いのである。

肋膜炎の原因は他発性と自発性とあり前者は胸部または背部の打撲、力業、器械体操のごとき動作等によって起す事が多いが、後者はなんら原因なく不知の間に起るのである。

しかしながら真の原因は、乾性を除き、いずれも腎臓萎縮による余剰尿の集溜である。


医療は穿孔排水または排膿を行うかまたは利尿剤の服用を奨めるが、これらは一時的であって、一旦治癒するといえども必ず再発するものである。

肋膜炎の特徴は、呼吸が吸気長く呼気短く、多量の盗汗と多少の胸背部痛苦、眠がり、眩暈等の症状である。

腹膜炎は、肋膜炎と等しく湿性及び化膿性の二種あるが、乾性はない、

もちろん腸を包囲せる膜と膜とに間隙を生じ、尿または膿が集溜するのである。

原因治療その他は肋膜炎とほぼ同一に付き略す。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「喘 息」 (昭和22年2月5日発行)

「喘息(ぜんそく)は医学上原因不明で治癒最も困難とされている。

また医学は喘息に二種あるとしている。一は心臓性喘息、一は気管支性喘息という。

すなわち前者は発作的で、発作の際激しい呼吸困難を来し、重症に及ベは呼吸切迫ほとんど死の直前を想わしむるものがある。

後者は強烈頻繁なる咳嗽(せき)に苦しみ、不眠、食欲不振、呼吸困難等痛苦はなはだしいのである。

そうして多くは周期的で、冬季または夏季に一ケ月または二ケ月位に限るというのもあり、

重症は二六時中不定期的に苦しむのである。

発作の場合、医療は多く注射によって一時的苦痛を除去するが、これは著効はあるが、ある時間の経過によって再発する。

従ってまた注射をするという事を繰返す結果、漸次悪化し、時間は短縮され、はなはだしきは一日二、三十本位注射を行う事になり、注射の中毒によって昏倒人事不省になる者さえある。

近来医学においてはその原因を迷走神経の異常などといい手術を行うが、これは全然見当違いである。


喘息の原因は、私の発見によれば心臓性喘息は横隔膜の下辺を主とし、肩部、腎臓部、胸部、腹膜、鼠蹊部、その他の溜結毒素が浄化液体化し、

それが肺臓内に浸潤する場合、肺膜の厚い人か、または喀痰濃度の場合、肺自身が吸収せんとするその運動のための呼吸困難である。

故に発作の場合吐痰すれば軽快になるにみても明らかである。


次に、気管支性喘息は、強烈なる咳嗽によって濃度の喀痰を吸引するためで、頻繁なる咳嗽は喀痰多量によるためである。

本医術によれば相当の時日を要するが、いずれも完全に治癒するのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「心臓及び高血圧」 (昭和22年2月5日発行)

心臓病は医学上大体狭心症、弁膜症、肥大症等に分けられている。

すなわち狭心症は発作的に胸部激痛、圧縮感、呼吸切迫等で、苦痛はすこぶる激烈洵(まこと)に恐るべき症状である。

重症は一回の狭心症によって一命を落すものさえあるが、大抵は一旦快復するものである。

この原因は心臓の周囲に溜結せる毒素が、第一浄化作用により、心臓に向かって求心的に圧縮する、そのためである。

医療は注射によって一時的小康を得させるが、本医術によれば容易に根治するのである。

弁膜症は狭心症と同一原因でただ全体的でなく局部的圧迫であるから、心悸亢進、脈搏不整、軽度の呼吸逼迫等が重なる症状である。

心臓肥大症は稀にはあるが、大多数は医家の誤診である。

それは心臓付近に溜結せる毒素の塊を見誤るのである。

但し大酒家、スポーツマン、登山家等にはたまたまあるが

普通人にはほとんどないといってもいい位である。


次に心臓神経衰弱というのがある。

これはなんらかいささかの動機によって、急に心悸亢進、呼吸切迫、死の直前のごとき苦悩を起すが

これは暫時(ざんじ)にしてケロリと治り平常のごとくなるもので、この原因は霊的で、なんら恐るべきものではない。


高血圧は壮年以後に多い症状で、医家は脳溢血の前兆のごとくいうが、これはいささか誤りである。

実際は低血圧者より比較的脳溢血に罹りやすい位でさほど恐るるには足りないのである。

この原因は左右頸部やや前方扁桃腺直下の位置に毒素溜結し、それが動脈を圧迫するので、この動脈は腕に連結している関係上、血圧計に高く表われるのである。


右の証左として好適例がある。

先年六十歳位の男子、血圧三百という人が私の所へ来た。

その人いわく「私の血圧は三百であるが、それ以上あるかも知れない。

何となれば血圧計の最高が三百であり、いつもすぐ最高に達するからである」との事であった。

そうしてその人は高血圧発見以来今日まで五、六年の間、毎日会社へ出勤しているが、なんら異常はないというのである。

ちなみにこの人は筆耕書きを三十年も業としており、そのため前記の位置の動脈が凝り非常に太くなっていた。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「脳疾患」 (昭和22年2月5日発行)

「脳疾患は種類が多く、脳溢血、脳充血、脳血栓閉塞、脳卒中、

脳膜炎及び結核性脳膜炎、脳貧血、頭痛、眩暈、圧迫感、朦朧感、重量感、

焦燥感、憂欝〔鬱〕、不眠症、嗜眠性(しみんせい)脳炎、脳脊髄膜炎、脳震蕩等であろう。


脳溢血は、頚部または延髄部に溜結せる毒結が浄化溶解して脳中に侵入、瞬時にして左右いずれか一方の腕、手指、脚に流下固結する。いわゆる半身不随である。

重症は旺(さか)んにヨダレを流し、言語不明瞭または頭脳に支障を来し精神上にも多少の変調を来す事がある。

もちろんこの病気も浄化作用のためであるから放任しておけば時日を要するも大抵は治癒するものである。

しかるにそれを知らない世人は医療はもとより種々の療法を行うが、それが反って治癒の妨害となり長引くのである。

これについて好適例がある。


私が以前扱った五十歳位の婦人があった。

その人は東北の小さなある町の資産家の婦人で、たまたま脳溢血に罹り、東京からも専門の博士等を招き、出来るだけの療法を行ったが、さらに効果なく、約二、三年を経過した頃は幾分悪化の状態となった。

しかるにその頃、その町の在に ささやかな農家の五十歳位で右婦人と同時頃中風に罹った男があった。

それがある日その婦人の家を何かの用で訪ねたのである。

ところが婦人は驚いて、「あなたも中風で半身不随になったと聞いたが、今見ればなんらの異常もなく健康時と変らないのは一体どうしたのであるか、どんな治療を受けたのか、どんな薬をのんだのか」と聞いた所、

その老農夫いわく、「儂らは貧乏で医者へかかる事も出来ず薬も買えないから、運を天に任して、ただ寝ていたが、時日の経つに従って、自然に治ったのである」と言うので、

その婦人は不思議に堪えなかったが、私の説を聞くに及んで初めて諒解がいったと喜んだのである。

これをもってみてもいかに無療法がいいかが判るであろう。


脳充血は、溢血の毒血が脳中に止って中風症にはならない。

ただ高熱、頻繁なる嘔吐、激痛、意識不明等で、多くは生命を落すのである。


脳卒中は、脳の疾患中最も恐るべきもので今まで普通状態であったものが、突如として斃(たお)れ死去するので、速きは数十秒である。

この原因は首筋及び肩の極端な凝りのためである。

すなわち凝りが第一浄化作用によって極度に固結する場合、血管を圧迫する結果 脳への送血が遮断されるからである。

故に昔から卒中の場合、肩を剃刀で切り血を出すとよいというのはそのためである。

近来医学で唱うる脳血栓閉塞とは脳卒中をいうのであろう。


脳膜炎は人も知るごとく小児に多い病気であるが、大人にもたまにはある。

これは前頭部の浄化作用で原因は風邪等にて頭痛の場合氷冷を行う結果浄化停止され、それを繰返すにおいて、漸次前頭部の溜結毒素が増加する。

その結果その部に大浄化が起るのである。

小児はそれの遺伝である。

医学においては脳膜炎は治癒困難となし、稀に治癒するも、予後精神的な障害者となるので、非常に恐れられている。

しかしながら本医術においては一週間位にて完全に治癒し、予後もなんら異常なきのみならず、むしろ発病前よりも頭脳明晰となり、学童などは脳膜炎全快後成績優良に転ずるのである。

この病気の特徴としては、前頭部が火のごとき高熱と、堪え難き程の激痛及び視覚眩(くらみ)のため、不断に瞑目する事である。

以上三つの症状によって脳膜炎と断定して差支えないのである。


次に結核性脳膜炎とは、普通脳膜炎が急性なるに反し慢性的ともいうべきもので、経過執拗なのを医診は結核性というので、実際は非結核である。


脳貧血は、人も知るごとく頭重、頭痛、憂鬱、首肩の凝り等の症状あり、人混みや騒音等なんらかの刺戟によって発作する。

発作するや顔面蒼白、嘔吐、痙攣、眩暈等あり、はなはだしきは人事不省となる事もある。

この際 額に掌を触るれば氷のごとく冷え、首の周囲を指査すれば必ず固結を認めるから、それを溶解すれば速やかに治癒する。


また脳貧血発作は苦痛様相のはなはだしきため、本人も周囲の者も驚くが、決して致命的ではなく必ず恢復するものである。


近来最も多い文明病といわれる脳神経衰弱は脳貧血の慢性ともいうべきもので、この病気を治癒する方法としては、風邪に罹る事が最も良いのである。

何となれば浄化熱によって原因である首の固結が溶解し、喀痰、鼻汁等になって排泄されるからである。


頭痛は最も多い病気で、しかもほとんどが慢性的である。

これは既説のごとく風邪等によって頭痛のおこる場合、浄化停止を行うためであるから頭痛の場合放任しておけば自然治癒するのである。

また眩暈、圧迫感、朦朧感、重量感、焦燥感、憂欝、不眠症等は、「病気症状と其解剖」中に説明してあるから略す。


嗜眠性脳膜炎は、夏期炎天下に頭脳を晒す場合、太陽熱直射によって、肩部及び背部一円の毒素が小脳に向かって集中するのである。

故に発病の場合、後頭部より延髄付近に毒素集溜し猛烈に弩脹する。

その際 毒素溶解法を行う時一時は柔軟になるも、たちまちに弩脹するという工合にすこぶる執拗である。

しかしながら根気よく施術するに従って漸次軽減し、一週間位にて快癒するのである。

施術後両三日を経て、眼球及び鼻孔より多量の膿が流出し血液を混ずる事もある。

右のごとく、膿の滲出がいささかでも認め得れば、最早恢復期に入った事を知るべきで、漸次快復に向うのである。

この病気は医学上恐れられているが、吾々の方では治癒しやすいものとしている。

医学の一部に、原因として蚊の媒介説があるが、わらうべき誤説である。


脳脊髄膜炎は、嗜眠性脳炎と酷似したもので、ただ異なる所は、嗜眠性は膿が小脳中に流入するに対し、これは延髄付近で停止固結し、それ以上には進行をしないのである。

従って、症状は延髄から脊柱へかけて硬直し、首は棒のごとく前後へは曲らない。

もちろん高熱、頭痛、食欲不振等によって衰弱死に到るのであるが、本医術によれば、一、二週間にて全治する。


脳震蕩は病気ではなく傷害である。

これはもちろん高所からの顛落(てんらく)または打撲等によって内出血を起し、脳髄機能に支障を与えるので、軽症は生命に別条はないが、重症は生命にまで及ぶのは人の知るところである。

この重軽を知る方法として、最も適確なるは嘔吐である。

嘔吐二、三回位ならば、まず助かるとみていいが、五、六回以上頻繁にわたる場合と、昏睡または耳孔や眼球よりの出血があれば、まず生命覚束(おぼつか)ないとみて間違いないのである。

脳疾患について知って置くべき事は、重軽を知る方法として嘔吐の多少による事が最も確実である。

ただ脳貧血のみはこの例外である。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「眼 病」 (昭和22年2月5日発行)

「近来日本人に最も多い病気として近視眼がある。

医学上治療困難とされており、原因も適確には判っていないようであるが、これは延髄付近に集溜せる毒結が、眼の栄養としての血液送流管たる血管を圧迫する事によって、眼が栄養不良に陥るためである。

そうして眼鏡を用うるため、眼の力が漸次弱り眼鏡中毒となる。

従って近視眼を治癒するには、毒結溶解と共に眼鏡廃止が根本である。

しかし眼鏡は急に廃める訳にはゆかないから、漸次的に度を低めればいい訳である。

もちろん本医術による時、軽症は半年位、重症も二、三年位にて完全に治癒するのである。


トラホーム及び濾胞性結膜炎はいずれも眼そのものではなく、瞼の裏面にボツボツが出来るのである。

すなわちトラホームは上眼瞼でボツボツが大きく、濾胞性は下眼瞼でボツボツが小さいのである。

そうして前者は治癒やや困難であり、後者は容易である。

医学においてはトラホームは手術を可とするが、事実は最も不可であって、手術によるも決して根治はしない。

否むしろ悪化を招来するのである。

何となれば手術後一時的良果はあるが必ず再発する。

故にまた手術するという訳で漸次悪性となり、手の付けられないようになるものである。

数回以上の受手術者に至っては眼球著しく充血し絶えず漏膿、開眼困難、激痛等を伴い

苦悩はなはだしく到底正視に堪えぬものがあると共に、手術のいかに恐るべきかを知るのである。

トラホームは放任しておくも治癒するが本施術による時迅速に根治するのである。

濾胞性結膜炎は自然治癒するもので、医療を加えればそれだけ時日が延びのである。


次に多い眼病としては結膜炎がある。

一名血眼(ちめ)ともハヤリ眼とも称し、眼球紅潮を呈し、眼脂(めやに)、涙等が絶えず溢れ出る。

原因は前額部に滞溜する毒素が浄化溶解し、眼球から排泄されようとするので放任しておくも順調に治癒する。

しかも治癒後は頭脳快適となるが、医療を施せば薬毒によって増悪し、視力障碍をさえ起す例もすくなくないのである。


眼星(めぼし)も多い眼疾である。

これらも毒素が眼球へ集溜、瞳孔面へ固結するのである。

いわば瞳孔面に小さな腫物が出来る訳で放任しておけば治癒するのである。

しかるに、医家または世人は必ず点眼薬を施すため膿が固結し、非常に治り難くなる。

私の経験上全然点薬しない患者は二、三回にて大抵治癒するが、点眼を多くした患者程治癒に長時日を要するのである。

右の外種々の眼疾はいずれも浄化のための毒素が眼球から排泄されようとして集溜する事が原因である以上、その毒素を排泄する事によって治癒するので、その方法としては本医術による外ないのである。


次に最も恐れられている眼病に底翳(そこひ)がある。

(註 底翳とは、眼球内に障害があって物の見えなくなる病気。ひとみの色によって、白そこひ(白内障)・青そこひ(緑内障)・黒そこひ(黒内障)とよばれる。)

これは白底翳、青底翳、黒底翳の三種があっていずれも眼底に毒素集溜固結するのである。

その毒素とは白底翳は白い膿、青底翳は青い膿、黒底翳は黒い毒血であって、黒底翳が最も重症とされている。

医療においては充分の毒素溜結を待って眼球を剔出、眼底部の着毒を払拭し、再びもとに復させ、手術治癒後特殊の眼鏡を用いる方法を執るのである。

その結果はちょうど強度の近視眼位の視力であるが、それで満足するより致し方ない。

しかしながら今まで全然盲目であったものがともかく幾分の視力が復するから患者の歓喜と共に、医家も医学の進歩に随喜するのであるが、本医術の見地より観る時、右は完全治癒とは言い難く次善的方法でしかない訳である。

しかるに本医術による時完全に治癒するのである。

ただ薬毒の多寡によって治癒の速度に長短があり、最も困難なるは彼の六百六号の薬毒による底翳であるが、この底翳は片眼が多いのである。


次に鳥眼と称する夜盲症及び医学上不治とされている色盲は、その原因が霊的であるから、その項目に譲る事とする。

しかしながら眼病の大方は本医術によれば全治するのである。

また悲しくもないのに涙の出る人があるがこれは点眼薬が時日を経て変化し涙となって出るのであるから放任すれば必ず治癒する。

この症状を医診では涙嚢(るいのう)の故障とするが、これもはなはだしい誤説である。


次に眼について知っておかねばならぬ事がある。

それは眼球充血の場合紅色を呈するが、これは血液ではなくであって、眼に限り白色の膿が眼球に集溜する場合紅色を呈するが、膿排泄に従い紅色は消滅するのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「耳鼻咽喉疾患」 (昭和22年2月5日発行)

「耳病としては中耳炎、耳鳴、耳垂、聾耳等であり、中耳炎は既説したから省くが、耳鳴は医学上原因不明で治療の方法は無いとされている。

真因としてはさきに説いたごとく、内耳近接部の頭脳、こめかみ部、延髄部、耳下腺等に溜結せる毒素の緩慢な浄化による溶解のためのその響きである。

そうして最も多いのは、内耳に近接せる耳下腺末端部の毒結である。


耳垂(みみだれ)は淋巴腺部の毒結が溶解、耳下腺を通じて排泄せらるるのであるから、放任しておけば自然に膿出し全治するのである。

しかるに医療を受ける場合、薬液にて洗滌するから、薬毒が粘膜から浸潤し膿となって排泄さるるが故に、同一の事を繰返す場合、三年も五年も病院通いしても治らず懊悩(おうのう)している患者は世間少なくないのである。

従って右のごとき場合医療をやめて放任しておけば漸次恢復に向うのである。


聾耳(ろうじ。聴覚障害のこと)は先天的と後天的とあり、また体的と霊的との区別がある。

霊的は後説するから体的を説いてみる。

これは毒素が耳下腺から内耳へかけ固結し、聴神経を抑圧無力化するためであって、これは本医術によれば治癒しやすいのである。

ここに注意すべきは、耳痛に対しO氏管通風をよく行うが、これは非常に危険である。

この方法で軽微の聾耳が重症または全聾になった例も往々あるのである。


次に鼻病としては蓄膿、肥厚性鼻炎、鼻声、無嗅覚等あるが、原因はいずれも同一であって鼻の両側及び後頭部、特に延髄付近、前頭部より前額部にかけての溜結毒素の浄化である。

蓄膿は鼻の両側における毒素が原因で常に鼻孔から鼻汁となって排泄せらるるのである。

そうして鼻側の皮下にある、溜結毒素の多少を知るにはちょっと指圧すれば痛みによって判るが、これも耳垂の場合と等しく放任によって全治する。

医療は薬液洗滌を行うため、悪化または慢性となるのである。

肥硬性鼻炎は鼻汁中の毒素が粘膜を刺戟しカタルを起すためであり、鼻孔に小腫物、痛み、痒み、涸(かわ)き等を覚えるのは、矢張り鼻汁中の毒素の刺戟によるのである。

鼻茸は膿の固結したもので腫物の根のごときものである。

医療は蓄膿も鼻茸も手術除去を行うが、これは一旦治癒しても必ず再発するもので、ついに手術中毒となる場合が相当ある。

特に注意すべきは蓄膿手術失敗のため、生命を失う事さえたまたまあるのである。

しかもこの場合患者は激烈なる苦痛に堪えかね狂乱の極暴れまわって死ぬのであるから恐るべきである。


無嗅覚の原因は、鼻の尖端に毒素溜結し、嗅覚神経を麻痺させる場合と、後頭部下辺に毒素溜結のためとである。

そうして慢性と急性とあり、前者においては自然的緩慢なる毒素溜結であり、後者にあっては麻酔剤使用または瓦斯(ガス)中毒等によるもので急性は簡単に治癒するが慢性は長時日を要するのである。


鼻孔閉塞に対してコカイン吸入を行うが、これは慎まねばならない。

何となれば一時は爽快を覚えるが癖となり、ついに中毒的となるもので、これが長年月に及ぶ時、頭脳に支障を来し、はなはだしきは死の原因となる事さえある。


次に咽喉疾患であるが、普通は感冒に伴うもので、これは簡単に治癒するが、恐るべきは喉頭結核である。

これは最初淋巴腺付近に溜結せる毒素の浄化であるが、医療はこれを極力停止せしめんとして種々の方法を行うため、病毒はついに内部に移行する事となる。

その結果発声機能を犯し、声嗄れやまたは咽喉を犯し、食物嚥下に支障を来す事になる。

そうして漸次飲食困難となり、末期には水さえ通らなくなり死に到るのである。

また医療は手術を行うが、これも不可であって左の一例はそれをよく物語っている。


四十歳位の男子、最初淋巴腺部に固結が出来、発熱腫脹したので病院に入り手術を受けたところ、まだ疵(きず)が治癒しないうち隣接部へ腫脹が出来、また手術という具合に繰返すうち、今度は反対側へ出来初めたのでまた手術また腫脹という訳で、漸次衰弱ついに死亡したのである。

これはもちろん手術のためであって、これについて心得おくべき事は、毒結が腫脹の場合、手術または穿孔等によって、排膿を行う時は毒素集溜作用は停止さるるのである。

従って右の患者の場合、集溜作用を妨害せられた毒素は止むを得ず、隣接部または内部へ排泄口を求めんとして腫脹する。

この理によっていかなる腫物といえども決して人為的に穿孔または切開し、排膿を行う事は慎しまねばならない。

腫物がいかに大となるも自然に皮膚が破れて排膿するまで待つべきである。

しかも実験上手術によるよりも自然排膿の方が、治癒日数も何分の一に短縮されなんらの危険なく痕跡も残さないのである。

しかるに手術は右と反対で、この患者のごときは、なんら生命に危険なき症状であるに係わらず誤れる医療のために、莫大なる費用と、長時日の苦痛の結果、ついに貴重なる生命をまで犠牲に供した事は、医学の罪過たるもの看過し難いものがある。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「歯槽膿漏及び顔面麻痺と同神経痛」 (昭和22年2月5日発行)

歯槽膿漏は医学上、原因不明とされているが、既説のごとく萎縮腎による余剰尿が、背部より肩部、淋巴腺に及び、それが浄化によって歯齦(しぎん。歯ぐきのこと)から滲出されるのである。

その際 血液も混入するが、尿毒が血液に混ざるからである。

また歯がグラグラ動く事があるが、これは歯齦に毒素集溜のためである。

本医術によれば簡単に全治するが、歯科医は治療の方法なく多くは抜歯するが惜しいものである。


医学上 歯槽膿漏は歯に原因があるように思うが、右の理を知る時、その逆である事が判るのである。

また歯槽膿漏を治すには、毎朝歯を磨く時歯よりも歯齦を磨くようにする。

最初血膿が出るが暫くすると血膿が出なくなり、肉が締って歯は強靱になるのである。


顔面麻痺は、口唇の左右いずれかが引吊り、また眼も引吊り、痙攣の伴う場合もあり、はなはだしきは片方の眼球が飛出し、容貌怪奇にして正視に堪えぬものさえある。

しかし放任すれば大抵一、二ケ月長きは二、三年にして治癒するが、医療にかかる場合、電気等にて固めるから慢性となり、または不治となるのである。

この原因は顔面の一部または数ケ所に毒素溜結し、筋肉の運動を妨げるためである。

顔面神経痛は大抵左右いずれかが痛むのであるがこれは毒結が、第二浄化によって溶解する痛みである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「肝臓病及び黄疸と結石」 (昭和22年2月5日発行)

「医学上 肝臓が悪いというのは、実は肝臓ではなく肝臓外部に溜結せる毒素の圧迫によるためであると共に、これによって肝臓の痛みまたは黄疸を起すのである。

医診において肝臓が腫れているというのは誤りで、右の溜結毒素を肝臓の腫れと見誤るのである。

そうして肝臓が圧迫される場合、その奥にある胆嚢も圧迫されるから、胆嚢内にある胆汁が溢出する、それが黄疸の原因である。

従って毒血を溶解排泄する事によって肝臓病も黄疸も全治するのである。


胆石病は激烈なる痛みを伴い、患者は非常な痛苦を嘗(な)めるのである。

胆石病は、胆嚢に結石の出来るもので、その他に腎臓及び膀胱結石がある。

いずれも医学上治癒困難とされているが、本医術によれば全治するのである。

近来医学において機械的に結石を除去する方法が発見されたというが、それが効果ありとするも、それだけでは全治とはいえない。

何となれば右は原因除去ではないからである。

まず胆石の出来る原因であるが、これは腎臓の余剰尿が背部より胆嚢に侵入し、胆汁と化合し結石となるのであるから、腎臓が完全にならない限り根治する筈はない。

胆石病の激痛は結石が輸胆管を通過する際である。


また腎臓及び膀胱結石は、胆石が諸機能を通過し、腎臓中に人り、それに尿毒が付着し、漸次拡大する。

また結石が輸尿管を通じて膀胱に入り膀胱結石ともなる。

しかるに結石が膀胱より尿道に通過せんとする際尿道の入口につかえる事がある。

このための排尿閉鎖もたまたまあるのである。

本施術によれば結石は崩壊し砂のごとくなり、尿と共に排泄全治するのである。」 (「天国の福音」より)