健康の種類について


明主様御講義録 「健康の種類」 (昭和11年7月)

「健康の種類とは何であるか、私は仮に三種類に分けてみたのであります。

まず第一種に属する人は、真の健康者であって滅多に病気には罹らない、偶々罹るとするも、放任しておけば簡単に治ってしまうという人などであります。

それは浄化力が旺盛であるから病原である毒素が、多量に堆積しない内に排除作用が行われるからであります。

しかし、こういう健康体の人は年々減少する様であります。


第二種に属する人は、これは一番多いので普通健康体といわれる人であります。

即ち風邪を引けば熱が出、喉が痛んで咳が出る。又、時々頭が痛むが直に治る。食物に中(あた)れば下痢をするという様な程度であります。

この種の人はちょうど健康体と病弱との中間者であって、摂生法によっては健康体にもなれば弱体にもなるという程度であります。


第三種に属する人は、普通病弱者といわれるのであって、絶えず薬餌に親しみつつ衛生に注意はするが、健康体にもならず、といって重症にもならないという程度で、こういう人が非常に多くなっているのは事実であります。

この種の弱体者が近来、青年男女に多くなった事と、又激増しつつある

いわゆる弱体児童もこの第三種である事とは、実に寒心に堪えないのであります。

そうしてこれらの病弱者は一人前の業務を執り得ないで、廃人的生活を送る者が多いのであって、社会国家へ対し一種の負担を与えて居る訳であります。


右の三種の中、最も多数である第二種健康体の人を第一種にしなければならないのでありますが、不幸にしてどうも第三種の方へ落ちてゆく傾向のあるのはどうしたものでありましょうか。それについて吾々の研究を述べてみたいのであります。

第二種健康者が偶々病気に罹った場合、発熱苦痛等を緩和すべき療法をするのですが、この苦痛緩和療法は、実は浄化作用を停止する訳になりますから、一時は快いが、結局は病気が長引きあるいは悪化する結果になるのであります。

それが為、益々苦痛緩和療法を行うという訳で、ついに第三種弱体者に陥ちてしまうのでありますが、こうなったのはなかなか復活出来ないで、現状維持か又は不幸な結果になるのであります。

この理によって、第一種健康者たらんとするには、どうしても浄化作用を充分徹底させなければならない。

それは物質の力を借りないで自分自身の自然力即ち霊的療法で以て治す、それより外にないのであります。」 (「岡田先生療病術講義録 上巻 3」より)




明主様御教え 「健康と弱体」 (昭和11年御執筆)

「病気そのものは、人体の浄化作用であるとすれば、健康であればある程浄化力は旺盛である訳である。

言い換えれば、健康が病気を発生させるとも言えるのである。

そもそも、人体の健康を大別して、四種を挙げてみる。


まず第一種に属する人から説明してみる。

人体内には何人といえども毒素の無い者は無いので、加うるに、日々多少の毒素を追増しつつあり、それが一定量を越える時、自然浄化力によって排泄する。

その過程が病気発生である事は、最初に述べた通りである。

故に、最も健康な者程浄化力が旺盛であるから、毒素が一定量に達しない時、速くも排除工作が始まるので、それは軽微の風邪、又は下痢等で済んでしまうのである。

しかるに、第二種に属する健康者は、浄化力が幾分薄弱であるから、毒素が相当量に達するまでは、普通健康を保っているのであるから、いよいよ病気発生の場合は、軽症でないのも止むを得ないのである。


次の第三種に属する人は、かなり弱体者であるので、毒素が多量に堆積しても、浄化力不足の為、病気発生までには至らないのである。

世には常に薬餌に親しみつつ重患にもならず、顔面蒼白にして、ほとんど生ける屍(しかばね)のごとき生活をしている者がよくあるが、これらは大方この症状である。


次に第四種に属する人であるが、これは平常頗る健康であるに不拘(かかわらず)、急死する症状で、その致命症はほとんど脳溢血である。

これはいかなる訳かというに、毒血多量の為浄化力は薄弱であるが、各機能が健康なのである。

故に毒素に対する抵抗力が強い為、健康そうに見えるのであるが、いか程抵抗力が強くとも、ある一定量に達した毒血は、排除されなければならない。

しかるに、その毒血排除口として、脳以外の器能は強健であるから、止むなく毒血は脳へ向って排除されようとする。

それが脳溢血となるのである。

この様な人は、もし脳以外の器能、例えば胃腸等が弱ければ、それへ毒血が集溜するから、常に不健康ではあるが、急死は免かれ、寿齢は幾分延長する事になる訳である。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「真の健康と擬健康」 (昭和18年10月5日発行)

「私はさきに、日本人の全部がほとんど病人であると言った。

そういう事をいうと、それは間違っている。

世間いくらも健康で活動している人があるではないかというであろう。

なるほど外見上だけでいえば、いかにも健康そうに見えるからそう思うのも無理はないが、私はこれに対し、詳細説明してみよう。


私の発見した・・・病気は浄化作用である・・・という、その浄化作用という意味は、言い換えれば、一旦固結したところの毒素に対し、自然的に溶解作用が起るという事である。

従って、溶解作用発生以前は、何ら病気症状はないから健康体と同様である訳である。

即ち、毒素保有者といえども、それが固結していて、いささかの溶解作用の発生がない時は、健康体として自己自身もそう信じているし、且つ顔色も体格も健康そうであるから、

たとえ、医家が健康診断を行うといえども、今日の医学の診断では、浄化発生以前の固結毒素を発見し得られないから完全健康と誤るのは致し方ないのである。

故に、医家の診断において、模範的健康とされたものが、間もなく発病して死に至ったというような実例がよくあるのは、右のごとき理によるのである。


従って、毒素を保有しながら、浄化未発生の人に対して、私は擬健康というのである。

しかるに、本医術の診断においては、右のごとき擬健康である毒素保有者に対し、保有毒素のことごとくを知り得るのである。

医学において、病気潜伏と称するのは、この保有毒素を想像して言うのであろう。

そうして医学の診断において、血圧計とか、ツベルクリン反応、赤血球の沈降速度、梅毒の血液検査等に表われたる症状を以て、潜伏疾患を予想するのであるが、

それに対しいかなる臓器又はいかなる局所に潜伏病原があるかを適確に知り得ないのであるから疾患の発生を防止し得ないのは当然である。

この意味を以てすれば、近来唱うる予防医学などは全く意味をなさないのであって、結局空念仏に過ぎないと私は思うのである。


昔から、人は病気の器といい、いつ何時病み患いがあるかも知れないと案じ、又釈尊は人間の四苦は生病老死であるとし、病は避け難いものとされているが、

それらはいずれも擬健康であるから、いつ浄化作用が発生するか判らないという状態に置かれているからである。

故に、真の健康者が増加するに従い、右のごとき言葉は消滅してしまうであろう。

右のごとくであるから、真の健康とは、全然無毒の人間でなければならないのである。

そういうような完全な健康体は、今日の日本人には、恐らく一万人に一人位であろう。

何となれば、九拾歳以上の長命者は、右のごとき健康者であるからである。

しかるに本医術によれば無毒者となり得るのであるから、完全健康体となり、九拾歳以上の長寿者となる事は、易々たるものである。」 (「明日の医術 第1編」より)




明主様御教え 「真健康と擬健康」 (昭和22年2月5日発行)

「私は現在世界人類少なくとも文化民族のほとんどは病者であると言い得るのである。

ただ既発と未発との相違だけで、すなわち現在の病者は既発者であり、現在の健康者は未発者であるまでである。

既発者については説明の要はないから、未発者についてのみここに説明するが、さきに説いたごとく未発者とは保有毒素がありながら、固結に対し浄化未発生のためである。

そうして真の健康とは全く無毒素で浄化発生のない身体の持主であるに引かえ保有毒素がありながら、

ともかくも健康を維持し得て、立派に日常業務に携わり、労働にも堪え得るという訳で、

誰が眼にも健康に見え、また医診においても現在の医学では保有毒素の発見は困難であるから健康者と断定するのである。

こういう人を私は擬健康という。

従って現在爆弾を抱き乱舞している人のいかに多きかを想う時、慄然たらざるを得ないのである。

昔から人は病の器という言葉があるが、これは全く擬健康を指したのである。


また医家のよくいう言葉であるが、病と寿命とは異うとしているが、この言葉などは実に馬鹿馬鹿しいのである。

何となれば病気と寿命程切っても切れない密接な関係はないからである。

これらも治病無力に対する一種の遁辞(とんじ)でしかない。

また近来予防医学などといい、治療医学と別箇のもののように云々するが、これらも理屈に合わない話である。

これらも治病無力を蔽(おお)うべく左様いわざるを得ないのであろう。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「真の健康と擬健康」 (昭和25年4月20日発行)

「前述のごとく、誤謬から出発した医学は、全然病気の真因も健康の要諦も未知であるから、病理の説明などは全然コジツケとしか思えない。

すなわち漢方医学においては、病気とは五臓六腑の不調和からといい、西洋医学は「黴菌の侵犯である」とされている。

これを吾らからいえば、前者は反対である。五臓六腑が不調和としたら、浄化作用発生の力が出ないから、発病はしない訳である。

また後者は微生物の侵犯というが、それも一面の理はあるが、微生物の侵犯のみが病原ではない、黴菌に関係のない病原も沢山ある。

また黴菌が侵入するや、発病するという事は、健康体ではないからで、真の健康体なら黴菌が侵入しても病気発生はないはずである。

近来非常に黴菌を恐れ、黴菌防止に苦慮し、あらゆる方法を施行しているのは、真の健康体が少なく、黴菌侵犯による発病者が大多数であるからである。

吾らはこれを別けて、前者を真健康といい、後者を擬健康というのである。

しからば、いかなる原因によって真健康と擬健康との区別が生ずるかを説明してみよう。


前項に述べたごとく、せっかく自然浄化作用発生するや、医学はこれを反対に解釈するため、極力鎮圧する事を可とし、あらゆる方法を行う。

元来浄化発生という事は人間が健康であるからで、弱体であれば浄化力発生はないのである。

たとえば、人家に塵芥(じんかい)が溜るとする、家人が健康であれば掃除が出来るが病人ばかりでは掃除が出来ないのと同様である。

もちろん浄化作用は苦痛が伴うので、それを間違って解釈し大病の発端(ほったん)のように恐怖し、一刻も速く止めようとする。

それには浄化力を微弱にする事で、それには弱体化しなくてはならない。

すなわちまず薬剤を用いる。元来薬なるものは一つもない。

全部毒である。これは薬物学者はよく知っている。

すなわちまず毒によって衰弱させようとする。

近来注射が流行するのはそのためである。

これは毒が強烈であるから呑むと中毒を起すので皮膚から注入するのである。

その他絶対安静も氷冷も湿布もことごとく衰弱法である。

光線放射はせっかく溶解し初めた毒結を元通り否それ以上に固める。

このようにあらゆる衰弱方法のため注文通り、浄化は微弱となり、毒素は浄化発生以前の固結状態に還元するから一時的苦痛がなくなる。

これを病気治癒と錯覚するのである。

しかし治癒でない証拠にはしばらく経つと再発する。これはせっかく固まった毒素が、健康快復によって再び浄化作用が発生するからである。

するとまたしても衰弱法を行う。

すなわち薬毒使用であるから漸次、薬毒は累加する。


ここで薬毒について概略説明してみるが前述のごとく、病気の原因が固結毒素の浄化作用であるとすれば、その毒素は一体何であるかというと、これがほとんど薬毒であるから驚くのである。

すなわち先天性毒素とは、祖先や両親からの薬毒遺伝であり、後天性毒素とは生れてから入れた薬剤である。

この事実によって先天性毒素に後天性毒素が加わるにつれて漸次毒素の量は増し、多量の毒素保有者となる結果、一時に大浄化が起る。

これが肺炎、脳炎や一切の腫物初め、あらゆる重難病の原因となる。

しかるに医療は相変らず浄化停止を可とし衰弱法を行うが、そうなるとよほど強力な衰弱法でなくては効目がない。

この点医学はよく証明している。

それは肺炎の特効薬などそうである。

その際医家のいう言葉は非常によく効く薬でうまくゆくと短期間に治るが、まずくゆくと生命がないといわれるのはそのためである。

言うまでもなく猛烈な浄化を停止するには生命に係わる程の猛毒性薬剤でなければ効かないからである。


以上によって、病気は浄化作用である事、医療とは浄化停止方法である事は判ったであろう。

ゆえに一言にしていえば、医療とは病気を治さない方法で、医学進歩とは治さない方法の進歩である。

ゆえに医家は病気を治すとはいわない、固めるというにみて明らかである。

もちろん固めるためには前述のごとく衰弱法を行う。

それが無理をしない事、風邪を引かない事、大切にする事、睡眠を充分にとる事、薬剤をなるべく用うる事等々である。

これが消極的健康で浄化微弱の結果、病気発生が少なくなるので、これを健康法と誤認したのが今日の予防医学である。


以上のごとく消極的健康者を吾らは擬健康といい、今日の青白いインテリや、腺病質の小児などこの種の代表的人間である。

何よりも今日の医学衛生を忠実に守る者程この種の擬健康者が多い事である。

こういう擬健康者に一度黴菌が侵入するや、必ず発病し、生命の危険に及ぼすのである。

これが今日黴菌を極端に恐れる原因でもある。


右に対し吾らの発見した神霊医学は全然右とは反対で病気発生するや浄化をより旺盛にし不純物を出来るだけ速に体外へ排泄する、

従って真の全治であるから予後は罹病以前より健康は増すのであるから、黴菌が侵入しても発生しない健康体になる事はもちろんで、これが真健康である。

何よりの証拠は本教入信後数年を経たものは全然黴菌など問題にしなくなる。

何となれば伝染の恐れがないからである。

かような幸福こそ吾らのみに与えられたる神の賜(たまもの)というの外はない。

以上のごとき真医術の発見こそ人類救済の根本義たる事を知るであろう。」 (「神示の健康法」より)




明主様御教え 「擬健康と真健康」 (昭和27年御執筆)

「今まで詳しくかいたごとく、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであろう。

これについて今一層徹底的にかいてみるが、世間一般の人が健康そうに見えて、ともかく働いている人のそのほとんどは毒素を保有していながら、強く固結しているため、浄化作用が起らないまでである。

従っていつ突発的に浄化が発生するか判らない状態におかれているので、何となく常に不安があるのはこのためで、ちょうど爆弾を抱いているようなものである。

少し寒い思いをすると、風邪を引きはしないかと心配し、伝染病が流行すると自分も罹りはしないかと案じ、

ちょっと咳が出たり、身体が懈(だる)かったり、疲れ易いと結核の初期ではなかろうかと神経を悩まし、腹が痛いと盲腸炎か腹膜炎の始まりではないかと恐怖する。

風邪が拗(こじ)れると結核を心配し熱が高くてゼイゼイいうと、肺炎を連想する。

ちょっと息が切れたり、動悸がしたりすると心臓病を懸念し、足が重いと脚気じゃないかと想う。

眼が腫れボッタイとか、腰が重いと腎臓ではないかと疑う。

女などは腰や下腹等が痛かったり、冷えたり、白帯下(こしけ)が下りたりすると、子宮が悪いのではないかと苦労し、子供が元気がないと大病が発(おこ)る前兆ではないかと心配する。

というようにザットかいただけでもこのくらいだから、今日の人間がいかに病気を恐れ、怯えているかは想像に余りある。


そうして一度病気に罹れば医者に行き、薬を服むという事は、常識となっているが、よくもこれ程までに医学を信じさせられたものと感心せざるを得ないのである。

とはいうものの私としても昔の自分を考えたら、人の事など言えた義理ではない。

こういう事があった。確か三十歳前後の頃だと思うが、信州の山奥のある温泉場へ行った時の事だった。

旅館に着くや否やイキナリ女中に向かって「この温泉場にはお医者がおるか」と訊くと、

女中は「ハイ、一人おります」。私「普通の医者かそれとも学士か」。

女中「何でもこの春大学を出たとかいう話です」。

それを聞いた私は、これなら二、三日くらい安心して滞在出来ると、腰を落着けたのである。

ところがその後世間には私と同じような人もあると聞き私は変っていない事を知った訳である。

またこういう事もあった。

人間はいつ何時病気に罹るか判らないから、そういう場合夜が夜中でも電話一本で飛んで来てくれるような親切なお医者さんを得たいと思っていたところ、ちょうどそういうお医者さんが見付かったので、出来るだけ懇意にし、ついに親類同様となってしまった。

現在の私の妻の仲人は、そのお医者さんであったくらいだから、いかに当時の私は、医学を信頼していたかが判るであろう。

従って、今日一般人が医学を絶対のものと信じているのもよく判るのである。


ところがその医学なるものは、実は病気を治すどころか、その反対である事を知った時の私は、いかに驚いた事であろう。

しかしこれが真理であってみれば、信ずる外はないが、そんな訳で現代人が医学迷信に陥っているのも無理はないと思えるのである。

忌憚なく言えば自分自身の体を弱らせ寿命を縮められながら、医学は有り難いものと思い込み、それに気がつかないのであるから何と情けない話ではないか。

従ってこの迷信を打破する事こそ、救世の第一義であらねばならない。

といってもこれを一般人に分らせる事は実に容易ならぬ問題である。

前述のごとく医学迷信のコチコチになり切っている現代人であるから、実際を見聞しても、自分自身や近親者の難病が浄霊によって治ったとしても、直に信じ得る人と、容易に信じられない人とがある。

だが大抵な人は医学でもあらゆる療法でも治らず、金は費うし、病気は益々悪化する一方で、ついに生命さえも危い結果、中には自殺を計る者でさえ、たまたま浄霊の話を聞いても容易に受け入れられない程、医学迷信に陥っている現在である。

しかし絶体絶命の断末魔とて、ここに意を決し、疑い疑い浄霊を受けるが、その時の心理状態は最後に載せる報告にも沢山あるから読めば分るであろう。


以上は、現代人がいかに病気を恐れているかという事と、医学をいかに信頼しているかという事で、前者は全く医学では治らないからでよくある事だが、

ちょっと風邪を引き、熱でも高いとこれは大病の始まりではないかと案じるが、その反面これしきの風邪くらいが何だと打消そうとするが、肚の底では万一の心配も頭を擡(もた)げて来る、というのは誰しも経験するところであろう。

これは全く医学そのものに、全幅的信頼を措けないからである。


ところが、本当に治る医学としたら、風邪や腹痛等は簡単に治るし、名の付くような病でも適確に診断がつき、その通りになるべきで、

いかなる病気でも、これは何が原因で今までの療法のどの点が間違っているか、どうすれば治るか、予後はどういう風になるか、命には別状ないかあるかも手に取るように判り、

病人に告げるとその言葉通りになるとしたら、誰しも医学に絶対の信頼を払い、病気の心配等は皆無となるのはもちろん、

病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたらむしろ楽しみになるくらいである。

というのが真の医学である。

ではこのような夢にも等しい治病法がありやという事である。

ところが驚くべしこれがすでに実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である。

そうして吾々の方では病気とは言わない、浄化という、何と気持ちのいい言葉ではあるまいか、しかし事実もそうであるから言うのである。


ここで標題の真健康と擬健康についてかいてみるが、擬健康とは前述のごとく、固結毒素があっても浄化が発生していない状態であり、真健康とは毒素が全く無いため、発病しない状態である。

しかし後者のような人は恐らく一人もないであろうし、健康保険制度もその不安のために出来たものであろう。


右のごとく現代人のほとんどは擬似健康者であるから、大抵の人は何らかの持病を持っている。

少し仕事をすると、直に頭痛や首肩が凝ったり、ちょっと運動が強いと息が切れたり、微熱が出たりする。

また風邪を引きやすく、ちょっとした食物でも中毒したり、腹が痛んだり下痢したりする。

年に数回以上は病臥し、勤めを休み、何年に一度は入院するというような訳で自分自身の健康に確信が持てず、常にビクビクしている。

酷いのになると矢鱈(やたら)に手術をする。少し金持の中年の婦人等は、盲腸を除り、乳癌の手術をし、卵巣も除り、廃人同様の人も少なくない。

また一般人でもひょう疽や脱疽で指を切ったり、片方の腎臓を剔出したり、喘息で横隔膜の筋を切ったり、脳の切開、手足の切断や、近頃は結核の手術も流行している。

というように虐(ひど)い事を平気でやっている。

ところが医学はこうするより外に方法がないから致し方ないが、今日の人間程哀れな者はあるまい。

従ってこれ程の文化の進歩発達も、その恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでいる人も少なくないのである。

右のごとく病気の種をもっている擬健康を無毒者となし、真の健康者を作り得るとしたら、これこそ真の医術であって人類にとって空前の一大福音であろう。」