薬毒について 1
明主様御教え 「薬 毒」 (昭和18年10月5日発行)
「今日まで、西洋医学においては二千五百年以前ヒポクラテス創始の医道以来、
又 中国の医祖伏羲(ふくぎ)が、五千年前創始せられた医道は固より
その他幾千万の病気療養の方法はことごとく浄化作用停止
又は一時的苦痛軽減の方法以外には出でなかった事は再三述べた通りである。
そうして最も効果ありとしたものが、薬剤療法であった。
そうして薬毒なるものは、ただに浄化作用停止だけではなく、
その人間の健康に及ぼす悪影響は実に想像されない程の恐るべきものがある。
私の長い経験によれば、あらゆる痛苦はことごとく薬毒の結果であって、
痛みも発熱も不快感も疲労も神経衰弱も原因はそれであり、
全身的新陳代謝の衰耗も機能の弛緩も、ことごとく薬毒の結果である。
従って、人間の健康の良否も病気の軽重も「薬毒の多寡に因る」というも過言ではないのである。
今日まで、人間が一度病気に罹るや、浄化作用を薬毒によって停止するが、
それ以外、薬毒なる新しい毒素を追増するのである。
その例として、何よりも周知の事実は、医師が医療を行いつつ、余病が発生するという事である。
最初の病気を治癒する目的であるに拘わらず、第二第三の病気が発生するという事ははなはだ不合理ではあるまいか。
即ちその療法が適正であるならば、最初の病気が軽減しつつ余病など発生すべき訳はないはずである。
即ち拾の病気と仮定して、時日を経るに従い、九となり八となり七となるように、漸次軽減しなければならないはずである。
しかるに何ぞや治療を施しつつあるに関わらず、十一となり、十二となり、十三となるーというように増加するとはまことに不可解極まる話である。
これに対し、患者も医家も、何らの疑念を起さないのであるが、
これは全く、医学が一種の迷信化するまでに到ったためであると思うのである。
故に、私はこう想像するのである。
日本人が薬剤使用を全く中止し拾年経たなら恐らく病人は半減するであろう。
従って日本人の寿齢は延長し、数十年を経るにおいて平均寿齢八拾歳位は易々たるものであろう。
何となれば短命とは病気に因る死であるからである。
いわゆる不自然死である。病気が減少すれば自然死が増加する。
自然死といえば、少くとも九拾歳以上でなければならないはずである。
又人間が死に際会して苦痛が伴うという事は、天寿ではないからであって、
天寿を全うして死ぬという場合は、たとえば樹木が樹齢尽きて自然にたおれるがごとく、いささかの苦痛もないのが当然である。
そうして死の苦痛の原因は何か、言うまでもなく、薬剤その他の方法によって浄化作用の停止を行うからである。
即ち自然である浄化作用を、不自然なる抑止をする・・・その摩擦が苦痛となるのであって、
しかも、衰弱し切った肉体であるにおいて、苦痛は倍加するという訳である。
古(いにしえ)から「人は病の器」という言葉があるが、これは大いに謬(あやま)っている。
実は「人は健康の器」であり、健康が原則であらねばならないのである。
神は人間をして、神の理想をこの地上に顕現せんが為に生ませられたものである・・・と私は信ずるのである。
従って、その使命を遂行するにおいて不健康であってはならない。
故に不健康という事は、人間が何らかの過誤即ち神の摂埋に反しているからで、その過誤の最大なるものが「薬剤使用」である。
次に、今一度私の事を言わして貰おう。
元来私自身は、生れながらにして頗る虚弱者であったから、
四拾歳位までは、人並以上の薬剤崇拝者で、ほとんど薬びたりという程で、
それまでは、健康時より罹病時の方が多かったのである。
しかるにたまたまある動機によって薬毒の恐るべき事を知り、断然廃めたのであった。
それから年一年健康に向い、二拾数年後の今日では、実に壮者を凌ぐほどの健康体である。
又私の家族十数人も、今日稀(まれ)にみる健康体の者ばかりである。
その他私の説を信じ、それを実行している人達は例外なく、年々健康になりつつあり、
健康家族が造られつつあるに察(み)ても、疑う余地はないのである。
私はここで、今一つ重大な事を述べなくてはならない。
それは薬毒保有者は、左のごとき悪影響を受ける事であって、
それが多量ほどはなはだしいのであるが、世人は全然気が付かない事である。
一、常に不快感のある事。
二、頭脳の活動が鈍くなる事。
三、身体の動作が弛緩する事。
右の三項目について詳説してみよう。
一、の不快感は、薬毒集溜個所に微熱があるから、局部的又は全身的に悪寒があるので、常に普通以上寒がるのである。
又、何事を為すにも億劫(おっくう)がり、寝る事を好み物に倦(あ)き易く長く一つ事に携わる事が出来ないのである。
そうして物事の解釈はすべて悲観的となり、常識を欠き、陰欝を好み、
従って、晴天の日より雨天の日を好むのである。
又腹立ち易く、はなはだしいのは自暴自棄的になったり、
又常にクヨクヨとして、いささかの事も気にかかり、ヒステリー的ともなり、
自分で間違っている事を知りながら、どうする事も出来ないという状態で、
又それを煩悶するという事になり、最もはなはだしいのは厭世的となり、廃人同様となる人さえある。
一家にこういう人が出来ると、他の者まで影響を受けて、家庭は暗く、争いの絶間がないので、人生の幸福を得る事は到底期し難いのである。
二、現代人は非常に頭脳が鈍くなっている。
従って、記憶の悪い事も夥(おびただ)しい。
故に、今日重要なる地位にある人の講演が、ほとんど原稿なしではやれないというようになっているが
以前は原稿を持つ事は恥のようにされたという事を聞いている。
幕末期、彼の杉田玄白や高野長英等の人々が蘭学を翻訳するに当って、
参考書も碌々(ろくろく)ないのにともかくやり遂げたという事は、余程頭脳が良かったに相違ないと思う。
現代人にはそういう人はほとんどないであろう。
又弁慶が安宅(あたか)の関において、白紙に向って勧進帳を詠んだごとき、稗田阿礼(ひえだのあれ)があれ程浩瀚(こうかん)な古事記全巻を記憶していたごとき実に日本人の頭脳の優れている事は、世界無比であろう。
又、現代人は簡単明瞭な所説では、充分頭へ入らないようである。
くどくどしく、微に入り細に渉り、又種々の例証を挙げて説かなければ、会得が出来ないようである。
本来、頭脳の良い人は、一言でその意を悟り得るのである。
昔の諺に「一を聞いて十を知る」という事があるが、現代人は「十を聞いて一を知る」のが関の山であろう。
又、実際よりも理論を重んずる傾向があり、その為に、医学なども理論に偏し、実際を無視したがるのである。
又、政府が新しい施設や政策を行う場合、国民に対してラジオや新聞やポスター等、これでもかこれでもかと宣伝に努力しても、
国民が速かに理解し実行しないという事実は全く今日の国民全般の頭脳が鈍くなっているからであると惟(おも)うのである。
三、現代人の動作の遅鈍なる事は、またはなはだしいのである。
これは、国民の大部分がそうであるから気が付かないのである。
特に、都会人の歩行の遅い事は驚く程である。
これは身体が鈍重である為である。
昔の武士や武芸者等が、咄嗟の場合、飛鳥のごとく身をカワしたり、
又飛脚屋が一日二十里を平気で日帰りしたりしたというような芸当は、現代人には到底出来得ないであろう。
元来、日本人は、外国人に比べて非常に身が軽く、動作が敏捷(びんしょう)であるのである。
日本人の飛行家が特に優秀であるのは、何よりの証拠であろう。
従って、人間の不幸も争いも、その根本は、薬毒にあるといっても過言ではないのである。
故に、薬毒のない人間の社会が出現するとしたらいかに明朗であるかを私は想像するのである。
全く薬毒が無くなった人間は、頭脳明晰で、爽快感に充ち、生々溌剌としているのである。」 (「明日の医術 第1編」より)
明主様御教え 「薬 毒」 (昭和22年2月5日発行)
「今日まで、西洋医学においては二千五百年以前ヒポクラテス創始の医道以来、また中国の医祖伏羲(ふくぎ)によって五千年前創始せられた医道はもとより用ゆる病気治療の方法は、ことごとく浄化作用の停止以外には出でなかった事は既に述べた通りである。
そうして浄化停止に最も効果ありとしたものが薬剤使用であった。
しかるに薬剤なるものの本質はことごとく有毒物であって、人体を毒作用によって衰弱せしむるのである。
この事に不明であった今日までの世界人類は、薬剤なるものは何か神秘的治病力を有するもののごとく思われたのである。
薬剤に対し神薬とか霊薬とかの名称を付したのもそうした心理によるのであろう。
これはもちろん病気の本体が全然未知であったからで、それがすなわち病気を悪い意味に解釈し、薬剤を良き意味に解釈したのである。
実に逆理に気が付かなかったのである。しかしながら日本においても徳川末期の漢方医の大家杉田玄白はいった。
「元来世の中に薬なるものはない。薬というのはことごとく毒である。
故に薬によって病を治すのではない。
実は毒をもって毒を制するのである」・・・とは洵(まこと)に先覚的至言である。
また現在の薬学といえども毒物の研究を本意としている事である。
そうして薬剤は効力発生後消滅すべきものと医学は信じているが、それは非常のあやまりで実は体内にいつまでも残存する。
何となれば人間として飲食すべき物質は造物主が自然に決定しているのである。
それは人間が生命保持のためとして造られたる食物である以上、必ず味わいなるものをもっている事と、消化機能なるものは、天与の食物に順応すべき性能に造られているものである。
従ってそれ以外の異物は消化機能の役目以外のものである以上消化せずして残存するのは当然である。
これについて二、三の実例をあげてみよう。
私は以前、某病院の看護婦長を永年勤めていた婦人から聞いた話であるが、四十余歳の男子、なんらの原因もなしに突然死んだのである。
その死因を疑問として解剖に付したところ、その者の腸管内に黒色の小粒物が多量堆積しており、それが死因という事が分った。
しかるにそれは便秘のため永年にわたり下剤として服んだその丸薬が堆積したのであって、
それがため腸閉塞かあるいは腸の蠕動(ぜんどう)休止のためと想像され得るが、
とにかく死因は下剤の丸薬である事は間違いないという事になったそうである。
次に、右と同様な原因によって急死した五十歳位の男子があったが、ただ違うのはこの者は下剤ではなく胃散のごとき消化薬の連続服用が原因であって、
解剖の結果、胃の底部及び腸管内は消化薬の堆積おびただしかったそうである。
次に、私の弟子が治療した胃病患者があった。それは胃の下部に小さな数個の塊があって幾分の不快が常にあった、
しかるに本療法の施術を受けるや間もなく数回の嘔吐をなし、それと共に右の塊は消失し、不快感は去ったが
嘔吐の際ヌラのごときものが出て、それがナメクジの臭いがするのである。
その人は十数年以前ナメクジを数匹呑んだ事があったそうで、全くそのナメクジが消滅せずして残存していたものである。
また今一つは歌う職業の婦人で、声を美しくせんがためナメクジを二匹呑んだ。
しかるに数年を経て胃部の左方に癌のごとき小塊が出来、漸次膨張し、入院手術を受けたところ、
驚くべし一匹のナメクジは死んで固結となっており、他の一匹の方は生きていて腹の中で育って非常に大きくなっていたそうである。
以上によってみても、異物である薬剤が残存する事は疑いない事実である。
そうして薬毒が病原になるという事実について一般に気のつかない事がある。
それは医師が医療を行いつつありながら余病発生という一事である。
もし医療が真に効果あるものとすれば、治療するに従い順次全治に向うから、余病などの発生はない筈である。
すなわち仮に最初三つの病気があれば二つとなり、一つとなり全治するという順序でなければならない筈であるに拘わらず、反って一つの病気が二となり三に殖えるという事は洵(まこと)に理屈に合わぬ話である。
それ等の事実に対し、医師も患者も何等疑念をさしはさまないという事は不思議というべきである。
これの事によってみても世人がいかに医学を過信し、一種の迷信化している事で、私はいつも嘆かざるを得ないのである。
右の理によって人類から薬剤を取去ったとしたら、病気なるものは漸次消滅すべきは断じて疑いない所である。
そうして私が幾多の患者を取扱った経験上薬毒の多少によって病気の軽重を判別するのであるが、洵に正確である。
そうして薬毒多有者は左のごとき症状を呈するものである。
常に不快感がある。すなわち薬毒集溜個所に微熱があるからでそのため軽微な悪寒があり、普通人以上に寒がりである。
また物に億劫がり、横臥する事を好み、根気が薄く長く一つ事に携わる事が出来ない。
そうして頭脳が散漫で集注力がない。また物事の解釈はすべて悲観的であり、常識を欠き陰欝を好み、明るい所より暗い所を好むから、晴天の日より雨天の日を好むのである。
また腹立やすく、自暴自棄的となり勝ちで、いささかの事が気に懸るからヒステリー的ともなり、物事に対し自分で間違っている事を知りながら、それを矯(た)める事が出来ないばかりか、反ってその様な精神状態を煩悶するという事になる。
はなはだしくなると厭世の結果自殺を企図したり、また精神変質の結果廃人同様となる者さえある。
一家にこういう人があると、他の者まで影響を受け家庭は暗く争いの絶間がないという訳で、幸福生活などは到底期し得ないのである。
また現代人は非常に頭脳が鈍くなっている。それは今日重要なる地位にある人の講演がほとんど原稿なしではやれないという始末である。
これ等は講演の意味が前後撞着したり、順序を誤ったり、また渋滞を防ぐためでもあろうが、自分自信の頭脳に自信が持てないからでもあろう。
また現代人の多数は、簡単な所説では頭に入り難い。くどくどしく微に入り細にわたって種々の例証を挙げて説かなければ納得が出来ないのである。
本来頭脳が良ければ一事を聞いて、それに関連する事を類推なし得る訳である。
また今日世界の文明国とされている政府はもちろん民間の諸機関に至るまで、すべての問題に対し何回もの会議をなし、多数者の頭脳を鳩(あつ)め種々練らなければ適切なる答案を得られないというのが実情で、会議外交などという言葉も現われる位である。
特に日本の官庁や会社等における頻繁なる会議は、よくそれを物語っているが、全く時間の浪費はおびただしいものがあろう。
また政府が新しい施設や政策を行う場合、国民に対しラジオ、新聞、ポスター等、あの手この手と執拗に宣伝しなければ、国民の頭脳に入らないというのも同様の理由である。
これらをもってみても、文化の進歩に逆比例する頭脳の現代人から、薬剤除去の方法を講ずる事こそ最も喫緊(きっきん)時であろう。
以上述べたごとき理論と実例によって、読者はいかに薬剤のおそるべきかを覚り得たであろう。」 (「天国の福音」より)
明主様御教え 「薬毒の恐怖」 (昭和27年9月10日発行)
「あらゆる病原は薬剤である事は、私の常に唱えているところであるが、これについて一層深く突込んでかいてみると、右の原理を常に頭に置いて診査すればよく分る。
たとえばこの病気は何の薬を服んだためとか何の注射のためとか、何を塗布したからだとか、洗滌したからとかを考えてみるのである。
仮に盲腸炎にしろこれはいつ何の薬を服んだから、消毒薬を用いたからと考える。言うまでもなくその薬毒が膿化し、盲腸部に固結したものだからである。
また胃に関する病気にしても、何の薬を何年間服み続けたからだとか、この神経痛は、リョウマチスは、腫物は、ひょう疽は、脱疽等々もそうであり、
頭痛、眼、鼻、耳、歯痛、歯槽膿漏、扁桃腺炎、声嗄れ等、何も彼も原因は薬であるから、必ず見当はつくはずである。
また薬を用いた事のない子供とすれば、もちろん親の薬毒が遺伝したものであるから、その気で考えれば直ぐ分るはずである。
というようにほとんど想像もつかない訳であるから、恐ろしい話である。
しかし我神霊医学を修得すれば根本が薬毒である事が分る以上、病気の心配から解放されるのである。
そうして歯痛の原因が盲腸手術のためがよくあるのも、ちょっと意外に思うであろうし、あらゆる手術の際の消毒薬が色々な痛みの原因になる事も、非常に多いものであるから、
身体のどこかに激しい痛みや、執拗な痛みのある場合、既往の手術を想い出せば必ず肯くであろう。
また歯槽膿漏の原因が腎臓萎縮による余剰尿が上へ昇るためと知ったら驚くの外ないであろう。
その他数え上げればキリがないから、この辺で止めておくが、要するに万病ことごとくの原因は薬毒なりと知ればいいので、これだけでもその人は安心立命を得たのである。」
明主様御教え 「薬とは何ぞや」
「昔から人間は病は薬で治るものと固く信じているが、恐らくこれほど道理に外れた話はあるまい。
というのは薬というものは、昔は草根木皮といって野山に自然に生えている植物であって、無数にあるその中から特殊のものを選び出して、治そうとしたのである。
ところがそれが進歩して西洋流の薬が出来た。それは右と異って鉱物や海草、動物の臓器、近頃は水苔等を用いるが、これらは考えるまでもなく、ナンセンス以外の何物でもない。
といったら不思議に思うだろうが、よく考えてみるがいい。
病を治すという事は、危うからんとする貴重な生命を救う目的で使用するのである。
ところが人間の生命を草の葉や木の根、鉱石の欠片(かけら)、海藻等々で救うなどという事は、余りに理屈に外れているではないが。
もしそうだとすれば、人間なるものの価値は、吹けば飛ぶようなもので、虫螻(むしけら)同然という事になる。
こんな常識で考えても直ぐ分る事を、世界の多くの学者は、熱心に研究しているのであるから、遠慮なくいえば悲しむべき喜劇であるといっても否とはいえまい。
この理によって人間の生命を救うとしたら、人間以上の力によらなければ、駄目なのは分り切った話である。
そうして地球上に薬というものは全然ないのである。
強いていえば人間が生きているために食うあらゆる食物である。
それを食わなければ死ぬより外ないからである。
この意味において今日まで、薬として使用していたものはことごとく毒であって、いつもいう通り毒によって病気苦痛を一時抑える、ただそれだけである。
ところがそれだけなら結構だが、その手段が病気を治さないようにするどころか悪化させ、余病といって病気の種類を増やすのであるから、結局命までフイにするのである。
としたらその愚かさは何といっていいか言いようがないのである。
私はこの無智迷蒙に気付かせようとして、日夜奮励努力しているのであるから、馬鹿らしいと思う事さえよくあるのである。
なるほど今日のような素晴しい文明時代となり、随分人智も進んで来たが、以上のようなはなはだ簡単な理屈が分らないのであるから、全く摩訶(まか)不思議である。
とはいうものの厳然たる事実が証明している。
知らるる通り本教浄霊によって、重難症患者がドシドシ治され、根本的に分った人々が、日に月に激増しつつあるのをみれば、いずれは世界人類に分る事は、断じて間違いないのである。
しかも根本には主神が采配(さいはい)を揮い給いつつあるからである。」