黴菌について 4


明主様御教え 「結核は絶対に感染しない」 (昭和22年2月5日発行)

「今日結核は伝染するものとして非常に恐れられ、そのための国家及び個人の手数や負担の莫大なる事は洵に驚くべきものがある。

一般世人の伝染を恐れる事はなはだしく、親子夫婦といえども接近し語り合う事さえ医師から厳禁せられている。

従って、家庭内に結核罹病者一度発生するや、家族等は戦々兢々としていつ伝染するやも知れずとなし、危惧の日を送っている実情である。

なる程実際感染するとしたら右のごときも止むを得ないとするも、私の発見によれば結核は決して感染する憂えはないのである。


元来結核菌なるものは伝染ではなく自然発生のものである。

それはいかなる訳かというとさきに病原として説いた毒素の固結が体内に残存し、時日を経るに従い腐敗する。

腐敗せるものに微生物が自然発生するのは万物共通の事実である。

視よ、木材が腐敗すれば白蟻が湧く、いか程精白した白米といえども古くなれば蛆が発生する。

腐敗によって無機質から有機物が発生するのである。

白米をいかに厳重に密封しても必ず蛆が湧くによってみても、蛆の卵が他から侵入したのでない事は明らかである。

故に結核は非伝染である事を、いずれ医学においても発見する時が来ると私は信ずるのである。


右の理を実証するため私の経験をかいてみよう。

私の家族は私等夫妻の外に子女が六人(その当時二、三歳ないし十五、六歳まで)常に同宿していた。

そうして十数年にわたる間、研究のため、重症結核患者と大病院において診断された者常に一人か二人同宿さして治療したのである。

少なくとも二十数人に及んだであろう。

もちろん一切家族と同様に取扱い、食事も共にし食器等も一切消毒はしなかった。

私は実験のため患者と子供を同室に寝させるようにした。

その中の数人の患者は私の家で死亡した事によってみても、いずれも重症で、

医師からは不治の烙印を押された者ばかりであった。

しかるに十数年を経た今日に到るも六人の子女は一人の感染者もないばかりか

いずれも健康そのもののような者ばかりである。

この実験によってみても、結核は非伝染である事は、私の断言してはばからない所である。

故に私はいつでも結核感染の実験をして貰いたいのである。

私自身でも私の家族でも、または私の弟子またはその家族数万人といえどもよろこんで実験台に応ずる事は言うまでもない。


これについて私が以前出版した著書に結核の非伝染を載せた所、

それが当局の忌諱(きき)に触れ発禁になった事があって非常に残念に思った。

何となれば、右のごとく実験に応ずる事を書いたにも拘わらず、

それを実行もせずして独断決定したからである。

多分既成理論を絶対の真理と信じたためであろうが、

その頃の日本の当局者が、頑迷でいかに文化の進歩を阻害するに思案であったかが知らるるのである。


私のとなえる細菌の自然発生説に対し現代科学者はわらうであろう。

何となれば彼のフランス細菌学の泰斗パスツールによる細菌発見説が出て、

それまでの一般科学者に支持せられていた自然発生説が覆させられたからである。

それについて簡単に述べてみよう。

それはパスツールの実験であるが、彼はまず羊肉の搾り汁を二つのガラス瓶に入れた。

一つは口の曲れるもの、一つは口の真直なるものであった。

しかるに口の曲れる方は微生物が発生しないのに、真直な方は微生物が発生したという事実である。

それ以来自然発生説は覆され、空気による伝染説が信ぜられ今日に至っているのであるが、

この原理については、後に霊と物質の関係について詳説するからここでは簡単に説明する。


そもそも森羅万象の構成は火素、水素、土素であり霊気は火素を主とし、空気は水素を主とし、土壌は土素を主とする。

また、霊気(火素)は経に上下動し、空気(水素)は緯に流動する。

そうして微生物の発生は熱すなわち火素によるのであるから、

口の曲れる瓶は、経に昇降する火素をガラスが遮断するためである。

この理論を最も簡単に知る方法として、人間が横臥する時は寒く起座する時は温暖であるという事実にみても判るであろう。


また十九世紀の医聖といわれたフィルヒョウ博士が細胞病理学をとなえるに及んで近代医学は新時代を画したといわれる。

それによれば「人体は皮膚、粘膜、筋肉、骨格、毛髪等すべて無数の細胞から成立っていて、

その細胞の一つ一つが生命と生活とを有し、各々の細砲の生命と生活とが集って一個の人体を構成している。

病気というのは詰りそれ等細胞が変性し、その生活が衰えた状態を指すというのが細胞病理学の大体である。


例えば肺結核においては、結核菌が肺の組織中に侵入し、繁殖し毒素を出すために、

その部分の細胞が変性あるいは破壊され、

破壊された細胞は血液中に吸収されて全身の機能に障碍を及ぼし、発熱、盗汗その他の症状を起すのである。

そうして結核患者の熱は、結核菌が肺臓内に侵蝕して病巣部を作り、

この病巣部と菌自身から出す毒素のために発熱中枢が刺戟されて発熱する」というのである。


右の病理説の誤謬である事を指摘してみよう。

もし細胞の生活が衰えてそれが病原になるとすれば、

新陳代謝の最も旺盛であるべき青年期に結核は発病しないで、

老年期に至る程発病するという道理になる。

しかるに事実はその反対であるにみて多くを言う必要はあるまい。

また肺結核における発熱は、菌自身から出る毒素のために発熱中枢が刺戟さるるというのであるが、

一体発熱中枢とはいかなる機能で、いかなる局所にあるか、

医学においては頭脳内にあるごとく解釈しているが、荒唐無稽もはなはだしいのである。

私の研究によれば発熱中枢などという機能は人体いずれの部分にも全然ない事を言えば足りるであろう。


以上のごとき杜撰幼稚なる病理を金科玉条として来た医学である以上、

今日のごとく行詰るのもまた止むを得ないであろう。


次に、結核の特効薬程無数に出現するものはあるまい。

それは出現当初は奏効顕著として持てはやされるが、

いつしか忘れられるというのはいかなる訳であろうか。

すなわち効果あるごとく見ゆるのは、浄化停止の薬力が偉効あるからである。

日本においても最近BCG及びセファランチン等の新薬が推奨されているが、

これらも遠からず放棄さるる事は火をみるよりもあきらかである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「伝染病と黴菌」 (昭和22年2月5日発行)

「今日医学においては病原はことごとくといいたい程黴菌によるとされている。

そうして微小にして顕微鏡でも見る事を得ない黴菌を濾過性黴菌と称している。

医学における解釈は次のごときものである。

「感冒、ジフテリヤ、百日咳、麻疹、流行性耳下腺炎等の病気は、泡沫伝染という事になっている。

これは戸を閉め切った室内や乗物の中で、

患者のくしゃみや咳嗽の際など、霧のごとく唾と一諸に飛出し、

空気中に浮遊しているのを吸込んで感染するのである。

そうして老人は比較的免疫になっており、青年特に小児が侵されやすく、

患者に一メートル以上接近してはならない」という事になっている。

かようにほとんどの病気は黴菌によるというのであるから、

これを信ずるとしたら現代人は生きて行く事さえ恐怖の極みである。

もし医学がいうごとくでありとすれば、社会生活などは到底不可能であろう。

まず汽車、電車へ乗る事は危険である。

隣の乗客は何かの伝染性病気に罹っているかも知れない。

窓を閉め切れば満員の際など少なくとも数人以上の結核患者はもちろん

他の伝染性患者もいるであろうから、空気伝染の危険は免れ得ない。

また人と談話する事も危険である。

先方は伝染性疾患を保有しているかも知れない。

といって一々三尺以上はなれるという事は実際上不可能である。

その他劇場、映画館等多数人のいる所は危険千万である・・・という訳になろう。

故に、医学の理論を信奉するとすれば、まず社会と全く絶縁しなければならない。

すなわち山奥の一軒家か、海上遥か沖合に出で船住居をするより他に理想的方法はないであろう。

吾々が割合恐怖感に捉われないで生活し得るという事は医学の説を丸呑みにしないからである。

そうして右のごとき空気伝染以外一層危険であるのは、

銭湯へ入浴する事はもちろん、手指の接触による場合、

すなわち電車の吊皮、扉のハンドルまたは貨幣であろう。

特に貨幣が多数人の手指に触るる関係上黴菌の巣窟ともいうべく最も危険とみなければならない。


これについて左のごとき調査報告を示してみよう。

「北大医学部衛生学教室阿部三史学士が、郵便局、銀行、市場、デパート、食堂、食料品店、個人等多く利用されるところから

十円札、五十銭銀貨、拾銭白銅、拾銭ニッケル、一銭銅貨等

取り交ぜ三百四十五個を集めその銀貨なり、札なりに付着している黴菌を研究した結果、

左のごとく大腸菌、パラチフス菌、葡萄球菌、コレラ菌、分裂菌等々、数えきれない程の黴菌が付着していた。

これ等はいずれも人体に害を及ぼすもので、殊に小さな子供等が、無心で銅貨銀貨等をなめているなど大いに注意を要するものであり、

一方多くの人は、銀貨、銅貨に、結核菌が付着していると思っているだろうが、

阿部氏の研究では結核菌は案外少なく、人体に及ぼす程の偉力はないと言われている。


「各種貨幣の黴菌数」(昭和十一年六月調査)

まず拾円札、五拾銭、拾銭、一銭各一枚にどれだけの黴菌が付着しているかと言うと、

△ 拾円札には、普通黴菌が最高十六万九千百五個で
平均五万二千四百九十一個
△五拾銭銀貨には    平均千五百五十九個
△拾銭白銅には       二千四百七十個
△拾銭ニッケル白銅には    二千二百三個
△一銭銅貨には         千三十二個
等である。


「病菌の種類と数」
更に大腸菌、チブス菌、パラチフス菌等がどれだけついているかと言えばー
△拾円礼には       五十四個
△五拾銭銀貨には       四個
△拾銭白銅には        三個
△拾銭ニッケル白銅には    一個
△一銭銅貨には        四個

・・・等で、拾銭ニッケル白銅が他の貨幣より少ない事は、発行されて間もない事によるもので、

なお一銭銅貨には比較的黴菌の付着数が少ない事は、銅自身が持っている殺菌性に依るものである。



場所と黴菌数

しからば、どこで使われている貨幣に最も多くの黴菌が付いているかといえば、

一番多いのが市場、次いで郵便局、日用雑貨品店、百貨店、食堂、菓子店、食料品店、個人所有等の順序になっており、個人所有が一番少ないが、

これは財布の中に入れられている関係上空気が外部と異って流通しないため、付着した黴菌が培養されない為である」


以上によってみても、貨幣にはいかに多くのあらゆる病菌が付着しているかを識るであろう。

しかしながら貨幣を手に触るる毎に一々消毒するという事は何人といえども不可能である。

しからばこの問題はいかにして解決すべきやという事であるが、それは容易である。

すなわち病菌が体内に侵入しても発病しないという健康体になる事である。

しからはその様な健康体になり得るかというに、私の創成した健康法によれば可能である。
 
しかしながら、病菌は医学でとなうるごとく恐ろしいものであるかというに、

それ程ではない事を左のごとき調査報告によって証し得るのである。


それは、昭和十年九月三日の読売新聞の記事によれば、

「東京におけるバタ屋すなわち屑を扱う人間が一万二千人程いるが、

市社会局では昨年十二月中旬、足立区を中心として認可のある屑物買入所所属の拾い子について詳細な調査を行ったが、二日その結果を発表した。

それによると、あれ程不衛生な仕事に従事していながら、

彼等の間に伝染病その他の病人の少ない事は意外である。

そうして調査人員二千四百十五人の中、女子は僅かに六十人の少数であった。

調査人員の年齢は三十一歳から五十歳に至るものが一二九九人を数えて、全員の過半数を占めている。

健康状態は、慢性胃腸病患者が最も多く、

次にアルコール中毒者という順序である。

そうして、伝染病、肺結核、性病が割合少ないのである。

すなわち二四一五人のうち、健康なるもの二一二三人、虚弱者八十五人、老衰者五十八人、不具者三十五人、廃疾八十五人、その他の疾病三十二人となっている 

右の調査によってみても明らかなるごとく、

病菌による伝染病はほとんど無いといい得る程である。

しかも二六時中最も病菌に接触すべき職業者にしてかくのごとしとすれば、

その意外なるに驚かざるを得ないのである。

そうして一体この世に存在する限りのいかなるものといえども、人間に不必要なものはない筈である。

もし必要のための存在であったものが人類の進化によって不必要となる時代になれば、

そのものは自然淘汰されて滅消さるべきが真理である。

故に人間が無用とか有害とかいうのは、そのものの存在理由が不明であるからである。

すなわち人類文化がそれを発見するまでに進歩していないからである。

この意味において、あらゆる病菌といえども人類の生存上有用の存在でなくてはならない筈である。


そもそも伝染病といえども、他の疾患と等しく浄化作用であって、

ただ伝染病においてはその浄化がすこぶる強烈であり、

従って、急速に生命を奪われるために人間は怖れるのである。

しからばいかなる理由によって伝染病は強烈であるかを説いてみよう。


人体血液中の汚濁がある程度濃厚になった場合、汚濁の排除作用が発生する理由は既説の通りである。

その排除作用を一層促進すべき必要が病菌の存在理由となるのである。

病菌がまず食物または皮膚面から侵入するや病菌といえども生物である以上、

食生活に依らなければ生命を保持し、種族の繁殖を計る事の出来ない事は他の一般動物と同様である。

しからば病菌の食物とは何ぞやというと、それは血液中にある汚濁である。

従って濁血多有者程病菌の繁殖に都合の好い状態に置かれている訳である。

この理由によって発病者と未発病者との区別は、すなわち

発病者は濁血者であり、不発病者は浄血者であるという事になる。

また保菌者というのは濁血少量者であって、病菌が繁殖する程でもなく、

死滅する程でもないという中間的状態である。


以上の意味によって病菌なるものは人間中の濁血保有者に対し、

速かなる浄血者たらしめんがための掃除夫ともいうべきものである。

このような有用微生物を、医学は強力なる逆理的浄化停止を行う以上、死を招く結果となるのである。

それのみではない。医学は免疫と称して種々の伝染病の予防注射を行うが、

これがまた人間の浄化力を弱らせ体力低下の因となるのである。

ここで注意すべき事がある。

近来、膝下に小腫物の発生するものが多いが、

これは、予防注射の薬毒が下降し溜結し排除されんとするためで、

放任しておけば自然治癒するからなんら心配する必要はない。


医学においては、白血球が赤血球中の病菌に対し食菌作用を行うというが、

右の原理を知る以上問題にはならないであろう。


また世人が非常に嫌う蝿なども、血液掃除夫を運搬するのであるから、

彼もまた人間にとって重要なる存在であるがそれは現在濁血者が多いからで、

将来浄血者が多数になれば蝿の存在理由が無くなるから自然淘汰さるる訳である。

私は伝染の名を誘発ととなえるが本当と思う。

本療法は濁血者を浄血者たらしむるのであるから、

本療法が普及するに従い伝染病は漸次減少する事は必定である。」 (天国の福音」より)




明主様御教え 「結核は感染しない」 (昭和27年12月1日発行)

「結核が医療によって作られる経緯は、前項までに詳しくかいたが、その原因は結核菌感染によるとは医学の定説となっているが、

私の見解によればこの説こそ大変な誤りである。

それは彼のパスツールの伝染説を医学は採用したからであろうが、私はその反対に自然発生である事を断言するのである。


今それを詳しくかいてみるが、最初感冒の際、喀痰を肺臓内に固めた結果、時日を経るに従い、結核菌は痰中に自然に湧くのである。

というのはいかなるものでも、不潔物には必ず微生虫が発生するのは物質の原則である。

としたら痰は不潔物であり、しかも体温という好条件も加わる以上腐敗もし、微生虫の湧くのは当然である。

ところが医学の感染説であるが、この考え方は肺胞に菌が付着して繁殖し、空洞(うろ)を作ったり、病竃(びょうそう)を作ると思っているのであろうが、もしそれが本当とすれば、無菌結核は何が原因であるかという事である。

だがこの答えは簡単である。すなわち無菌結核とは前記のごとく、肺臓内に固めた痰に菌が湧く程、時日が経っていないからである。

と言うだけで分るであろう。それはとにかくとして、結核菌は果して感染するものであるか否かは、理屈よりも事実で示す方が確実であろう。

すなわち私の多年の実験によっても明らかなごとく、私は二十数年前結核非感染の原理を知ってから、まず私自身を試験台とした。

それは重症結核患者である一婦人の唾を、口移しにして試したのである。

それから二十数年を経た今日、他の病気はしたが、結核的のものはした事がない。

また私の家庭内にはその頃当歳(とうさい)から十五、六歳までの私の実子六人いたが、いつも二、三人の結核患者の女性を私は治療してやりながら、女中として同居させていた。

その数今日までで十数人に及んで二十年以上になるが、その間治って帰宅した者と、新規の者とが交替しつつ、現在でも二、三人はいるが、今日まで結核どころか病気で寝る者すら一人もないのである。

もちろん最初から消毒などは一切せず、家族同様に扱っているのであって、右の六人の子供の内四人はすでに結婚して、孫も数人出来ており、全部素晴しい健康である。

また私の非感染説は、数十万の信徒にも教えており、信者は絶対に信じその通り実行しているが、結核の治った話は数限りなく聞くが、感染した話など一人も聞いた事がない。

としたらこれ以上確かな証拠はあるまい。

ゆえに万一今後一人でも感染する者があるとしたら、それこそ信ずべからざる一大奇蹟である。


しかし医学が結核感染説を唱え出した事にも理由はある。

たとえば一家庭内で一人が結核で死亡したとする。

そのため後に残っている誰もは極度に結核を怖れると共に、医師の注意もあり、感染しないよう出来るだけ用心をする。

それには何より風邪を引かないようにする事だが、万一風邪を引いた場合、早速医師に診て貰う。

医師もまた結核死亡者のあった家は、疑いをもっているので特に注意し、入念に治療する。

ところが医療は結核製造法であるから、結局本物に仕立上げてしまうので、その状態をみればどうしても感染としか思えないのである。

ところがそれを裏書する一事がある。というのは注意をする人程感染し易く、そうでない人程感染しない例で、これなども医師は常に経験するところであろう。

その他の原因としては、結核で死んだ霊が兄弟や夫や妻などに憑依して、原因となる事も少なくないが、これは唯物思想の人には信じ難いから、この説明は省く事とする。


右のような訳で、医学は菌のみに囚われ、菌の感染を防止すると共に、殺菌方法が完成さえすれば、それで解決すると思う末梢的考え方で、これこそ根本に触れていない以上、治らないのは当然である。

次にこれを詳説してみよう。そもそも菌といえども偶然降って湧いたものではなく、湧くべき条件と、湧くべき物質があってこそ湧くのであるから、その点が明らかにならない限り、病気の本体は分るはずがないのである。

という訳で現代医学の菌に対する解釈は、菌その物だけに囚われ、菌の発生源にまでさかのぼっていないのであるから、幼稚極まるものであって、

このような学問程度で人間生命の神秘を探ろうなどとは無理であって、これで結核問題の解決など前途遼遠と言わねばならない。

それがため幾億万の生霊が、無期限に徒(いたず)らなる犠牲となるのであるから、実に由々しき大事件である。

ところが私は神示によってこの真相を知った以上、一日も早く天下万民に知らせ、結核から解放させるべく、この著をもって警鐘の第一声とするのである。」 (「結核信仰療法」より)