風邪と結核について 2 (「結核の革命的療法」より)
明主様御教え 「寒冒・病気とは何ぞや」 (昭和26年8月15日発行)
「人体を物質と見做(みな)して、唯物療法を進歩させて来た医学は、どの点に最も欠陥があるかを、順を逐うてかいてみるが、
それについてはまず、実際の病気を取上げて説明してみるのが、最も判り易いからそういう事にする。
まず、人間として、何人も経験しない者のない病としては寒冒であろう。
ところが寒冒の原因は医学では今もって不明とされており、近来僅かに発見されたのが、ヴィールスによる空気伝染とか、アレルギー性によるとか言われているくらいで、
吾らからみれば問題とするには足りない稚説である。この説も近き将来無意味とされる事は間違いあるまい。
そもそも、人間は先天的に種々なる毒素を保有している事は、医学でも認めている。
例えば、天然痘、痳疹(はしか)、百日咳等は元より未知の毒素も色々あるであろう。
ところでそれら毒素は自然生理作用が発生し、外部へ排泄されようとする。
これを吾らの方では浄化作用と言う。
そうして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。
その場合神経を使うところ程多く集まる、人間が最も神経を使うところは上半身特に頭脳に近い程そうである。
人間が目が醒めている間、手足は休む事はあっても、頭脳を始め、目、耳、鼻、口等は一瞬の休みもない。
としたら毒素集溜の場合もそうであって、肩、頸、淋巴腺、延髄、耳下腺付近は固より、頭脳が主となっている。
このように各部に集溜した毒素は時日を経るに従って、漸次固結する。
それがある限度に達するや、排除作用が発生する。
ここに自然の恩恵を見るのである。何となれば、固結のため、血行が悪くなり、肩、頸が凝り、頭痛、頭重(ずおも)、
視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、臭覚の鈍化、歯槽膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活動力が減殺されるからで、
それがため人間本来の使命が行われない事になる。それで造物主は病気という結構な、浄化作用を作られたのである。
右のごとく、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄血作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大な物というべきである。
ゆえにもし人類から、病気を取除いたとしたら、人間は漸次弱って、ついには滅亡に到るかも知れないのである。
ところが私は、病無き世界を造るというのであるから矛盾するように思うであろうが、これは根本的に異(ちが)っている。
というのは人間が無毒になれば浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り切った話である。
この意味において私は、これから出来るだけ解り易く徹底的に説いてみよう。
話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、まず初め寒冒に罹るや発熱が先駆となる。
自然は固結毒素の排除を容易ならしめんがため、熱で溶解させ液体化すのである。
この液毒は速やかに肺に侵入するが、この作用は実に神秘であって、例えば吾らが浄霊(これは療病法の名称)によって固結毒素を溶解するや、
間髪を入れず肺臓内に侵入する。その場合筋肉でも骨でも透過してしまうのである。
何しろ身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通一、二箇所くらいなら軽い症状で済むが、局所を増す毎に重くなる。
最初軽いと思った寒冒が漸次重くなるのは、そういう訳である。
右のごとく、液毒は迅速に肺臓内に侵入し、稀薄な場合は痰となって即時排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳というポンプ作用を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。
咳の後には必ず痰が出るに見ても明らかであり、くしゃみの後に鼻汁が出るのも同様の理である。
また頭痛、咽喉の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の関節や、鼠蹊(そけい)腺等の痛みはいずれもその部にあった毒結が溶解し、出口を求めようとして動き始める。
それが神経を刺戟するからである。そうして液毒には濃い薄いが出来る。
濃いのは喀痰、鼻汁、下痢等になるが、極薄いのは水様となり、盗汗(ねあせ)や尿によって排泄される。
このように浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行われるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。
一体造物主すなわち神は、人間を造っておきながら、病気などという人間を苦しめ、活動を阻害するようなものを与えられるはずはなく、
常に健康であらねばならないにかかわらず、人間が誤った考えで毒素を作り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発る。
それが病気であるとすれば、寒冒の場合も何らの療法もせず、自然に放任しておけば完全に浄化が行われるから順調に治り、健康は増すのである。
この理によって人間は出来るだけ風邪を引くようにすべきで、そうすれば結核などという忌わしい病は跡を絶つのである。
ところがどうした事か、いつの頃からか不思議にも、右の清浄作用を逆解してしまった。
そこで発病するや極力浄化を停めようとする。
何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違えたのだから堪らない。
そのため熱を恐れて下げようとする。
下熱すれば毒結の溶解が停止されるから、咳痰を初めあらゆる症状が軽減する。
ちょうど病気が治るように見えるのである。
判り易く言えば、せっかく溶け始めた毒結を元通りに固めようとする、その固め方法が医療なのである。
氷冷、湿布、薬剤、注射等すべてはそれであって、全部固まると同時に症状が消失するので、これで治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実はせっかく排除をしようとするその手を抑えつけるようなもので、これは事実が証明している。
よく風邪が拗(こじ)れるというが、これは人体の方は浄化しようとする、それを止めようとするので、つまり浄化と非浄化との摩擦となるから長引くのである。
また一旦風邪が治っても、暫くすると必ず再発するのを見ても分るであろう。
ゆえに結果から言えば、医療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法である。
従って本当に治るという事は、毒素を外部へ排泄し、体内が清浄となって、病気の原因が皆無となる事である。
だから真の医術とは浄化が発った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く体外へ排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。」 (「結核の革命的療法」より)
明主様御教え 「肺炎と結核」 (昭和26年8月15日発行)
「寒冒と最も密接な関係ある病気としては、言うまでもなく肺炎と結核であろう。
特に現在日本において、最も悩みとされているものはこれであるから、充分解説する必要があろう。
そもそも肺炎と結核という病気の初因は、もちろん寒冒からである。
というのは前項に述べたごとく、せっかく寒冒という浄化作用が発生するや、医療は極力停止させようとして、種々の手段を行う。
これも既に述べた通りであるが、その中の最も不可であるのは、薬剤と氷冷である。
元来薬剤とはいかなるものであるかというと、ことごとく毒物である。
にもかかわらずなぜ毒物を薬剤として、用いるようになったかというと、今までに説いたごとき、浄化作用停止に最も効果があるからである。
ここで、浄化作用なるものの本質を説いてみるが、さきに述べたごとく、体内の毒素を排除すべく、生まれながらに保有している自然良能力である。
従ってこの力の強弱によって、浄化力にも強弱が出来る。何よりも結核が青少年に多いという事は、浄化力が旺盛であるからで、
壮年から老年に及ぶにしたがい、減少するのもその理由であり、また各種の伝染病が、青少年や小児に多いのも同様の理である。
そこで病気すなわち浄化発生の場合、医学は浄化を極力止めようとする、それには何よりも体力を弱らせる事である。
その唯一の方法として考えられたのが、毒物を体内に入れる事で、それによって体力が弱るから、浄化も弱り、病気症状も軽減するという訳である。
また氷冷はなぜ不可かというと、毒素を溶解すべき熱を冷すから浄化が弱り、元通り固まり、それだけ苦痛も減る事となる。
もちろん、湿布も同様であって、ただいささか異(ちが)う点は、人体は不断に皮膚の毛細管からも呼吸しているのでそれを窒息させるから、その部の浄化は停止され、症状は緩和するのである。
特に近来注射が流行するが、これも毒分の強い薬は、服んでは中毒の危険があるから皮膚から注入するのである。
寒冒に罹った場合、右のごとく薬毒やその他の方法で、浄化停止を行う以上、保有毒素の幾分は減るが、
大部分は残存し、再び固まってしまうと共に、新しい薬毒も追加されるので、
寒冒に罹る毎に毒素は累加し、ある程度に達するや、一時に浄化活動が起る。
それが彼の肺炎である。
何よりも肺炎の特異性は、喀痰が肺臓内に多量に溜る事で、そのため喘音(ぜんおん)がはなはだしいのである。
喘音とは呼吸の度に肺胞が動くにつれての喀痰の響きである。
また呼吸困難は喀痰多量のため、肺臓内の容積が縮小するから必要量の空気を吸うには、頻繁に呼吸しなければならないからである。
この理によって肺炎の場合、何らの療法もせず、自然にしておけば痰は出るだけ出て順調に治るのである。
ところが医療はあらゆる手段によって浄化を停止させようとする。
何よりも肺炎に対しては医療は特に強い薬を用いる。
強いとは毒が強いという訳で、浄化停止に強力だからである。
そんな訳で強い浄化と強い浄化停止とで、猛烈な摩擦が生じ、非常な苦痛が伴う。
そのため食欲減退、高熱による体力消耗と相まって、衰弱死に至るのであるから、医学の誤謬たるや言うべき言葉を知らないのである。
右のごとく肺炎は強烈な浄化である事は体力が旺盛であるからで、体力の弱っている人は浄化が緩慢(かんまん)に発(おこ)る。
それが結核である。
そうして医師が初めての患者を診断する場合、種々な方法の中、今日最も決定的とされているものはレントゲン写真である。
これは肺臓内の雲翳(うんえい)または空洞が写るからで、これを見て結核と断定するが、医学はこれは何が原因であるかを知らない。
次にその原因をかいてみるが、寒冒の説明にもある通り、最初液体となった毒素が、一旦肺臓内に侵入停滞した時、極力浄化停止を行う結果、喀痰は排泄されず肺臓内に残存してしまい、日を経るに従って固結となる。
それが雲翳であってみれば、これは全く人為的所産と言えよう。
ゆえに最初の液体侵入の際は、肺臓は何ら異常はないのである。
そうして固痰の位置が比較的上部の場合は、肺尖カタルまたは肺門淋巴腺というのである。
それと似たものに肺浸潤がある。これは軽微な肋膜炎または肋骨付近に溜結せる毒素が浄化溶解し、肺臓内に浸潤吐痰となろうとするので、この場合も医療は固めようとするから容易に治らない。
もちろん右はいずれも放任しておけば、順調に治癒するのである。
そうして一度結核と断定するや、寒冒と同様医療は極力浄化停止を行うが、それに最も効果ありとされているのが、近来熱心に推奨されている彼の安静法である。
ところがこの安静法が曲者である。何となれば仮に健康者が一ケ月も安静にすれば、運動不足で食欲は減退し、体力は減り、外出しないため顔色は悪くなり、目に見えて衰弱する。
ちょっと動いても息切れをするようになるとしたら、言わんや病人においてをやである。
なおその上薬毒を入れられ、栄養と称して動物性蛋白を多く摂(と)らせるが、右はことごとく衰弱を増させる方法であるから、結核患者ならずとも衰弱するに決っている。
このように衰弱法を行う結果、予期通り浄化力は極度に減退し、症状は減りついに無熱となり、咳も吐痰も無くなるので、これで恢復したと思って喜ぶが、
何ぞ知らん実は浄化以前の状態に還元させたまでで、結果は反って薬毒は増し、体力は弱り、消極的小康を得たまでで、真に治ったのではないから、何かの機会に触れるや、俄然悪化し重態に陥り、ついに死に至る事が往々ある。
こういう経路は医家もよく経験するところであろう。
ゆえに医学では決して治るとは言わない。
固めるというにみても明らかである。
また経過中に患者がたまたま少し運動でもすると直に発熱する。
すると医師はあわてて戒めるが、これは運動によって鎮静していた浄化が頭をもたげるからで、本当はいいのである。
よく長い間掛ってようやく治ったといわれ、ヤレ安心と普通の生活を始めるや、間もなく再発、元の木阿弥(もくあみ)となる事もよくあるが、これらも何年掛りでようやく固めた毒素が、俄(にわ)かに溶け始めたためである。
以上によって明らかなごとく、今日の医療がいかに誤っているかで、忌憚なく言えば医療が結核を増やしていると言っても過言ではなかろう。
ここで、結核菌について大いに注意したい事がある。
医学では結核菌は伝染するとして恐れるが、それもない事はないが、大部分は自然発生である。
前述のごとく最初喀痰が肺臓内に侵入するや、医療は固めて出なくするので時日の経過につれて腐敗し、微生物が発生する。
これが結核菌である。
そうなった痰は悪臭があり、粘着力が強いものである。
考えてみるがいい、いかなる物質でも古くなれば腐敗する、腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則である。
ましてや体温という好条件も手伝うからである。これによってみても最初の寒冒時、肺臓内に喀痰が滞溜した時、極力出してしまえばそれで済んでしまう。
それを一生懸命出ないようにして腐敗させ、菌まで湧かせ、菌の蚕食(さんしょく)によって空洞さえ作るのであるから、結果からいえば善意の加害的行為とも言えるであろう。
この理に目醒めない限り、今後いかに多くの犠牲者が出るか測り知れないものがあろう。」 (「結核の革命的療法」より)
明主様御教え 「肺患と薬毒」 (昭和26年8月15日発行)
「現在の結核療法について注意すべき事は、今最も有効とされているものに気胸(ききょう)療法がある。
これは肺に空洞のある場合、肺胞を萎縮させて出来るだけ縮小させようとして肺の活動を鈍らせる。
つまり肺の安静法で、そのため空洞の原因である濃度の喀痰も固まると共に、空洞も縮小され、一時は小康を得るが、
普通人の生活をするようになると再浄化が起り、元の木阿弥(もくあみ)となるのがほとんどである。
としたらこれも根本的療法でないのはもちろんである。
その他、結核以外の肺患に対しても、簡単に説明してみるが、肺壞疽(えそ)とは肺臓と肺膜の中間に腫物が出来るので、
放置しておけば腫れるだけ腫れて自然に穴が穿き、多量の血膿が痰となって出て全治するのである。
これも浄化の一種であるが、医学は浄化停止をするので仲々治らない。
ついに不結果に終るのである。
また粟粒(ぞくりゅう)結核は肺胞にブツブツが出来るのだが、これも皮膚の湿疹と同じようなもので、一種の浄化であるから、
自然にしておけば、ブツブツから排膿されて全治する。
また肺臓癌は肉食多量が原因で、肉中に含む一種の毒素によって血液が濁り、それが肺臓内に溜り、一旦硬度の腫物となるが、浄化作用によって逐次喀痰となって出る。
しかしこの病症は性質が執拗で長くかかるのはもちろんである。
原因は菜食不足のためであるから、菜食を多く摂るだけで全治するのである。
何よりも肉食多量の西洋人に多いにみても肯かれるであろう。
次に麻疹(はしか)の際肺炎を併発する事がよくあるがこれは何でもない。
ただ呼吸頻繁のため驚くが、これは麻疹が肺胞に表われ肺の容積が減るためで、そのままにしておけば二、三日で必ず治るものである。
次に、結核に関連した病気に喉頭結核がある。
これは結核の末期に発生するもので、特異性としては声が嗄(か)れる事と、食事の際咽喉が痛み、嚥下(えんか)困難になる症状である。
この原因は痰が咽喉を通る際猛毒痰であるため、気管や咽喉の粘膜を刺激し加答児(カタル)を起すからで、この痰は最も古く、腐敗の度も強いのである。
だから痰の出る間は仲々治らないからまず見込みはない。
しかもこの時は衰弱も酷くなっているからでもあり、医師も喉頭結核と判るや、必ず匙(さじ)をなげるのである。
次に腸結核であるが、この症状は臍を中心に腹部全体にわたって、無数の固結が出来る。
もちろん押すと痛いからよく判ると共に、必ず多少の熱がある。この固結が熱で溶解され、下痢となって毎日のように出るが、
もちろんこの固結は薬毒の固まったものであるから、服薬を廃めなければ治らないに決っている。
また下痢のため衰弱を増す病気だから、医師も恐れるのである。
最後に、結核が他の病気に較べて、特に執拗で治らない原因をかいてみるが、一度結核となるや、何といっても薬物が主となる以上、最初から種々の薬物を体内に入れる。
それが原因となって、経過が長引くので患者は焦り、あらゆる薬物を求めるという鼬鼠(いたち)ゴッコになり、漸次体内に薬物が溜り溜ってどうにもならなくなる。
その薬毒が肉体を蝕(むしば)む以上、ついに不治となるのである。
そうなると痰までが薬の臭いがするくらいであるから、全く恐ろしい錯誤と言えよう。
従って三期結核は薬毒病と言ってもいいくらいで、こういう患者を私はよく治療したが、その目的は薬毒を除るだけである。
何よりも薬毒が減るに従って、漸次恢復するに見て明らかである。
但しこの薬物を除る方法こそ私の発見した浄霊法である。」 (「結核の革命的療法」より)