浄化作用について 4 (霊的分析)
明主様御教え 「病気の原因と其解消」 (昭和10年9月15日発行)
「現在、生きている人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。
又言い換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。
無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合っている。
ちょうど、紙風船の糸の形を想像すれば判る。
故に、祖先が負うている、諸々の罪穢なるものは、霊界における、その天律的浄化作用によって、
その残渣(ざんさ)たる霊汚素が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。
その曇りがある程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現われるのである。
西洋医学は、肉体へ現われたる病気を、薬剤や器機械で治そうとするのである。
しかし、よしそれで治った所で、精霊の曇を払拭されない限り、再び肉体へ病気が現われるのは当然である。
これも社会事業と等しく結果のみを治す膏薬張式で根原を無視した行き方である。
一時的方法でしかないのである。
観音の光。それはラジュウムより、何十層倍の価値ある光であるから、精霊がそれを浴びるや曇りは解けてゆく。
精霊の曇りが無くなれば、肉体の病は治るに決まっている。
観音は救主であられる。罪を赦す御方である。
祖先の罪穢による、精霊の曇りを払拭するという事は、その罪穢を赦す事である。
これが根本的の治病法であるから、再発の憂いが無いのである。
否 ますます健康になってゆくのは少しも不思議ではないのである。
この様に精霊の曇りが浄められるという事は、遡れば、祖先の罪が赦されるという事になるから、
地獄界に苦しんでいた祖霊達が向上して、天国へ救われる事になるので、その信仰の徳は予測出来ない程の洪大無辺なものである。」
明主様御教え 「毒素の解剖」 (昭和27年12月1日発行)
「ここでいよいよ毒素の説明に移るが、本来毒素とは言わば濁血であり、霊の曇りである事は、既記の通りであって、
曇りとはもちろん悪による罪穢のために発生するもので、この罪穢観は昔から宗教の一手専売のようになっているが、
遺憾ながら今までの説き方は、単に悪い事は罪穢となるからすべからずと言ったような、単純な説き方であるから、
昔の人間ならいざ知らず現代人のごとき智的、科学的の頭脳では、到底納得できるはずはないので、
どうしても理論を体系とし、実証を裏付とした確固たるものでなくてはならないのである。
さてこの世界なるものは、霊界と物質界との構成であるから、人間も同様霊と体とで成立っており、両者密接不離の関係にあって、霊体一致が原則である。
という訳で霊の曇りが体に映れば濁血となり、濁血が霊に映れば曇りとなる。
これが最も重点であるから、そのつもりで読んで貰いたい。
そうして今それを霊の方から説いてみると、人間が悪の行為をするやその罪が霊の曇りとなり、この曇りの溜積がある程度に達するや、ここに浄化作用が発生する。
これが病気、災害、または法による刑罰であって、これに洩れた分が神の律法によって霊的刑罰を受けるのである。
しかしこの刑罰をいかに巧妙に免れ得たとしても、神のそれは絶対である以上、体に移写して大きな苦悩となる。
もちろんこの際の病気は悪性で、多くは生命にまで及ぶのである。
そうして悪の刑罰は、早ければ早い程軽く済むもので、ちょうど借金と同様、返えさずにおくと利子が溜るようなものである。
しかし悪人によっては、人と神との両刑罰を巧く免れる者も稀にはあるが、
それらは死と共に霊界に往くや、罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちてしまうので、いかなる悪人も悔悟せざるを得ない事になる。
すなわちここは仏教で唱える無間地獄、神道でいう根底の国、西洋では彼のダンテの地獄篇にある煉獄である。
何しろ光なく熱なく、暗黒無明の世界で、何一つ見えず、凍結状態のまま何百年でも続くのであるから、いかなる極悪人でも往生せざるを得ないのである。
こんな事を記くと現代人は容易に信じ難いだろうが、私は霊界研究の折、多くの霊から直接聞いた話で、一点の間違いはないから、絶対信じて貰いたいのである。
話は戻るが、悪の結果として自責の念が起こるが、この心の苦痛こそ軽い浄化であって、
この時悔い改めればいいが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。
もちろん曇りといっても罪の大小により、その量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。
それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、その想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。
これに反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。
しかしこれとても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、これこそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。
以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間はこれを信じ、これに従うより外はない。
右の通り曇りの浄化作用が病気その他の災いの因としたら、
人間幸福を得たければ悪をやめ、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。
次に体的の面をかいてみるが、病原としての濁血はもちろん薬毒が因である。
元来薬剤とはことごとく有毒物である。
にもかかわらず長い間薬としてよい意味に解釈して来たこの間違いこそ、病気は浄化作用なる根本を知らなかったからである。
ここで薬毒についての原理を実地経験によってかいてみるが、浄霊によって一旦治癒した患者でも、しばらくすると再発する事がある。
これを吾々の方では再浄化というが、この理由は初めの浄霊は、浄化発生している分だけの毒素が解消されるので一旦は快くなるが、
業務につき仕事にかかるや、この時は相当活力も出て来たので、活発な浄化作用が発生する。
つまり浄化によって健康になり、健康になるから浄化が発るという訳で、それを繰返しつつ健康は漸次快復するのである。
というように再浄化の場合は割合強烈なため、高熱や激しいせきが発る。
これは固まった古い痰が出るためで、濃厚なのと薬の臭いでよく分かるが、
もちろん食欲不振、衰弱等も加わり、稀には不帰の客となる事もないではない。
その率は今日までの統計によると、浄霊で全快した者百人に対し、
七人の割合であるから、後の九十三人は完全健康者となって、現在皆活動している。
右のごとき驚異的治病成績に対し、一層驚くべきは、吾々に来る患者のほとんどは医療、民間療法、信仰療法等、あらゆる方法で治らず、死の一歩手前にまで追い詰められた重症患者のみであるに対し、
右のごとき素晴しい成果を挙げるとしたら、到底信じ得られないであろう。
ところで右七人の不成績者といえども、その原因のことごとくは薬毒多量のためであるから、
浄霊法とはつまり薬毒除去の方法であって、何よりも薬毒が減るだけは、快方に向かうに見て明らかである。
としたら無結核国日本にするには、あえて難しい事ではない。
薬剤を全廃する事と、感冒を奨励するこの二つで、充分目的を達し得らるるのである。
そうして造物主は、地球の主人公として人間を造られた以上、生を養うに足るだけの食物は生産され人間には味覚を与えられている。
従って食いたい物を楽しんで食えば、それで充分健康は保持されるので、あえて栄養などの面倒は要らないのである。
ちょうど性欲のようなもので、これは人間を作る目的ではなく、他の目的で無意識に作られるのと同様の理である。
としたら人間は定められた食物以外の異物は、体内に入れてはならないに決まっている。
すなわち味のない物、もしくは苦い物などは食うべからざる物としてその物自体が示している。
それを知らないため、昔から「良薬は口に苦し」などといったのは、誤りもはなはだしいといわねばならない。
このように消化機能なるものは、定められた食物以外のものは処理されないように出来ている以上、
薬剤も異物であるから、処理されずに残存し、これが病原となるのである。
これについては天然痘に大関係があるから、次項にかいてみよう。」 (「結核信仰療法」より)
明主様御教え 「霊主体従」 (昭和27年御執筆)
「前項に説いたごとき、無機質界と人間の病気との関係であるが、
無機質界とは吾々の唱える霊界であって、この霊界と人間との関係はどういう事になっているかというと、
そもそも人間とは体と霊との二原素の密接合致によって成立っているものであって、
もちろん体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊とは眼に映らないものである以上、長い間分らなかったのである。
ところが確実に存在している一種のエーテルのごときものである。
としたら方法によっては、把握出来ないはずはないのである。
というのは人間の肉体が空気中にあると同様の意味で、人間の霊といえども霊界にあるからである。
霊界とはさきにも書いたごとく、空気とは比較にならない程の稀薄な透明体であって、今日まで無とされていたのも無理はなかったのである。
しかしこの世界こそ無どころではなく、むしろ万有の本源であって、絶対無限の力を蔵しておるもので、一切はこの力によって生成し化育されているのである。
そうして霊界の本質は太陽の精と月の精と土の精との融合一致、想像を絶する程の、霊妙不可思議な世界である。
ところがここで問題であるのは、人間が各々その役目を果たす上には肉体に垢が溜るごとく、霊には曇りが溜積するのである。
従ってこれに対し自然浄化作用なるものが発生し浄められる。
これもちょうど人体に溜った垢が、入浴によって清められるようなものである。
ところが右は独り人間ばかりではなく、天地間一切の物がそうである。
例えばこの地上霊界に汚穢が溜るや、自然作用によって一定の個所に集中され、低気圧という浄化活動が発って清掃される。
暴風も出水も洪水もまた雷火も人的火災もそれである。
と同様人間にも浄化作用が発生する。
今その理由を詳しく書いてみよう。
右のごとく、人霊に溜った汚穢は一種の曇りであって、この曇りとは本来透明体であるべき人霊に、不透明体の部分が出来るそれである。
しかしながらこの曇りの原因には二種類ある。
一は霊自体に発生するものと、二は逆に体から霊に移写されるものとである。
まず前者から説いてみるが、元来人霊の内容は経(たて)に言えば求心的三段階に、緯(よこ)に言えば求心的三重層になっている。
つまり 三重丸の形と思えばいい。
もちろん丸の中心が魂であって、魂とは人間がこの世に生まれる場合、自然法則によって、男性から女性の腹へ宿らせる。
本来魂なるものは極微のポチであって、もちろん各々の個性をもっており生命のある限り人間に対して絶対支配権をもっている事は、誰でも知っている通りであるが、
その魂を擁護的に包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であって、
霊は全身的に充実しているから、人体と同様の形である。
このように霊体は一致している以上、魂のいかんはそのまま心を通じて霊へ反映すると共に、霊のそれも心を通じて魂に反映するのである。
かくのごとく魂と心と霊とは大中小、小中大の相互関係で、言わば三位一体である。
ところがいかなる人間といえども、生きている間善も行えば悪も行うので、
その際 善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢となって魂を曇らすので、
その曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。
そうして、その曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、曇りの溶解排除が行われる。
しかしそうなるまでの過程として曇りは漸次一個所または数個所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。
面白い事にはその罪によって固結場所がちがう。
例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にというように相応するものである。
次に後者を解いてみるが、これは前者と反対で、体から霊に映るのであるが、その場合最初血液の方に濁りが生ずる。
すなわち濁血である。すると霊にもその通りに映って曇りとなるが、これも前者と同様局所的に分散濃度化するのである。
元来人体なるものは霊の物質化したものが血液であり反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊と体は同様といってもよいが、
ただ霊体の法則上霊の方が主になっており、体の方が従となっているのである。
ところがいずれにせよ右の原因によって、毒素は絶えず人体に溜り固結となるので、
その固結が浄化作用によって溶解され、液体となって身体各所から排除されようとする。
そのための苦痛が病気なのである。
右に述べたごとく、体に発生する濁血とは何であるかというに、
これこそ実に意外千万にも医療の王座を占めているところの彼の薬剤であるのである。
というのは本来薬というものはこの世の中には一つもない。
現在薬とされているものはことごとく毒であって、その毒を体内にいれるとしたら、それによって濁血が作られるのは当然である。
何よりも事実がよく証明している。それは病気が医療を受けながら長引いたり悪化したり、余病が発るという事は、薬毒によって病気が作られるからである。
従って薬毒で出来た濁血が、霊へ映って曇りとなり、これが病原となるとしたら、
現代医学の治病方法自体が病気を作る意味でしかない事になろう。
右のごとく万有の法則は霊が主で体が従である。
としたら病気は霊の曇りさえ解消すれば濁血は浄血と化し、全治するのは言うまでもない。
それで我治病法はこの原理の応用であるから、浄霊といって霊を浄める事を目的とするものである以上、病気は根本的に治る訳である。
ところが医学においては霊を無視し体のみを対象として進歩して来たのであるから、結局一時的治病法でしかない訳である。
事実医療が根治的でない事は、たまたま手術等によって全治したに見えるが、
なるほど元の病気は発らないとしても、他の病気が起るかまたは再発するのは必ずと言いたい程である。
例えば盲腸炎のごときも患部を剔出(てきしゅつ)するので、盲腸炎は起り得ないが、盲腸に近接している腹膜炎や腎臓病が起り易くなる。
これは全く霊の方の曇りは依然として残っているからで、
しかも薬毒も加わるため濁血は増えて、新たな曇りと合併し位置を変えて病原となるのである。
そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって一層濃度化するや、血粒に変化が起り、漸次白色化する。
これが膿である。
よく血膿と言って膿と血液が混合しているのは、これは変化の中途であって、なお進むと全部膿化する。
よく結核患者の喀痰が血液の混じっているものと、そうでないものとがあるのは右によるのである。
また医学における赤血球に対する白血球の食菌作用というのもそれである。」