浄化作用 3(第一浄化作用と第二浄化作用)


明主様御教え 「病気の真因」 (昭和22年2月5日発行)

「およそ人間がこの世に生を享くるや、遺伝黴毒や最初に述べた天然痘毒素を主なるものとして、種々の毒素を保有している事は前項に述べた通りである。

そうしてこれらの毒素の支障によって健康が完全に保持出来得ないから、生理的に体外に排泄せらるべく、断えず自然浄化作用が行われるよう造られているのが人体である。

しかしながら自然浄化作用が行われる場合ある程度の苦痛が伴うので、その苦痛過程を称して病気というのである。

この例を説明するに当って一般的に最も多い病気すなわち感冒を採上げてみよう。

感冒だけはいかなる人といえども体験しない者はないであろうからである。

しかるに感冒は今もって医学上原因不明とされているが、私の発見によればこれは最も簡単なる浄化作用の一種に過ぎないのである。

それはまず、感冒に罹るとすると、発熱、頭痛、咳嗽、喀痰、鼻汁、食欲不振、発汗、倦怠感、節々の痛苦等が伴うのである。

これらについて詳細説明するについて・・・


まず浄化作用とはいかなるものであるか、私はこれを大別して第一と第二に分類する。

第一浄化作用とは血液中にある種々の毒素が身体各局所に集溜固結するのである。

集溜すべき局所としては、すべて神経を集注する局所及び人体静止の場合の下部である。

そうして集溜毒素は時日を経るに従い、漸次硬化する。

俗に凝りと名づくるのもそれである。

この場合苦痛は全然無い事もあり、ありとするも肩の凝り位の程度である。


次に、第二浄化作用であるが、これは第一浄化作用である固結がある程度を超ゆる場合、自然排除作用が発生する。

その際排除しやすからしめんがため液体化せんとする作用がすなわち発熱である。

発熱の高下は固結の毒素の性質と硬軟と量と患者の体質とによるのである。

よく運動後疲労の結果往々発熱するのは、運動が浄化促進の役目をするからである。

そうして液体化した毒素は、発汗、喀痰、鼻汁等によって体外へ排泄さるるのである。

この場合の咳嗽は喀痰を排泄せんがためのいわばポンプ作用ともいうべきものであり、また鼻汁を排泄せんがためのくしゃみである。

故に咳嗽の後は必ず吐痰があり、くしゃみの後は必ず鼻汁が出るにみても明らかである。

また食欲不振は発熱と吐痰と服薬のためである。頭痛及び節々の痛苦は、その部に固結する毒素が溶解し、液体となって排除されようとしての運動が神経を刺戟するからであり、

咽喉部の痛みは喀痰中に含まれている毒素が粘膜に触れるため、粘膜を刺戟しカタルを起すからで、

声が嗄(しわが)れるのも右の理によって声帯にカタルを起すからである。


以上のごときものが感冒であるから、何等の手当を施さず服薬もせず放置しておけば順調に浄化作用が行われる故、短時日に治癒するのである。

この様に自然治癒であれば保有毒素が軽減するをもって、それだけ健康の度を増すのである。

右のごとく感冒は最も簡単な浄化作用であるから大いに推奨すべきに拘わらず、世人は感冒を恐れ、感冒に罹らぬ事を医学は第一条件としているが、それはいかに誤謬であるかを知るであろう。

昔から感冒は万病の基などというが、実は感冒こそは万病を免れ得る唯一の手段である事を首肯すべきである。


感冒の原因に不明である医学は、罹病の場合種々の方法を行う。

その方法とは徹頭徹尾浄化作用停止である。それはまず発熱に対し解熱剤を与え氷冷や湿布法を行う。

これは折角発生した第二浄化作用を第一浄化作用の状態にまで還元せしめようとする。

すなわち溶解し始めた毒素を再び固結せしめんとする手段である。

従って固結するだけは解熱、喀痰、鼻汁その他の痛苦は軽減するから病気軽快と錯覚し、それが全く固結した場合、医師も患者も治癒したと思うのであるが、

何ぞ知らん実は第二浄化作用発生以前の状態に還元したまでであるから再発するのが当然である。

そうしてここに注意すべきは、還元治療による薬剤使用と氷冷、湿布等の浄化停止方法が、次の罹病に対しより増悪の原因となる事である。

故に大患の原因は小浄化作用発生の場合、その都度薬毒等によって度々停止する以上、その毒素が累加し増大され、一時に大浄化作用発生となるためである。

右のごとくである以上、今日医学が進歩したというのは浄化停止方法が進歩したまでで、実際は病気を治癒させる進歩ではなく、病気を治癒させない進歩という事になる。

すなわち小患で済むべきものを大患にまで発展させるのである。

この様な誤謬を進歩と錯覚し、貴重な生命と健康を害う現代人は、まことに哀れむべきであると私は思うのである。


次に、第二の人口増加率逓減と死亡率減少と並行するという事はいかなる訳かを説明する。

まず欧州文明国において、近年伝染病や肺結核が著減したという事をもって社会衛生の進歩によるものと一般は信じているがそれは一部の理由とはなるが、真の理由ではない。

もちろん衛生施設の完備がある程度の効果はあるが、それよりも大きな原因は体力低下のためである。

体力低下が伝染病減少の原因になるとは読者は不思議に想うであろうが、真相は次のごときものである。

元来、伝染病や結核等は体力旺盛による強力浄化のためであるから、体力低下の民族は浄化不発生または微弱であるのは当然である。

劣等民族に伝染病が多いという事は、衛生に無関心である事よりも体力強盛による事の方が有力な原因である。


右の理論を判りやすくするため人間の健康を三種に分けてみよう。

すなわち第一種の人は完全健康体で無毒であるから、浄化作用すなわち罹病する事はないが、こういう人は極稀である。

次に第二種の人は有毒者にして体力強盛なるがため浄化作用が起りやすく、小患または大急に時折罹る。

まずこの種の人が大多数である。次に第三種の人で有毒者でありながら、体力劣弱なるため浄化作用が起り得ない。

起っても微弱である。ただこの種の人は運動等によって体力が多少強盛になった場合起るのである。

故にこういう人の場合は早速薬を用いて安静にすれば還元するから一時快復する。故にこれらの人は過労を避けようと努めるのである。

しかるに今日の医学は、第二種の人を第三種にする事を治療道と考え努力する。

その例として都会児童や医師の子女すなわち最も医師に触れる機会の多い者及び今日の医学衛生の理論を忠実に守る人程虚弱者であるという事実がそれを物語っている。

しかしながら第二種の人を第一種に改善しようとしても、現代医学では到底不可能である。


そうして死とはいかなる理由によるのであるかというと、世人は病気のためと思っているが、実は病気による死は極稀であって、その大部分は衰弱のためである。

それは病気即浄化作用を抑圧するからである。

何となればさきに説いたごとく医学は浄化停止を行うに対し、肉体は浄化を反撥するという訳で相剋的に苦痛が増加する。

それがため衰弱は加増し、ついに死の転機に及ぶのである。

医学によって体位低下せる文化民族は浄化微弱によって強烈なる浄化が起り得ない理由によって大患が少なく、それが死の機会を延期する。

すなわち弱体ながらに漸く生命を保ちつつ生存するという訳である。

しかるに今日の文化民族がいまだ体力旺盛であった時代は、強烈なる浄化すなわち大患に罹りやすい。

医療はそれを強圧するため摩擦する・・・衰弱する・・・死ぬ・・・という訳である。

その証左として死亡率の高い時代ほど人口増加もまた高いという統計が表われるのであって、これが人口問題第二の謎の解説である。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「病気の真因」 (昭和18年10月5日発行)

「およそ人間がこの世に生を受けるや、遺伝毒素即ち最初に述べた天然痘毒素を主なるものとして種々の毒素を保有している事は前項に述べた通りである。

そうしてこれらの毒素の支障によって健康が完全に保持出来得ないから、体外に排泄せらるべく絶えず自然浄化作用が行われるように造られているのが人体である。

そうして自然浄化作用が行われる場合ある程度の苦痛が伴うので、その苦痛を称して、「病気」と名付けられたのである。

この例を説明するのに一般的に最も多い病気・・・即ち感冒をとりあげてみよう。

感冒だけはいかなる人といえども経験しない人はないであろうからである。

そうしてこの病気は今以て医学上原因不明とされているが、私の発見した所によるとこれは最も単純なる浄化作用の一種である。

それはまず感冒に罹るとすると発熱・頭痛・咳嗽(せき)・鼻汁・喀痰・食欲不振・全身の倦怠感・四肢の痛苦・・・その他である。

これはどういう訳かというと、不断に行われつつある第一の浄化作用によって、全身の各局所に溜結せる毒素が第二の浄化作用によって排除せられんとする活動が起ったのである。


ここで、浄化作用なるものを説明する必要があろう。そもそも浄化作用なるものは、体内の不純物質ともいうべき然毒、尿毒、薬毒等が不断の浄化作用によって漸次的にある一定の局所に集溜し、凝結するのである。

そうして集溜する局所はいかなる所かというにそれは特に神経を使う個所であって、その個所は後段に詳説する事とするがともかく右の毒結の排除作用が発生する・・・それが病気の初めである。

故に浄化作用を二種に大別されるので、一は・・・体内一定の局所へ毒素が集溜凝結する作用、二は・・・一旦凝結した毒素を体外へ排除する作用である。

故に前者の場合では未だ大した苦痛はないから病気とは思わない。

しかし肩とか首とかが凝るという事はそれであって、次に後者であるその凝りの溶解作用が起るので、それが感冒的症状である。

即ちその苦痛が病気である。世間よく肩が凝ると風邪を引くというのは右の理によるのである。


以上説いたごとく熱は毒結を排除し易からしめんが為の溶解作用であって、その溶解されて液体化した毒素が即ち鼻汁であり喀痰である。

又発汗・尿・下痢等にもなるのである。しかし液体毒素といえどもなお濃度である場合、排除に困難なる為それの吸引作用が起る。

それが嚔(くさめ)及び咳嗽(せき)である。嚔は鼻汁を吸出せんが為、咳嗽は喀痰を吸出せんが為のポンプ作用ともいうべきものである。

故に嚔の後は鼻汁が出て咳嗽の後は吐痰するにみても明かである。

そうして食欲不振は発熱と吐痰と服薬の為である。又痛苦は、その局所に溜結せる毒素が溶解し液体毒素となって排除されようとして運動を起し神経を刺戟するからである。

咽喉部の痛みは、喀痰中に含まれたる毒素が粘膜に触れる為粘膜を刺戟して加答児(カタル)を起すからで声が嗄(か)れるのは右の理によって声帯や弁膜が加答児を起し発声弁の運転に支障を来す為である。

頭痛は頸部又は頭部の毒素の発熱によって溶解した液体毒素の排除作用の刺戟である。


右のごときものが感冒であるから何らの手当も服薬もせず放置しておけば、浄化作用が順調に行われて短時日に完全に治癒するのである。

故に感冒程容易に浄化作用が行われるという事は全く天恵的ともいうべきである。

この理によって感冒に罹るだけは毒素は軽減するのであるから、感冒を自然治癒で治せば次の感冒は必ず前よりも軽減し且つ感冒と感冒との間の期間も漸次延長し、ついには感冒に罹らなくなるのである。

それは、無毒になるから感冒の必要が無くなるという訳である。

この時期に到ると稀には感冒に罹る事があっても、それは微毒であるから発熱はほとんどなく少量の鼻汁・喀痰位のものでその他の苦痛はないといってもよい位であるから、日常通り業務に携わっていてほとんど知らぬ間に治ってしまうものである。

しかるに今日までのあらゆる医学上の理論はこれの反対であって、感冒は重病の前奏曲かのように恐れられるのであって昔から「風邪は万病の基」などといい、今日では結核の門のように恐れられているのである。

しかし右の理によって、感冒は「万病を免れる因」結核に罹らぬ方法であるというべきである。

故に、感冒に罹る事はむしろ喜ぶべき事で「感冒に罹るようにする」事こそ何よりも健康増進の第一条件である。


右の理に不明であった今日までのあらゆる療法は感冒を恐れ感冒による苦痛を悪化作用と誤認し抑圧すべきであるとして研究されたのであるから、感冒というせっかくの浄化作用を停止しようとするのである。

その方法として第一に薬剤を用いる。元来薬剤なるものは全部毒素であって、昔漢方の某大家は「薬は悉(ことごと)く毒である。故に薬を用いて病気を治すのは毒を以って毒を制するのである」と言ったがまことに至言である。

即ち薬という毒物を用いるから体内の機能を弱らす、機能が弱るから浄化作用が停止されるのである。

又氷冷法も浄化作用を停止させるのであるから発熱や苦痛を軽減させる。

湿布も同様である。元来人体は、鼻孔の外皮膚の毛細管を通じて呼吸作用が行われているので、湿布はその呼吸を停止させるのであるからその部の浄化作用が弱まり、苦痛が軽減するのである。

この様な種々の方法は悉く浄化作用を抑圧停止させるのであるから、苦痛は軽減しついに病的症状が消滅して一旦は治癒の状態を呈するのであるが、

それは毒素が排除された真の治癒ではなくせっかく浄化作用の起った毒素を再び凝結せしめるのであって、いわば浄化作用発生以前の状態に還元せしめたまでである。

従って時を経れば再び浄化作用が発生するから又風邪を引く又停止させるまた風邪を引くというように繰返すのである。

事実そういう人が世の中には沢山あるのは誰も知る通りである。そうして厄介な事には薬毒がその都度加わる事になるから浄化すべき毒素がますます増加する事になる。

従って漸次悪性の感冒となるのは当然である。その結果として肺炎等が起るのである。

元来肺炎という病気は浄化作用の強烈なものである。

それは感冒の重症であると言ってもよいのである。

前述のごとく小浄化作用である感冒を抑圧するからその都度毒素が累積増大され、それが一時に反動的に大浄化作用となって現われるのである。


右のごとくその根本において誤謬から出発した現在までの医学である以上、医学が進歩すればする程病者は殖え体位は低下するのは当然の理である。

故に、医学の進歩とは病気を治癒させる進歩ではなく、「病気を治癒させない進歩である」といえよう。

人口増加率減少もその主因は女子妊孕率の低下である事は学者も認めている所である。

乳幼児の死亡も結核の増加も現在の医学の誤謬に因る事は勿論である。


次に第二の人口増加率低減と死亡率減少と平行するという事はどういう訳かというとこういう理由によるのである。

欧州文明国において近年伝染病や肺結核が漸減したという事は社会衛生の進歩によるとされているが、それは一部の理由であって全般的理由ではないのである。

勿論衛生施設の完璧がある程度奏効した事にもよるであろうが、それよりも根本原因は体力低下の為である。

体力が低下した為に伝染病は減るというと摩訶不思議なように思うであろうが事実はこうである。

元来伝染病及び結核等は体力旺盛に因る浄化作用の強烈な為であるから、体力が低下した民族は浄化作用が強烈に発生し得ないのは当然である。

支那民族に伝染病の多いという事は衛生に無関心であるという事よりも体力強盛が原因であるということになるのである。


右の理論を推進めてゆくとこういう事になる。

今判り易く人間を三種に分けてみよう。

即ち第一種の人は完全健康体で無毒であるから病気が起り得ないのである。

第二種の人は有毒者にして体力強盛なるが為浄化作用が起りやすいという人(この種の人が大多数である)

第三種の人は有毒者であっても体力劣弱なる為浄化作用がおこり得ない。起っても微弱である。

ただこの種の人が運動等によって体力が幾分強盛になった場合おこるのである。

故にこういう人は早速薬剤を用いて安静にすれば還元するから一時恢復するのである。

これらの人は過労を避けようと勉めるものである。


しかるに、今日の医学は右の理に不明であるから、第二種の人を第三種にしようとするのである。

その例として、都会の児童や医師の子女即ち最も医師に触れる機会のある者ほど弱体者であるという事実と、今日の医学衛生の理論を忠実に守る青白いインテリの多いという事は何よりの実証である。

もっとも第二種の人を第一種に改善しようとしてもその方法は現代医学では不可能である。

そうして死とはいかなる理由によるのであるかというと、古来何人といえども病気によって死ぬとされているが、実は病気に因って死ぬ事は極稀(ごくまれ)であって大部分は「病気を抑圧するから死ぬ」のである。

何となれば再三説いたごとく、浄化作用へ対して抑圧方法を行うから毒素は排除されないで還元しその上薬毒が加わる、そうして浄化作用との衝突を繰返す。

それが衰弱を増進させついに生命を失うまでになるのである。


今一つの理由として、文化民族においては医療施設が完備せる為発病の場合直ちに医療を行うので、それが右に説くごとく浄化停止と薬毒追増となるから体位を衰耗させる。

しかるに非文化民族は発病の場合、ほとんど放任して自然治癒に任せるから完全に浄化作用が行われる。

それが体位強盛の原因となるのである。

故にその結果として文化民族は体力が低下する。

低下するから浄化作用微弱となり発病の機会が少くなる。少くなるから死亡率が低いのである。

この反対に今日の文化民族が未だ浄化作用が旺盛であった時代は発病の機会が多い、多いから医療を受ける。

医療は逆効果であるから死亡率が高いという事になるのである。

これが体力の強盛であって出生率が高い時代は死亡率が多いという真因なのである。


しかしながら、現代医学の功績も相当ある事は認めない訳にはゆかないが、その功績に何倍する程の誤謬もあるという事が人口問題やその他の原因となったのである。

そうしてその誤謬なるものがいかに驚くべく怖るべきものであるかをあらゆる角度から検討してみよう。

そうして人口問題解決についてはその根本原因たる「種痘」の廃止とそれによる天然痘毒素の解決にある事は言うまでもないが、それは別の項目に譲る事として次に肺結核と乳幼児死亡の問題を説く事にしよう。」 (「明日の医術 第1編」より)




明主様御教え 「結核と薬毒」 (昭和18年11月23日発行)

「前項に述べたごとく、結核が泰西に減少し、我国に増加するという原因を述べるに当って知らねばならない事は彼の種痘の問題である。

そもそも種痘なるものは一七九八年英国の医学士エドワード・ジェンナーなるものが発表し、

それ以来漸次ヨーロッパを初めとし、世界各国に施行せらるるようになったのである。

しかるに文化人は、恐るべき天然痘疾患から免るるを獲るというので、その恩恵に感謝した事はもちろんで、

今日においても救世主のごとくに思われているのは何人も知る所である。


しかるに、ヨーロッパにおいては種痘施行後、各国人の体位は低下し始め、

ついに人口増加率低減という恐るべき問題が発生し始めたのである。

それはフランスにおいては、種痘発見後三、四十年、英国及びドイツにおいては七、八十年にしてその兆候を表わし始めている。

しかし幸いにも日本においては、ヨーロッパよりも五、六十年後れたため、

体位低下及び人口増加率減少が著るしくないというのが現状である。

しからば、種痘による体位低下と結核との関係はいかなるものであるかを述べてみよう。


種痘によって、天然痘が免疫になるという事は、天然痘毒素(以下然毒と略す)が消滅したのではなく、

発病の勢をくじかれたまでである。

すなわち陽性であるべき毒素が陰性化されたまでであって、

実はこの残存陰化然毒が、結核を初めあらゆる種類の病原となるのである。

そうして陰化然毒は、人体不断の浄化作用によって各局部に集溜固結するので、

その局所は主として背面腎臓部である。

これがためその固結の圧迫によって腎臓は萎縮し、尿の排泄に支障を来すので、

その結果として余剰尿毒が背部、肩部、首、頭脳、淋巴腺を初め、全身各部に集溜するのである。

もちろん神経を使う所程、集溜固結するものである。

その集溜固結の過程を、私は第一浄化作用という。


次で右固結を解消排除すべき第二浄化作用が発生するので、その先駆としてまず発熱がある。

それによって右の固結は溶解し、液体化し喀痰、汗、下痢、嘔吐、鼻汁等になって排泄さるるのである。

その場合、第二浄化作用は苦痛が伴うので、その苦痛を病気と称するのである。

従ってこの意味において、病気なるものは実は天恵的浄化作用であって、
これによって健康は増進さるるのである。


しかるに、今日までの医学及びあらゆる療法は、右の理を反対に解し、

病気をもって悪化作用となし、極力これを停止しようとしたのである。

元来浄化作用なるものは、体力旺盛なる程発生しやすく、

また強烈でもあるから、これを停止せんとする場合、体力を弱らせなければならない。

その方法として唯一のものとされていたのが彼の薬剤である。

元来薬なるものは無いので全部毒物である。

薬剤の服量を定めるという事は毒であるからであって、

これは医学も認めているところである。

すなわち毒作用によって身体は衰弱するから浄化作用は停止される訳である。

この結果、浄化作用発生以前の固結状態に還元する。

それを治癒したと誤ったのであるから、医家においても病気を治すとはいわない。

固めるというのである。


ゆえに、右のごとく薬毒によって、浄化を停止するのであるから、真の治癒ではなく擬治癒である。

従って、時日を経るにおいて、再び浄化作用が起こるのは当然で、

それをまた停止するというのが今日までの方法であった。

しかしそれだけならいいが、右のごとく繰返す結果、その都度薬毒の溜積が増すから、漸次発病毎に悪性となるのである。

これについて医学においては薬毒は自然排泄消滅するものとしているが、これははなはだしいあやまりであって、

人間は人間の食物として定められたる以外の総ては異物であるから、決して消滅はせず体内に残存する事は、私の幾多の経験によって明らかである。


右の理によって、病気の原因である毒素なるものは大体陰化然毒、尿毒、薬毒の三種である事を知るであろう。

そうして病気に際し最も苦痛を現わすものは薬毒で、次が尿毒、次は然毒であるが、然毒はほとんど痛苦はなくただ痒みだけである。

そうして以上のごとき薬毒の外、氷冷、湿布、光線その他の療法といえども、そのほとんどは固め療法に過ぎないのである。

また特に注意すべきは、発熱の原因がほとんど薬毒である事である。

ゆえに発熱が主である結果といえども、その根本原因が薬毒である事は疑いないのである。

何となれば私が多数の患者を取扱った経験上、

生来、薬剤を使用した事のないというものもたまたまあるが、

そういう人に限って発熱がなく、

従って、病気も軽く大抵一、二回で治癒するのである。」 (「結核の正体」より)




明主様御講話 「浄化の順序」 (昭和27年12月15日)

「それから浄化作用について、お蔭話などでちょっと間違えることがあるようですから言っておきます。

浄化作用というものは、どうしても一度は毒素が固まるのです。

ですから浄霊をしますと、固まりかかったものが、そのまま溶けることもあるし、毒によっては浄霊するとよけい固まることがあります。よけい固まって溶けるのです。

よく浄霊すると熱が出ますが、それはよけい固まって熱が出るのです。

これは万物一切の物質はそういう順序を経て浄化するのです。

ですから中途半端でなおすということはあるにはありますが、それは毒の性質と、その時の体の状態によっては、固まらないで溶ける場合もあるが、大体の原則として固まって溶けるのです。

ですから肩が凝って苦しいという時に浄霊すると、かえって肩が凝ったり固まったりすることがありますが、その意味を知っておくとよく分かりますから、まごつくことはありません。」




明主様御教え 「スポーツ医学」 (昭和18年10月5日発行)

「本医術よりみたるスポーツについて説いてみよう。

この事は頗(すこぶ)る重大問題であって、政府も専門家も未だ発見されない所に大いなる危険が伏在しているのであるから、注意すべきである。

スポーツなるものの本来の目的は、言うまでもなく体位の向上にあるのであるが、

私の発見によれば、現在行われつつあるごとき方法においては、益よりも害の方が多いかも知れないと疑わざるを得ないのである。


そうしてスポーツについて、最も不可である点は、一人にして一種類に限る事である。

勿論、競技というからは優越者たらんとするのは人情であり、そこに興味が湧くのであるが、

この様な結果はいかになるやというに、さきに説いたごとく保有毒素は神経の集注部即ち動作の力点部に集注するものであるから、どうしても一局部に集溜し易い訳である。


右について、私の経験によってみたる二、三の例を挙げてみよう。

まず、水泳選手をみるに、これは両肩部の頚腺部に接した局所へはなはだしい毒素溜結がある。

これは、水泳における動作の為であるから止むを得ないのであるがこの結果はいかになるかというと、

ある時期に到って浄化作用が起り、右の毒素溜結に微熱が発生し、咳嗽と喀痰が伴うので、医家の診断は肺結核の初期とするのである。

右のごとくであるから、水泳選手にして、選手をやめてから肺患に罹り生命を失うものがすくなくないのは、右の理によるのである。

又、ゴルフ愛好者は、必ずといいたいほど腎臓疾患があるのである。

これは勿論、腰に最も力を入れる以上からで、腎臓部に毒素溜結するのであって、私は治療時代、社会的地位のある人に多かったのである。

その他、マラソン選手が心臓肥大症になる等は周知の事実であるが、いずれにせよ、競技的スポーツは、当路者においても考慮しなければならない重大問題であろう。

この意味において、一種目に偏せず、全身的に均等の効果ある方法を研究しなければならないと思うのである。」 (「明日の医術 第1編」より)




明主様御教え 「スポーツマン早死の理由」 (昭和28年1月28日発行)

「今日世間で最も不思議に思っていることはスポーツマンの人達が割合早死である事である。

何しろ体育協会の会員であり、体育については常から出来るだけ錬磨しているにかかわらず、右のごとくであるとすれば、ここに疑問が生ずるのは当然である。

特に結核の多い事も衆知の通りであるが、これに関して医学の方でも全然分らないで困っているようだから、私は根本原因をかいてみよう。

これは私の経験にもよるのであるから、絶対間違いないと思って貰いたい。


まず体格を見ると、右とか左とかのある局部に必ず毒素の固まりがある。

それは何がためかというと、運動の場合姿勢が一定しているからで、その一点へ力が集るという訳で、そこへ毒素が集まり固結が出来るのである。

私が常に言っているように、毒素は神経を使うところに寄るという意味に外ならないのである。

ところがその固まりへ浄化作用が起り、発熱で溶け、咳が出、痰が出るので、それを医師は結核と診断するのである。

しかしこれも放っておけば必ず治るのであるが、色々な浄化停止手段を行う結果段々悪化し、ついに不帰の客となるのであるから困ったものである。

この点からいっても一日も早く現代医学の迷蒙を霽(は)らし、真の医学を確立したい念願に燃えている吾々である。」