腎臓医術について


明主様御教え 「腎臓医術と若返り法」 (昭和22年2月5日発行)

「本医術は一言にしていえば腎臓医術ともいえるのである。

さきに詳説したごとく、病原としての毒素然毒、尿毒、薬毒の三種で、

その三毒が最も作用する局所としては腎臓である。まずその順序を説いてみよう。


人間がこの世に生を享けるや、既説のごとく先天性毒素としての然毒が、まず背面腎臓部に集溜する。

嬰児といえどもほとんどは背面腎臓部に相当の毒素を保有している。

幼児の起き歩きの後れる原因もそのためである。

そうして人間は成人するに従い、然毒の凝結圧迫により腎臓は萎縮し余剰尿が溜結、

なんらかの病気発生となり、それの浄化停止のため薬毒を使用する。

すなわち以上三毒の圧迫加わり、腎臓はいよいよ萎縮する。

元来 腎臓はホルモンの製出と、生理的残渣(ざんさ)を尿によって排泄するという重要機能である以上、

腎臓萎縮は全身的浄化微弱とホルモンの欠乏を促す。

その結果としての老衰は免れ得ない。

この理によって人間の元気旺盛なるは腎臓機能の活発によるのであるから

人間の強靱なる健康こそ、全く腎臓の強盛に正比例するのである。


腎臓が完全なる活動状態となるにおいて、まず全身が軽くなり挙措(きょそ)敏捷となる。

頭脳は明晰となるから能率は増進する。

仕事に当って倦(う)む事を知らず、かつ困苦に堪え、万事楽観的となり、常に爽快感を保つから怒る事を厭(いと)い協調的となる故、

人から敬愛され、成功者となる訳である。

また婦人にあっては浄血の持主となるから著しく美を増し、不断の快感は接する人に好感を与え、ホルモンの増加は著しい魅力を発揮する。

故に夫婦は円満となり、家庭内の風波は起り得なくなる。

また老年者といえどもまず二十年は若返るであろう。

その結果として普通九十歳以上の長寿者となる事は敢(あえ)て難事ではない。


私は、人類の腎臓を完全たらしむるにおいて病者の絶滅、出産の増加はもちろん、戦争の絶滅をも期し得らるる事を信ずるのである。

何となれば完全なる腎臓は完全なる健康体となり、完全なる精神を持ち得、

完全なる精神の持主は闘争を厭い、平和を好み怠惰を厭い、利己愛を捨て、すべて常識的に事を処理するというようになるからである。

私は思う。本医術を他所(よそ)にして世界の真の平和の実現は得られないであろう事を。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「腎臓医術と若返り法」 (昭和18年10月5日発行)

「本療法は一言にしていえば腎臓医術といってもいいのである。

さきに詳説したごとく病気の原因としては然毒、尿毒、薬毒の三種であるが、

その三毒が最も作用する局所としては、腎臓に如くものはないのである。まずその順序を説いてみよう。


人間がこの世に生を享けるや、先天性毒素として最も病原となるのは然毒であるが

それはまず最初、背面腎臓部に集溜するのである。

勿論、嬰児といえども大抵はそうである。又世間よくある起歩きの後れる幼児は、右のごときが原因であるから、

それを治療する事によって容易に治癒するのである。

そうして人間は成人するに従い、腎臓部に三毒素溜結し、漸次固結が増大するので、

その圧迫によって腎臓は萎縮しさきに説いたごとく余剰尿が滲出し、右の固結に追増するのである。

従って、腎臓は益々圧迫されるから、それだけ余剰尿の増加となり、いよいよ固結が増大する。

その結果として余剰尿は漸次的に背部脊柱の両側に向って移行集溜し、なお上昇して肩の凝りとなり、

頸部の周囲より頭脳は勿論、眼、耳鼻、歯齦、咽喉部等に及ぶのである。

又 人により胸部の周囲、腕の付根、胃部、肝臓部、腹膜等にも及び、なお下降して脚部にまで及ぶのである。

この場合勿論神経集注個所程集溜する事はさきに説いた通りである。

かくのごとく、腎臓障碍が原因となって、あらゆる病原となるのであるから、

何よりもまず、背面腎臓部の固結を溶解除去しなくてはならないのである。

かくする事によってあらゆる疾患は治癒に向うのは当然である。


ここで、平均浄化作用について知っておく必要がある。

それは毒素溜結せる一局所を溶解除去するにおいて、

他の毒素溜結部は右の浄化状態と同様の状態に平均すべく、自家浄化作用が発生する。

勿論自家浄化作用であるから、発熱又は痛苦を伴うのである。

従って根幹的原因である腎臓部が浄化されるにおいて

枝葉的に他に分搬せられいる毒素は、平均的自然浄化によって、全身的に疾患が治癒さるる事は必然である。

この理によって、腎臓の活動を促進さす事こそ、

あらゆる疾患を治癒させ健康を増進させる唯一の方法である。


故に、腎臓部の障碍が除かれ、活動旺盛となるにおいて、幾多の好影響が表われ始めるのである。

その最も著しき現象としては若返る事である。少くとも拾年ないし二拾年は若返るのである。

それはいかなる訳かというと、腎臓なる機能は尿によって体内毒素を処分する以外、ホルモンを製出するものであるからである。

今日医学においてホルモンを外部から注射等によって注入するが、これらは一時的効果に幻惑させるのみで、反って腎臓を弱らすのである。

ちょうど外国品を輸入する為、国内工業が萎靡(いび)するのと同様である。

この意味において、輪入品よりも遥かに優秀なる国産ホルモンを無限に製出なし得る本療法の効果は、まことに偉大なるものと思うのである。


右の結果として、元気旺盛となるは勿論、爽快感が湧出し、楽天的となり、人生観は一変するのである。

従って、怒り、癇癪(かんしゃく)、短気等の性格は消え、親和協調的となり、

愉快に仕事に従い根気が続くようになるから、能率が非常に増進するのである。

かような事をいうとあまりに牡丹餅で頬辺をたたかれるようであるが、私はいささかの誇張もない事を言うので、

何人といえども実験をすれば詐りでない事を知り得るのである。

故に、私は常に想うのである。

日本人の腎臓が健全になるとすれば、

まず何よりも能率増進によって生産の増加となり、

悲観や憂欝的人間が減少するから社会は明朗化し、人々は生活を楽しむようになるのである。

この意味において、この腎臓医術こそ、百万語のお説教にも勝る心身改造法であるといっても過言ではないのである。


次に、平均浄化について、今少しく説く必要があろう。

前述のごとき平均浄化が次々起るにおいて、ちょうど毒結のある個所を、身体が指示するごとくであるから、

毒素のある個所は結局において全部判明し、全部治癒するのであるからそれによって完全健康体となるのである。


次に、本療法を初めて受けたる患者が、翌日あたり、往々だるい場合があるが、

それは治療した個所ではなく、治療しない個所に平均浄化が起るので、それは微熱であるからだるいのである。

故に、前日治療しない個所を治療すれば、全く治癒するのである。


次に、近来当局において一般国民に対し「胸を張って歩行せよ」というが

腎臓を完全にすれば自然的に胸を張るようになるのである。

故に若くして胸を張れないものや年とって腰の曲るという原因は、

ことごとく尿毒が背部又は腰部に固結するその為であるから、今日いかに胸張り宣伝をなすといえども、腎臓を健全にしない限り、

人為的に無理を強行する事になるから苦痛となるので、一時的効果はあろうが永続性は乏しいものとみなければならないのである。

この点においても、我腎臓医術の効果は大なりというべきである。」 (明日の医術 第二編より)




明主様御教え 「本医術の施法」 (昭和18年10月5日発行)

「本医術は、腎臓医術であるという事は、さきに説いた通りである。

従って、施術の場合、頭脳、首、肩を治療

次に患者を俯臥(うつぶせ)させ、

左右の腎臓部を掌と手指を以て、毒素の多少を探査するのである。

今日の日本人で、この腎臓部に毒素溜結のない者は一人もないといってもいいのである。

そうしてこの毒素は有痛と無痛とあるが、無痛が多いのである。


そうして最も重要なる個所としては、脊柱と末端の肋骨との中間即ち三角形を描けば、その中心点にあたる所及その下方である。

その部が柔軟で手指で圧して凹む位ならば良いのであるが、

そういう人は恐らくないのであって、

大抵の人は広範囲に固結しており、はなはだしきは反対に隆起している人さえあるのである。

それは勿論、余剰尿の固結であるが、

それが上方に向って脊柱の両側に移行しており、特に肩胛骨と脊柱との間に多量の固結があるものである。

この固結は、胃に関係があるので、特に溶解すれば胃の活動を促し、食欲は増進するのである。

従って、胃癌の患者に対しては、この固結溶解によって好結果があるのである。

又、腎臓部より下方に向って腰骨部まで毒結は移行しており、

特に腰骨に接触して毒結のある場合、多くは脚部に異状があるもので、これを溶解すれば、よく治癒するのである。


右のごとくであるから、まず腎臓部の治療を第一とし、背部より肩胛骨部を第二とし、その他は第三の順位にすれば良いのである。

又一般に、右側腎臓部の毒結が多いのであるが、左側のそれも重要である。

ただし、盲腸炎の原因は右側の萎縮腎である。


そうして、腎臓部の毒結を溶解するにおいて溶解毒素は腎臓内に浸潤し、尿と共に排泄されるのである。

蛋白とはこの溶解毒素であるから、この際 尿中には、多少の蛋白がある事は勿論である。

従って、腎臓部の毒素溶解するだけは、体内のあらゆる病患は、平均的自家浄化作用の発生によって、能く治癒するのである。


又、腎臓部の毒素溶解は、他の局部の毒結溶解が容易となる事は驚くべき程である。

又、腎臓の完全なる活動は、全身的浄化力が頗(すこぶ)る旺盛となる事である。

故に私は、人間は腎臓さえ健康になれば、あらゆる疾患は治癒すると共に、

心身共に、健全となり、幸福と長寿を得るのであるから、

実に不可能とさえ想われたる人類の理想が、ここに現実化したと言ってもいいであろう。

故に、この腎臓医術の発見こそ、人類史上、空前の大発見であると、私は想うのである。


次に、ここに注意すべき事は、化膿性腹膜の患者である。

これは、腎臓部のみ治療する時は多くの場合、平均浄化が発生して腹痛及下痢を起す事があるから、

こういう患者に対しては、腎臓部と共に、腹膜部も治療しなければならないのである。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「罪穢と病気」 (昭和18年10月23日発行)

「この問題を説くに当って断わっておきたい事は、ある程度宗教的に思われ易いのであるが、私の説く所は宗教的ではなくむしろ道徳的と思うのである。

しかし、罪穢という言葉そのものは宗教家がよく用いるが、それは仮説でもなく作為的でもない、全くの事実である事は、以下私の所説を読めば肯かるるであろう。


前項に述べたごとく、人は悪を想い、悪の行為を重ぬるに従って、それだけ霊体に曇が増量し、漸次その濃度を増すのである。

しかるに、右の濃度がある程度に達すると、自然的解消作用が起るのである。

勿論、厳とした霊界の法則であるから止むを得ないので、いかなる人といえども免るる事は出来得ないのである。

そうして右の浄化作用の多くは病気となって現われるものであるが、時としては、その他の形となって現われる事もある。

しかるに病気の場合いかに医療をつくすといえどもいささかの効果もないのは、それは霊的原因に対するに器械や薬などの物質で解決しようとするからで、全然見当違いであるからである。

又この場合神仏に祈願を籠(こ)める人もあるが、それは多少の効果はあるものである。

勿論神仏の本体は霊であるからその霊の恵みによって幾分の曇は軽減するが長年積み累(かさ)ねた罪穢であるから神仏といえども否正しい神仏であればある程公正であるから、軽苦では済まされないのである。

これをたとえていえば国家の法規に触れた者は、いかに悔悟歎願するといえども全然赦さるるという事はあり得ない。

ただ改悛の情顕著なる者が罪一等を減じ得らるる位である事と同様である。

しかしながら、自然浄化作用が発生するより以前に浄化作用が起る場合がある。

その際は比較的曇が濃度に到らない為浄化作用が軽く済むのである。

これはいかなる訳かというとある動機によって悔改めるという場合である。

右の動機とは、宗教的説話や聖書のごときもの、又は先輩や名士の経験談や言説、偉人の伝記等によって精神的に覚醒する事である。

この意味において人間の魂即ち良心を喚び覚すべきものとして、良き書籍及び講演、良き映画や演劇等の必要なる事は言を須(ま)たないのである。


右のごとく、人間が覚醒する場合、霊体にいかなる作用が起るかを説いてみよう。

本来、人間の霊体はその中心に心があり、心の中心に魂があって、三段になっているのである。

そうして魂本来は良心そのものであるが、断えず外界からの影響によって曇らされるのである。

即ち、魂本来は日月玉のごとき光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである。

故に、明鏡止水のごとき心境にあれば、魂は晴天の日月のごとく輝くのである。


右のごとく人間が覚醒するという事は、睡眠状態であった魂が、豁然(かつぜん)として輝き出す事である。

その手段として今日までは、右に説いたごとく、説話や読書等の道徳的手段があるのみで、

それによってまず魂が覚醒し輝き出すから心の曇が解消し、次で霊体が浄化さるるという順序である。

右によってみるも、魂・心・霊の三者は、常に明暗の状態が平均しているのである。


しかるに、私は腎臓医術の項目において、百万語のお説教よりも、腎臓を健全にする方が効果があると言ったが、

それはいかなる訳かというと、前述のごとき道徳的手段を要しない事であるばかりか、

道徳的手段においては、百パーセントの効果は期し難いが、本療法によれば百パーセントの効果があるのである。

それは前述のごとき道徳的手段においては、まず魂を覚醒させ、次に心及び霊体が浄化さるるのであるが、

本療法においてはこの反対であって、外部からの施術によってまず霊体が浄化され、それによって心の曇が解消し、否が応でも魂は覚醒する事になるのである。

又、道徳的手段によって魂や心が覚醒する場合、本人自身は克己的苦痛が伴うと共に、それが霊体に及ぼし、病気その他の苦しみを受けなければならないが、

本療法は、疾患が治癒しながら知らず識らずの裡(うち)に魂が覚醒するのであるから、理想的心身改造法というべきである。


右のごとく、霊的浄化を発生さすその根源としての機能が腎臓であるから、腎臓の活動を促進さす事こそ、心身改造の根本である訳で

彼の神道における祓戸四柱(はらいどよはしら)の神の活動が、人体においては腎臓に相応すると想うのである。

さきに説いたごとく心臓は日であり、肺臓は月であり、胃は土であり、天地間の汚濁を清める神が祓戸の神であるとすれば、

腎臓は左右及び副腎と合せて四つあり、祓戸の神も四柱あるにみて、意味がないとはいえないであろう。」 (「明日の医術 第3編」より)




明主様の御教え 「腎臓炎乃至腎臓病」  (昭和28年1月1日発行)

「腎臓という機能は、尿の処理機関であるのは誰も知っているが、

この病気は初め薬毒が背面腎臓部に溜り固結するので、

これが腎臓を圧迫し完全に尿の処理が出来なくなる。

すなわち萎縮腎である。

このため余剰尿は腎臓膜を滲出し、全身に氾濫する。

これが浮腫(むくみ)である。


ところがこの余剰尿は局部的に固まって種々の病気となる。

その中一番多いのが首肩の凝り、頭脳の病、耳、眼、鼻の病が主で、

驚くべきは歯槽膿漏の原因もこれであるから、考えたら不潔極まるものである。


また右の固結が浄化のため発熱する場合、これを腎臓炎というのである。

また腎臓結核は非常に痛む病気で、重症になると血の混った尿が出る事がある。

これは薬毒によって腎臓壁に腫物が出来、そこから膿と血が滲出するからである。


また腎臓結石は最初胆石病の胆石の小粒が尿に混って流下し、

腎臓内に停滞するうち尿素が付着して段々大きくなり、

これが膀胱の入口または出口につかえ、尿が閉止する事がよくある。

そのため下腹部が浮腫となり、増大してどうにもならなくてついに死ぬ人も往々あるのである。


ここで注意すべきは、医学では腎臓病の場合尿中の蛋白を恐れ、塩分を禁止したり牛乳を多量に飲ませたりするが、これはナンセンスである。

というのは蛋白とは実は前記のごとく浄化によって溶けた尿素であるからで、

蛋白が出る程いいのである。

従って蛋白が出切ってしまえば、完全に治ってしまう。

医師諸君においても、今後試して貰いたいと思うのである。」 (「アメリカを救う」より)




明主様御教え 「人口問題と本療法」 (昭和18年10月5日発行)

「本療法が一般に行われるようになるとすれば、現在国家が最も憂慮しつつあるところの人口低下の大問題が解決なし得るという事である。

元来、不妊症はいかなる原因であるかというと、全く前項に述べたごとく、

腎臓萎縮によってホルモンの欠乏となり、ホルモンの欠乏は、性的劣弱化するのであり、

それが妊孕(にんよう)力低下の真因である。

勿論女性ばかりではない。男性も同一である。

特に女性にあっては萎縮腎の為、尿毒が腹膜に固結し、喇叭管(註 卵管のこと)を圧迫したり

又は前屈後屈等、子宮の位置を変移する事になるから受胎に支障を及ぼすのである。

右のごとくであるから、不感症や夫を忌避する女性等は、ことごとく萎縮腎の結果である。


医学において子宮の発育不全というのも、勿論、それである。

故に、腎臓が健全になれば、必ず妊娠すると共に、夫婦相和し、家庭争議や離婚等の忌わしき問題は著減するであろう。

私は、自画自讃せざるを得ないのである。本医術を外にして、人口問題解決の鍵は絶対得られない事である。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「医学不明の流行病」 (昭和18年2月5日発行)

「近来、我国民の中年以上の男女に特殊の疾患があって、それは現在相当多いのであるばかりか、漸次増加の傾向さえ認めらるるのである。

そうしてこの病患は医家が診断するといえども更に判明しないので、医家は病患はないというのである。

にも係わらず本人は非常に苦痛であるが、いかんともし難いのである。

症状はといえば、全身倦怠、頭重、肩首の凝り、物にうき易く、根気がなく、何事も気が乗らず、

不快感の為、怏々(おうおう)として楽しまず、無為にして日を送るという実に哀れむべき症状である。

しかも外見上、健康そうにみゆるので、周囲の者からは横着のごとくみらるるという訳で患者はなおさら苦痛なのである。


しかるに、右のごとき症状は、ことごとく萎縮腎が原因であって、患者の腎臓部を検するに巨大なる毒素溜結があり、

又 脊柱の両側、肩、頭、淋巴腺付近、全頭部、腹膜部等にも尿毒の溜結が相当あるのである。

故に、腎臓部を第一とし、その他各部の浄化法を行うにおいて、毒結減少と共に漸次苦痛は軽減し、

ついに溌剌たる元気を取戻すのであるから、患者の喜びはたとえようがない位である。

この症状は、中流以上の人に多く、殊に婦人に多いのである。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「種痘は如何にすべきや」 (昭和18年10月5日発行)

「私は、国民体位の低下と、あらゆる病気は種痘が主なる原因であるという事を説いたのであるが、

しからば、種痘を直ちに廃止すべきやというに、それは勿論困難である。

何となれば、せっかく天然痘疾患を免れ得ている現在の人間が、再び天然痘に罹病するという事は、堪え得られぬ苦痛であるからである。

この意味において、私は漸減的方法を採ればいいと思うのである。

それはまず薬剤の廃止を行い、人間から薬毒を漸減せしむる事である。


勿論、本療法を施行すれば早いが、そうでなくとも自然によっても漸減する事は言うまでもない。

そうして人間の体位向上に比例して種痘を減少するのである。

それは毒素の有無によって明かであるから、その毒素の有無を確実に知る方法があればいいのである。

しかるに、それを知る方法としては、本医術を修得すれば、何人といえども容易に発見し得らるるのである。

そうして腎臓医術の項目に詳説したごとく、腎臓の活動を完全にするにおいて、

いかなる毒素も排泄され得るのであるから、天然痘毒素といえども解消する事は勿論である。

右のごとくにみて、種痘廃止という問題も、左程困難でない事を知るであろう。」 (「明日の医術 第1編」より)