浄霊は輸血
明主様御教え 「浄霊は輸血なり」 (昭和28年御執筆)
「今日医学では輸血をもって治療上不可欠のものとなし、血液銀行などといって、
人間から絞った血液をその銀行へ貯蔵するという、
吾々から見ると嗤(わら)えないナンセンスである。
この原因は全く唯物科学の無力からであって、
血液は霊の物質化という真理を知らないからで致し方ないが、
これについて私はいつもいっている通り、
一回の輸血量と五分間の浄霊と同様の効果であるから、
浄霊こそ最も進歩した輸血法ともいえよう。
ところが今度その好適例(省略)が、左の通り報告された。
それはこの患者の病気は、名古屋医大において日本には二つとない奇病で、
医学では手の付けようがないといわれ、突っ放されたのである。
というようにこの病気は最も悪質な貧血症である。
それ程の難症が浄霊によって快復したのであるから、全く世紀の奇蹟である。
私は現代医学は子供騙しにすぎないと常にいっているが、むしろそれ以上かも知れないと思う。
なぜなれば無力どころか、有害な存在といってもいいからである。
これは余りに酷い言い方かも知れないが、これが実際であるから仕方がない。
もし右の言が信じられないとしたら、一度本教へ来って検討してみられん事である。」
明主様御教え 「輸 血」 (昭和25年2月11日発行)
「最近、千葉医大田坂定孝博士が輸血代用として乾燥血漿療法を発見したという事で、
非常に価値あるように新聞に伝えられていたが、
以前アメリカにおいても同様の発見があって、
輸血医学上、この乾燥血漿は第二次世界大戦には実用化されて盛んに使用されたとの事である、
今回田坂博士発見のものは、それに優るようであるが、吾らからみれば問題にはならない、
何となれば吾らが行う浄霊は二○○グラムくらいの輸血と五分間の浄霊と同量、またはそれ以上の効果を上げ得るからである、
従って医学で有難がっている輸血が、人間の血液を消耗したり、乾燥貯蔵やその他の手数は全然要らないのであるから
医学に比べて、まず一世紀くらい進歩したものといっても過言ではあるまい、
そうして右の理由は簡単である、元来 血液とは霊の物質化であるから、
出血または貧血の場合同様霊も稀薄になるので、これを濃度にすれば血液は増量する
かような素晴しい輸血法がはなはだ手近に完成しているにかかわらず、
それを知らしても信ぜず、相変らず未開人的方法に恋々(れんれん)としているのであるから気の毒でもある、
もちろん霊の存在を信じない唯物科学の盲信であるとしたら、
この跛行的(はこうてき)文化に一日も早く目覚めさせたい事を念願するのである。」
明主様御垂示 「浄霊は霊的輸血」 (昭和24年4月4日)
信者の質問
「輸血というものはだいたい生命が危急の場合使用し、ある程度効果があるように言われますが、やはり罪になるものでしょうか。」
明主様御垂示
「罪にはなりませんが一時的なもんですよ。
いずれ治ってから浄化作用を起しますよ。
輸血した血は決してその人の血とは混じりませんからね、
やがて痔の出血だとか、喀血だとかして排除されますよ。・・・
この御浄霊というのは霊的輸血ですよ。
これが本当の輸血ですよ。
血液の霊化したものがこれ(御浄霊)ですからね。
だから五分くらい御浄霊すれば、二百グラム輸血するよりも血が多くなりますよ。
出血が多いと霊が希薄になるんですが、御浄霊で霊を足すと血ができるんですよ。
だから息の絶えたのが、御浄霊で生き返るってことがよくあるんですよ。
あの輸血っていうのは管で血をとるんですからね、あんまり文化的ではありませんね。
手術だって、悪い所を切ってとる、それだけですからね、ほかにはなんにもないんですから。
手術すれば痛いし、そこに欠陥がどうしたって生じますからね。
ただ文化人は器用でね、細工がうまいんですよ。
だから「医学の進歩」と言われるのは「技術の進歩」ですよ。
それを本当に「進歩」だと思っている文化人の頭は情けない頭ですね。
だからね、御浄霊で病気が治るってのは、実にすばらしい文化ですよ。
で、私は、これは二十一世紀か二十二世紀の文化だって言うんですよ。
それくらい先に進んだ文化だから、二十世紀の人間にはあんまり程度が高すぎて迷信だとか邪教だとか言われるんですよ。
あの解剖や手術なんかは残虐なもんですよ。少しでも人間性のある者には見られませんよ。
その結果、生体解剖なんかが起るようなことになってしまうんです。
いま、アメリカで一番心配しているのはソ連が細菌爆弾を持っていて、それでやられやしないかってことですがね、あんなのちっとも心配いりませんよ。
いまにアメリカにもこの道を宣伝するつもりですがね。
黴菌が入ったってそれが繁殖しないような体にすりゃあいいんじゃないですか。
建築なら燃えないような建築にすればよい。それでいいんですよ。
われわれのほうではその不燃性家屋ができるんですからね。(笑声)
この間もアメリカ人が来たんで、伝染病なんかちっとも怖くないって話したんですよ。
お望みとあれば細菌を飲んでみせるって言ったんですよ。
私は精神でなんだからと言われるんなら、私の家族でも、だれでも飲ませるからいつでも実験してください、と言ったんですが、ビックリしてましたよ。」
明主様御垂示 「輸血としての浄霊は心臓をやる」 (昭和26年10月1日)
信者の質問
「左のような急を要する場合に御浄霊の急所はどこでございましょうか。
子宮癌や切傷等にて大出血し、脈が微弱になり苦悶の状態にある時。」
明主様御垂示
「子宮癌で出血ということはないんですがね。
これは月経の血の固まりですね。
それが溶けて出血するんですから、気を失うほどのことはないですね。
切傷などの場合は心臓で良いんです。
浄霊は・・・いつも言う通り輸血ですからね。すばらしい輸血です。
ふつうの人間から二百グラム輸血するより、これ(浄霊)で五百グラムや八百グラムはなんでもない。四、五分やれば良い。
輸血の方は心臓をやれば良いから、やはり心臓をやる。すばらしい効果がある。」
明主様御垂示 「輸血は罪か」
信者の質問
「輸血は大体生命が危急の場合使用し、ある程度効果があるように云われますが、やはり罪になるものでしょうか。」
明主様御垂示
「罪にはならぬが、いずれ浄化が起る。
霊的輸血が一番である。血液の霊化が霊気である。
五分間浄霊する方が体的輸血よりズーッと多く血が入る。
霊を足すから血が出来るのである。
医学などは蕃人のやる事で、文化人は器用にやるだけである。
外科医は職工である。単純な野蛮人的考え方以外の何物でもない。
アメリカではソ連の細菌爆弾を恐れているが、侵される身体であるからで、不燃性家屋なら燃える心配はない。」
明主様御垂示 「輸血と混血」 (昭和24年6月27日)
信者の質問
「危篤状態の時輸血を致しますが、霊的には何等関係はないものでしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「霊的の関係はあるが、一時的で反って病気の原因になる。
血液は霊の物質化で、顔の異(ちが)うごとく血は皆違う。輸血しても、少しは混るが決してその人の血と混る事はないので、暫く経つと大体血の排除作用が起る。
浄霊は大変な輸血となるのである。
輸血は普通二百グラムであるが、普通の輸血は浄霊五分間位で出来る。
血は霊で、霊が殖えると血は殖える理である。」
明主様御垂示 「輸血の効果」
信者の質問
「輸血は実際にいくらか効果のあるもので御座居ましょうか。」
明主様御垂示
「いくらか効果はあるが、確かにありとはいえぬ。
一時効果があって助かるとしても、先へ行けばその異物の浄化が起る。
神の輸血の方が効果がある。
光は血の霊である。血液は体である。」
明主様御垂示 「輸血の浄化」 (昭和23年11月24日)
「最近の新聞で、輸血した結果、梅毒になった記事が載っていたが、これは浄化が激しくなって来たのである。
人間は顔の異るように輸血しても血は混らないから、それが斑点と表われて、梅毒症状となったのである。浄化の激しくなった結果である。
京都の注射事件も実際数は三、四千人である。大阪日赤病院の製造である。
浄化は昭和六年頃から始まった。来年位は激しくなるだろう。」
明主様御垂示 「輸血について (血液の種類)」
信者の質問
「医学では血液に四つの型があるとし、重態の際輸血致しますが、これが適否を御説明下さい。
また、先般貧血症の少年を浄霊し大変よくなりましたが、
最近再び強い浄化を戴き、親も驚いて一旦中止したる医療をやり輸血したところ、
二、三時間後猛烈に悶え苦しみ、遂に寝ておれないような状態になり一、二時間後にやっと落着きました。
これはいかなる理由でありましょうか。」
明主様御垂示
「血液は何億とある。顔形が違うごとく血液も皆異う。
馬の顔なども大変異うというが、血液も全部異う。
輸血などもたんと異わぬのは暫くは何ともないが、沢山異うのは浄化が起る。
浄霊すると一人の分だけの輸血は二、三分やれば出来る。
血液は霊の物質化であり、血液が少くなれば霊が薄くなる。
浄霊は霊の輸血と同じ意味になる。
しかも霊は上等の血液であるから、霊が濃くなるから浄化が起って新陳代謝が行われる。」
明主様御垂示 「輸血の罪について」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「輸血の場合には供出するほうと受けるほうとは、どちらが曇るわけでございましょうか」
明主様御垂示
「しかしたいしたものではありません。
もし受ければ医者が罪を受けます。
だから名医ほどその系統というのは悪いです。とても不幸です。」
専従者の寄稿 「浄霊は輸血なり (血液のいれ替え?)」 槐安 (昭和28年5月13日発行)
「「HY(註 女性の名前) ヨウダイワルシオジ ヨウレイネコ ウ」その人が滞在している旅館と、所在地まで書いてある長い電文を見て、私は途方にくれた。
というのは、いつぞや、このHYという婦人が敗血症で、そのうえ紫斑病という、世にも稀れな難病を患らっていたが、
浄霊で快方に向い、通れあいと一緒に商用で上京しているがもし先生のお宅へ伺うような事があったら、その節は宜敷くお願いする。
との手紙が教会の先生から来ていたからである。
容態悪し、お浄霊ねごう。電文にもう一度めを通うしたが、敗血症、紫斑病・・・という、その人の病名を知らされているだけに、思わず弱った。
と悲鳴に近い歓声をもらした。「その方、三十三の厄年だそうですね。」電報を見ながら家内が云った。
三十三の厄年。ふだんは全然気にも掛けた事のない厄年が、こと更に私を悪い方へ連想させた。
「弱ったなあ・・・行かない訳にもゆくまいし。」
電報を片手に旅館を探しにゆく私の足は重く、気持もまた重かった。
Hさんが入信したのは昨年の八月、私が自然耕作普及のため東北地方を遍歴したとき、会長先生からお守様を戴き入信した。
と聞いている。その頃、軽微な腹膜炎を患らっており、歯ぐきから微かに血も出ていたそうであるが、
実家の母親に勧められてお守様だけは頂戴したものの、救世教の何たるかも知る事なく、浄霊をうける気持ちにもなれず、
やがて大量の吐血があったので急遽、弘前の病院へ入院した。
病名は敗血症。毎日、三百CCぐらいずつ吐血し続けたので、二百CCの血液を二度にわけて一カ月輸血したそうである三百CCの吐血に対してする二百CCの輸血。
巧くいっても百CCずつの血が減ってゆく勘定になる。
しかもこの輸血は、初期の頃には確しかに効果があったが、度重なるに従って次第にその効果が薄れてゆく事は、病人自身に良く解ったそうである。
宿痾の腹膜も悪化して全身が腫み、医師も遂に最悪の場合の覚悟を家族の者に促がすに至った。
Hさんは、病院で死にたくない。という気持から医師のとめるのを拒絶して退院し、
それ以来、弘前支部の進藤先生に浄霊して貰い、無き生命を神様の手に救われたのであった。
病院で死の宣告を受けたHさんが、メシヤ教で救われた。
という噂さは、たちまち狭い村じゅうの話題となり、同村で三人の入信者が出来た事は、それだけで浄霊の効力が充分に証明された訳である。
医学に関する智識が皆無に等しい私は、敗血症とは何かの病気が原因となって起るもの、
助かる者は万に一人もあるかなし、それも幼児の場合に限られている。
紫斑病とは、毒薬を飲んで死んだ時に皮膚に現われる紫いろの斑点。
としか知っていない。浄霊するとしても、どこに重点を置くべきか。
弘前の進藤はどの個所を浄霊したのだろう。
こんな事になるなら、浄霊個所も訊いて置くのだった。・・・
電車の吊皮に掴りながら私は後悔のほぞを噛み、昔、一代の麗人と謳われた九條武子夫人も、敗血症で亡くなった事などが頭に浮んだりして、増々心細さを感じてくるのであった。
薄暗い旅館の一室に通されてHさんを見た瞬間、白蝋のような顔を見て、凄絶な鬼気とも云えるものを感じた。
二、三日以前から、身体を動かす度毎に、ガバ、ガバっと吐く濁った血が止まらず、弘前の教会へ電報を打って、私の来るのを待っていた。
という。下唇に三つ、手の甲には打撲傷のような紫いろの大きなアザが、いたいたしく私の目にうつった。
これが紫斑というものか?余りにも凄惨な病症に胸をうたれて、さき程までの弱った弱った。
の歎きもまったく忘れ去って、寿命があるものなら、何んとか助かって貰いたい。
という祈りに似た切実な気持を特つようになった。
浄霊も、貧血しているのでそこを主とし、病人が痛みを訴える腰部もした。
子宮も後屈してい、腰の堅さは一枚の板のようであった。
浄霊の力の素晴らしさは毎日々々、信者未信者を浄霊して知り抜いているつもりの私ではあるが、
この度の浄霊の偉効は、いつか、明主様が仰せられたお言葉―五分間の浄霊は輸血に勝る―という事を実地に見せられたのであった。
人間は誰でも太陽や、明るい電灯に手を翳せば紅い血の色が透いて見える。
HYの場合は、それが全然ないのだ。
ガバ・・・ガバ・・・と吐く濁った血の量を計算すれば、Yの身体に血の気の無くなるのは理の当然である。
それが、浄霊した後で電灯に手をかざすと、ほのかに血の色が見えてくるのである。
先生にお浄霊して戴くと、全身の毛細管から血が入ってくるのが解ります。
とYは云った。板になっていた腰は、数回の浄霊で普通の女の腰の柔らかさになり、痛みも軽くなったと彼女は喜んで礼を述べた。
黒みを帯びた血は、まだ歯ぐきから少しずつ出ているようであるが、貧血で頭が痛み、目まいがするのは浄霊の都度、軽くなってゆく。
紫斑の色もそれに比例して薄くなってゆくのは、私の目で確しかめられた。
医術でする輸血には己ずと限度がある。
と聞いているが、浄霊という霊の輸血であってみれば、この人の場合、回数の多い程いい事は解り切った事だ。
それには、いつも時間に逐われて暮らしている私が、一日に幾回も旅館に通う事は不可能である。
狭い汚ないところで、布団も家族の数にも足らないのだが、私の家へ引取って浄霊するのが一番だ。
と決心した。その人が助かるなら。・・・と家内も喜んで私の提案に賛成した。
しかしHさんは遠慮して来なかった。このぶんなら汽車で郷里へ帰えれます。
と、十日目に彼女は本州の北陸に位置してまだ雪の残っている村へ帰って行った。
衰弱しているあの身で長途の旅行に耐えられるだろうか。
心にかかったが、お守様の御守護がある以上、その心配はいるまい。
と私は私の心にいいきかせ、一路平安を神様に願ったのだった。
現在の医学では治せない難病中の難病である紫斑病敗血症のすさまじさは、
躯の組織が全部壊わされ、歯なぞも虫歯のようにボロボロと欠けて仕舞うのであった。
目に見えない躯の内部が、どれ程破壊されているかも、これで想像が付くというものである。
この恐るべき病気が、医学智識皆無の一介の市井人に過ぎない私が、明主様のお守様の力だけで治せた浄霊の力の神秘、偉大さには、
また改めて愕ろかせられ、なおかつ、いろいろと教えられるところが多かった。
敗血症そのものは薬毒のもたらした病気ではあるまいか?との疑いが生じた事が第一、紫斑病は副次的所産と思われた。
医師に死の宣告をうけ、進藤先生の浄霊で救われてから、二カ月以上も浄霊を受けなかった事は、いささか無理であったろう。
今回の吐血は、いわば第二の浄化で、病院で他人の血液を輸血したそれを、今、体外へ排除したのは、それに耐えるだけの体力が備わったからで、
神様が、その時期を与えて下さった。と考えていいであろう。
しかも、吐血した分量、いや、それ以上の血液は浄霊に依っておぎなわれたので、これは完全な血の入れ替え作業であったのだ。と感じられた。
いつか新聞で、子供の血を友達の血で入れ替えた。
という記事を読んだ事がある。長い期間入院して、莫大な費用を使い、痛い思いをし多勢の人手をかけて、やっと子供の血の入れ替えに成功した。
と喜んだのも束の間、五回目に死亡したという内容であった。
それが短時日の間に、しかもたった一人の浄霊で。・・・と思うと、私の唇から思わず快心の笑が浮かぷのであった。
敗血症と紫斑病が浄霊で治りましたか。医学では治らない病気ですが。・・・と、最近入信した、ある大病院の看護婦総監督さんが、目をみはって感嘆した。
新興宗教。まして薬毒を教えるメシヤ教を白い眼でみ、牙を向けてくる多くのお医者さん達がこの驚くべきメシヤ教の大奇蹟を知り、Yが治った事実を医学的見地から検討してみて、
なお、かつ、メシヤ教の教える真理、薬毒と浄霊に異議を挟み、非難する余地があるか、どうか、これは面白い見ものである。」