浄霊と順序について
明主様御講話 「浄霊の時も順序に注意せよ」 (昭和26年8月28日)
「人間の個人としてもやはり順序がある。
だから私は、順序だけはやかましく言いますが、浄霊の時もそうです。
一番先に重病人をやり、それから軽い人にいくか。
来た順序にするか。来ている人の年とった人からやる。
それから、男と女だと、男を先にする。そうすると治りも良い。
現界で順序をはずすと、霊界がはずれてしまう。
そうすると、それが現界に写るから、どうしても滑らかにいかない。
だから、なにかやるとかという時は順序を注意するようにする。
いつも言う通り、その時の目的によって、神様に対する物事は一番先にしなければならない。
神様の所に行く時に、他の用事をしてから行くといけない。
そうすると人間の用事が先になり、神様の方を下にみることになる。
そういう時は、むしろ神様の方に行かない方が良い。
そういうことについてつまらないことですがーいつか、私が玄関から出ようとすると、叔母が横切った。
それで車に乗ったが、叔母も乗ったが、車が走り出すと、それがとても気持ちが悪い。
それで、伊豆山から水口まで後戻りして一度家に入り、それから改めて東京へ出直した。
そういう時にそのまま行くと、自動車に故障がある。
それは霊界が違っちゃうからです。
しかし、あんまりうるさくするといけないが、肝腎なことだけは心得ておくと良い。」
明主様御講話 「順序が違うと浄霊が効かない」 (昭和28年3月15日)
「それから今まで注意したことはありませんが、浄霊の順序は、一番は重病人を先にして、軽い方は後にするのです。
重い病人は特別に先にして、後は来た順です。それは公平の意味です。
ですから来た順にやるというのが原則で、ごく苦痛のある人だけは、並んでいる人に断って、
「この人は重いから先にやる」ということを一応断ってやればいいのです。
後は来た順です。それから家族の者やごく懇意な者で、来た順はかまうほどの必要がないと思うような場合には、年をとった人から先にやるのです。
それから夫婦で、たいして苦痛がなければ主人の方を先にし、奥さんを後にする、
というように順序を狂わないようにすると、なおりがたいへん良いです。
なおりがたいへん良いということもないが、よりなおるのです。
順序を乱すと、順序というものは霊界ですから、霊界を乱すことになるから、霊界に順序がつかないと順調に行かないのです。
これはなんでもないようなことだが、たいへんに影響があるのです。
なぜそういうことを言うかというと、昨日こういうことがあったのです。
私の奥さんという人は昔漢方薬の強いのをやったので、その薬毒というのはたいへんなのです。
時々浄霊をやってますから、年々減ってはいますが、
近ごろだいぶ溜まったからやったところが、変なことを言うのです。
あまりに理屈に合わないことを言うから変だと思って考えてみると、
その前に女中を浄霊して、それから奥さんを呼んだのです。
止そうかなと思ったが、時間がないから良いだろうと思ったのですが、
「そうだ、これは順序が外れたから変なことを言ったのだな」と思ったのです。
というのは、そうなると霊界では女中よりも下になるのです。
そういうことは注意しないと、実にはっきりしているのです。
順序がちょっと狂うと、なにかに差し障りがあるのです。
それは面倒臭いようなことですが、そうではないので、自然になっていくのです。
私は始終順序ということを言ってますが、気をつけようと思わなくても気がつくのです。
今度のお蔭話で、栄光に出しますが、そういうようなことに関して九州の坂井さんの話ですが、いろいろな例があります。
病気で、浄霊でどうもうまくいかない、それで気がつくと、
私の書いたものとか栄光新聞というものを調べると、ふつうの日刊新聞の下にあったり、はさまったりしているので、
これだなと思ってとると、病人が良くなるというので、実にはっきりしているのです。
それから私の書いたものですが、これはまた凄いのです。
その上にほかの物がのっていたりすると、とてもわけの分からない苦しみがあるのです。
昔、私が宝山荘にいる時分に、その部屋がどうも気持ちが悪いのです。
私も気持ちが悪いし、誰でもがそうなのです。
それでその部屋に行くと、みんな病気みたいになるのです。
それでおかしいと思ったが、どうも分からないのです。
ところがほかの人からもらった、ふつうの人間が書いた色紙が柱掛けにかかっていたのです。
それで気がついて、それをとってみると、その裏に私の色紙がはいっていたので、
これだなと思ってそれを外したら、それですっとしたのです。
今度のお蔭話にいろいろ書いてありますから読めば分かりますが、これは大いに注意することです。
それで病気になって幾日もなおらないのですが、分かってみると、すぐなおってしまうのです。
よく子供の病気などであります。それはなにかというと、順序が違うからです。
ですから私は家にいても栄光新聞は決して下におきません。
それから私の書いたものとか写真は決して下におきません。
それは人ばかりでなく、私自身もなんだか気持ちが悪いのです。
ですから順序くらい軽くみることができないものはありません。
これはやかましく言いますが、前にも話したとおり、部屋に坐るにも順序があります。
ところが、これもよほど考えてやらないと、無頓着ではいけません。
以前に、ある浄霊する人に、浄霊者はどうしても床の前に坐って、受ける人は次というか、
床の前を離れて坐らなければいけないと言ったところが、
その人はそれを直訳してしまって、初めての家で、信仰などぜんぜん知らない所で、誰がいようといまいが、床の前に行ってしまうのです。
それでそこの親戚がいて「あの先生はなんて無礼だ、人の家も自分の家もわきまえない」と、誤解されたのですが、これも困ります。
そういう場合には、そのとおりにやってはいけないのです。
そういう時には、人から変に見られないように、患者よりも下座にいる場合もありますが、そういう時は神様はお許しがあります。
そうして床の前に行ってもおかしくないという時には、行ってやった方が良いです。
部屋は奥ほど上座です。それから左の方が上座です。
それを臨機応変にその時に応じてやることです。
ですからなにごとにおいても順序が肝腎なのです。
これはやはり大自然を見習うのです。
どんなになっても、梅より桜が先に花が咲くことはないので、やはり大自然には順序があるのです。
ですから大自然を見習うということが信仰の根本なのです。
自然農法にしても浄霊にしても、根本は大自然です。
ですから順序というものは大自然を見習うことで、間違いないわけです。」
明主様御講話 「浄霊と順序」 (昭和28年3月17日)
「それから浄霊の場合にあらかじめその順序を知っておいた方がいいのです。
気がついたことは、二、三日前に女中を浄霊してしまってから、ああそうだ、と思って、それから奥さんを呼んだのです。
その時にこれはちょっと順序が違ったな、女中の方を先にやるということは間違っているなと思ったが、
時間も夕方だから良いだろうと思ってやったのですが、浄霊中に奥さんが変なことを言うのです。
ふつう言うことでなく、私に対する非常な侮辱のようなことを言うので、注意しましたが、
ちょっと考えてみたら順序が違っているためということが分かったのです。
だからうっかり順序を外すと、やはりなにかあるのです。
それであらかじめ知っておくべき順序は、つまり理屈に合えば良いのです。
例えば患者が浄霊に来ますが、その時に一番先にやるのは、一番重い病気の人、つまり苦痛の大きな人を一番先にやれば良いのです。
それからさのみ苦痛のない人が幾人もいる場合には年齢順にやればよいです。
そうすれば理屈に合ってます。
しかし年齢順だからといっても赤ん坊はまた別です。
ギャーギャー泣いて、いろんなことをするとほかに障りますから、うるさくないように早くすますということは理屈に合ってます。
そういうことがなにもない時には、まず年齢順からやるというのが理屈に合っているわけです。
それから常識的に考えると、非常に身分のある人やなんかで、非常に用事が多い人などは先にやる、ということもまた理屈が立ちます。
それから来た順も必要です。
どっちにしてよいか分からない場合には来た順です。
それから来た順でも、苦痛のある人とか重い病気の時は、待っている人に一応断るのです。
「この人は重いから先にやりますから」ということを一言断ればよいです。
順序から言うと、第一は病気の重いのからやり、その次が来た順、その次が年齢順で、後は常識的に考えればよいのです。
そういう順序を乱さなければなおりも良いのです。
よく効くわけです。
なぜ、今話した女中と奥さんとの順序が違うとなにかあるのかということは、女中を先にやって奥さんを後にすると、女中の方が上になるのです。
その時の奥さんの言葉がやはりそういうようなことで、劣等と言いますか、
そういうような意味のことを二度か三度言ったのですが、やはり一時的に女中より下というような地位になるわけです。
それは霊界がそういうようになっているのです。
こういうことを知って見ると、よくそういうことがあります。
おかしいなと思うことは、なにか順序が狂うという理由があるのです。
それで、こういうことはたいへん面倒臭いことのようですが、これが分かると面倒臭いどころでなくて自然に気がつくのです。
無意識に順序を正しくするようになります。
そうならなければならないのです。」
明主様御講話 「信仰の合理性について」 (昭和28年5月27日)
「それからこの前「信仰は理屈に合わなければいけない」ということを言いましたが、それに関連したことがありましたから、そのことを書きましたから、今読ませますが、
つまり浄霊の場合に、今まで、でたらめが多かったのです。
そのでたらめでは、そこに理屈に合わないと、骨を折ってそれだけの効果がないのです。
それにちょうどよい例がありましたから、今読ませます。
(御論文「信仰の合理性について」拝読)
つまり浄霊でも、でたらめではあんまり効かないのです。
それですから私なども、ふだん家内などがどんなに苦しんでいても、
決して向うでやってもらいたいと頼むまでは、絶対にやらないのです。
「ここが苦しいから」「ここが痛いからやっていただきたい」と言えばよいですが、
人間というものは変なもので、謎をかけるのです。
「ああここが気持ちが悪い」とか「ここが苦しい」と言うのですが、私は知らん顔をしているのです。
向うが頭を下げるまではやらないのです。
それは別に、意地が悪いのでもなんでもないのです。
そうでなければ治りが悪いのです。
一番悪いのはよく押し売りをします。
「さあやってやろう」と言ってやりますが、それがいけないのです。
もっとも赤ん坊は別ですが、
分別がある以上は、先方がお願いすると言ってからでないとやっても効果がないのです。
ですからそれを良く心得ておかなければならないのです。
ちょうど何かの場合に、御利益をいただきたいと神社仏閣に行って、どうかお助けいただきたいと言うのなら御利益をいただけるのです。
それをその辺をボヤボヤと行ったり来たりしていれば、なにをしている、と神様だって横を向かれます。
というのは、人間と神様の地位に高下のあることを忘れてはいけないのです。
それから「治してやるから御礼しろ」とか、また「治ったら信仰にはいらしてもらう」と言うのなら良いですが、
「治ったら信仰に入ってやる」というのは、どっちが上だか分からない事になります。
だいたい、治ったら御礼するという事も、今までは神様を雇って使うようなもので、賃金をやるようなものです。
これだけの仕事をするから、これだけの賃金をやろう、という事では神様だって横を向かれます。
そこがなかなか難しいのす。
前に、天理教の教師で、病気で苦しんでいる時に、いくらいくら金を上げれば助かるという事をよく言うのです。
それで、そのいくらいくらを上げるのですが、治らないで死んでしまう事がありますが、
私は、それでは神様がやっているのではなくて、
神様の取次者が詐欺をやっている、とよく言ったことがありますが、
これは御利益があって、本当に有難いと言う感謝の気持ちで上げるのが本当の事で、
受け売り仕事でさせるのはいけないのです。
しかしまた、それだけの御利益があり、命まで助けてもらいながら、
それを忘れたり、よけいなつまらない金にはウンと使って、
御礼の方には少しばかり上げるという事も理屈に合いません。
ですからこの前も言った通り、理屈に合わなければいけないという事です。
ですからいまの支部長に浄霊をやってもらうという事も、
ぜんぜんいけないことではないのですが、
それはごく苦しい時とか、病気が分からない時は支部長に聞いて浄霊してもらえば良いですが、
そうでなくて、自分でやればよいのを支部長の手数をかけるというのは間違っています。
それも病気によっていろいろありますが、
肺炎というのは、ほったらかしておいても治るくらいですから、父親か母親がやればそれで結構治るのです。
それを早いうちから支部長に頼むと治りが悪いのです。
かえって父親や母親がやる方が、より早く治ります。
というのは、支部長というものは多くの人を助け、御神業を発展させるという事の考えでいるべきであって、
そこが外れているから、骨折りながらうまく行かないというわけです。
ですから、ただ無茶苦茶に浄霊してもいけないので、そこに筋が立たなければいけないのです。
「神は順序なり」と言うから、その筋を立ててやれば、割合楽に治るのです。
そういうことは今まで割合に話しませんから、そういう間違ったことが起るわけです。
これは肝腎なことですから、今話したわけです。」
明主様御垂示 「頼まれないのに浄霊するな」 (昭和25年8月15日発行)
信者の質問
「私は今年五月二十六日入信させていただきました。
末の弟が入隊して間もない昭和十九年十一月、突然喀血し医者の療養五年、病は一進一退のところをこのお道によりお救いいただき、御守護のありがたさに感謝のほかございません。
そのような御利益をいただきながら、父が心臓弁膜症と腎臓萎縮で昭和二十一年七月死去いたしましたためか、兄が感謝がないのみか、かえって反対であります。
浄霊は勿論一度もいただきませんし、お話を伺おうともいたしません。
永い間家を離れて暮らしたためか、親弟妹とも溶け合って親しく話すことができず、なんとなく心の底に溝があるように感じられます。
いかにいたしたらこのお道のことを解っていただけましょうか。
無理にも御守りをいただくようにしたなればよろしいでしょうか、それとも黙って時期を待つほうがよろしゅうございましょうか。」
明主様御垂示
「無論時期を待つのがよい。
決して無理に判らそうとしたり、本人の自由意志を押えつけたりしてはいけない。
信仰はある程度霊の曇りが除れぬと入れぬものである。
浄霊は、特に先方から頼まぬ以上決してすべきではない。」
明主様御垂示 「御礼が先」 (昭和24年3月8日)
「またこういうことがあります。
「この病気が治ったら御礼をする」と言う人がありますが、
これも反対で、これでは神様が下になってしまうのです。
つまり、神様のほうで治させていただいて御礼をいただくということになるのです。(笑声)
天理教は上げることをさかんに言うが、天理教自身に力がないため病気などが治らずそのため一種の詐欺になるんですが、
これは神様が悪いのではなく、取り次ぎする人が効かないのに効くと人に言うから悪いのです。
だからもし効かなかったらその金を返せばいいんです。
で治らなくてかけ合ったりする話をよく聞きますが、
しかし順序から言えばそれが本当で、神様のほうを主にすべきです。」
明主様御垂示 「御礼が先」 (昭和24年7月23日)
「治ってから御礼をするんでは神様を雇ってることになる。
ちょうど人を雇って、これだけ働いたからこれだけ御礼するっていうのと同じですからね。
これじゃ人間のほうが上になって神様は下になってしまうんです。
だから、そのやってもらう前に誠を捧げて神様にお願いすべきなんです。」