浄霊と想念について
明主様御垂示 「おすがりするより急所に当てろ」 (昭和23年12月8日)
信者の質問
「観音様や大先生(註 大先生とは昭和24年以前の明主様の御尊称)におすがりするということは」
明主様の御垂示
「急所に当てるほうが治りやすいのであって、観音様や大先生にすがるということは、悪くはないがそれがあまりしつっこくなると自力になってしまう。
要は自分は観音様の道具だという想念で御浄霊をすればよいのです。
霊にも体にもあまり偏らないことが大切であり、治病の一般原則は霊を患者の体に深く入れてやることです。
例えば胸をやる場合は背中を狙ってやる気持ちで御浄霊をすればよい。
もう病人自身に治病力があるのだからそれを利用したらよいのです。」
明主様御垂示 「浄霊中の念じ方」 (昭和23年9月8日)
信者の質問
「御浄霊のとき、自然心の中で念じたくなりますが、なんと念じたらよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「憑霊の場合は「幽世大神守り給へ幸倍賜へ」であり、
その他の場合は念じたくなったら抑えたほうがよい。
相手の霊が非常に強いときは「国常立大(御)神守り給へ幸倍賜へ」と念じ
絶体絶命のときは「大先生(註 明主様の昭和24年以前の御尊称)、御守護をお願い申し上げます」と言えばよい。
そういうときは私が神の代理になるのです。
いろいろ心配事のあるときは「大光明如来守り給へ幸倍賜へ」でよい。
憑霊の場合も人霊は「幽世大神」動物霊なら動物は光を怖れるから「大光明如来」に分ければなおよい。」
明主様御垂示 「観音様にお祈りしお願いするという気持ちが本当」 (昭和23年11月8日)
信者の質問
「御浄霊のとき「この病人が一日も早く治りますように・・・」と観音様にお願いする気持ちになりますが、やはりこれも抑えたほうがよろしいでしょうか?」
明主様御垂示
「抑えなくて結構ですよ。抑えたほうがよいと言いましたか? それはなにか間違ったのでしょう。
観音様にお祈りしお願いするという気持ちが本当です。
特に危急の場合は、「大先生(註 明主様の当時の御尊称)、御守護をお願い申し上げます」と言ったらよろしい。
そのときは私が神様の代理になりますから。
しかし、ふだんなんでもないのにやられてはこっちは困りますがね。」
明主様御垂示 「浄霊時の想念」 (昭和24年2月16日)
信者の質問
「浄霊に際して想念との関係について・・・」
明主様御垂示
「どういう気持も何もない、ありのままでいい。
苦しんでいて気の毒だ、楽にしてやりたい、助けてやりたいという想念である。
この人を助ければ大いに宣伝するであろう、発展のため働くであろうというような、先の事はあまり考えず、助けて上げるという想念だけで結構である。
神様のお考えは人間と違う。」
明主様御講話 「神様を忘れるな」 (昭和28年8月26日)
「よく浄霊で、どうしても治らなくて、それから神様にお願いするとじきに良くなるということは、
浄霊ばかりに偏り過ぎるわけで、肝腎な元を忘れて枝の方を重視するから具合が悪いのです。
そういう点も、どういうふうにやるのが理屈に合っているか、相応するかということを考えると、割合に楽で、うまくゆくというわけです。」
明主様御教え 「取違いの例」 (昭和28年8月19日発行)
「左の御蔭話はよくある例だが、これは重大な意味を神様が教えたのであるから、この文を添えたのである。
これを一言にしていえば、“神を頼りにせよ。人を頼りにするな”という事である。
というのは自分は浄霊の力を戴いているのであるから、自分の病気でも自分が治すのが本当である。
考えてもみるがいい、人の病気を治す力を与えられている以上、自分の病気でも治らぬはずはないので、この信念こそ肝腎である。
これも理屈に外れた事は、決して御蔭はないのであるから、何事も理屈に外れないよう心掛くべきで、そうでないと、労多くして功なしの結果となり、余計な苦しみをするだけである。
つまり信念が肝腎で、その点よくよく肝に銘ずべきである。」
体験談 盲腸炎をお救い戴いて
熊本県 南光中教会 HS(32・女性)
「御明主様日々の御守護有難く御礼申し上げます。この度は最近戴きましたる盲腸の御浄化の御礼並びに御詫びを申し上げさせて戴きます。
五月十八日の熊本支部御祭に御参りさせて戴くため主人は前日出発の時、信徒の吉川重彦様が御浄化中だから御浄霊の御取次に参るようにいって行きましたので、
十八日午後同家に出張し御取次を許して戴き、隣家のS様宅も終えて帰宅御神前に御礼申し上げましたのは夕方七時すぎ頃でございました。
しばらく致しますと右下腹部に痛みを感じ、後頭部、腰も共に段々痛みが増してまいりました。
痛み即ち御浄化、有難いと思い一時御神前に休ませて戴けば簡単に軽くして戴けると考え自分で御浄霊をいたしましたが、痛みは増すばかりでございました。
盲腸! 確かに盲腸部位を中心に針でさすように痛み右腰部と共に非常に熱が、ございまして下腹部一面猛烈に痛みが加わってまいりました。
人様の盲腸は何人か御浄霊の御取次にて治さして戴きました経験がございます。
尾下さんという青年は医者が盲腸と診断し即日入院手術を急がせたのを御両親より夕方迎えを受け一晩三、四回の御浄霊で翌朝は私が眼をさました時には御本人が起出してケロリと治っていましたし、保青年も三日目から仕事に差支えないように治りました。
昨年の秋には私が支部御祭に参拝のため出発の前夜、主人の盲腸を一晩数回の御浄霊をさせて戴き、翌日は信徒さんの御取次で三日目から布教に出られるようにならせて戴きました。
しかし今夜に限って頼みに思う主人は不在、協力者である妹Nも信者さんも見えません。
生後八カ月の三代子も乳を求めますが、痛みは一層増すばかりでございます。
夜も相当更けた模様、玄関の戸も閉めてないことに気付きましたが身動きも出来ません。
下腹部に手を当てたまま余りの痛さに眼を見開きますと床の間の正面の御写真がハッと眼に映りました。
そしてその時かねて主人が取次の「想念」という言葉がはっきり頭に浮びました。
そうだ頼みに思うのは主人では無く妹でも信者さんでもない、御明主様御一方だと今更申すまでもない事ながらなぜかこのことがはっきり覚らせて戴きました。
そしてこの何時間かの想念の誤りだけでなく、日常ともすれば余りに偉大なる神恩になれたり、あるいは自分勝手な小乗的解釈に流れ勝ちな事等々がしきりに思い浮んで、御明主様に御詫び申し上げました。
そしてただただ御詫びを申し上げておりますといつの間にか眠ってしまいました。
時折眼をさましたときには痛みは感じましたが、漸次痛みの薄らぎ行くのがわかりました。
翌日は信徒さんから御浄霊戴き、夕方には主人も支部の御祭から帰り御浄霊を頂き、おかげ様で三日目から炊事も出来るようにならせて頂きました。
御明主様有難う、ございました。盲腸を治して戴きました上に私の想念の誤りを御気付かせ戴き、ただただ御詫びいたしますとともに御礼申し上げさせて戴きます。
明主様、誠に有難うございました。」
明主様御講話 「神様中心」 (昭和27年12月1日)
信者の質問
「それで生活の面でも、今ではたいへんお蔭をいただきましたが、
自分で垣を作ってその中に入って窮屈になって、四角三角になって苦しんでいるのは、
ただ自分で苦しんでいたことでありまして、本当に楽になるものをと思いまして、たいへんありがたいことでございます」
明主様御垂示
「そうです。
この間のお蔭話に、自分がどこか悪くて「親父が今朝はたいへん朗らかだから、こういうときにやってもらったら効果があるだろう」と書いてあったので、
それはつき返してやったのです。
親父が朗かだからと言うと、親父にやってもらっているように思っているのです。
神様というのをぜんぜん忘れているのです。
だから見当が違っているからつき返してやったのです。
こういうこともたいへんな間違いです。
一切は神様を中心にすると何でもないのです。
どうも人間的な考えになるのです。」 (中略)
信者の発言
「お蔭話をよく見ておりますと、半分は最初にお詫びしなければならないようなことがございます」
明主様御垂示
「この間こういうことがあった。いろいろ一生懸命にやったが、どうしても良くならない。
それから光明如来様にお願いしたら、それから直ぐに良くなった、というのですが、そういうときには自分が治そう治そうとしているのです。
それで神様を忘れているのです。それが修行です。
世間は間違ったことが多く、それで長い間教育されているから、こっちの説があまりに世間と違うから、分かるまではそうとう暇がかかります。」
明主様御講話 「神様の愛は大きく深い」 (昭和28年6月27日)
「今言う「ぜひ命を助けていただきたい、病気を治していただきたい」というと、
神様の方では「お前は信仰にはいっているのだろう。オレの方でうまくやってやる。そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。
そんなにオレを不人情に見られてはおもしろくない。お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる」ということになります。
従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。やっぱり邪神です。
それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。
人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。
ですから神様にお任せするということになると、神様の方でも大いに助けよいのです。
その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。
それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。
それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分かるまでは手を引かれて時を待たれるのです。
神様というのは、今の睾丸ができたというように、たいへんな御力で、助けようと思えばなんでもないのです。
ただ助かる条件が揃わないのです。
ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。」
明主様御垂示 「浄霊力と想念」 (昭和28年8月1日)
信者の質問
「レントゲンの光より御守様の光のほうが強いとの御教えをいただいておりますが、
先日御守様をおかけいたしてレントゲンが写りましたことがありましたが、これは相手の信者に分からせるためでございましょうか」
明主様御垂示
「それもあるし、同じ御守によっても、かける人によって光の強いこともあるし弱いこともあります。
信仰の強い人は光も強いのです。
それから扱い方によっても違いますし、それから普段の扱い方考え方によっても光は強くなったり弱くなったり、絶えず動揺しているのです。
だからだいたいは無論強いのですが、その場合によっては、以上のこともあり得るのです。
それで一番影響するのは、その人の信仰的な想念が非常に影響するのです。」(中略)
信者の質問
「想念の問題ですが、お守をいただけば皆一様に効果が同じだという考えを持っている信者が多いのですが、そこにレントゲンの光がお守を通ったり通らなかったりするときに疑問があるということになりますが」
明主様御垂示
「ところが想念の問題はこうだと思うと窮屈になるのです。
だからそれは自分みずからわく気持ちでよいのです。
だからその人がたいして思ってない、あるいはありがたくてありがたくてしようがないという、それでよいのです。感謝です。」
信者の質問
「講演会で千篇一律だと話しますと、想念のー感謝ということを説く道がなくなりますが、そこで想念の並行という点を説くと」
明主様御垂示
「それは説かなければよいです。
しかし想念がなければ御利益がないと言うと、それは強制されたもので、想念でないのです。
想念というのはわき起こるものです。
だから千篇一律と思っても、自分だけはどうしてもそう思えないという、それが本当の想念で、これが大乗的なものです。
想念を説くのもよいのですが、それもときと質問によってです。
ですから私は普段は言いません。
さっきの質問によって、そう言わなければならないからそう言ったのです。」
信者の質問
「御守をいただくことによって想念が浄められてゆくということは」
明主様御垂示
「お守をいただけば想念が浄まることも事実であり、
また想念のいかんによってますますお蔭をこうむることも事実で、一方的には決められないものです。
これは真理ですから、真理は決められないものです。」
信者の発言
「木原さんが言わんとしているのは、木原さんは御守中心主義ですから、御守をいただいた以上、想念によってお光の威力に増減はないというのです」
信者の発言
「私は根本原則を言い、松井さんは想念によってと言うのです」
明主様御垂示
「ですからどっちも合っているのです。」
信者の質問
「結局身魂が浄まって上がって行くほど、光は強くなって行くというわけでございますので」
明主様御垂示
「そうです。だからそこで決められないというのはそこです。
理屈は両方にあるのです。ちょうど十の字です。
緯のほうは緯ばかり言っていて、経のほうは経ばかり言ってます。
ところがやっぱり真ん中に行くのですから同じです。」
信者の質問
「ですから木原さんと私と合せて一本というわけですか」
明主様御垂示
「まあ、そうも言えます。」
信者の発言
「だいたい信仰が深いからお蔭をいただいたというのは、実はそうではなくて、神様のお蔭をいただけたから信仰が深くなるということでございますから」
信者の発言
「信ずるから治る、信じないから治らないというのではございませんから」
明主様御垂示
「いや、信じなくても治ります。
ところが神様のほうは、信仰にはいらないうちは信じなくても治るわけです。
ところがだいたい分かってきても信じないと、そこにちょっとくい違いがあるのです。」
信者の発言
「私はこう言うのです。同じ御浄霊をお受けしても、その人が本当にありがたいというときと、馬鹿にしているときとは自ずとお蔭をいただく程度に差があるというのです」
明主様御垂示
「ところが一概にいかないので、何も知らない人は最初は、こんなことで治るものかということは、それはそれで、理屈に合っているのです。
それから奇跡を見せて、なお疑うということは、人間のほうが間違っています。
だからそこにおいて結果に違いが出て来ます。
だから再浄化というのはやっぱりそういうわけです。
一旦治ったのですから、そうすれば絶対だから、これはたいしたものだと思えばよいのですが、治ってもまだグズグズしているから、そこで正守護神が怒ってしまうのです。
そこでもう一度苦しめてやろうということになるのです。」
信者の質問
「お光をいただき病気が治りながら、想念が感謝を伴っていないというときに再浄化の可能が多くなるわけで・・・」
明主様御垂示
「そうです。神様のほうは寸分違わないので、理屈に合っているのです。
それで今言う屋根に上がって樋を直すということは立派なものですから、そのくらいで神様がけしからんと言うわけがありません。
もしそうなら神様くらい気のきかないのはないということになります。
神様はそのくらいお許しになるのが本当だと思うのが本当ですが、
それを御無礼になると考えるのは、神様は「樋を直すのが本当なのだから、オレをそんなに見ているのか」となります。
そこに神様と人間のほうとの考えが違うのです。」
側近奉仕者の体験談 「これからは想念の世界」
「明主様御昇天の前年、昭和29年4月19日、明主様は神定めの最後のご浄化に入られました。
ある時、いつもならすぐに明主様にご報告する信徒からのご守護お願いを、明主様の御様態の良い時を見計らって、側近の樋口ヒメさんが報告をさせて頂いたそうです。
その折、明主様から、「いままでとは違う。これからは特に想念が大事なのだ」という旨の厳しいお叱りを頂いたのです。
そんな時、角田和子さんという奉仕の方が、顔に、覆った前掛けが張り付くほどのやけどを負ったのです。
それで、明主様のお言葉通り、日光殿でみんなで、お念じさせて頂いたそうです。
きっと「明主様お願いします。惟神霊幸倍坐せ(かんながらたまちはえませ)」という旨のお念じだったと思います。
すると、やけどは急速に快方に向かったのです。
その翌日に、「皆でお念じし、阿部晴三執事先生にご浄霊頂いて、その結果今朝は何事もなかったかのようにむしろ前よりきれいになりました。」とのご報告が、樋口さんによって明主様になされたのです。
その報告に明主様は、「これが唯一の見本だよ」と仰ったということです。
ご浄化の中、明主様が度々発せられたという
「これからは想念の世界である。
ご浄霊は二の問題で、まず想念である。お念じしなさい」というお言葉は、
その後のメシヤ降誕と御昇天の大きな神事と共に、大変重要な意味を持つ物であると私は思います。」
明主様御講義 「治療士の心構え」より (昭和11年7月)
「治療についての心得を述べておきます。
第一に肝腎な事は治療しようとする時の想念であります。
まず世の中を救い、人類を幸福にしたいという大善心が根本にならなくてはならぬのであります。
これによって巧く金儲けしようとか、この人を治せば大いに自分に有利であるなどと思うのは面白くないのであります。」 (「岡田先生療病術講義録 上巻4」より)
明主様御垂示 「世界人類を救う大きな心」 (昭和23年6月12日)
「今のやり方は治療と信仰の間のやり方である。
信仰へ入れば病気も治る。手数は要らぬ。
信仰は霊的であるから、話をする事が主になる。
話して納得ゆけば治る。
第一は誠の心を持つ。一人でも多くの人を救う・・・という大慈悲心の旺盛な人ほど治る。
天国的生を楽しむのも結構である。
それ以外に、多くの人を救う気持・・・世界人類を救う大きな心を持ってやると全然治り方が違う。
その意力の強さと、大きな広さである。」
明主様御講話 「最後の目的は大光明世界」 (昭和10年10月11日)
「観音様をお祭りすると、どうしても病人がなくなる。
病人がなくなるから、病がなくなるわけであります。
で、医療士の方は、観音様をお祭りさせることが一番肝腎なんで、
も一つの意味は、本来観音力で病気を治すのは、病気を治すのが目的でない。
信者を増やすうえにおいてするので、病気の治ることを知らすのみでなく、観音力の偉大さを知らすんであります。
そして、観音信者を作ることが観音運動を拡げて行く、その最後の目的は大光明世界の建設で、そのための病気治しであります。
そういう目的ですれば、いくらでも病人が来る。
観音様が連れて来られる。
病気治しが主となると、病気も思うように治せず、病人も来なくなる。
大光明世界建設のために信者を作る。
そのために観音様を祭らす、祭らすうえにおいて観音力を知らす、観音力を知らすために病気を治すので、
それが病気治しが本位になると病気は治らなくなり、収入が少なくなる。
収入を得ることを本位とすると収入がなくなる。
そういうような大きな目的でなければならぬ。
観音様をお祭りして順調にゆくべきものが、ゆかなくなるのはどっか間違ったことをしているのですから、
よく考えると、必ずその点がありますから、そこを改良するとまたうまくゆく。
その故障のことも大きな見地からみればよく判る。
それがはっきりと気がついて判るようになった人が、身魂の磨けた人であります。」