浄霊と執着について


明主様御講話 「本人や周囲の者の執着心が邪魔する」 (昭和28年6月25日)

「それから私は前から言おうと思ってはいましたが、これで気がついたので言います。

重病の場合でもう治る見込みがないという時に

「どんなになっても、まだそんな失望するにあたらないから、しっかりしていろ」と言って慰めますが、これは本当言うといけません。

やはり生の執着が御守護の邪魔をするのです。

治すのは、正守護神が神様の方から力をいただいて、自分がお取り次ぎして治すのですが、

その場合に生の執着があると、正守護神の思うとおりにならないのです。

本人や周囲の者の執着心が邪魔するので、治る場合も治らないということも大いにあります。

ですからこれからは、もう駄目だと思ったら、早く本人に諦めさせるのです。

「これはもう駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい」と言った方が、かえって助かるのです。


このことは私も経験がありますが、私は二十八の時にチフスをし、自分でもとても助かるとは思えないので遺言をしたのです。

それは前の家内の時で、当時小間物屋だったが、「自分はもう駄目だから、自分が死んだら商売は誰々に任して、こういうようにしろ」と言ったくらいですから、ぜんぜん生の執着が取れたのです。

それで知っている人の兄が医学博士で、病院が近くにあるのでそこに頼んだのです。

そうするとその医者が来て診た結果、これは入院しても助かる見込みはない。

助かる見込みのない者をみすみす入れるということは、病院の信用を落とすからお断りすると断られたのです。

ところがそのころの私の家は狭くて、起居する部屋は二部屋しかないので、もしもの時に大勢人が来ても狭いから、死んでもよいから入院させてくれと、院長の弟が友達だったからその方から頼んで、やっとはいったのです。

それでその当時は自動車はなくて人力車でしたが、人力車にも乗れなかったので、担架に乗って担いでもらって行ったのです。

そして寝ながら町を歩いている人を見て、これで人を見るのも見おさめだと思ったのです。

そうしたら夢とも現(うつつ)ともなく墓場が見えてしようがなかったのです。

それで自分は駄目だとよけい思われました。しかしどうやら息はつながっているのです。

そうして非常に強い薬で、この薬が効かなければもう駄目だと言われたが、それをのまされるとその苦しいの苦しくないの、実に苦しかったです。

それでも死なずにいました。そこで係の医者が、最初の見立ては肺炎だというのですが、

その医者は肺炎とは思えない、チフスと思うから試験してみようというので、

発泡薬というのでツユを取るのですが、ツユを取って顕微鏡で見たら、

確かにチフスだということで、チフスの手当てをしなければならないということになったのです。

チフスは絶対流動物であって、チフスには薬はないのです。

それから絶対流動物で、だんだんよくなって治ったのです。

そういうようで、生の執着を取ったことがよかったのです。
 

それには本人が肝腎なのです。

本人に「あなたはもう駄目だから諦めなさい」と言い渡した方がよいです。

それから本人ばかりでなく、親や周囲の近親者も大事なのです。

近親者の執着の霊が邪魔します。

ですから霊の邪魔というのが非常に重大なのです。

それはそれとして、家の中に非常に反対している者がある場合に、

反対している者は「もしか治ると自分が恥をかいたりするから、どうしても治らないように」と一生懸命に思うその霊がまた非常に邪魔をするのです。

そこで、執着はなんにでもいけませんが、執着はどこまでも逆効果になるということを心得ておかなければいけません。

これは病気ばかりでなく、他のことにもあります。

よく、金が欲しい金が欲しいと思いますが、その金の執着がある間は、金ははいらないのです。

その執着が邪魔するのです。まして信仰にはいっていればなおさらです。

そういうことは忘れて、どうでもよいと思うようになるとはいってくるので、実に皮肉なものです。

ですからあの人に信仰のことを分からせよう分からせようと思っていると相手は分からないのです。

勝手にしろ、それだけの御守護があれば分かるし、さもなければ駄目だから、と忘れてしまうのです。

そうすると先方で信仰にはいりたいと頼みに来ます。

ですから良いことでも執着は邪魔するのです。

ある程度骨折って、あと思うとおりゆかない時は、ほったらかしておくのです。

そうするとあんがいよいものです。」





明主様御講話 「葬式の考えでもした方がよい」 (昭和28年6月26日)

「今読ませるお蔭話は非常な奇蹟で、とうていあり得べからざることです。

(御論文「超奇蹟」)

今読んだとおりで、すばらしい奇蹟です。

陰茎の方は中ごろくらいで切っても元通りになるもので、これは医学でも分かってますが、睾丸が元通りになるということは、どうしても分からないことです。

ですから大奇蹟です。それで今もここに書いてありました執着ですが、この執着が非常な災いをするのです。

それについて考えましたが、死ぬような危険な病人に明白に「あなたは駄目だ」とはどうも言えないのです。

それに、そう言ってガッカリさせてはいけないと思うのです。

それで「なるだけ気を丈夫に、悲観しないように」と力をつけるのです。

ところが実はこれはあべこべなのです。

誰でも、生きたい死にたくない、と思うのはあたりまえですが、

それに対して「あなたはもう駄目だ、覚悟をしなさい」と言って、本人が死ぬ覚悟をすると、本当から言うとその方がかえって治るのです。

これは今言う生の執着です。


これは病人に限らず一切がそうなってます。

たとえてみれば、金に苦しんでいるとか、金に苦しんでいなくても、「金が欲しい欲しい」と思っている時には金がはいらないのです。

それで「もう金なんかどうでもよい」と諦めてからはいってくるものです。

これは誰でも経験があるでしょう。

「こういう物が欲しい」と思う時には来ないもので、「もうどうでもよい」と思うと来るものです。

私もそういう経験はたくさんあります。

なにしろ二十年間借金で苦しんだのですが、その時には金が欲しくてしようがなかったのです。

少しでも返さなければ差し押さえで危ないのです。

その欲しいと思っていた時には不思議にはいらなかったのです。

それで「神様がなんとかしてくれるから、そんな執着は捨てた方がよい」と、昭和十六年から金の執着は捨ててしまったのです。

それでもう金の心配はないという時になって、それからドンドン金がはいってきたのです。
 

それから映画を見ると、このことがよく出てます。

映画の脚本というのはほとんどそうです。

すなわち男の方が女に惚れて大騒ぎをして追いかけると女は逃げるのです。

それで今度は女の方が大騒ぎをして男を追いかけると男が逃げるのです。

これが映画の筋です。

男に恋するが男は冷淡でいる。

そうしてなにかの時に今度は男が大騒ぎをやってくると、女の方は喜んで結合しそうなものですが、そうなると今度は女の方が逃げるのです。

不思議なものです。それは今の執着で、逆効果なのです。
 

私は二十八の時にチフスをやって、自分の体の様子でゆくともう助かるはずはないというので遺言しました。

その時は小間物屋をやっていたので「オレが死んだらこういうようにしてくれ」と前の家内によく遺言して、死ぬ覚悟をしたのです。

ところが家が狭くて、もしか死んだ時に人が大勢来ると狭いので、死ぬなら病院で死んだ方がよいというので、

近くに私立の内科病院があったのでそこに頼んだところ、これはもう駄目だと断られたのです。

私立は官立と違って、死ぬことが分かっていて入院させて死なれると、病院の評判が悪くなるからというので断られたのです。

ところがその院長というのは、私の同業者の兄貴になるので、その方から頼んで、病院で死なしてもらいたいと頼んだところが、その義理で、「では」と承知したのです。

それで当時は人力車の時代ですが、私は衰弱して人力車に乗れないので、担架に乗せられて運ばれたのです。

そうすると町をいろんな人が歩いてますが、これで町を見るのもおしまいだと思って、実際心細い話です。

そうして入院して二、三日の間はたいした違いはなかったのです。

ところが肺炎だという診断だったので、肺炎ならこの薬をのめば必ず治る、これで治らなかったらもう駄目だというので、

その薬をのむと非常に苦しんで、その間夢現(うつつ)に墓場が見えるので、オレはもう死んで行くのだ、それで見えるのだと思ったのです。

そうしたら、その明くる朝になったら係の医者が来て、院長は肺炎だと言うが、

僕はチフスではないかと思うからチフスの試験をしてみようと思うと言って、

発泡薬といって、膏薬を張ってそこから水を取り、その水を試験したのです。

そうしたらこれは肺炎ではない、立派なチフスだというのです。

それでこれはチフスの手当てをしなければならないということになったのです。

ところがチフスには薬はないのです。強壮剤に葡萄酒をやって、牛乳とか肉汁をやるのです。

それを飲まされてそれでだんだん良くなって治ったのです。

それで今考えると、遺言して死ぬ覚悟をしたのですが、それがよかったのです。
 

そういうようで、これからは、危ないという病人にはかえって

「駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい。神様はあなたに御用があれば助けてくださるし、御用がなければしようがない」というように宣告した方がよい
です。

それでまた家の人の執着もたいへんな災いをするのです。

「助けたい助けたい」という霊的の執着が邪魔します。

神様の御守護によって助けるということですから、家の人が執着でそう思うと、その家の人の霊が本人に行って取り巻いたり、霊につながります。

そこで神様の方と言っても正守護神ですが、正守護神が働けないのです。

また特に家の中に反対者がある場合、医者にかかれ、かかれと言っても、かからないでいる。

それで助かると自分の面目にかかわるから死ぬようにと思うから、これはよけい強い妨害
になります。

ですから、どっちも執着は妨害になります。

だから病人をできるだけ忘れるのです。

忘れるということは、死んでもよいと言って葬式の考えでもした方がよいです。

そうすると執着の霊がつかないから、そこで正守護神が充分に活動できます。

ですから今言ったとおりに知らせるということは非常によいのです。

ですからそういう方針にした方がよいです。」




明主様御講話 「執着は一番恐ろしい」 (昭和28年6月27日)

「今度すばらしい奇蹟のお蔭話がありました。

たいていな奇蹟には驚きませんが、これだけはなんと言ってよいか、一言も言葉が出ません。

これは日刊新聞に出したいと思って毎日に相談したところが、

調べた結果サンデー毎日にでも出そうかと言って、これから調査するのですが、

そうして世の中の人に知らせるだけでもたいしたものです。最初に私の批評を書きましたから、今読ませます。

(御論文「超奇蹟」拝読)

今読んだとおりですが、陰茎の方は、三分の一くらいを手術で切って元通りに伸びたということは以前聞いたことがありますが、

睾丸が取れて元通りになったということは実に奇蹟以上です。

よく昔から「睾丸を一つつぶせば命はない」と言われてますが、金玉一つどころでなく二つともなくなったのです。

それで生きているだけでなく元通りになったのですから、どう考えても分からないことです。

ですからこれは世界的問題として大いに人類に知らせる必要があると思います。

このことは神様の方ではチャンと分かります。

しかしこれを説明したところで、あまりに神秘でちょっと信じられないというかも分かりません。

いずれ時期が来たらこういう説明もしますが、今のところは致し方ないわけです。


それでこういう場合に一番肝腎なことは執着です。

神様に非常にお願いし祈るということも結構なのですが、そこに難しい点があるのです。

というのは、あまりに「助けたい」「助かりたい」というその執着が邪魔することになるのです。

だからお願いしお祈りするのはよいですが、ある程度までであっさりとしておくのです。

「どうしても助かりたい、助かりたい」という強い執着は取るのです。

むしろそういう時には「命のないものなら早く霊界にやらしていただきたい、助かるものなら助けていただきたい」とあっさりするのです。

そういう時にあっさりするということは非常に難しいですが、その執着の心が非常に邪魔するのです。

そういう時に助けるのは正守護神で、正守護神が神様に力をいただいて助けるのですが、正守護神の霊が働くのです。

そういう時に側の者があんまり強い執着ですと、正守護神が働く場合に邪魔になるのです。

そこで逆効果になるわけです。

その点をよく知らなければいけません。


ちょうど、人間が死にますが、死んでからその人を忘れられないと、

霊界に行った霊は早く忘れてくれればよいと、非常に迷惑するのです。

これはいつかのお蔭話にありましたが、あんまり思うとかえっていけないのです。

よく赤ん坊などが死ぬと、親は忘れられないで、赤ん坊のことを強く思うのです。

そうすると赤ん坊は割合に早く生まれてくるのです。

そうすると霊界でまだあんまり浄化されないで生まれてくるから、はなはだ不仕合せなことになるのです。

ですから子供としてはあんまりよくないので、迷惑なことです。

だから親が早く忘れてくれれば霊界で充分浄化が行なわれて、浄化がすめば霊界の良い所に行きますから、

それから生まれてくると体も非常に健康で、よい子供が生まれるのです。

そういうようですから執着というのは逆効果になりますから、そこをよく心得ておかなければいけません。

それでよく危ない病人に「気を確かにしろ」とか「きっと治る」とか「気を強く持て」とか言いますが、それは考えものです。

むしろ「あなたはもう駄目だ、諦めなさい、死ぬ覚悟をしなさい」と言った方がかえってよいのです。

これは非常に言い難い話ですが、出し抜けではいけないが、霊界のことなどを説いて、

そうして「あんまり生きたいということは、その執着によってかえって、治る病気も治らないことになる」ということを聞かせるのです。

ですから死ぬ覚悟をするとかえって助かるのです。


私はその経験がありますが、二十八の時にチフスでとても悪くなるばかりで、

どうしても近いうちに死ぬより他にしようがないというので、

死ぬ覚悟をして、前の家内に遺言をしたのです。

私は死ぬから、死んだら後はこういうようにしろと言い聞かせたのです。

私は割合にさっぱりした性質ですから諦めがよいので、その時分には信仰もなにもなかったが諦めたのです。

それで非常に狭い家なので、もしかの時にいろんな人が来ると狭くてしようがないので、

病院で死んだ方がよいというので、病院に入院しようと思って、近くに内科の病院があったので、そこに頼んで医者に来てもらったのです。

そうすると医者は「これはもう駄目だ、死ぬのが分かっていて病院に入れるのは困る」というのです。

それは私立ですから、官立の病院ならよいのですが、私立だから、死ぬのが分かっているのに入院させるのは非常に困るというので断られたのです。

ところがその院長の弟というのが私の知っている小間物商で、その方から頼んでやっと許されたのです。

その時分は自動車はなく人力車ですが、人力車にも乗れなかったので、担架で寝床をそっくり担がれて行ったのです。

それで私は往来を歩いている人の、上の方は見えないので足などを見て、

こういう状態を見るのもこれが見おさめだと思いながら入院したのです。

その時の診断は肺炎だったのですが、非常によい薬がある、これをのんで効けばじき治るし、

もしこれでも駄目なら諦めるよりないということで、非常に強い薬ですが、その時は注射はなかったので、

それをのむとなんとも言えず気持ちが悪いのです。

それで半死半生でウツラウツラとしていると、墓場が見えてしようがないのです。

それでどうせここに来るのだ、いよいよ近寄ったと思ったのです。

それでも死なずにどうやら持ててたのです。

ところが係の医者が来て、実は院長は肺炎だと言うが、僕はどうしても肺炎とは思えない、

チフスと思うからチフスの試験をしてみるからと言って、

発泡薬といって膏薬をお腹に張って数時間すると水を吸い出すようになっているのです。

その水を少し取って顕微鏡で見ると、確かにチフスだというので、

チフスの療法をしなければいけないということになったのです。

それで今でもそうですが、チフスには薬がないので、強壮剤として葡萄酒だけを飲んだらよいというので、

毎日葡萄酒を一杯ずつ飲んで、あとは流動物に限るというので、牛乳と肉汁を飲んだのです。

そうなってからだんだんよくなってきて、確かにチフスであったわけです。

それで二月ばかりで治りました。

そういうようで、私が死ぬ覚悟をしたということがよかったのです。

まず生の執着を取るほどよいのです。


また家族の者が「どうか助けたい」というその執着が、やっぱり邪魔します。

それからさらにまた家族の者に信仰に反対の者がいる場合に、もし治ると自分の面目がつぶれますから、

どうしても助からないようにしたいという執着は一番恐ろしい
です。

これは一番悪性です。

治らないようにする執着ですから一番悪いのです。

ですから家族に反対者があった場合には結果が悪いのはそういうわけです。

だからなにごとも執着が非常に災いするのです。


特に信仰はそうです。

たとえてみれば「金がない、金が欲しい、神様、金をなんとかしていただきたい」と思う時には来ないものです。

「これは忘れよう、どうせ神様がいいようにしてくださるのだから」と金のことなど忘れると金が来るものです。

実に皮肉なものです。おそらく神様くらい皮肉なものはありません。

しかし私でもその執着というのは、なかなか取りきれないものです。

「ああなればよい、こうなればよい」と思うが、どうもうまくゆかない。

そうだオレの執着が邪魔しているからだと、「どうにでもなれ」と思うと、忘れた時分に予期した以上のものが来るのです。

そういうことは始終あります。美術品でもそうです。

見せてもらって欲しいなと思い、アレがなんとかして来ないかと思っている時には決して来るものではありません。

そんなことは神様にお任せしてしまおうと忘れていると、先方でぜひ買ってくれと前より安くすることがあります。

このことは人間の命ばかりでなく、いかなることでもそうです。

あなた方でも人に信仰を勧めますが、例えば親父が反対して駄目だ、妻君が反対して駄目だ、というので、信仰にはいったらよいと思い勧めますが、そういう時には決して駄目です。

「信仰にはいるもはいらないも知ったことか、勝手にしろ」と知らん顔しているとはいってくるもので、実におもしろいです。


私は映画を見るたびにそう思いますが、男が女に大騒ぎをすると女は男に振り向いてこないのです。

また男もそうです。それでおもしろいことには、男が女に惚れていると女はウンと言わないのです。

それで男が怒って勝手にしやがれとなると、今度は女の方が急に寄ってくるのです。

映画の脚本はほとんどそういうのが一番多いです。

見ていて馬鹿馬鹿しくなることがありますが、しかしそれが事実というものです。

ですからそこのところをうまく考えて利用するのです。

そうするとよい結果になります。

ですから男でも女でも、非常に愛している時には逆に「勝手にしやがれ、お前なんか愛しているものか」というようにするのです。

ここのところをよく心得ていて、そういうようにやると、なにごとにもうまく行きます。

とにかくこれを信仰的に言うと、「神様、神様」と勧めますが、そうすると安ッポクなります。

安ッポクなるということは信仰の値打ちを下げることになります。

ですから私がいつも言うとおり、それこそ十万円のダイヤモンドを千円で売るようなものですから、勧めるという法はありません。

ですから話だけして、十万円のダイヤモンドを千円で売るようなものだということを言って、その選択は先方に任せるのです。

男が女に惚れて大騒ぎをすると、男の値打ちを下げてしまいます。

恋愛というのは尊敬が根本なのです。

男がなんとか言って惚れたところで短期間なものです。

だからきれいな男だからといって女は惚れるものではありません。

これは恋愛哲学ですが、とにかく安ッポクなるのです。

安ッポクなると尊敬がなくなります。

そういう場合に「オレは、ヘン、お前なんかに惚れるものか」というと安ッポクなりません。

そうすると女の方で敬うようになります。

なにごとでもそうです。

私はそういうことをよくやりますが、欲しい物があっても欲しい顔をしないのです。

そうすると先方でぜひ買ってくれと言ってくるのです。

一切万事がそうですから、これだけ知っても役立ちます。


今言う「ぜひ命を助けていただきたい、病気を治していただきたい」というと、

神様の方では「お前は信仰にはいっているのだろう。

オレの方でうまくやってやる。

そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。

そんなにオレを不人情に見られてはおもしろくない。

お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる」ということになります。



従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。

やっぱり邪神です。

それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。

人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、

神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。

ですから神様にお任せするということになると、神様の方でも大いに助けよいのです。

その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。

それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。

それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分かるまでは手を引かれて時を待たれるのです。

神様というのは、今の睾丸ができたというように、たいへんな御力で、助けようと思えばなんでもないのです。

ただ助かる条件が揃わないのです。

ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。」 (長文は「我と執着 2」のページ)




明主様御垂示 「家族が反対すると浄霊は効果がない」 (昭和27年1月16日)

信者の質問
「四十才になる婦人。お産後の子宮出血が因で、今日に至るも治らず、御浄霊をいただき、二カ月くらいの間一時止まりましたが、

今度は寒気がして咳が激しく、痰も出、衰弱いたしますので、教会にて二カ月ほど御浄霊をいただき、たいへん楽にさせていただきましたが、その後はっきりせず衰弱も加わっております。

主人および親戚一同は御浄霊を嫌い、医薬療法を奨めるため、家庭の不満は去らず、

主人は光明如来様を破るなどいたし、御浄霊をいただくために、逃げ隠れして伺う状態でございます。

結婚当時から、心にもない義理的の結婚を養父から奨められたため、結婚後毎日のように不満を抱き、病気も婦人科の手術、灸療法をやったりいたし、

今度は黄疸または肺浸潤のために気胸療法六回、マイシン十五本いたしましたが、いっこうに良くならず、

二十四年一月に入信、御浄霊を時々いただきましたところ、体は肥ってまいりましたが、病状はっきりいたしません。

主人は、御浄霊を止めて医者に行くように厳しく申しますが、いかがいたしましたら、よろしゅうございましょうか。」


明主様御垂示
「これはどうも感心しませんね。これは、こうしろと言うことは言えませんがね。

もし私が、この人の親だったら離婚しますよ。

離婚しろとは言えません・・・それでは、はなはだ誤解を受けますから、私としては、そういうふうに考えますね。

これは、ぜんぜん霊的に合っていないんですよ。

ですから、夫婦である間は仕合せになれませんね。


それから、こういう反対のある場合は治らないんですよ。

いつも言う通り、その霊が邪魔してね、霊の邪魔というのは実に恐ろしいもので、

その一家にいると、絶えずその霊が働きますから、その邪魔によって浄霊の力があんまり強くないんですよ。弱りますからね。

ですから、これは浄霊している教師は、本当は止めた方が良いです。

そうして時期を待つんですね。

ところが本人がなかなか止められないから・・・それに、すがってくるでしょう。

そうしたら、本人に穏やかに ・・・結局離れるようにした方が本当は良いですね。

それでないと、こういうのは、霊的に食い違っているんだから、仕合せになれないし、信仰にも入れないんですね。

従って、幸福にはなれないというわけになる。


これは、つまり結婚が間違っているんですね。

こうなると、恋愛結婚は良いということになりますが、恋愛結婚でも見合い結婚でも、結局同じことですが、

これはその人が霊に曇りがたくさんありますから、うまくいけないんだから、

それだけの苦しみをして、霊がそれだけ浄まるんですから、浄化ですよ。

病気でない浄化ですね。

それは、それだけの苦悩なんですから、一番良いことは、信仰をして神様にお願いして、御主人を刺激しないようにして時期を待つんですね。

そうすると、その人に御守護がだんだん加わると、自然に離れられるか、さもなければ御主人に信仰心が起って、円満になるか、どっちかですからね。

その辛抱ができなければ、離れるよりしかたがないですね。

それは、その人の気持ちですね。

その道理だけを説いて、あとは本人の自由意志と・・・それよりしようがないですね。」




明主様御垂示 「親族の反対がある患者からは手を引け」 (昭和27年3月6日)

信者の質問
「NT(四十七才・男性)昭和二十六年一月肋膜炎再発し、生命危篤を御浄霊でお救いいただき、一カ月ほどで教会に通わせていただくようになり、

夏には家業(鮎の集荷)もできるようになりましたが、

十月三十一日名古屋別院にて明主様に御面会いただきましてより、全身御浄化をいただき、

ちょっとした運動にも息切れがして、呼吸困難となり、床に就くようになりました。

現在は頭重、肩の重圧感があり、痰はヌラのようなものが続いて出ております。

食欲はございませんが、二杯くらい食べられますが、少しずつ衰弱しております。

教会より御浄霊に来ていただくようになりましてから、暖かい日は二、三時間は起きておりますが、長くなりますと寒気がいたし疲れます。

昼間より夜間は用便に起き、動いた後は胸の圧迫感が特にひどく苦しみます。

なお本人は四年前重い湿性肋膜炎にて四カ月ほど医療を受け捗々しくございませんでしたが、お道にて治していただきました。

光明如来様は昭和二十六年一月に御奉斎させていただきました。

御浄霊の急所につき御教示のほどお願い申し上げます。」

明主様御垂示
「二杯くらいだったら、食欲はなくもないじゃないですか。

急所をはずれているんだ。こんなのはわけなく治るんですがね。

肋膜というものは再発するに決まったものでね。

やっぱり、以前に固まっている所があったんです。

それは、胸から背中から触ってみると、熱い所が必ずありますからね。

この人は熱がそうとう出るんです。

肩から頸に熱がある所があるから、そこを浄霊するんです。

そうすると熱がだんだん冷めてきますからね。

そうすると、食欲が起ってだんだん治ってきます。

咳は・・・」


信者の発言
「あまり出ません」

明主様御垂示
「なんでもないですがね。あなたは力を入れやしないでしょうね。抜いているですね。」


信者の発言
「私がまいりますと楽になりますが、奥さんや近所の方がいたしますと・・・」

明主様御垂示
「そういう人にやらせなかったら良い。あなたがやれば良い。」


信者の発言
「毎日は行けませんのでございます」

明主様御垂示
「毎日でなくても良い。こんなのはわけないです。」


信者の発言
「昨年一月より五回ほどいたしております」

明主様御垂示
「そうすると一カ月行かない月もあったんですね。」


信者の発言
「さようでございます」

明主様御垂示
「まだ、今やっている人の霊力が足りないんだ。だから溶けないんです。

あなたがなんとかして助けてやりなさいよ。遠いんですか。」


信者の発言
「一里ほどでございます」

明主様御垂示
「なんでもないじゃないですか。」


信者の発言
「親戚が反対でございまして・・・」

明主様御垂示
「それだ。それで治りが悪いんです。それじゃ困るな。

そういうのを無理にやると、また問題を起しますから、そういうのは逃げた方が良いな。」


信者の発言
「本人は医者にかかりたくないと申します。本人も奥さんも一生懸命でございまして・・・」

明主様御垂示
「お祀りはしてないですね。」


信者の発言
「お祀りいたしてございます」

明主様御垂示
「その反対者がたくさん・・・そんなにあると、その霊が邪魔するんです。

治らないとたいへんだというんじゃないんです。

治るとたいへんだというんです。

メシヤ教に自分たちが頭を下げなければならないからね。

だから始終その想念が邪魔するんでね。

それで、もしか間違いで治らないことがあると、そうれ見たことかと、それを宣伝する。

やっぱり邪神ですからね。親切な悪魔というやつでね。

別に命には危険はないんですね。衰弱が増すようなら危ないな。」


信者の発言
「医者に見せるように言ってありますが、一日延ばしにしております」

明主様御垂示
「それは困るな。やっばり、お医者さんに診てもらわなければいけないですよ。」


信者の発言
「親戚は、今なら入院すれば治るとやかましく言います」

明主様御垂示
「そいつは面倒だな。やっているのは。」


信者の発言
「奥さんと近所の人が・・・」

明主様御垂示
「それじゃ治りが悪いから、死にでもすると、そうれ見たことか、宗教に迷って、とんでもないことになったと。とにかくこう言ってやるんだね。

親戚や、そういう周囲の方たちが、みんな賛成して、そういう方から、どうか助けてとお頼みになるなら良いですが、

どうもそういう反対者があるところは具合が悪いから、あなたが親戚兄弟に了解をさせて、今言ったようになったら、やってあげます。

さもなければ、やってあげるわけにいかないからと、はっきり断るなり、他の者が頼むなりして、どっちかですね。

やるやらないと、はっきりした方が良い。

そうでなければ問題を起しますよ。」




明主様御垂示 「父親が反対すると浄霊の効果は出にくい」 (昭和25年1月27日)

信者の質問
「子供の百日咳が良くなりましたので、母親は喜んで昭和二十二年七月入信し、その後二十三年五月男児を安産しましたが、

その子が時々発熱し、目の付近に腫物が一面に出来て一年位になります。

夜も熟睡せず未だ歩けません。

母親は耳が遠くなり、乳房が化膿し、これが治りますと、今度は乳首が切れて痛むので、授乳出来ず、遂に止ってしまいました。

父親は世間の悪評を聞き妻子の浄化をガミガミ叱るのですが、御浄霊を受ければ楽になるので、父親に隠れては時々浄霊を受けにまいります。

父親に見付かれば叱られるので続けては出来ません。

母子の指導法並びに御浄霊法を御教示ください。」


明主様御垂示
「子も母も薬毒が沢山ある。

これは止めた方がよい。

父が反対するとやりにくい。

でないと素晴しい大神様を侮辱する事になる。

だから、勿体ないからやめた方がよい事になる。」




明主様御垂示 「家族に反対者がいると浄霊が効かない」 (昭和25年5月3日)

信者の質問
「松江市の産婦人科の病院長、医博MN(六十九歳・男性)、二年前肋膜炎を発病、昨年秋中風になり、左半身不随、口が利けなくなり、四十度前後発熱し、昏睡状態に陥り、日赤病院長も死は時間の問題と匙を投げました。

その直後御浄霊に通うようになり、その後相当激しい浄化もありましたが段々快方に向いつつあります。

現在までに御浄霊約九十回施しました。左半身も相当自由に動きますし、口も利けるようになりましたが、意識があまりはっきりしません。

食欲は全然ない時と非常に沢山食べる時とあります。

所が妻及び娘は非常に熱心にお縋りしていますが、長男の医師が全然本教を否定し、かつ神様に対し御無礼な言動もありますが、今後御浄霊を続けるべきでしょうか。」


明主様御垂示
「長男が反対なのはまずい。

頭に溢血の血が固まっている。充分浄霊すればよい。

本当に縋ればやるし、反対者があると治りが悪い。

賛成者が多ければよい。」




明主様御垂示 「反対者の霊は浄霊を妨害する」 (昭和24年10月28日)

信者の質問
「私の母(八十五歳)が昨年十一月に肝臓が痛んで注射で止め、後で目が見えなくなってまいりました。

私が浄霊を致しますと大変喜びますが、兄が反対ですから時を待っておりますが、現在は母は床についたままです。

今目以外の浄化はありませんが、毎日紙々と言って紙遊びをします。霊的でしょうか。お伺い致します。」


明主様御垂示
「卵巣を除去すると失明する事がある。

反対者なく頼まれれば、やってやる。

反対者の霊は邪魔をする。」




明主様御垂示 「入信しない父の想念が浄霊の効果を妨害した事例」

信者の質問
「二十三歳の娘、慢性胸膜炎入院中を救われ、退院致しました。

その後、喀血十回に及び、浄霊を受け漸次良好となりつつも、食欲少なく寝たり起きたりしています。

右、浄霊法を・・・。母は入信してますが、父親は入信の意志ありません。」


明主様御垂示
「父親の想念が邪魔するから治りがわるい。おかげばなしなど読むようにする。」




明主様御垂示 「病人に死を知らすことの是非」 (昭和24年8月25日)

信者の質問
「はっきりと死ぬと知れる程衰弱している病人には死ぬ事をはっきり知らせるべきでしょうか、最後まで死ぬと言わない方がよろしいでしょうか。

勿論家内の信仰の程度にもあると思いますが、はっきり死期を知らせた方が霊は救われますでしょうか。

最後迄、観音力に御縋りなさいと云う程度でよろしゅう御座いましょうか。御教え下さいませ。」


明主様御垂示
「どっちへも決められぬ。死ぬと言っていい場合、そう言った方がいいか無闇に言えぬ。

ことによると難しいから覚悟した方がよい、死の間際でも観音様にお縋りすれば助かる事もある位に言うといいであろう。

しかしこういう事もある。

死の覚悟を決めると病人が助かるし、生きるつもりの病人は死ぬ点もある。」




明主様御垂示 「神様にお任せすると神様の霊がよけい入る」 (昭和26年10月15日)

信者の質問
「昨年二月、医師より肺結核と診断され、マイシン二十本、栄養剤など服用しておりましたが、

本年二月ごろより御浄霊をいただくようになり、お蔭様にて高熱、喀痰その他結核症状は十日ばかりにて去り、非常に感謝いたしさっそく入信。

順調に経過しておりましたところ、五月十日突然大喀血の御浄化をいただき、これが約一週間続き、それ以来現在まで四十度くらいの高熱が毎日続き、絶え間なく咳も出ております。

最近は咽喉(のど)も痛くなり、発声も不能となりました。

食欲はややありますが、咽喉の痛みと連続的な咳のため食べかねております。

また咳の隙をみて食事を口にすると、咽喉に玉のごときものが抑えつけ、呼吸もできなくなり、やむなく口の中の食物を吐き出してしまいます。

また本人は全身的にリウマチのような苦痛ありと訴えております。

衰弱は日々加わっております。右は薬毒のみの御浄化でございましょうか。

または霊的原因もあるのでございましょうか。」


明主様御垂示
「これは薬毒ばかりではないですね。霊ですね。

こういう場合に、こういうことがありますよ。

先にありましたが、命を取ろうという霊が憑っているんです。

そうすると、医者にかかると喜んでいるんです。

お医者が良いあんばいに、自分に共同してくれるからね。

そうして薬毒をつぎ込むに従って命が縮まってきますからね。

命を取ろうという憑霊の目的にはごく良いんですからね。

メシヤ教なんかに救われますと、これはたいへんだ、とんでもないやつが出てきたというので、馬力をかけるんです。

医者に任せておけば安心・・・薬を服んでいると安心だ、結局自分が命を取っちゃう。

メシヤ教が出てきてはたいへんだと、どこまでも馬力をかける。

そういうのが、こういう結果になるんですがね。


それから、もう一つは、長くそういうふうに執着を持って憑いた霊は容易に退けない。

命を取ると退けますがね。霊が霊界に行ってしまいますからね。

それで、早く命を取ってしまわなければならないというので、それが咽喉に玉のごとき・・・というそれです。

どうかすると、こういうのがあります。これが困るんですよ。これはかなり激しい方ですね。

それも、薬毒がたんとないと、そういう霊もなかなか思うようにいかないが、薬毒がたくさんあると・・・マイシン二十本なんてやられていれば、霊は活動し良いんです。

これはちょっと受け合えませんね。

まあ、霊を救う心算(つも)りでできるだけ御神書を聞かせてあげるんですね。これは問題ですね。


それからこういうことがあります。

どうしてもこの病人を治したいということは、悪いことではないが、それがかえって障ることがある。

そうすると人間の霊が・・・生きた人の霊ですね。

それが始終その人に来る。

そうでなく、なにごとも神様任せで、神様にお任せしておこうというと、神様の霊がよけい入ってくる。

だから執着を取ると、よけい治るということがよくあります。

だから人間が手段を尽くすだけ尽くしてもいけない時は、やはり神様の思し召しがあるんだから、よろしく神様にお任せします、というそれで良いんです。」




明主様御講話 「諦めると霊体が開放」 (昭和10年12月21日)

「も一人の足の片方が太くなった病人の娘ですが、それは助けようとする父母の想念が邪魔したように思われる。そういう事実はたくさんにある。
 
この子はぜひに助けたいと思うようなのは、かえって死ぬ。

こんな人間は邪魔者だから、どうでもいいと思うと、かえって死なないのです。

これは、生の執着が邪魔するんで、治療する場合に、特にこういうことが多い。

子なら子を治療する場合、観音力の霊光注射すると、そういう場合なかなか清まらぬ。

親が無関心でいるとよく清まる。

親が助けたい助けたいと思っていると、親の霊が子の霊体へ入って行く。

そういう子の病気などは、親の霊が曇っているから、せっかく観音力で浄めていても、親の想念のために曇る。

諦めると親の想念が除れるから治って行く。

ですから、少し危いときは諦めなさいと反対に言いきったほうが、助かる場合が多い。

病人自身でも、生の執着をとった病人は治りいい。

死を覚悟した病人は助かる。

重い病人でも助かるが、諦めるほうが早く治る。


諦めると霊体のほうが開放されるようになって、観音光がよく入るんで、

助かろう、助かろうというときは、その人の霊身は固くなる。

ですから、なるべく重病人は諦めさせることが肝腎です。
 
これをもってみても、飛騨さんに駄目だと思わせたのは、いかに観音様のお心持ちであるかが判る。

ですから、人間のほうでは、いけないと思えばいけないと言えばいい。

要するに助かればいい。

すべて観音様がやっておられるのですから・・・」




明主様御対談 「問答有用 徳川夢声 連載対談」より (昭和26年5月6日発行)

明主様御発言
「しかしそういう霊覚が始終じゃないんですね。

まわりに大勢人が見ているところで実験をするというような場合は、うまくいかないものなんです。」


夢声氏の発言
「まわりにいるそれぞれの人が霊を持っているから、邪魔するわけですね。

雑音があってラジオが聞こえないようなもんですな。」

明主様御発言
「病人がありますね、そのうちのものが、わたしらのなおし方に反対する場合、なおされると自分の顔がつぶれちゃうでしょう。

そこでなおらないようにという想念が病人に来る。

そういうのに限ってなおりが悪い。

ですから家族のものに反対のあった場合には、よすということになっています。」


夢声氏の発言
「想念の妨害があったら、霊の作用ってものは妨害されるわけですね、当然。」

明主様御発言
「あるうちを訪問しますと、なんだか気分の悪いうちと、非常に気分のいいうちがありますね。

きょうはこういうことをしなきゃならんのに、こいつが来たためにできなくなった、困ったなという、

それがこっちへ来るから、なんとなく落ちつけない妙な気分になる。

反対に心から歓迎する場合は、その想念がこっちへ来るからいい気持ちになるんです。」


夢声氏の発言
「もてる、もてないなんてのは、それですね。ブオンナばかり揃ってるところへいっても、もてるといい気持ちになることがあるのはそのせいかな。(笑)」