浄霊と我について


明主様御講話 「浄霊は一生懸命にならない」  (昭和27年5月16日)

「それからもう一つ注意したいことは、よく御守護の電報が来るんです。

電文を読んでみると、つまらない病気で、非常に重態のように思って、電報打ってくるんですが、どこが苦しいとか、どこが痛いとかですね。

浄霊すれば、他の信者の人がやってもわけなく治るような程度です。

それを、どうしても治らないからよこすんですが、浄霊の仕方がまだ間違っているんですね。

力が入るんです。たいていの痛みは本当に力を抜いてやれば、割合に早く治るんですよ。

力が入ると治らない。ですから力を抜くことを、いっそう骨折ってもらいたいですね。

それで、力を抜いてその霊ができるだけ向こうに通るようにね。

そうすると非常に治るんです。

ですから、つまり力を抜く稽古をするんですね。

ところが、苦しがったり痛がったりすると、かえって一生懸命になるんですね。一生懸命になると力が入るんです。

だからむしろ一生懸命にならないようにする方が良いですね。

苦しがって七転八倒すると、かえってボンヤリして、なにを苦しんでやがるんだというつもりでね。

ですから、自分の力とか、治そうとする熱意とか、そういうものは出さないんです。

なんだこんなもの、といったような、要するに一生懸命にならないことです。

そうすると良く効くんです。だからそれには力を抜くことですね。そこのところが、一つの修行ですね。」




明主様御講話 「一生懸命になると神様の力の方が薄くなる」 (昭和27年5月17日)

「近ごろよく御守護電報が来るんですが、それに書いてあるのを見ると、

「長い間胃が痛んだ」とか「頭が痛んだ」・・・そういうような電報がよくあるんです。

大体痛みというのはわけなく治るものなんですよ。

浄化作用では、一番激しい浄化作用だからして治りも良いんで、

それがだいぶ長い間そういう痛みがあるというのは、

あれは浄霊の仕方がやっぱり悪いんです。


というのは力を入れるんですよ。

よく、一生懸命にやるということを言いますがね。

お蔭話なんかにも書いてありますが、一生懸命にやるとどうしても力が入る。

だからそこを間違えないようにしなければならないですね。

一生懸命にならない方が良く治る。

一生懸命になると人間の力の方が多くなるから、神様の力の方が薄くなる。

治してあげたいというのは結構ですが、治すのに一生懸命になるというのは、いけないんです。

だから、ぜんぜん一生懸命にならないで、ごく軽い気持ちというよりか・・・

軽い気持ちというとかえって徹底しないので・・・

まあ、どうでも良い、ええい面倒くさいと、そういう気持ちが良いんです。

私はそういう気持ちでやっているんです。

どうせ、うんと薬を服みやがったんだから、自業自得だ。

だからまあかわいそうだから治してやるんだけれども、そうなにも一生懸命になる必要はない
というような・・・

極端ですが、そういうような気持ちでやる方がかえって治る。

すると、神様のお力の方が強くなって、人間力の方が弱くなるから治るんです。

痛みなんか、ごく力を入れないでやるとじき治るんです。

軽い気持ちで、霊が通れば良いんですからね。

それで霊を通そうとすると力が入るんです。

そこが難しい。だから力をできるだけ抜いて霊を通そうとする。

そうするとだんだん慣れてきますからね。

そうすると痛みなんか割合早く治る。

どうしても痛みが治らないという御守護電報は、そういうわけなんです。力が入るんですね。」




明主様御講話 「火素の増加と浄霊」 (昭和27年10月27日)

「最初に注意したいことは、このごろまた浄霊に少し力が入るようです。

みんなではないですが、人によっては力が入るようです。

これはそういうものなのですが、お陰話にでも御守護の電報にでも、それが良く出ているのです。

「一生懸命に浄霊しても、どうだ」ということがあるが、

一生懸命浄霊したらいけないのです。

治りが悪いのです。

だから先に随分言いましたが、決して一生懸命にやってはいけないのです。

一生懸命といっても、腹の中は一生懸命でも良いですが、

その一生懸命が手に出てしまうから力が入るのです。

ですから軽い気持ちで力を抜くのです。

そうすると治りが良いのです。

こう(御浄霊)やって、どうも治りが悪いなと思ったら、力が入っているのです。


ますます霊界が変ってきて火素が増えるに従って、よけいそうなるのです。

つまり人間の力というものが邪魔するのです。

力を入れるとせっかくの霊を邪魔してしまうのです。

それだけ治りが悪くなる。

ですから私なんかでも、始終力を入れないようにしています。

そうするととても良く治る。

今までの人間は、たいていなことはあべこべをやっていたのですから、これなんかも理屈からいうとあべこべです。

なんでもなく治るような事が割合に治ってないが、それはみんな力が入るからです。

いまは非常に火素が増えてますから、病気は非常に簡単に治るのです。

あなた方でもたいていな病気は簡単に治ります。

どうも治らないという事は力が入っているのです。」




明主様御垂示 「面倒くさいなという気持ちで浄霊せよ」 (昭和28年1月5日)

「それから浄霊について話したいことは、いつも力をぬけということを言いますが、力をぬくというだけでは足りないのです。

というのは、みんな「一生懸命」にやりますがそれがいけないのです。

「一生懸命」にやるがためにどうしても力がはいるのです。

ですから「なんだこんなもの、一生懸命にやってもしようがない、かわいそうだからやってやれ」というような、ばかにしたような気持ちでやるのです。

ですから「一生懸命」にやるといけないのです。

「ええい面倒くさいな」という気持ちだとよくなおります。

これはおもしろいのです。だから一生懸命だとなおりが悪いのです。

一生懸命にならないとなおりがいいのです。あべこべです。

しかし神様にお願いするのは一生懸命でいいのです。

「どうか楽にしてもらいたい、なおるようにしてもらいたい」というのは結構ですが、

浄霊の方は今言ったようにごく軽い気持ちで、なおそうと思うのは結構ですが、なおそうと思うだけであって、手に力を入れたり、一生懸命な気持ちが浄霊の手の方にいってはいけないのです。

浄霊は軽くなんでもない気持ちでやるのです。

試してごらんなさい、そうするとなおりがいいのです。」




明主様御講話 「一生懸命に浄霊するのが一番いけない」 (昭和28年1月6日)

「それから注意したいことは、浄霊するのにどうもまだ「一生懸命」にやるきらいがあるのです。

この「一生懸命」にやるのが一番いけないのです。

「一生懸命」にやると人間の力が加わりますから、

できるだけ一生懸命にならないようにしなければなりません。

春風に吹かれているような気持ちで、少し極端ですが「面倒くさいが、かわいそうだからやってやる」というくらいの軽い気持ちでやるのです。

なおしてやろうという気持ちは結構ですが、それだからといって一生懸命にやると手に力がはいるのです。

ですからできるだけ軽い気持ちで、今言ったようにするのです。

私は浄霊をしても決して一生懸命にやっていません。

「みんながかわいそうだから」というつもりでやっているのです。

そうすると非常に効き目があり、時間が短くてすみます。

これはふつうとあべこべですからよく間違うのです。

今まではなにごとも一生懸命にやる癖がついてますから、

そこに注意して、どこまでも一生懸命にならないように練習するのです。

そうするとずっとなおりがいいです。

これはたいへんな違いです。」




明主様御講話 「一生懸命がいけない」 (昭和28年1月7日)

「最初にちょっと注意したいことは、浄霊のやり方にどうもまだ力がはいるようなのです。

その力がはいるというのは「一生懸命」にやるからです。この「一生懸命」がいけないのです。

しかも急病とか患者が苦しんでいる場合には早くなおしてやろうとしてよけいに一生懸命になるから、かえって効かなくなるのです。

だから患者が苦しんでいる時や、早くなおしてやりたいという時ほど「一生懸命」になってはいけないのです。

神様のことは反対が多いのですから、できるだけ軽く、まるで人ごとのような気持ちでやることです。

というのは、光が御守から手を通って出る場合に、ここ(掌)で一生懸命になると、そこでつかえてしまうのです。

掌はなんでもなく気がはいらないと、この光がずっと通るのです。

私は浄霊する場合には「なおしてあげよう、曇りを取ってあげよう」という気持ちはありますが、

手の方は「ええい、かわいそうだからやってやろう」というような至極不真面目といえば言えますが、そういう気持ちでやってます。またその方がよく効くのです。

ですからそれを忘れないようにしてやることです。まあ、なんでもないことをしているという気持ちです。それを忘れないようにしてやることです。


よく御守護の電報が来ますが、なんでもなくなおるようなことを電報で来るのです。

というのは、浄霊の効きが悪いからなのです。悪いということは力がはいるのです。

それは長くからやっている人と最近の人との違いさはありますが、大体今言ったような点が一番ですから、ちょっと注意しておきます。」




明主様御垂示 「腹に力を入れるな」 (昭和28年3月1日)

信者の質問
「最近「浄霊に力を入れるな」というお言葉をいただきましていろいろ考えますが、

日本人には変な癖がございまして、突貫精神という一つの迷信があり、

メシヤ会館の御奉仕にしましても、今度はどうしてもぜひ頑張らなければならないと言っておりますが、本当から申しますと、反対なことでございますから」

明主様御垂示
「その頑張るという言葉がいけないのです。

ですから私は昔から言うのです。

特に人間は腹に力を入れなければならないと言い、武芸者などがよくそういうことを言います。

ところが私はあべこべです。

腹に力を入れてはいけないのです。

そこで腹に力を入れないと千変万化です。

武芸者にしても、腹に力を入れると、力はそっちのほうに行って、手のほうはお留守になる。

だからそこに一つの覚りがあるわけです。私も前に腹に力を入れる修行をしたことがあります。

岡田式正座法というのも、前にかなり読みましたが、最初は良くて効果がありましたが、やはり長くやっていると悪くなります。」


信者の質問
「腹に力を入れておりますと腹膜にもなりますから」

明主様御垂示
「いつかこういうのがありました。

腹が固くて浄化が起っていて痛むのです。

そこで聞いてみると、禅を三十年やったそうです。

それで座禅を組むと、力は入れなくても、あれは腹を中心にするから、腹に毒が固まったのです。

そのとき私は腹に力を入れるのは間違っているなと思いました。

だからあべこべのことがずいぶん多いのです。

おそらく間違っているほうのことが多いです。

闘病生活と言って「病と闘う」と言うのですが、そうすると病というのは敵のようになります。

ところが病というのは、その人の毒をとるたいへんに結構なもので、

神様の大慈悲ですが、それを敵視するということはいかがに間違っているかということが分かります。

本当は病を愛する・・・愛病生活ということです。

だから秩父宮様のときにも闘病生活十数年ということを書いていました。」




明主様御講話 「浄霊は一生懸命にならない」 (昭和28年5月16日)

「苦しがって七転八倒すると、かえってボンヤリして、なにを苦しんでやがるんだというつもりでね。

ですから、自分の力とか、治そうとする熱意とか、そういうものは出さないんです。

なんだこんなもの、といったような、要するに一生懸命にならないことです。

そうすると良く効くんです。

だからそれには力を抜くことですね。

そこのところが、一つの修行ですね。」




明主様御垂示 「鼻歌気分で浄霊」 (昭和28年10月1日)

信者の質問
「二十八日に電報で御礼申し上げました温泉支部長T(二十九歳)は二十四日帰幽いたしました。御礼申し上げます。

胸と腹の御浄化をいただいておりましたが、一家四人死に絶え罪多きことを考えさせられます」


明主様御垂示
「まだ青年ではないですか。結核の再浄化ですか。

やっぱりどこか間違ったところがあったのです。だんだん浄化は強くなります。


よく御守護の電報で、電報だから簡単に、熱が高い、下痢がどうとか、どこが痛むということを言ってきますが、簡単に治るような症状を書いてあります。

どうも浄霊が割合に効かないようにみえるのです。

やっぱり結局力が入るのだろうと思います。

つまり浄霊してどうも治りが悪いというときには、確かに力が入るのだから、できるだけ力を抜けばずっと治るようになります。

なにしろ御守から霊光が出て、掌から出るのですから、ちょっとでも力が入ると、霊光を塞いでしまうのです。

やっぱり人間の力で神様の霊光を塞いでしまう、と言うよりか、薄くしてしまうのです。

そこに気がつけばよいのです。

ですから一生懸命に御浄霊をするということがいけないのです。

前にも言ったとおり、一生懸命ではなく、逆に楽な気持ちでやるというほうがずっと効果があります。

だから、思うようーということも少し変で、その人の思いようによるが、

割合に治りが悪いというときには力が入っているのだということが一番です。

浄霊しながら鼻歌でもうたいたいくらいの気持ちでやるのが一番よいのです。

それで、神様にお願いするのはいくら一生懸命になってもよいのです。

それは構いませんが、ただ浄霊の場合には自分が治すのではないので、

神様に治していただく、自分はその道具だから、そのつもりになっていればよいわけです。

私などもやっぱりそうです。少しでも力が入ると治りが悪いのです。

もちろんお腹の光が出る場合にも、力というのは腕力ですが、

それが出るわけですから、それだけ光が薄くなるわけです。

だからよくお蔭話に「一生懸命にお浄霊をさせていただいて、どう」ということがありますが、あれはどうも具合が悪いです。

そうかと言って、力を入れないで霊が通らなければいけないから、そこが難しいところです。

通そうとすると力が入るから、力を抜いて霊を通すようにするのですが、それが一つの修業です。」




明主様御垂示 「一生懸命に浄霊すると効かない」 (昭和24年11月19日)

苦心努力は間違い

信者の質問
「病貧争より脱し切れなければ人を導くことは出来難いと承わりますが、熱心になればなるほど貧になり勝ちになり、人がついて来ないということは、いかなるわけでございましょうか。」


明主様御垂示
「間違った熱心だからで、人間力を頼りにする。

神様にお任せする事で、これは熱心な人に多い。

この宗教は今迄の宗教とアベコベで、今迄は努力奮闘したが、それはいけない。

楽にしなければならない。

今迄の救いは下から尻を押上げるやり方だが、教団は上から引っ張るのである。

生活を楽しみ、人を救うのが面白いのでなくては本当の救いではない。

浄霊でも一生懸命するときかぬ。

軽い気持でやると神様の光が強く行き渉る。

他力信仰と自力信仰がある。自力は人間力である。自力は知れている。

観音様の御力を自分の身を通して戴く。

治す道具にさして戴く気分なら骨折る要はない。苦心惨憺とか、苦心努力は間違っている。

楽に、面白くやらなくてはいけない。」




明主様御対談 「一生懸命にやると自力が加わる」 (昭和27年10月22日発行)

為郷氏の発言
「しかし私が霊界というものを信じなければいけないのではないでしょうか。(註 霊界を信じないと浄霊できないのかという意味の質問)


明主様御発言
「そんなことはありません。

ですからそこに価値があるのです。

自力というのは少しもないのです。

自分が一生懸命になるということは、自力が加わることです。

ですから人間の力は不必要です。

いらないのです。

六つか七つかの子供が、親をこうやって(浄霊)治るのですからすばらしいものです。」 (「明主様と為郷恒淳氏との御対談」より)




明主様御垂示 「神様を忘れるな」 (昭和27年12月1日)

「いろいろ一生懸命にやったが、どうしても良くならない。

それから光明如来様(註 御神体のこと)にお願いしたら、それからすぐに良くなった。

というのですが、そういうときには自分が治そう治そうとしているのです。

それで神様を忘れているのです。

それが修行です。」