浄霊の方法について 7 (初期の御教え)


明主様御教え 「治療方法」 (昭和11年御執筆)

「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。

まず初め、拍手を三つ音のせぬ位軽く打ち、観世音菩薩を念じ、

左手を患者の右肩へ軽く宛(あ)て、患者の頭を少し下げしめ、

右手の人差指を以て、その頭脳の中心点へ向って「この者清まれ」と、三度空中へ書くべし。

書くが否や直ちに口先にて、フーッフーッフーッと二、三度息を吹掛け、

右手を開いたまま頭上一寸位の空中を、出来る丈速く左右に擦るようにしては息を吹きかける。

この時間一分間位にてよし。

最初にこれを行う訳は、元来、人間全体の根源は頭脳にあり、いわゆる病原の中府ともいうべき所であるから、まずこれを浄めて取掛るのである。


次に患者に対って、既往の症状、経過、苦痛の個所等、成可(なるべ)く詳細に訊ね、

それによって患部の病原を、指頭を以て綿密に探査しつつ、探り当てるのである。

病原発見と共にその場所へ向って治療を施すのである。


治療上の原則としては、最初患部へ向って右の人差指を以て、「この中清まれ」と三回書き

頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。

この場合皮膚に触れてもよし、触れなくても宜(よ)いのである。

かくのごとくして数回繰返し、指頭を患部に軽く当て、指頭に霊を集注させ、病原を溶すごとき心持を以て軽圧するのである。

この場合病原はほとんど水膿溜結であり、指頭にて触圧せば多少の痛みがあるので、よく判るのである。

かくして息にて塵埃(じんあい)を吹払うごとく、治療中、何回となく吹けばよいのである。

これを繰返す裡(うち)に、病原たる膿結は必ず多少共溶解するものである。

溶解しただけは患者は軽快を感じ、それだけ治癒したのである。

ただし、右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配してよいので、場合により掌を利用してもよいのである。

療術せんとする時首に懸る観音力御守こそは、霊光の受信機とも言うべきものであって、

この御守を通して、観音力霊光が術者の指頭及び掌より放射参透するのである。


次に施術する場合の心の持方について、一言せんに、

この患者を治癒せば、観音運動の為になるとか、

又は物質を提供するならんなど想像する事は、大変不可であって、

ただ患者の病苦が除去され、治癒され救われるよう、念願するだけが良いのである。

何となれば、観世音菩薩の大慈悲は、一切衆生を無差別的に救わせられる大御心であるから、

人に依っての別け隔ては決して無いのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「方法と原理」 (昭和10年御執筆)

「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。

まず初め、拍手を三つ、音のせぬ位、軽く打ち、

人に聞えぬ位の声にて、「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」を二回唱え、

左手を、患者の右肩へ軽く当て、患者の頭を少し下げしめ、

右手の人指指(ひとさしゆび)を以て、

その頭脳の中心に、「この者清まれ」と三度、空中へ文字を書くべし。

書くが否や直ちに、口先にてフーッフーッフーッと二三度息を吹き掛け、

直ちに右手を開いたまま、頭上一寸位の空中を、出来るだけ早く左右に擦(こす)りながら、

度々息を吹きかける。この時間一分位にてよし。

最初に、これを行う訳は、元来、人間の四肢五体の根元は頭脳にあり、

あらゆる肉体の病原の中府ともいうべき所なるを以て、まず、これを清めて取掛るのである。


次に、患者に苦痛の個所、経過等、なるべく詳細に訊ね、これに依って病原を指頭を以て探り当てるのである。

病原を発見すると同時にその場所へ向って治療を施すのである。


治療の原則としては、最初、患部へ向って、右の人指指を以て、「この中清まれ」と三回書くのである。

頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。

かくのごとく、三回繰返し、直ちに指頭を患部に当て、

軽く指頭に霊を集中させ、病原を解かすごとき心持を以て、軽圧するのであるが、

無論、刻々、息にて塵埃を吹き払うごとく、治療中何回となく、行えばいいのである。

これを繰返す裡(うち)に、病原(大多数は水膿溜結)は、必ず多少は溶解するので、

溶解しただけは、患者は、軽快を感じて来るのである。

しかし、右は、原則を示したるにて、実際は、適宜、取捨按配して宜しいので、

場合に依り、掌を利用してもいいのである。

摩擦する場合、皮膚に触れても触れなくても、効果は同一である。


最初、療術せんとする時、観音力の御守りを首に懸けるべし。

この御守りこそ、無限に発揮する、観音力の本源にして、これのみは科学にても、人智にても説く能わざる不可思議なるものである。

否、説くといえども、余程、智慧、証覚の発達した人でないと判りかけが出来ないのである。

治療する場合、この御守りより出ずる観音力が、霊光となって、術者の指頭及び掌より放出滲透するのである。」 (「日本医術講義録」第1篇より)




明主様御講義 「治療士の心構え」 (昭和11年7月)

「治療についての心得を述べておきます。

第一に肝腎な事は治療しようとする時の想念であります。

まず世の中を救い、人類を幸福にしたいという大善心が根本にならなくてはならぬのであります。

これによって巧く金儲けしようとか、この人を治せば大いに自分に有利であるなどと思うのは面白くないのであります。

又、治療の時だけは、施術する位置が肝腎であって、原則として、術者は上座に坐らなくてはいけないので、

常識から見て、その部屋の上座は自ら判るもので、大体入口の方が下座と思えば間違いないのであります。

しかし、その外の場合はなるだけ下座に居るべきで、それが謙譲の美徳であります。

大変良く治る時と治らぬ時、又治る人と治らぬ人とがありますのは、右の様な種々の関係もあるのであります。


次に、問診でありますが、これは出来るだけ訊(き)く方が良いのであります。

又、最初は、患者が疑っておりますが、これは構わないので、最初から信ずるのは無理であります。

しかし一度治病効果を見せられても未だ疑っている人は、それはその人の頭がわるいので、効果のない内に疑うのは当然ですが、

効果をみてもなお疑うのは、先方が間違っておるのであります。

困るのは薬であります。「薬は不可だ」というと、医師法に触れるからいけない。

ところが事実は、薬は服むだけ治りがおくれるのでありますが、この点は特に注意して法規に触れないようされたいのであります。


第二に食物ですが、これも実に困るのであります。

肉食特に牛肉と牛乳がいけない。

なぜかというと、非常に血を濁すものだからであります。

しかし、これらも強いてという訳にもゆかないので、ある程度ー患者の任意にするより致し方ないのであります。

近来、医師により、肉食を不可とし、菜食を奨める人が相当多くなったのは、喜ぶべき傾向と思うのであります。

それについて、面白い話があります。

先日ラジオでこういう話を聞きました。

それは独逸(ドイツ)のヒットラーは非常に摂生に注意を払っている。

その為に、酒も煙草も用いず、又肉食も避けている、というのです。

これでみると、医学の本場である独逸でも、肉食の害を知っている事で、実に意外に思ったのであります。


次に、病人によく梅干を食べさせるが、これは胃には非常に悪い。

食欲を最も減退させるものであります。

元来梅干は、昔戦争の際兵糧に使ったもので、それは、量(かさ)張らないで腹が減らない為であります。

梅干と田螺(たにし)の煮たのを多く兵糧に使ったそうであります。

腹の減らない為に使ったものを、粥を食う病人に与えるのは間違っております。

よく梅干は殺菌作用があるといいますが、空気中ではそうではありましょうが、腹の中へ入ると成分が変化する以上ーそれは疑問であります。」 (「岡田先生療病術講義録 上巻4」より)




明主様御講義 「患者取扱」 (昭和11年7月)

「その前にまず最初、患者を扱う上において参考になる事をお話致しますが、医者の方では大体打診、聴診及び五指の圧診であります。

聴診の方は音を聴く訳で大体肺病のラッセル(ゼーゼーした音)などを聴くには都合よく、

打診の方は肋膜に異常があるかどうかを診る等が重で、叩いてみて音がカンカン言えばいいが、

水が溜っているとボクボクという音がするのであります。

又、お腹を手や指で圧すのですが、吾々の経験から言うとこの圧診が一番良いので、これはお腹ばかりでなくどこでも圧診する必要があります。

なぜなれば、例えば腹膜炎などの場合、その原因は多く腎臓や肝臓にあるのですから、この肝、腎の部を圧して病原を発見するのであります。

本療法における病原発見は実に正確であると思います。

しかしここで心得置くべき事は、取締規則に依れば、療術行為者は病気診断は出来ない事になっている。

ただ患者の苦痛である個所を治療するだけしか許されていないのでありますから、それらの点を充分心得て善処されたいのであります。

私等が新患者に対する場合、まずイキナリ額へ手を宛(あ)てる。

そして熱ければ必ずそこに毒血がある証拠です。

そういう人は頭が重いとか、眩暈がするとかいう症状がある。

次に、両方のこめかみへ手を宛てると熱い。こういう人は必ず頭痛がするのであります。

次に、眉毛の部を押してみて痛い人は毒血がそこに溜って居て眼に異常がある。

上瞼を押して痛い人は確実に眼病になっている。

それは眼球に毒血が溜結しているからであります。

まず、病原発見はこういう工合なのであります。」 (「岡田先生療病術講義録 上巻5」より)




明主様御垂示 「昭和二十年代前半の手振り浄霊」 (昭和23年7月18日)

信者の質問
「御浄めの際、手を振りますのはいかなるわけでありますか、振らないと霊光が少ないのでしょうか、また振り方は縦横いずれでもよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「手を振ると光が強くなるのです。

ある十二歳になる子供で光の見えるのがあり、振ると光が強まると言ってました。

実際振ると深くも行き的中するのです。

私はもう振らずにじっとしてやるのだが、あんた方は振らなければいけない。

熟練した人はあまり振らなくてもよいが、初歩の人は振るように教えたほうがよい。

また振り方は細いほうがよい。

縦はいけない、振りにくいでしょう。・・・横がいいですね。 (中略)


御浄め(註 浄霊のこと)のとき一心になって手を振るのはごくいけない。

人間がやるのではないから一生懸命になればなるほど御力が妨げられる。

軽い気持ちでやったらよい。

また手を振っていれば、同時にみつめてもいるから勿論額からも御光は出ていますよ・・・」

(註 世界メシヤ教になる前は、浄霊のとき手をふることが推奨されていた)




明主様御垂示 「昭和二十年代前半の手振り浄霊」 (昭和23年12月18日)

信者の質問
「御浄霊の際に掌を振動する意義について御教示の程御願い申し上げます。」


明主様御垂示
「手を振動するといくらか強くなるし、患部を狙う場合霊光が集注し易い。

振った方がよく霊がゆく。」




明主様御垂示 「昭和二十年代前半の手振り浄霊」 (昭和24年5月3日)

信者の質問
「御浄霊するとき、掌を静止しているのと、振動させているのとでは、霊光の強さに差異を生じるものでしょうか。」


明主様御垂示
「霊光の差異よりか、こうして振ると目標に当たりやすく、悪い所に集中しやすいんです。

効き目は変わりませんが、しかし、じっとしてるとよほど熟練しないと目標に当たり難いんです。

また、振るのでもこんなふうに大きくやるのはいけませんね。

細かくやるんです。細かくやらないと狙うことができませんよ。

そしてできるだけ奥に通るように自分の心で思うんですね。

こっちを(掌の親指の側)をやるんだったら、こっち側(小指の側)を狙うんですね。

奥に通るのと通らないのとではたいへんな違いですからね。」

(註 昭和24年以前は、浄霊の際、手を振ることが推奨されていた)




明主様御垂示 「昭和二十年代前半の手振り浄霊」  (昭和24年8月)

信者の質問
「私は御浄霊の際、手の振り方を左進右退の方向にやっておりますが、

昨年十月ごろより右手が冷たくなり二、三人続けて御浄霊いたしますと背中が寒くなります。

最近は暖かくなったためかそれほど寒くは感じませんがその意味について御教えください。」


明主様御垂示
「左進右退なんかにしなくていいんですよ。私はこんなこと言いませんよ。だれかが勝手に想像してそう言ったんでしょう。

実は、手を振らないで、じっとこうしてるだけでもいいんです(御手を静止せられる)。

ただね、こうやったほうが、(わずかにお振りになられる)奥へも通るし、狙いもつけやすいからやるんですよ。

こんな、左進右退なんかにしたらかえって成績が悪いですよ。

ごくわずか振ればいいんです。

冷たくなるってのもそのために冷たくなるんでしょう。

やはり間違ったことをやってるとお知らせがあるんですよ。

浄霊すると暖かくなるのが本当ですからね。」




明主様御垂示 「昭和二十年代前半の手振り浄霊」

信者の質問
「御浄霊を致しますに際し、その掌を静止しているのと振動させるのとは霊光の強さの差異が御座居ましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「振った方が奥へ行き易い。悪い所へ集中し易い。

よほど熟練しないと、じっとして奥まで通らぬ。

故にどっちも力は同じである。」




明主様御垂示 「守護神の戒告 浄霊法の誤り」

信者の質問
「私は手の振り方を左進右退の方向に御浄霊を行なわせて戴きました。

昨年十二月頃より御浄霊を致しますと右手が氷のように冷たく(右手のみ行ないます)なり、二、三人続けますと背中が寒くなって参ります。

寒い日には特に手の冷たさや寒さを強く感じます。

最近暖かくなりましたためか背中の寒くなりますのは楽になりましたが、いかがな訳で御座いましょうか。宜敷く御守護御願い申し上げます。」


明主様御垂示
「左進右退にする必要はない。

本来じっとしておいてもよい。

ただ奥へ行かすためと、見当のつき易い為振るのである。

反ってこんな事をすると治りが悪い。成績が悪い。

そのために守護神が気を付けるんだと思う。

間違ってる事をしてるとお気付けがある。」