浄霊の効果について
明主様御教え 「序論 人類救済の根本」 (昭和11年5月15日発行)
「人類救済という言葉ほど、極めて大きく広い・・・又、温い響を与えるものは無いであろう、昔から、人類救済の為に尽した聖者賢哲は、無数であって、そのいずれもが多少の貢献と、相当の功績を遺(のこ)した事は、否めない事実である。
しかしながら今、私が言わんとする事程絶大な救の事業はあるまいと思うのである、それは何か、他でもない、人類から病苦の悩みを、除去しようとする事である。
いかなる人が、いかなる批判を下すとしても、病気を治すという事程、素晴しい救は無いであろう、宗教でも、医学でも、いかなる方法でもいい、病気を無くする事が出来れば、それは、未だ曾(か)つて地上に顕われた事のない絶大な功徳である。
飜(ひるがえ)って今日の社会を凝視してみる時、何と悲惨なる世相ではなかろうか、今仮に一人の難病者が出来たとする、大抵は入院をする、手術をする、少くとも、それに数百金は要するであろう、
それで全治すればよいが、なかなか治らない、遂に一年二年三年にも及ぶ時、最早、数千金を費消し尽されてしまう、
その際、子女なら未だしも世帯主である場合、勤先は馘(くび)になるのは、知れ切っている、
又、妻女である場合、家政婦か下女を、傭(やと)わなければならない、それやこれやで長年の貯蓄や積立金も費消し尽して、なお、病気は治らないという例は余りにも多いのである。
そうして病長びけば、生活の心配や、煩悶により、益々衰弱悪化するのは当然である・・・金は使い果し、職は失い、借金は出来、家賃は滞り、進退全く、ここに谷(きわま)るという悲惨な例は随所に見受くるのである。
そうしてこの場合、兄弟親戚知人等も連帯責任の止むを得ない場合が、往々あるのである。
又・・・その勤先の会社、又は主家に迷惑をかける場合もあろう、間接には、国家社会に対しての損失も蓋(けだ)し、すくなくはないであろう、
又万一の場合もあれば、本人のそれまでの教育費や、修業の損失も少くはないであろう・・・子女である場合・・・養育費の損失も、相当なものであろう。
従って一人の難病者が出来た事によっての個人的苦悩と社会的損失は、蓋し軽々ならぬものがある。
そうして、幸にして全治されたとしても、その時は既に、金は無し職は無し、債鬼には責められ、新に職業を求めようとするも、それは一大難関である。
又相当な資産家であっても、二三人の難病者・・・又は、死亡者を出す事によって酷い零落をした実例も、よく見るのであって、折角、大学まで入れた子息も、女学校へ通っていた娘も、涙を揮って、退学の余儀なきに至る事もよくある。
広壮な家から見窄(みすぼ)らしい家に、転落した気の毒な人も、幾度となく、私は見たのである。
これらの実例は、世間到るところに、今、有過る位であって、珍らしくもないのである。
故に当局も、社会政策上、これらを救おうとして、生命保険、健康保険、済生会、実費診療所等・・・相当な犠牲を払ってはいるが、容易に所期の効果は挙げ得ないばかりか、あるいは・・・漸増する傾向さえ見らるるのである。
これら今日、余りにも多数に起りつつある、不幸の原因は、そもそも何が故であろうか、それは一言で言えば、西洋医学の「治病能力」が、余りにも薄弱であるからと言えるのである、
医学がドシドシ迅速に病気を治してくれたら、それで解決して不幸にまでは到らないはずである・・・
又、この事について既成宗教においても、そうである、最早神力や仏力がないから、病気は更に治らない「治らないから」病苦のまま諦めさせようと努力するのみである。
そうしてそれが、正しい信仰と錯覚してしまっているという実に情ない状態になっている・・・故に、医学と同じく、宗教も解決してはくれないのである。
しかるにここに我療法による時、いかなる難症といえども、発病後直ちに、ツマリ医師に掛ろうとする時来るならば、それは容易に治癒されるのである。
まず、速きは二三回、重症でも十回以内と見ればよい、そうして、予後、ほとんど再発が無い事である。
従って・・・費用も時日も、実に僅少であるから、不幸者が出来ようはずが無いのである、
これ程の「大医病力」が創成されたるに係わらず、今日まで・・・余りにも治らない西洋医学の現実性が、頭に染着いている現代人は、容易に信ずる事が出来得ない、
それらの人達へ対して本療法を受ける気にならせることは、療病よりも困難であるとさえ思う事が・・・よくある、
しかし、新しい運動には例外なく有るべき、困難事ではある事も、吾々は覚悟している。
とは言うものの難病苦が全癒されたばかりか、永久・・・不幸の発生が無いという・・・確信を得たところの体験者が、日に激増しつゝそれらの人々が自分と同じである、多数の不幸者を熱心に導くその事は貴い事で・・・何よりも喜ばしく思うのである。
次に最近、社会局の調査によれば、都会の小学児童の四割までは、結核性虚弱児童であるという、実に寒心すべき報告であって、国家の前途に対し実に由々しき大問題である、
しかるに、これらも、本療法を行えば、一ケ月以内の時日に依(より)て、生れ更った様な健全児童に変ってしまう事は常に実験しているところである。
故にもし、この驚くべき治病の事実が、一般に知れ弥(わた)った時、いかに大いなるセンセーションを起すであろう・・・それと共に、いかに多くの病者が殺到する事であろう、
随って、その時に応ずる為の治療士も養成しつつあるのである、無論、この療法が、世界的にまで発展する事は、火を睹(み)るよりも瞭(あき)らかであるが
「その時代」我「療病術の偉力」を知った・・・彼ら白人が、いかに随喜し拝跪(はいき)するであろう事は、今から、想像に難くないのである。 (岡田仁斎)」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
明主様御教え 「明日の医術 大日本健康協会編纂」 (昭和11年5月15日発行)
「本療病術は、実に、明日の医術である。
現代における、西洋医術や、漢方医術と対比してその治病力の絶大さは、到底比較にはならないのである。
そうして現代医学はあらゆる病原がほとんど不明で、風邪の原因すら今以て不明であるにみても、その大成は、前途遼遠である。
又治療の方面を見ても、癌腫、盲腸炎等のごとき、膿の溜結が、明かに判明するに拘わらず、その膿の一滴すら、切開手術以外、除去する事が出来得ないのである。
しかし仮に、除去し得たとしても、再びその患部及び隣接部に、膿の集溜をさせない方法は、絶対に無いのである。
しかるに、本療法は、一滴の薬剤も用いず、何ら物的器具を用いず、ただ、指頭を皮膚面に触れるだけによって、癌腫も盲腸部の膿結も、全部溶解消失するのである。
この場合、膿は解溶して、漿液に化するのであると共に、多少の残渣(ざんさ)は、尿又は糞便に混入して排除されてしまう、
又、毒血の場合、その毒分は解消して、清浄な血液に変化するので、毒血を除去するのでないから、一滴の血も減少しないのである。
又、医療によれば、順調の経過を執(と)るとしても、盲腸炎は、一二ケ月の時日と、手術入院料等に数百金を費さざるべからず、
しかるに、本療法によれば、盲腸炎は三日以内に、全治し、費用も、数円を以て足りるのである。
癌腫に至っては、医学上全治はほとんど不可能とされているに拘わらず、我療法に依れば、瀕死の衰弱者でない限り必ず全治するのである。
何となれば余りに衰弱して居れば、癌腫溶解まで、生命が保てないからである。
又、子宮癌は、二三回ないし五六回を以て全治し、胃癌は、一ケ月以内にて全治するのである。
その他、肺炎は、一週間以内、赤痢、疫痢等も、五六日にて全治すべくその他、あらゆる病気は、右に準ずるとみて、想像されたいのである。
いかなる難症的病気にても、罹病後、直に来る者は、大抵数回にて、全治するのであるから実に、百パーセントの治病成績と言っても、決して過言ではないのである。
もし我療法によるも、時日を相当要するのは、いずれも、誤れる医療等によって、拗(こじ)れたるが故である。
かくのごとく、偉大なる本療法の発生は、個人の幸福は固より、国家進運の上からみても、量り知れない利益であるは勿論、
人類の理想である、病無き世界は、ここに可能となったのである。
これが普(あまね)く、全般に、知識さるゝに及んで、現代医学は、大革命を起さない訳にはゆくまい。
そうして、それが、一日早ければ一日だけ速く、全人類は、救われるのである。
最後に、付加えたい事は、この療法は、習得すれば、何人にも、出来得るという事である。
それは、一週間の実地講習と、およそ半ケ年位の、実地経験に依って、博士の持て余した病人が、治療される実績は、幾多の人々が、日々経験し、その奇蹟に驚歎、感謝して居るのである。 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
明主様御教え 「治病に於ける観音力に就て」 (昭和10年10月21日発行)
「肺結核、喘息、痔瘻、癌腫、中風、梅毒、近眼等、従来難治とされていた疾患が、
僅少なる日数を以て治癒されるという驚くべき奇蹟が、日々顕(あら)われつつある実際を、
現代人の少年期から、科学一点張りで、叩き込まれた頭脳へ、理解させる程困難な事は、恐らくはあるまい。
それは、未開人に向って、空気の説明をするよりも、なお至難であろう。
その時代の文化そのものは一つの定型を成している。
その定型のレベルから、数段をも跳躍したアルモノが生れた時、
識者達はそれを、今までのレベルの物指で測ろうとするのであるが、
無論その物指(ものさし)には合わない。
そうした時に決り切ってその、アルモノを罵詈(ばり)非難するのも、一つの人的定型である。
ただ、その中に、その時代の文化に満足出来ないで、
より高跳的、破型的のアルモノの出ずるのを期待翹望(ぎょうぼう)するところの、少数者もまた、必ずあるものであって、
この人達が、新生のアルモノを使命の様に高揚発展させてくれるのも不思議である。
いわゆる、先覚者なるものがそれである。
毎号本紙には観音力による多数の治病実績を掲載しているが実は掲載し切れない程の多数の奇蹟が日々続出しつつあるのである。
故に本紙に掲載するのはホンの一部でしかないのである。
しかも、第三者から見て各記事が誇大とされ勝ちであるが、これはむしろ反対であって、
却て、実際のままを書けば、誇大にさるるのを虞れて、余程控え目にしているのである。
そのごとく、難病治療者達が、自己の体験を第三者に語る時、
そんな奇蹟があるものかと、信じてくれないと言う事の嘆声は日々聞くところであって、
滑稽なのは、数年来の痼疾(こしつ)が、短時日で治療した為、
家族の者さえ信じないという、嗤えない事実も時々あるのである。
それが為に、掲載者の宿所番地まで、詳細に記入し直接本人に訊(き)かれるよう便してある訳である。
この様な治病の大偉力が新しく発生されたと言う事は誰よりもまず医師諸君が怪しまなければならないはずである。
その結果徹底的に検討すべく吾々に訪ねて来なければならないと思うのである。
何となれば医学そのものゝ目的は人類から病気を無くするそれより以外には無いはずであるから。
又医学以外で治った実例、記事などを見る人はよくいうのである。
それは、治ったのだけを発表するのであって、治らないのは発表しないのであると。
これは無理のない見方で確にそういうのも、世間には相当あるであろう事も知っている。
しかし正直に発表するが、吾々に来る患者は、種々の療法で治らなかった者が、ほとんど大部分である。
それにも拘わらず、八十パーセンテージ以上の治病率を挙げている。
一点の誇張もない事実である。
かくのごとき治病成績は世界のどこにも歴史にも絶対無いであろうが、事実は歪める事は出来ない。
そうして医師諸君に吾々の冀(こいねが)うのは、吾々のこの報告を一まず受入れて事実そのものを突き止めらるの労を惜まれない事である。
そうして我門に足を運んで参観されてもいいがなるべくは習得されて欲しいのである。
それも専門家であれば、一週間位で済むしその結果、従来の西洋医学と比較してくれたならその治病効果のいかに優れるかにおいて驚歎する事は断言し得るのである。
今まで一ケ月の治病日数を要したものが三日で治るであろう。
なお且つ諸君は、病理解剖等、専門的な技能を有されているから、それに観音治病力を併有せらるるにおいては、諺(ことわざ)に言う鬼に金棒である。
しかしながら、観音治病力などと言ったら、その言葉だけで、迷信として笑殺してしまうかも知れないが、
その点である、百の学理も、一の事実には如かないと言う。
その事実を冷静に凝視されたいのである。
全病患者は、病患の説明をされるよりも、治癒される事をいかに希望しているかを充分知られているはずである。
もし、事実に眼を蔽(おお)い、あるいは事実を知っても雲烟過眼視して、相変らず、科学一点張りで進むという事は、文化人としての怠慢ではなかろうか。
又今他の新興宗教においても、そういえるのである。無医薬的な治病の、奇蹟的成績を旺んに発表している。
無論、これらも進んで研究されなければならないのは、言うまでもない事である。
医療を棄てて、多くの人が、それら宗教へ趨(はし)ると言うのは、医療以上の、アルモノがあるからではないか、
そういう人達を目して、一概に迷信であると片付けて平然たるは、
余りに独断過ぎて、いずれが迷信しているかは、区別を付けられないであろうと思う。
しかるに西洋で、医学上の新発見をしたという報告は、最大級の関心を持つのが常のようであるが
それら多くは、基礎医学に属するもので、実際の治病法発見は、まことに少ないのである。
のみならず、今日までの実績に徴すれば、最初発見された薬剤も治療法も、
時日の経過によって、そのほとんどが、発見当時の、救世主的待遇がいつしか稀薄になってゆくという事実を、余りにも多くを、見せつけられている。
彼の六〇六号のごとき、又ラジュウムのごときでさえ、
東郷大将の喉頭癌が、三十五万円のラジュウムを使用してもついに治らなかったと言う事実は、余りにも雄弁に無効果を証明している。
しかるにも関わらず、手近な、日本においての治癒成績は、いかに顕著であろうとも、全然触れようともしないで、否定してしまっているのである。
ただしかし、それは、科学的でないという、それだけの理由でしかないのである。
人類の病患が科学以外には治療の方法が無いと断定されてる時代の人類こそいかに憐むべきであろうか、
何となれば科学を幾層倍超越した素晴らしい治病法が発生されたとしてもそれは一部の者より外、
全般がその恩恵に浴する事が出来ないという不合理である。
今日の文明が、協力して進歩して来た事ははっきりと歴史が物語っている。
ただしかし、今日までは学問の上にのみ、それが多かった事で、言い換れば西洋的なものに限られていた事であった、
しかるに近時、西洋人も目覚めて来た、日本研究や、仏教研究等がそれである。
又一部の医家が、漢方灸治等の研究に手を染めて来たのも、褒むべき事である。
故に私は提唱する。医学は、人類から、病患を絶滅するという、最高目標を建ててる以上、
社会のあらゆるものの治病成果を、調査検討すると倶(とも)に科学の垣根を撤廃して、
宗教的でも、霊的でも、精神的でもいいから、事実を主に、学理を従として、大乗的に進まれたい事である。
そして、真に治る、短期に奏効する、再発しない、大医学を、我日本から、創建しようではないか。
この大事業は当事者のみでは足りない、政府も科学のみに偏せずして、事実を調査検討、真に人類を救うに足るべきものが在ったら、進んで援助されたい事である。
政府者のある人々が、西洋医学を絶対として他は何物も排斥するという態度も考慮されたいのである、
ここで申(かさ)ねて言う、文明は協力される事によってのみ発達するという原則を。
ともあれ、科学文明の一大転換期が来つつある様に、医療の一大転換期も、迫り来たのは、争えない事実である。
何となれば、現在の科学からみて、夢想だも出来ない程の、大治病力が、既に発生されて、
日々その奇蹟が加速度的に増加しつつあるという、その事実が証明して余りあるであろう。
停止する事を知らない人類の進歩から言えば、少しも怪しむに足らない発生事であるが、
科学に固着して、何物をも見ないという、頑迷的態度こそ、いかに文化の進歩と人類の福祉とを、阻害する行為であるかに、目醒める事である。
そうでないと、誰かが言った、文化的野蛮人の言葉を、消す由(よし)がないであろう。」
明主様御教え 「現代医学は何処へ行く」 (昭和11年御執筆)
「現在、医学研究の為に、日本だけに見ても幾千の人と、一ケ年幾百万の費用を使って、研究に専心没頭しつつある事である。
それは吾々から見れば、全く徒労のような気がしてならない。
忌憚なくいえば、それらは一小部分に溜(とど)めておいて、今一層有意義なる事に転向したならばと常に思うのである。
こんな事を言えば、狂人の言葉とも見られるかも知れないが、以下の論旨によって、深く検討されたいと思うのである。
一体、医学の目的とは何ぞやと言えば、言うまでもなく、人間病気の根絶である。
それ以外に何物もあり得ない事である。
故に、日本は固より、全世界文明国の医に携わる数多(あまた)の学者権威が智能を絞り、日夜苦心惨澹、分析研究に努力しつつあるのは、終局の目的たる病気根絶の為である事は、言うまでもないのである。
故に、それらは最終の目標たる病気根絶のそれまでの研究でもあり、努力でもある訳である。
故にもし、今直ちに病気根絶の方法が発見され得たとしたら、最早、研究努力の要は無い訳である。
しかしながら、余りに意外な私のこの説を、直ちに受入れるのは困難であろう事は判っている。
どうしても綿密な実験以外に解りようはずが無いからである。
医学上最も難治とされる癌、結核、痔瘻(じろう)、喘息、脳溢血、中風、癲癇(てんかん)、発狂、梅毒、脳膜炎等、あらゆる疾患が、
罹病後直ちに来れば、二、三回ないし十数回の治療によって全治するので、
治病率百パーセントの実績は決して過言ではないのである。
現在あらゆる治療に散々拗(こじ)らされたる患者が大部分であるに係わらず、
なお八十パーセンテージ以上の治病実績を挙げつつあるにみて、想像され得るであろう。
事実に抗弁し得る力は絶対に有り得ない。
繰返して私は言う。かくのごとき完全療法が成立した以上、医術はこれのみになる事は必然の理である。
今日の薬剤、医療器械等、数十年の後には、博物館へ歴史の参考品として飾られるかも知れないとさえ想うのである。
この療法あるを知らずして、それの恩恵に浴せない事程、不幸な人達はあるまい。
否、それよりも最大級の不幸な人というのは、この療法を眼にし、耳にしながら、信ずる得(あた)わずして、遂に貴重なる生命を失う事である。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「科学では説明出来ぬ 治病観音力」 (昭和11年御執筆)
「医科大学総長・教授諸君並に医学専門家に斯文を呈す
絶対に薬剤を用いない、機械を用いない、暗示を与えない、信仰的でもない、精神療法でもない、
病気が無いなどと思わせない、疑っても、信じないでも、難症がどしどし治ってゆく治病方法が発見されたのである。
例えば、扁桃腺が一回で治り、盲腸炎が二回で治り、歯痛は即座に治り、赤痢が五日間で治り、肺炎は四、五回で治り、
その他肺結核、痔瘻、胃癌、梅毒、喘息、中風、腎臓病等の難症、
しかも、あらゆる療法を受けて拗(こじ)らしたる患者の治病率が八十パーセンテージ以上の実績を挙げつつあるという事実を報告したいのである。
専門家諸君が、拾数年の歳月と努力と数千円の学費とを費やして得たる治病の力より、
我観音力に依る一ケ年の修業の治病力は、恐らく拾倍の実績を挙げ得るであろう。
過去幾千年の人文史上、夢想だも為し得なかった治病力とその方法の創生という、驚嘆すべき一大事実の発現である。
いかなる大発明といえども、この事に比しては太陽の前の電灯のごときものであろう。
しかも、治病力ばかりではない、健康の真諦を把捉し得らるる事である。
それは、観世音の霊告による健康法に従えば、個人も一家も社会も、病魔が無くなるのである。
しかもこの方法たるや、祈祷のごとき煩雑なる手段や浩瀚(こうかん)なる書籍を読む等の労を要しない。
経済的負担においても極めて軽微である。
一生を通じて重症に罹る事は絶対無い事を保証する。
何となれば、発病するや重症に到らないまでに治癒されてしまうからである。
人間が重病に罹らないとすれば、ここに真の天寿は全うし得らるるのである。
この事の経験を知らなかった今日までの人間は、二十代、三十代で夭折(ようせつ)しても寿命であると諦め言葉で済していた。
もし天寿で逝くならば、苦痛は絶対無いはずである。
死の苦痛があるという事は天寿では無いという何よりの証拠である。
ちょうど枯れた木は力無く折れる、これは自然であるからである。
しかるに生木は容易に折れない。
もし、生木が生物であるとすれば、苦の悲鳴を揚げるに違いない。
これらによってみても、人間が重病に罹らないとすれば、天寿即ち、八十歳以上の齢を保つ事が出来る訳である。
人類は、本来天寿を保つべく造られたのであったにも係らず、現代のごとく短命になったという事は、実は不可思議であった。
それはある理由によって、病患を治癒する神の力が顕現されなかったのであった。
これに対して批判や理屈は成立たない。
なぜなれば、事実がそうであったまでで、人間が神の御心を想察し得らるるはずが無いからである。
なぜ台風が吹くか、なぜ地震で災害を与えるか、なぜ洪水を氾濫させるかと言って愬(うった)えるのとひとしい愚さである。
故に神力の顕現が無かった時代としては、物質によって治病するより外止むを得なかったのはむしろ当然である。
故に、この時代の人間が無神論であったのも無理からぬ事である。
この空前の大事実は、時の進むにつれて、弥々(いよいよ)多数の人類がこの恵みに浴さない訳にはゆかなくなるのは当然である。
ちょうど人力車を便利とせられた時代が、いつか自動車に更ってしまったという事にたとえられる。
ただしかし、生命の問題として交通機関の改革変遷よりもいかに切実な緊要事であるか測り知れないであろう事である。
何よりも私は、医学専門家諸賢にこの事を知識されたいのである。
もし一般社会がこの治病力を識るに従って、薬剤物理医学は揚棄されなければならない時が来るのは瞭(あき)らかである。
そうなってからでは既に遅い。一日も速いのが自他共に幸である。
かように誇大妄想狂に等しい事であるが故に、反って誤解され勝ちなのを、遺憾に思うのである。
しかしながら、事実は一歩も枉(ま)げる事は出来ない。
それは議論でも、学理でも、観念でもない、生きた大事実であるからである。
私の最も希望する所は、医科大学において、斯界の権威諸士の面前において、あらゆる病原を解明し、
観音力に依て病患が治癒されてゆく実際を研究の為に、私を招聘(しょうへい)されたい事である。
そうして、西洋医学と私が創成した日本医術とを比較検討されん事である。
これは一範囲や一階級や一定事にだけの問題ではない。
実に永遠に渉(わた)る人類生命の大問題である。
この事に因って現代文明が大転換の基調となるであろう。
日本は一躍世界の崇敬の的となるであろう。
学問は革命せられ、ここに卓越せる識者達が夢のように空想していた宗教と科学との一致が実現され得るであろう。
「光は東方より」の言葉はこの事であった。
地上天国もこの事であった。仏説の弥勒聖代もこの事に外ならなかった事を言って、一先ず筆を擱(お)く。」
明主様御教え 「結核解決策」 (昭和18年11月23日発行)
「現代医学によって結核を解決せんとし、あらゆる施策と、熱心な努力を払いつつあるに係わらず、
その事が反って結核を増加する結果となるという理由については詳細述べたつもりである。
しからば、現下の大間題である結核を、いかにして解決すべきやという事を説明しなければならない。
それについて私は二十数年の間、西洋医学と全然異なる立場において、非常なる努力研鑚の結果結核の正体を突止めると共に、
治病率九十パーセントという、まことに空前ともいうべき治療方法の創見に成功したのである。
ゆえに現在私の門弟である本治療専門業者及び非専門業者をあわせ、無慮数千人のものが、日夜結核及びその他の治療に専念しつつ、素晴しい成果を挙げている事である、
そうして結核二期までの患者はそのほとんどが全治し、第三期以後の症状とすれば、まず七十パーセントくらいの治癒率であるから、平均して九十パーセントは確かであろう。
右について、最も意外とする所は、医療を長く加えた患者、すなわち薬毒多量の保有者及び長期間の絶対安静者ほど治癒率が悪いのである。
従って、この事によってみても、医薬及び絶対安静療法がいかに誤っているかが知れるのである。
ゆえにこの事実をもってすれば、医学の進歩とは、治る進歩ではなく治さない進歩と言い得るのである。
すなわち再三述べたごとく自然生理作用ともいうべき浄化作用を停止する事をもって、唯一の方法としている今日までの医学の進歩であったからである。
ゆえに西洋医学を対症療法というが、全くその言のごとくで、表われたる症状のみを消滅せんと研究しつつ、ついに現在あるごとき各種の療法となったのである。
ゆえに、近来達識(たっしき)ある医家は、現代医学は病気を治す事を知って、病人を治す事を知らないというが、全く至言である。
すなわち一局部の病気症状のみに拘泥して全体を無視しているという訳である。
また医家において余病発生という事をよくいうが、これは実は理屈が合わないのである。
何となれば、本来の病気を治療しながら、それの治癒しないうちに、更にまた新しい病気が発生するという道理はないはずである。
これによってみても病気を治癒する目的の医療は、病気をふやすという結果にならざるを得ないのである。
しかるに、右のごとき浄化停止の方法に反し、私の創成した医術においては、自然発生の浄化力を何倍にも強化する方法である。
すなわち自然における浄化力に対し本治療を加える時、三倍五倍ないし十倍にも達するのである。
従って苦痛も何分の一に減じ、治癒までの日数ももちろん何分の一に軽減するのである。
そうして医学においては、皮下にある膿一滴といえども、肉を切り、血液を消耗し、痛苦を与えなければ排泄する事は不可能であるに反し、
本医術においては、外部から患部にいささかも触れず、なんらの苦痛も与えないで、短時間にその目的を達し得るのである。
一例を挙げれば、盲腸炎のごときは三十分以内くらいに痛苦は去り、下熱せしむるのである。
そうして再発の憂いなきまでに根本的に治癒させるには、その後数回の施術によって目的を達し得るのである。
しかも医学の手術においては、全治後といえども必ず多少の残膿があるが、本医術による全治者は残膿等がなく、完全に治癒するのであるから、他の疾患に対する効果もおして知るべきである。
右を一言にしていえば、医学は固むるのを目的とし、本医術は溶かすのを目的とするのであるから、その根本において相反するのである。
最後に私は断言する。それは本医術によってのみ結核問題の解決は可能であるという事を!」 (「結核の正体」より)
明主様御教え 「結論・結核は治る」 (昭和24年6月25日発行)
「私は前項までに結核の原因を説くと共に、医学的解釈の誤謬も充分説明した積りである。
これを読んだ大抵の人は納得が行ったと思うのであるが、今一層徹底しなければならない。
以上説いたごとく、医学の解釈と吾々のそれとはあまりの違いさで、むしろ全然反対といってもいい。
従ってそのいずれが真理であるかは、治病効果によって判定する以外正確なる結論は得られまい。
ここでわが療法とその効果の事実のありのままをかいてみよう。
本療法はもちろん薬剤も機械器具も、唯物的方法は一切行わない、ただ人間対人間の治病法が、その原理である。
生れながらにして人間に保有せる霊と称する眼に見えざる一種のエネルギーを応用し、発揮し、治病の効果を挙げるのである。
この場合必須条件として、術者は本教信者である事、
しかし患者すなわち被術者は無信仰者でも差支えなく、大いに疑っても効果に関係はない。
よく世間では信仰しなければ治らないというが、本教浄霊においては全然そのような事はない。
その証拠には幼児が最も効果著るしいのである。信ずれば治るという事は、自力であり、本教浄霊は他力であるからである。
本教浄霊によれば、現在のところ結核の治癒率はまず八○%は確かであろう。
実をいえば百%の治癒率は得らるるのであるが、二十%位は非治癒者が出るのはやむを得ない理由がある。その事を以下説明してみよう。
感冒から肺炎、肺結核になる順序は一通り述べたが、この説明から読者は何を発見し何を把握し得たであろうか。
それはいうまでもなく現代医学の一大誤謬であって、その誤謬が生んだ医学である以上、病気を完全に治癒するのではなく、対症療法の言葉の通り、一時的苦痛緩和に過ぎないのである。
ところが意外にも苦痛緩和の方法が、実は病気悪化の結果となる事で、これが問題の焦点である。
さきに説いたごとく、苦痛緩和の方法として、溶解毒素を固結状態に還元させようとする。
それには衰弱させなければならないので極力種々の衰弱法を行う結果、長く医療を受けたるもの程衰弱ははなはだしく、薬毒も多量保有者となっているから、
その排除に時日を要するのは当然で従って病気は軽快するが、衰弱は増し衰弱によって斃(たお)れるのである。
これが二十%の理由である。
以上私は結核についての医学の誤謬と本教浄霊の効果について赤裸々に述べたが、私の説はあるいは法規に触れるかも知れない。
法規に触れないまでも医家の一部の人達から反駁や排斥の手段を執られるかも知れない。
何となれば私の説が肯定されるとしたら、医学の革命となり、全世界医学に関係ある人達の生存問題にまで及ぶという結果もあり得るからである。
これらを考慮する時、私としても今日まで発表を幾度躊躇(ちゅうちょ)逡巡したかしれない。
しかしながら真理を発見し、病なき世界たらしむる事の可能である事の確信を得た以上、黙止し能わざるに至ったのである。
そうして永い人類史上にも全然見当らない、私の仕事というものを客観する時、神は私をして人間が病苦から解放さるる時来ったことを示すと共に、それを遂行すべき大いなる力を与え給うたのである。
また宗教を別に学問方面からみる時、こういう事も言えるであろう。
いかなる学説といえども反対学説が表われ、その優劣を競う事によって文化の進歩はあり得るのである。
万一私の学説が非であれば必ず消滅するであろうし、医学の学説が非であればもちろん消滅するであろう。
この意味において、既成学説の牙城以外、いささかも触れないで否定してしまう事は決して学問に忠実な態度とは言えないであろう。
例えば今次の大戦中、仮に非戦論者が非国民として排斥されても、終戦の結果それらの人こそ先見の明ある識者たる事を賞讃された生々しい事実に対し、想い及ぼさざるを得ないであろう。」 (「結核と神霊療法」より)
明主様御教え 「此事実」 (昭和18年10月5日発行)
「私は、本医術が現在いかに国家に貢献しつつあるかという事を書いてみたいのである。
勿論私は現在直接治療に従事してはいないのであるが、各方面において、私が養成したところの多くの治療士及治療士以外の弟子達が治病報国にいかに専念努力しつつあるかという事である。
大病院において見離され、大国手(こくしゅ)や医学博士に匙(さじ)を投げられたるもの即ち死に直面した際、本医術によってたちまち起死回生の歓びに浸ったり、
一生不治と諦めていた永年の痼疾(こしつ)、障害者等が完全人と復活したり、子女を失わんとして悲歎のドン底に沈みいる際、短時日にして生命を取止め、新しく子女を恵まれたと喜ぶ親達等、かような実例は実に枚挙に遑(いとま)ないのである。
特に私はこの重大時局に対して、皇恩の万分の一なりとも御報恩の誠を尽すべく念願しつつあるのであるが、その現われとしての一端をかいてみようと思うのである。
現在国家の枢要任務に鞅掌(おうしょう)しつつある陸海軍人、将官級佐官級尉官級等の将士、傷痍(しょうい)軍人諸君の重難病は元より右の御家族の病患を全治させ、健康を全(まっ)たからしめ、安心して軍務に尽しつつある幾多の実例や、
国務大臣又は大臣級の諸賢、その御家庭、各重要産業会社の重役技師、産業戦士諸君等、社会各層の枢要部門に携わりつつある人士にして、本治療によって健康を恢復し、又はされつつある方々は無数に上るのである。
これを言い換えれば、本医術によって国家の枢要部門に当る人士を新しく産みつつあるという事を言い得るのである。
何となればもし本医術を知らず、受療の機会に恵まれなかったとすれば、無論生命を失われたであろうからである。
勿論、嬰児(えいじ)を出生する事も肝要ではあるが、それよりも今現実にこの重大時局に当っているところの成人者を産む事のいかに重要であるかは贅言(ぜいげん)を要しないであろう。
私は、この事実を当局が一日も早く認識さるる事ほど、今日の緊迫せる時局に対し重要事は他にないとさえ思うのである。
しかるに当局は現在において、民間療法を極度に圧迫している事実であって、まことに遺憾の極みであるが、それらは全く右のごとき実際的効果を知らないからであろうと思うのである。
言うまでもなく現在の保健機構が西洋医学を基本として作られたる法規によって取締る以上民間療法は第二義的のものとして扱わるるのも致方ないのであるが、
ともすれば医療妨害という法規を楯に、いささかの過誤にも眼を光らせ罰則を課するので、民間治療士は実に戦々競々(せんせんきょうきょう)としている実状である。
嗚呼、国家の為右のごとき功績を挙げつつあるに拘わらず、恵まれざる事かくのごとしとすれば、罪いずれにありや、識者の考慮を求めたいのである。
従ってこの際何とか当局の覚醒を促(うなが)さなければならない事を痛切に思うのである。
私は、利己的小乗観念を捨て、大乗的見地に立って観る時、当局者は固より医師諸君においても、あらゆる民間療法と共に本治療の効果を実験されん事を冀(ねが)うものである。」 (「明日の医術 第2編」より)
明主様御教え 「浄霊医術」 (昭和28年1月1日発行)
「これから米国における現在の病気状況の調査表と併せて、私が創成した治療法(浄霊法)によって全快した人達の感謝報告を載せるが(省略)、
これは全部本人手記のものであるから一点の間違はないので、万一疑のある人は、宿所姓名を詳しくかいてあるから、本人にブツかって訊けば何よりである。
しかし専門家も一般人もこれを見たら、現代医学に比べて余りに卓越せる治病力に到底信じられないであろう。
しかも施術の方法は患者から数尺離れて、空間に手を翳(かざ)すだけで、時間は十分ないし三十分くらいの短時間で終り、
何らの器具も費用も要らないで、一人で一日数十人の患者を施術出来るのであるから、これこそ最も進歩せる理想的医術である。
そうして文中明主様とあるのは無論私の事である。
なお驚くべき一事は、何ら医学の素養もなく普通教育程度の者なら、商人でも、労働者でも、農民でも、官吏、会社員でも、数日間の教修によって、この技術が修得されるのである。
その結果大病院から見放された者、博士から死の宣告を受けた患者でも、一時的ではなく根本的に治るのであるから、
実に二十世紀の奇蹟であるどころか、世界肇(はじま)って以来未曾有(みぞう)の大奇蹟といってよかろう。
今この治病効果を医学に比ベたら、医学が一とすればこれは百といっても過言ではあるまい。
ゆえにこの医術が世界中に行渡るとしたら、ここに病なき世界の実現は期して待つべきである。
ではかくのごとき素晴しい治病法が、なぜ今世紀に生まれたかというと、これを徹底的に説くには、どうしても宗教的にならざるを得ないと共に、
進んで本教信者になるより仕方がないが、それは別として本著の目的は、現在のアメリカの現状を知って到底黙止出来ないので、取敢(あ)えず警告の第一歩として発表するのである。
そうしてこれに関して最も重要な一事はこのような驚くべき病理の発見と、それに伴(とも)のう治病力を与えられたという理由であるが、
これこそ神エホバの神意の発動によって、私をして最後の救いを行わしめんがためであって、この点深く銘記されたいのである。
その証拠として彼のキリストの治病奇蹟である。
現在数十万に上る私の弟子が日々顕わしつつある奇蹟は、キリストと比較して勝るとも劣らない例も数多くあるので、これら多数の奇蹟中から、その一部を載せたのである。
そうしてこの報告は、目下のところ一力月百数十から二百通に上っており、しかも月々増えつつあるので、
本教発行の週刊栄光新聞並びに月刊雑誌地上天国に満載されているが、
近来載せ切れなくなったので、嬉しい悲鳴を挙げている程である。
また実例中特に癌、結核、精神病、小児麻痺の四種は、現在米国で最も困っている病気であるから六例ずつを載せ、他は三例ずつにしたが(省略)、
この例も別段顕著なものを選んだのではなく、手当り放題採り上げたものである。
というのはいずれも大同小異で選択の必要がないからである。
ところで遺憾に思うのは、この著を読んで心が動き、直ぐにも浄霊を受けたい米国の人も多数出来るであろうが、今のところ不可能であるから暫く待たれたいのである。
というのは我方においても出来るだけ早く、優秀な浄霊施術者を選んで出張させるべく、目下準備中であり、遅くも来年上半期中には実現の運びになる予定であるからである。
しかしこの著を熟読玩味しただけでも病気の本体と医学の根本がある程度分る以上、それだけでも相当の効果があるはずである。
ではこれから個々の病気について解説する事にする。」 (「アメリカを救う」より)
明主様御教え 「病気などは容易に治る」 (昭和11年5月17日御執筆)
「今日、社会における療病法を検討する時、その余りに治病能力のないのに驚くのである。
仮に、盲腸炎、窒扶斯(チフス)、肺炎位の程度の病気であってさえ、早くて一、二ケ月・・・長きは半ケ年にも及ぶのが実際である。
しかも、不幸にして生命を落す者さえあるに到っては、実に驚くの外は無いのである。
しかも、病気によっては二年三年、又十年以上に及ぶ者さえ有ると言う事実は、驚くよりも歎かざるを得ないのである。
しかし、世人はこれを常態として何ら怪まずーただ諦めているという果敢(はか)ない実状である。
私はこれらを視る時、現代人が余りに健康を恵まれない事に、悲しまざるを得ないのである。
実に上は高位高官を初めとし・・・社会に相当「名を成す者」、又は天下国家の為・・・相当の抱負を抱いている者・・・手腕ある者・・・大天才ある者等々が割合・・・働き盛りの年齢で、すくなからず死んで行くのを見る毎に、痛歎を禁じ得ないのである。
その他・・・大志を抱いて病床に呻吟する者、偉才を抱きながら、療病生活に懊悩(おうのう)を続けつつある者、後継者を失って自失する者、事業の蹉跌(さてつ)に遭う者、一家離散する者、財産を蕩尽(とうじん)する者等、
それら不幸者を調査したなら・・・いかなる多数に上るや量り知れないであろう。
それは・・・その悉(ことごと)くが容易に病気が治らないという、その一点に帰するのである。
私が日々多くの病者を取扱いつつある、その経験に依れば、いかなる病気も実に容易に治癒されてゆく。
難病などという言葉は私には無いのであるが、ただしかし、割合日数の多くかかるものがある。
それはなぜであるかといえば、病気が重患であるからではない。実際を言えば・・・薬剤の毒である。
即ち薬剤を多量に服用した者注射療法をされた者等であって、実に薬剤によって血液を溷濁(こんだく)させられ、浄化力薄弱になったが故である。
又、その他の原因としては、電気や光線療法によって病膿を固結させたが為である。
故に、忌憚なく言えば、薬剤及び物理療法によって自然治癒力を衰弱させたが為である。
要するに、現代医学の治療に災させられたる為であるから、その誤療を訂正するそれに対しての日数がかかるのである。
故に、医療の少ない者程治癒が速かであるのが、実験の結果として瞭(あきら)かになったのである。
そうして、それは長年に及び多数の患者を扱えば扱う程、いよいよ顕著になってゆくばかりであって、今日は最早一点疑う余地が無いまでに確実になった事である。
この様な説を読む世人としては、実に驚愕するであろうし、殊に専門家諸君はより以上驚愕するであろうが、事実はどうする事も出来得ないのである。
故に、この様な説を発表するにおいて、医に関係ある多数人士に対しては、実に忍びないのであるから、それが為、長い間いか程躊躇(ちゅうちょ)逡巡した事であろう。
しかしながら、益々社会大衆の病患者激増を目前にして、最早晏如(あんじょ)たる能(あた)わず、勇を鼓して発表するの余儀なきに到ったのである。
故に、政府者も専門家も一般大衆諸君も、この説に対し、活眼を開いて徹底的に検討されたいのである。
この根本が真に明瞭になった暁・・・病気は治り易いという真理を発見する事が出来るのは必然である。
ただし、ここに一言言っておきたい事は、灸治法、掌療法、指圧等、薬剤と物理を応用してない患者は、いずれも多少の効果を奏して居る事は認め得らるるのである。」
明主様御教え 「西洋医学の大革命 盲腸炎は切らずに治る」 (昭和11年御執筆)
「西洋医学は、あらゆる方法を竭(つく)し、解剖分析実験等に由て、全世界の専門家が智能を傾けているに拘わらず、
予期の治病能力を挙げ得られないという事実は何が故であろうか。
今仮りに、人体の皮下一センチメートルに膿の固結ありとする。
それを針を用いずメスも用いずして、患者に何ら苦痛なく、その膿の一滴さえ減少する事は出来ないであろう。
その適例として、彼の盲腸炎における虫様突起の化膿である。
その膿を排除するに、どうしても手術によらなければ不可能であるという事によってみても瞭(あき)らかである。
しかるに、我観音力治療法によれば、指頭から発する一種の霊光がその膿結に向って放射する時、その膿は漸次減少してゆくのである。
そうして、それは患者の目前において、数分にして極めて瞭らかに膿の減少するのを患者自身が知覚出来得るのである。
そうして、膿結は著しく柔軟化し、それだけ痛みも軽減されるのである。
従って、時間と回数を重ぬるだけは治癒されるのであって、小なる固結は数分にして解消し、痕を留めざる事もあり、
盲腸炎のごときも数十分の治療を施せば痛みは全く去り、解熱し、治癒するのである。
この事実と比較してみて、我々から言えば、西洋医学の治病力は、その効果の余りに薄弱であるのに驚かざるを得ないのである。
しかし、見様によっては、それが普通であって、観音力療法が余りに卓越しているのかも知れないのである。
故に、忌憚なく言えば、西洋医学は児戯に類するとさえ思われる事が屡々(しばしば)あるのである。」
明主様御教え 「脳溢血は絶対予防し得る」 (昭和11年御執筆)
「近時社会の名士とか有用な士で、漸(ようや)く学問経験を経、真に意義ある目的と希望を実現しようとする頃、惜しくもたおれてしまう痛恨事である。
これが原因として、最も多いのが脳溢血である。
この病気は、そのまま鬼籍に入るか、幸にして生命を得たとしても、例外なく中風に罹って、全治して活動し得るまでに治癒する例はほとんどないといってもいい位である。
私は、これらの事実を新聞紙で見る毎に痛惜(つうせき)に堪えないのである。
それは、一回でも私の所へ来たならばそれを免れ得たにと、いつも思うのである。
特に将官級の軍人のそうした場合、国家の為を思い、痛歎久しくするのである。
しからば、脳溢血の原因は何であるかというと、毒血が全身に充満して、ある程度を越えるからである。
現代人が体的には肉食と飲酒、薬剤の服用に、霊的には、罪穢の堆積であって、ただそれを軽減又は解消する方法が無いが為である。
実は宗教がそれを為すべきであるが、今はその力がなくなっている。
ただしかし、医薬以外の治療法で、幾分軽減する事は出来得るが、絶対予防は不可能である事である。
しかるに、観音力浄化法によれば、絶対的に予防する事が可能である。
否予防という言葉は当はまらないかも知れない。
予防ではない、その原因である毒血、その毒素分を解消して浄血してしまうから、脳溢血は起りようがないのである。
故に、脳溢血の素質のある人、例えば、眩暈(めまい)や首筋、肩の凝り、手の痺れ等が前兆であるから、そういう徴候を感じたなら、速かに観音力治療を受ければよいのである。
百人が百人、脳溢血に罹らないまでに浄血されてしまう事は断言し得るのである。
それのみならず、たとえ、脳溢血が起る程度でなくとも、不浄血の所有者は故障が起り易いのである。
風邪、頭痛、視力薄弱等に犯され易く、又、頭脳の明晰を欠き、判断力、集注力に乏しいから、すべてに失敗勝ちである。
常に不快感を伴うから、飲酒やその他で紛らわそうとする事にもなる。
これを要するに、常に血液の濁らない様にするこそ、脳溢血予防と共に大いなる利益があるのである。」
参考 明主様御垂示 「浄霊によるも精神更生は困難」 (昭和23年10月28日)
信者の質問
「御浄霊により肉体的に救われても、精神的に更生される方が少ないのはなぜでございましょうか。」
明主様御垂示
「精神的に更生できないというのはどういうわけですか?」
信者の質問
「例えばいつまでも夫婦喧嘩を続け、いっこう更生したように見えない方がよくございますが・・・」
明主様御垂示
「ところがなかなかそうは変わりませんよ。
夫婦喧嘩をしなくなるまで二、三十年はかかりますよ。
急激にぼんぼん変わればたいしたものです。・・・
それよりも他人ではない自分です。
自分がそう簡単に治るかどうかを考えたらよい。
五年かそこらで自分の心が治せたらたいしたものですよ。
それから時期ということもありますしね。
順序や段階もある。
以前私が大本教に入っていたころ、いい宗教だと思っていたがちょっとおもしろくないこともあり、五年くらい止めて離れていたことがありました。
ところがある人からもう一度研究してみるようにと言われたので、またやり直したらやや判り、それから熱心になった。
結局私は大本教から別れたがその間はずいぶん熱心にやりました。
そのときに得たところは非常に多く、いまでも感謝しています。
こういうふうだからただ表面から見ていいとか悪いとかは言えないんですよ。
この道に入っても、初め熱心でそれから不熱心になる人もあり、またその逆の人もある。
働きのありそうな人でも結果の出ない人もあり千差万別です。
また時機によってその人の本当の働きになったりするのです。
だから私はたいていのことはなにも言わずにやらせる。
そうするとうまく行くのです。
間違ったことをすればいずれ行き詰まり、自分でビックリして改心することもあります。
人間は執着をとることも必要なんだから、ほおっておいたほうがよい。
行き詰まるところまで行かせたほうがよい。
坂を転がり落ちる石を途中で止めようとしても無理で、落ちるところまで落ちてしまってから止めたらよい。
それと同じで行き詰まったときに話をしてやることが効果があるのですよ。」
参考 専従者の寄稿 「野辺送り 隠坊・メシヤ教を語る」 槐安生 (昭和29年1月25日発行)
「旦那はメシヤ教の方ですね。どうして解るって、そのバッチに覚えがあるんですよ。
メシヤ教っていうのは大そうあらたかな神様だそうですわ。
いや・・・別に御世辞を並べて御心付けを戴こうなんて、そんなさもしい根性でいっているんじゃありませんよ。
そう・・・もうかれこれ二年ぐらい前のことでしたかね、旦那と同じバッチを付けた人が骨あげに見えましてね、それでメシヤ教ってえことを知ったんです。
あたしが受持ったその時の仏さまは、まだ子供で、確か、十六か七だったと覚えていますが、その時の仏さまが素直に焼けたのを見ましてね。
骨あげの御世話をしながら、失礼ですがこの仏さまは子供さんながら信心深かった人のようですね。
と言ったところ、どうしてそれが解るか、って訊かれたんです。
旦那がたは御存知ないでしょうが、仏さまを焼いているとき、その様子を窯の後ろの穴から見るんです。
中を覗かなくったって重油で何時間、石炭なら何時間、薪では何時間と、時計を見ていれば解るんですが、
万が一、火を落してから骨になっていなけりゃあ大変ですから、念のため覗いて見るんです。
いつか新聞に出たから知っていなさるでしょうが、男の仏を焼いていたら、その腹の中から赤ん坊が三人も出たことがありましたよ。
あたしゃびっくりして火を落し、すぐその筋へ届け出たんです。
そうしたら、それが医者の仕業と分って大騒ぎになったこともありました。
あれなんかも、あたし等が窯の後ろから見ていると知っていれば、やらなかったでしょうね。
話が飛んでもないところへ行っちまいましたが、そうやって窯の後から見ていると、その仏さまが信心をしでいた人か、無信心の人だったかが分るんですよ。
どうして分るかっていうと、旦那も火鉢の上でスルメを焼いたことがありましょう。
スルメを金網の上に乗せて灸るとジリジリって丸く反って仕舞いましょう。
人間もそれと同じようになるんでさあ・・・。
スルメよりもっと暴れるかも知れませんね。
水商売で、さんざ男を欺した女なんかが一番苦しみますね。
それが悟りを開いた坊さんとか、神信心をした人なんかだと、ちっとも苦しまずに奇麗に焼けるんです。
あたしも初めは変に思いましたよ。
人間、死んで仕舞えば血が通よっているわけじゃあなし、撲られようと蹴飛ばされようと、痛くも痒くもないものが、熱いのだけは感じるのか、どうか知りませんが、とにかく、窯の中で苦しむんです。
物理学の法則ですって・・・そんな難かしいことはあたしにゃ解りませんがね、
その物理の法則とやらなら、人間だれでも同じ訳でしょう。
それが神信心をした人と、根っからの無信心の仏さまとで違うっていうのはどういう訳でしょう。・・・
何んなら一遍、実地を覗いて見ませんか。真っ平ですか・・・ハッハッハ・・・そりゃあそうですよ。
一遍みようもんなら四、五日飯がのどを通りゃしませんし、第一死ぬのが余計におっかなくなりますからね。
その時の子供さんですか・・・それがちっとも苦しまずに綺麗に骨になりましたんで、
つい、あたしゃあお喋りなもんですから、骨あげに来た人たちにいったんです。
すると、その方たちも、へえ・・・って聞いていましたが、そのバッチを付けていた女の人が、
いいえ・・・あの子は信者ではなかったんですが、
最後迄・・・ええ、何んとかいったな、病気を治すやりかた。
そうそうその浄霊ってえのをやって貰らっていたからでしょう。
有難いお救いを戴いてよござんしたね。と喜んでいましたよ。
メシヤ教のその浄霊ってのをやって貰えば、信心のない者でも断末魔の苦しみがなく、
死に貌も綺麗で、硬直もなく、骨も白くて綺麗。・・・へえ・・・そういうもんですかね。
それをやって貰らったから、その子供さんが悟りを開いた人と同じ様な大往生ができたんですか。
成程、えらい宗旨の神様が出られたもんですね。
あたしはその後きょう迄、そのバッチを覚えていてそれを付けた人を。
と気を付けていたんですがなかなか出喰わさず、今日やっと旦那に遇ったっていう訳でさあ・・・今日の仏は信仰心のなかった人・・・それじゃあ苦しみますね。
一遍、あたし等の話を聞けば、信心するっていうことがどんなに大事か、ってえことが分るんですがねえ。・・・ヘヘ・・・私にも信者になれって・・・それは駄目ですよ旦那。
皆さんの仲間へ入れて貰らっても皆さんの方で気持を悪るがって、お前の顔を見ると飯がまずくなるなんていわれますからね。
隠坊をしているうちは遠慮しましょう。
これでも正式には東京都の吏員ですが・・・余計なお喋べりをして仕舞いました。
どうも御苦労さんでした。ではお大事に・・・。」
(註 隠坊とは、古く、火葬や墓所の番人を業とした人のこと。)