浄霊は観念療法にあらず 2
明主様御教え 「岡田道一先生に物申す そこひと神霊療法に就て」 (昭和25年5月6日発行)
「本紙六十号「そこひと神霊療法」の題下にかかれた先生の論文中、
一つ非常な誤解をしている点があるので、実に先生のために惜しむのである、
という事は先生のお説は信仰で病気が治るのは、徹頭徹尾患者の信念に基づくとされている、
これは先生に限らず大多数の専門家またはインテリ階級等もそうであって、
術者の暗示によるため、または本人の信仰のためと解しているが、
こういう事も事実あるにはある、昔から大抵の信仰療法はそういう解釈であるが、
ひとり本教に限っては絶対にそのような事はない、
これが本教の偉大なる点で、メシヤ教というような大きな名前が掲げられたゆえんでもある、
まず本教浄霊を乞うものの十人が十人、百人が百人、一人の例外なく最初は躊躇逡巡疑いに疑い、恐る恐る受けるのである、
それも無理はない、本教へ対し新聞雑誌はインチキや迷信邪教の名を冠しこれでもかこれでもかと非難攻撃を浴せると共に、
第三者はそれらを盲目的に信用し尻馬に乗って、極力触れさせないようにする、
しかも親戚知人も家族の者までも同様であるから、たまたま本教を薦めるものがあっても全然信じないのは当りまえである、
ただ医療を始めあらゆる療法や信仰をやっても、悪化の極、死の一歩手前にまで追詰められ進退谷(きわ)まった揚句、
すがるのであるが一度浄霊を受けるや意外にも起死回生の奇蹟を現し全快するもの続出するその結果益々発展しつつあるのが本教の現在である。
ところが、世間何人といえども罹病するや、直に医療を求めるのは常識となっている、
病気は医師と薬で治るという事は、何世紀も前から徹底的に教育されており、
国家でさえ医師を保護しているくらいだから一般の信頼は絶対であるといってもいい、
ゆえに今日吾々が医療をとやかくいうがごときは、馬鹿か狂人としか思えないであろう事程、それほど人類は医学を信用している、
従って、医療を受ける限りのものは例外なく、最初から信頼し、一点の疑いなど挿むもののない事は言うまでもない、
それ程信頼してかかるのであるから、精神的からいっても申分ない条件を具えており、
物質的にすばらしく進歩した医学である以上理屈からいっても効果百パーセントでなければならないにかかわらず、
事実は容易に治らない結果、迷信邪教の御厄介にならざるを得ないという事になるのである。
以上は、ありのままのスケッチである、としたら、先生の説はむしろ反対というべきである、
よって吾らは先生にお奨めしたいのは本紙毎号に満載されているおかげばなしを充分読まれん事で、
それによって先生の心の岩戸は開けるであろう。」
明主様御教え 「医学と浄霊」 (昭和27年2月6日発行)
「本教が在来の宗教とは、根本的に異う事を常に私は筆でかき、口で解説しているので、
信者としてもその意味を、絶えず世間へ宣伝しているであろうが、
何しろ世の中は広いから一般に知れ渡るのは容易な事ではない。
しかも智識人に至っては、殊に信じようとしない。
彼らは宗教とさえ言えば、十把一紮(いっさつ)に見る癖があり、本教を目する場合も、右の観念が邪魔をして、真相など分るはずはないのである。
ではどの点が異っているかというと、世間でも知っている通り、本教が最も力を入れているのが病気治しである。
これに対し一般はどういう解釈をしているかというと、こうであろう。
どうせ信仰的に治すのだから、まず病人に対って暗示を与える。
貴方の病気は医者や薬では治らない。神様に御願いすればきっと治る。
元々病気は罪穢のためであるから、私は貴方に代って神様にお詫びをして上げるから大丈夫ですと言われるので、
迷える小羊は丸呑みにして有難がり信じてしまう。
という精神作用の働きによって治るのだから、ある種の病気に限る。
例えば精神的疾患である神経衰弱とか、または外部的疾患である神経痛、リョウマチのごときものや、
首肩の凝り等、ちょうどマッサージか按摩療法的に思っている。
だから肺、心臓、胃腸病のごとき、内臓の病気は駄目だから、
こういう本格的病気は、進歩した現代医学に頼るより外ないとしている。
まずこれが一般人の考え方であろう。
ところが吾々からみると、これが大変な誤りでむしろ反対である。
それを詳しくかいてみるが、本教の治病方法はもちろん浄霊であるが、
これは患者の身体には全然触れず、数尺離れてただ掌を翳すだけなので、
これを見たら誰もは、こんな事で病気が治って堪るものか、人を馬鹿にするにも程がある。
全く迷信に違いないと決めてしまうのである。
ところがこれで重難病がドシドシ治るのだから、実に摩詞不思議だ。
事実治病効果は医学の一に対し、浄霊の方は百といっても過言ではあるまい。
しかも医学の方はヤレ外科とか、内科、脳神経科、婦人科、小児科等々、それぞれ専門に分れているに反し、
吾々の方は精神的疾患でも、機質的疾患でも、病気と名のつく病気はことごとく浄霊一本で治してしまう。
そうして今日一般の人は、病気に罹るや信者は別だが、初めから吾々の方へ来る者は一人もあるまい。
まずお医者に行くのが常識である。
ところが少し拗(こじ)れると仲々思うように治らないので、医者を取替えたり、博士や大病院へ行ったりする。
それでも治らない結果、迷いに迷って民間療法や在来の神信心と来るのが御定法(ごじょうほう)である。
それでも治らないばかりか、段々悪くなる一方なので、どうしていいか分らなくなり、文字通り進退きわまってしまう。
その結果藁でも掴みたい心境になった時、たまたま本教の話を聞くが、
今まで色々な信仰に懲りているし、おまけに新聞雑誌などのデマやインチキ宗教に引っ掛かるな、などの注意が頭にコビリついているので、
一時は躊躇するが、熱心な勧めと堪えられぬ病苦とで意を決し、
ともかく試してみようと思い、疑い疑い来る人がほとんどである。
そこでいよいよ来て見ると、これはこれはなるほど看板は、世界メシヤ教何々支部、何々分所などと大きな名前が出ているが、
家はとみれば精々サラリーマン程度の、ちょっとした住宅なのでガッカリする。
といってせっかく訪ねて来て帰るのも残念だと、思い切って小さな門から格子戸を潜ると、
これはまた二度ガッカリ、精々二間か三間くらいの古ぼけた部屋で、先生はと見れば玄関子(げんかんし)兼帯と来ている。
そこで御指図通り煎餅蒲団へ座り、ここでヤット先生の御顔を拝見に及ぶとこれまた風采の上らぬ事おびただしい、
何しろサラリーマン、小商人、農民や職工上りなどの人が多いので、
その言葉も智識人らしからず、その上今まで聴いた事もないような突飛な事をいう。
薬は毒だ、医者が病気を作るなどの御託宣と来るので、唖然としてしまい、何が何だか分らなくなる。
そこでいよいよ御浄霊となると、先生は機械らしいものは何にも用いず、ただ空間に手を翳すだけである。
これを見た患者は何しろ子供の時から、病気は薬と機械で治すものと教育されており、空間は空気だけで、何もないと思っているから、
空中へ掌が浮んだだけで、相手の難病が治るなどとは余りに超科学で、丸で狐につままれたようだ、
という訳で精神的影響など薬にしたくもない。むしろ逆に疑いが増すばかりである。
それに引き換え医学の方はどうであろうかをかいてみるが、
何しろ先進文明国始め、日本においても国家的に医学を援助奨励し、大学教育までが医学を重要視しており、
全世界の科学者は何百年も前から専心、研究に研究を尽している結果、
益々微に入り細にわたって進歩し、発達して来たのであるから、
人間は病気は医者と薬より外治るものはないと信じ切っている。
としたら精神的にいっても、百パーセント医学の方が有利であり、
しかも大病院などの、アノ大ビルかホテルのごとき豪壮建築、内部の完備せる施設、
専門専門の有名な博士の名を連ねた看板、これが待合室の壁に御神体のごとく輝いており、
白衣の天使は忙しそうに、街路のごとき長廊下を右往左往している。
これを見ただけでどんな人でも度胆を抜かれ、なるほど医学は進歩したもんだ、
これではどんな病気でも治らない事はないと、腹の底から感嘆し、信じてしまうのである。
以上は医学の素晴しさと、吾々の方の貧弱さを比べてみたのである。
ところがどうだ、その治病効果たるや、最初にもかいた通り全然逆であるのは、医学で見離した病人がドシドシ治ってゆく、
全く二十世紀の奇蹟と言うより外言葉はない。
としたらここで考えなくてはならない事は、もし医学で病気が真に治るとしたら、それで済んでしまうから、
科学性もない不安な民間療法や信仰療法などに、大切な生命を委せる馬鹿はないはずである。
にもかかわらず事実は医学以外の療法が相変らず繁昌している。
特に本教のごときは浄霊の効果と、すべてが正確なので、
心底から信じて安心し、医薬から離れてしまう人は、日に月に激増しつつあるのである。
としたら医師諸君も、大いに考えざるを得ないであろう。
そうしてこの文の要点である信仰療法は精神的影響などは、全然無いという一事を知らせたいのである。」
明主様御教え 「医学療法と信仰療法」 (昭和27年12月10日発行)
「今日医師諸君はもちろんの事、インテリ階級の人達は例外なく、信仰で病気が治る事実に対し、決って左のごとき解釈をする。
大体病気というものは、病は気からといって精神作用が案外大きいものであるから、
信仰で病気を治そうとする場合、その宗教の教師などから神仏の利益を過大に言われ、言葉巧みに必ず治るように思わせられるので、
何しろそれまで医療でも何の療法でも治らないで困り抜いている際とて、まともに信じてしまい、
まずそれだけで精神的に快方に向かうので、別段神仏の利益でない事はもちろんであるという観方である。
そんな訳だから本教の治病奇蹟がどんなに素晴しいと聞かされても右のような解釈で片付けてしまうのであるからやり切れない。
その度毎に吾々は憤慨を通り越して呆れるばかりである。
もっともそう思うのも無理はないかも知れない。なぜなれば今日までの信仰療法の多くがそれであるからである。
ところが本教の病気治しは、それらとは根本的に異っている。それをこれから詳しくかいてみるが、
まず本教へ治療を乞いに来る限りの人々は、もちろん最初から疑っている。
何しろ新聞雑誌は固より、大部分の社会人殊に智識人などは、必ずと言いたい程病気は医薬で治すものと決めているからで、
今日のごとく素晴しい進歩した医学と信じ切っており、これ以外病を治すものはないと思っている。
しかも最近アメリカで発見の新薬もそうだが、その他精巧な機械、手術の巧緻等々によって、安心して委せている現在、
そんな新宗教の病気治しなどは問題にならないではないか、
そんなものを信用したが最後、飛んでもないことになるかも知れない。
それこそ迷信以外の何物でもないと、色々の人から云われるので、それもそうだと思い、
宗教治病の機会があっても逃してしまうのである。
ところが病気の方は遠慮なく益々悪化し、ついには死の一歩手前にまで追い詰められる結果、
自分から医療に愛想をつかした人々は、本教に縋ることになるが、
そういう人は極く運のいい人で大部分の人は医療に嵌(はま)ったまま御国替となるので、実に気の毒なものである。
という訳で病気は治らず、金は掛かり放題、苦痛は増すばかりなので、煩悶、懊悩の際、たまたま本教の話を聞くが、
これ程科学が進歩した今日、そんな不思議なことがあってたまるものかとテンデ話にならないが、
外にどうしようもないので、では瞞されるつもりで、一度試してみようくらいの肚でやって来る人が大部分で、
初めから信ずる人などほとんどないといってもいい。
としたら精神作用など微塵もない。
ところで来てみると医学の素養など全然ないはなはだ風采あがらない先生らしい御仁が、
薬も機械も使わず、身体にも触れず、ただ空間に手を翳(かざ)すだけなので、唖然としてしまい、
大病院や博士でも治らないこれ程の大病が、あんな他愛ないやり方で治るなどとはどうしても思えない、
だがせっかく来たので帰る訳にもゆかないから、マアー一度だけ試してみようとやって貰うと
これはまた何たる不思議、たちまち病気以来かつてない程のいい気持になり、苦痛も軽くなるのでいよいよ分らなくなる。
しかし分っても分らないでも、快くなりさえすりゃいいという訳で、
どんな頑固な人でも無神論者でも、一遍に頭を下げ、百八十度の転換となる。
これがほとんどの人の経路である。
以上の事実を仔細に見ても、本教治療法のどこに精神的狙いがあるであろうかである。
ところがそれに引替え医学の方はどうであろうか、むしろ精神面からいって比べものにならないではないか。
まず当局はじめ言論機関、学校教育等々、医学の進歩を旺んに強調し、これ以上のものはないとして、
病気になったら手遅れにならない内、一刻も早く医師に診て貰い、指示通りにせよ、
それが正しい方法で、決して外の療法などに迷ってはいけないと極力注意する。
しかも立派な大病院、有名な博士、完備せる施設、精巧な機械、新薬等々、実に至れり尽せりで、
これを見ただけでもどんな病気でも治ると思うのは当然で、安心してお委せするのが今日の常識である。
このような訳で医学を信ずる人はあっても、疑う人など一人もないのである。
以上によってみても、医学に対する信頼は百パーセントであるに反し、吾々の方の信用は零よりもマイナスなくらいである。
にもかかわらずその結果は散々医療で治らない病人が、我方へ来るやたちまち治ってしまうのであるから、その治病力の差は月とスッポンといえるのである。
この事実を公平に言えば、現代医学こそ迷信であり、我医学こそ正信であると断言出来るのである。
つまり医学を信じて生命を失うか、信じないで助かるかのどちらかであろうといったら、恐らくこれを読んで愕然としない人はあるまい。
これは歴史的に見ても分る通り、時代の変遷は昨日の真理も、今日の逆理となる事さえ往々あるのであるから、あえて不思議ともいえまい。
このような明らかな道理が今日まで分らなかったのは、全く過去の亡霊に取憑かれていたからであり、それを発見する人も出なかったためでもある。
また世間こういう人がよくある。
もしそんな事で病気が治るとしたら、医者も薬も要らないではないかと言うのである。
全くその通りで医者や薬が無くなったら、世の中に病人はなくなると答えざるを得ないのである。
以上のごとく現代医学こそ、世界的迷信の最大なるものであって、
人類から病を無くすとしたら、何よりもこの迷信を打破することこそ先決問題である。」
明主様御教え 「医学迷信」 (昭和27年12月26日御執筆)
「今日医師諸君はもちろんの事、インテリ階級の人達は例外なく信仰で病気が治る事実に対し、決って左のごとき解釈をする。
大体病気というものは、病は気からといって精神的影響は案外大きいものであるから、信仰で病気を治そうとする場合、その宗教の教師などは、神仏の利益を過大に説き、言葉巧みに必ず治るようにいうので、
何しろそれまで医療その他の療法でも治らないで困っている際とて、まともに信じてしまい、まず精神的に快方に向うので別段神仏の利益ではない事はもちろんである、という観方である。
そんな訳だから、本教の治病奇蹟がどんなに素晴しいと聞かされても、右のような解釈で片付けてしまうのであるから、吾々は憤慨を通り越して呆れるばかりである。
もっともそう思うのも無理はないかも知れない。
なぜなれば、今日までの信仰療法の多くがそれであるからで、本教もそう見られるのであろう。
ところが本教の病気治しは、それらとは根本的に異っている事で、それをこれから詳しくかいてみるが、
まず本教へ治療を乞いに来る限りの人々は、もちろん最初から疑っている。それも無理はない。
何しろ新聞雑誌はもとより、大部分の社会人殊に智識人などは必ずといいたいほど病気は医薬で治すもので、しかも今日のごとく素晴しい進歩した医学であるから、これより外に治るものは世の中にない。
しかも最近アメリカで発見の新薬や精巧な機械、手術の進歩等々をみても分かる通りで、まず安心してまかせられるのであるから、そんな新宗教の病気治しなどは問題にならないではないか。
だから、そんなものを信用すると飛んでもない事になるかもしれない、それこそ迷信以外の何物でもない、と、もっともらしく言われるので、大抵な人はそれに乗ってしまい、たびたび機会があっても逃してしまうのはよく聞くのである。
ところが病気の方は快くなるどころか、益々悪化し、ついには死の一歩手前にまで追い詰められる結果、自分から医療に愛想をつかし、本教に縋るようになるが、そういう人は極く運のいい人で、大部分の人は医学に嵌り切ったままお国替えとなるので、気の毒なものである。
中には病気は治らないばかりか、金は掛かり放題、苦しみは増すばかりと来ては、迷わざるを得なくなり、
何かいい方法はないものかと煩悶の際、たまたま本教の話を聞いても、これほど科学が進歩した今日、そんな不思議な事があってたまるものかと、テンデ話にならないから、外にどうしようもないので、
では瞞されるつもりで一度試してみようくらいの肚でやって来る人が大部分で、初めから信ずる人などほとんどないといってもいい。
としたら精神作用など微塵もないはずである。
ところが来てみると、医学の素養など全然なく、風采のあがらない先生らしい御仁が、薬も機械も使わず、身体にも触れず、ただ空間に手をかざすだけなので唖然としてしまい、大病院や博士でも治らないこれほどの大病が、あんな他愛ないやり方で治るなどとはどうしても思えない。
だがせっかく来たので帰る訳にもゆかず、マアー一度だけ試してみようとやって貰うと、これはまた何たる不思議、たちまち病気以来かつてないほどのいい気持になり、苦痛も軽くなるのでいよいよ分からなくなる。
しかし分かっても分からないでも快くさえなりゃいいという訳で、どんな頑固な人でも、無神論者でも一度に頭を下げ、百八十度の転換となるので、これがほとんどの人の経路である。
以上の事実を仔細にみても本教治療法のどこに精神的狙いがあるかという事である。
ところがそれに引換え、医学の方はどうであろうか。むしろ精神面の方は実に遺憾なく調っている。
まず当局はじめ言論機関、学校教育等々医学の進歩をさかんに唱え、これ以上のものはないとして、病気になったら手遅れになるな、一刻も早く医師に診て貰いその指示通りにせよ、それが正しい方法で、決して外の療法などに迷ってはいけないと極力注意する。
しかも立派な大病院、有名な博士、完備せる施設、精巧な機械、薬等々実に至れり尽せりで、これを見ただけでもどんな病気でも治りそうに思われ、安心してまかせ、するのが今日の常識となっている。
このような訳で医学を信ずる人はあっても疑う人などほとんどないのは誰も知る通りである。
以上によってみても、医学に対する信頼は百パーセントであるに反し、吾々の方の信用は零よりもマイナスである。
にもかかわらず、その結果は散々医療で治らない病人が、我方へ来るやドシドシ治ってしまうのであるから、その治病力の差は、月とスッポンといっていいくらいで、
この事実は公平に言えば、現代医学こそ迷信であり、わが医学こそ正真であると断言してはばからないのである。
つまり医学を信じて生命を失うか、信じないで助かるかのどちらかであるといったら、恐らくこれを読んで愕然としない人はあるまい。
しかし歴史的にみても分かる通り、時代の変遷は昨日の真理も今日の逆理となる事さえ往々あるのであるから、あえて不思議ともいえまい。
このような明らかな道理が今日まで分からなかったのは、全く過去の亡霊に取り憑かれていたのはもちろん、それを発見する人が出なかったからであろう。
また世間こういう人がよくある。もしそんな事で病気が治るとしたら、医者も薬も要らないではないかと言うのである。
全くその通りで、医者や薬が無くなったら、世の中に病人はなくなると答えざるを得ないのである。
以上のごとく現代医学こそ世界的迷信の最大なるものであるから、人類から病を無くすとしたら、何よりもこの迷信を打破する事で、これが先決問題であろう。」
明主様御教え 「精神医学と神霊医学」
「近頃医学方面の人や、医学に関心を持つ識者の言う事や、かいたものをみると、
今までのような肉体のみを対象とした医学では、病気によっては治るだろうが、中には精神的方法を採入れた方が、成績のいい場合も大いにあるから、
今後の医学は肉体と精神との両方をあわせ行わなければ、充分効果を挙げる事は出来ないというので、これが今後における医学の動向ではないかと思われるのである。
この事は日本ばかりではない。外国においてもその傾向があるそうだが、それも常識論からいえば間違ってはいないように思えるが、それについて是非言いたい事がある。
というのは、我メシヤ教の病気治しで、これは信者はよく知っているから、ここでは第三者を目標としてかいたのである。
それは本教の病気治しは精神作用の必要は全然なく、肉体そのものを対象として治すやり方である。
この点医学と同様であるが、ただ異うところはその方法である。
ツマリ医学は薬剤機械等の唯物手段であるに対し、我方は霊的方法である。
この霊的を精神的と間違えられるので、この点が最も肝腎なのである。
というのはむしろ反対なくらい異っている。
これは度々いうごとく、疑っても信じなくても治り方は別段違いはない事で、この一事にみても精神作用の介入の必要のない事は明かである。
何よりも本教の世間並外れた発展振りをみてもよく分るはずである。
以上によってみても本教の治病法は、在来のごとき精神作用の力を借りる信仰療法との異いさはよく判るであろう。
この事実をインテリゲンチャの人達はどう見るであろうと聞きたいものである。」
明主様御教え 「本療法の特殊性」 (昭和10年代御執筆)
「今日まで、全世界に現われたる医療は固よりあらゆる病気療法について、一の例外ない重要事がある。
それは何であるかというと、患者が治療を受ける場合、医師を信ずればよく治るというのである。
又、特に医療以外の療法例えば精神療法、信仰的療法、その他何々療法というあらゆる療法は、患者の信念や観念、思念等を必ず要するのである。
これが無ければ効果の無いという事になっている。
恐らく全世界広しといえども、これらの観念が全然無い事によって治癒するものは絶無であると断言し得られるのである。
しかるに本療法においてはこれらの観念は、全然必要のない事である。
何程疑ってもよい。何程治るものかと思ってもよい。
馬鹿々々しいと思っても、何糞治るものかと思っても、癪(しゃく)に触っていても必ず治癒するのである。
何となれば、観念を必要とするのは患者自身の力を協(あわ)せなければ治らないという訳である。
故にこれを徹底して言えば、患者自身の力の方がより多く治すという事になる。
してみれば、治療法は第二であるから、治療としての価値は疑問とならざるを得ないのである。
にも係わらず、あらゆる療法がその効果の偉大であると称して吹聴している事であるが、その真価以上に誇張する事は、その誇張だけがインチキとなる訳である。
この点において医学といえどもたしかにインチキ分子は認め得られるのである。
何となれば不確実なる成績を、確実なるがごとく発表する。不確定なる学理を確定なように発表する。
効果疑問の余地ある新薬を、実際以上に、効果あるように報告する等である。
何となれば、一大発見のように発表された治療法や薬剤や、滋養剤が年月を経るに従って、段々怪しくなり、
ついに煙のごとく消えてしまう事は、余りにも見聞する事である。
一例を挙ぐれば、肺結核の遺伝説が、非遺伝説に変ったり、糖尿病の治療に絶対含水炭素を忌避したのが近来はある程度必要とするに至り、某博士のごときは普通食が反って効果があるという発表さえしている。
又一時は相当の効果ありとせられた物理療法を、医大では廃止しようとしており、又電気療法の禁止説さえ聞くのである。
これらはいずれも勿論、相当の効果があるのであるが、その反面にそれを打消すべき有害な点を発見するからである。
故に、今日推奨している梅毒に対するマラリヤ療法やサルバルサン注射など、いつまで続くかが疑問であろう。
ある病気に対する新薬が次々現われるという事は、すべて無効であるからである。」
明主様御講話 「浄霊による病気治癒に精神作用の影響はない」 (昭和27年11月26日)
(御論文「新しい愛国心」)
(御論文「医学療法と信仰療法」)
「今読んだ通り、これはお医者さんの方はよけいそうですが、
このごろ世間の傾向が、新宗教というものを軽蔑する見方がよほど減ってきたようです。
非常に良い傾向にはなってきましたが、それでも宗教で病気が治るということは精神作用だ、と。
だからこの間もこういうことが東京日日かにあったと思いますが、
お医者さんは肉体的に治し、宗教の方は精神的に治すから、
両々相まってやれば理想的だということが出ていたのです。
みんなそういう見方をしてます。
だから精神的に神様の御利益で治るという、要するに自力観念によって治っていくという見方をほとんどがしているので、これがたいへんな間違いです。
ですからほかの宗教はそういう点もあるでしょうが、メシヤ教は逆なのです。
それを認識させることがもっとも必要だからこれを書いたのです。
精神作用から言えば医学こそ、あれほど精神作用で治そうとするものはない。
あれほど進歩した医学で設備のある大病院でやれば「きっと治る」という精神作用はすばらしいものです。
ところがわれわれの方に来るのは「そんなことで治るものか、あんまり奨めるからしようがないがやってみてもらうのだ、こんなことで治ったらよほどどうかしている」という疑いと軽蔑とは、精神作用どころかぜんぜん逆です。
「治るものか」と思って来るのです。
それで医学の方に行く人は「治るだろう、治るだろう」と思って行くのですから、精神作用から言えば医学の方がずっと上です。
われわれの方は零です。それでも医学の方で治らない者がこっちで治るのだから、その違いさを考えてもみなければならない。
そこに、信仰でも病気は治る、という世間の偉い人たちの見方にたいへんな違いがあるわけです。
それを引っくり返さなければならない。
ところが今までの信仰はそうなのです。
つまりほとんど自力が主になってましたから、自分で、治るだろう治るだろうとやる。
生長の家などの説き方はそうなってます。
本来は、人間は神の子だから神の子に病気はないのだ。
それで苦しいとか、つらいというのは一種の観念の作用だ。
だから病気がないと思えばなくなってしまうのだ、というように説いてますが、
そういう説き方とすると、それは精神作用で病気は治すという論拠にはなります。
ところがメシヤ教はぜんぜんそうではない。
そんな、あるものをないと思えばないというが、あるものはあるのです。
苦しいのは苦しいのです。
いくら痛くても痛くないと思えと言ってますが、生長の家の信者には、額に八の字を寄せてしかめながら
「痛いんじゃない、痛いんじゃない」と言っているが、
いくら思っても痛いので駄目だから、メシヤ教に入ったというのがありました。
そういうようですから、あの説き方も結果は非常に害をするのです。
ほかの宗教を悪く言うのは嫌いですが、やはり本当の真理を説くに当たってはやむを得ない。
だから「アメリカを救う」の結論は随分徹底して書きましたが、
そう書くよりほかに人類を救う上においてしかたがないのです。今読ませてみます。」
明主様御講話 「観音力は観念療法にあらず」 (昭和10年11月1日)
「新興宗教でいまさかんに俎上(そじょう)に載せられているのは、ひとのみちと生長の家で、生長の家など矢面に立って喧嘩腰でやっている。
悲壮な奮闘をしている。それに対し、仏教を中心としたものがそのほうで、それに対抗すべくよりより運動をほうぼうでやっている。
これに加勢しているものは共産主義で、新興宗教のほうはどこまでも霊的唯心的に行くし、共産主義はどこまでも唯物的ですから、反対で弾圧しようとする。
それで既成宗教のほうの弾圧と、共産主義のほうがいくらか相通じているような形で、これが文書に講演に新興宗教とは言わず、邪教撲滅というのをこれから始めるらしい。
それに対して観音会は、それほど社会的に評判になっていないが、こちらも社会的に認められたり、表立ったりするのはわけはないけれど、現在本部へはたくさん人が来ても収容することができないから、目立たないようにしている。
いずれ玉川郷へ大きなお宮ができれば、大いにやろうと思うのです。
いまのところはできる範囲でやっているつもりです。
そういう状態になっているから、観音会の観音運動は非常におもしろいと思う。
観音会は新興宗教とも言えない。観音様は古いから、しかし言うことは新興宗教的なことを言っている。
しかし、運動という名がついているから、新興宗教にみなされる。
ブチまけて言えば、このことは商売争いにすぎない。
新しい宗教ができてそうとう信者を獲得して行きますから、いままでのお得意が新しい店のほうへ行く。
これはたいへんだと、今度できた新店は悪いということを宣伝するわけです。
なんとなれば、既成のほうで新興のほうをそう研究しない。
ひとのみちでも生長の家でも、たしかにいい所がある。
また病気によっては治る。
既成のほうは少しでも治るというと、お得意をとられるから邪教だ迷信だと頭ごなしに排斥しようとしている態度は実に醜い。
その中堅になってるのが友松円諦の真理化運動で、このほかあらゆる方面の仏教方面の闘士が加わりたいへんな騒ぎになってる。
それでちょうど喧嘩するだけしてくたびれたあたりのところへ、観音会が出るようになると思う。
そういう運動の場合、どういうことを言ってるかというと、新興宗教は第一は病気治しで行く。
ところが、その解釈は安直で、いわく病気治しをするのは現代社会人は生活難などについて苦しんでいる。
そのために病気になったり、神経衰弱になる。
これにたまたま慰安を与えるものができたから、それに齧(かじ)りついて一時よくなる。
その心持ちで病気が治るという。
それなら既成宗教のほうでやればわけはない。
ちょうど、新興宗教では慰安を与えられるが、俺のほうでは与えられないことを表現しているようなものです。
で、病気に対しては現代の医者ははなはだ冷淡で、新興宗教のほうは親切で、その心持ちによって治るという。
すると、これから医者のほうで新興宗教のように親切に情を尽くせば、大いにそれによって病気は治ると、こういうようなのはさかんに称えられている。
それに対して観音力は慰安もくそもない。
疑おうがどうしようがこうしようが治ると、いろいろ科学的な説明もしたいが、いまは設備がなく受けとれないから説明することができない。
それで、こういうように既成宗教のほうでいうのも無理はない。
生長の家では、病気は一切心で治ると説いている。
病気がないと思えばない、病気があると思うと治らぬ。
また、人間は罪の子にあらず神の子仏の子であるという。
それと思えば病気はないという。
ですが、医学で言えば、精神的にそうと思うとか、信ずるとかいうのは観念で治ると解釈できる。
それで生長の家も不完全ですからそうとられる。
観音会はそうではない。と言いたいところですが、ハデにせずボツボツやる。
今度の「東方の光」にもちょっと出してみましたが、もっと医者に最後には医科大学の総長に実験を申し込む。
そして大学へ、入院患者に、医者のほうが治るか、観音力のほうが治るか、実験を申し込む。
これは総長として受け入れなければならない。
受け入れなければどんな攻撃もする。
最後はそこへ行かなければならぬ。しかしまだ準備ができない。
生長の家では、病気はないと思えば治るというが、それに対して観音会では病気はあると思っても治るという。
生長の家のほうは、病気はないと思わなければ治らない。観音会のほうはあると思っても治る。
この違いさは大きい。実際そういう論議をしているのをみるとはがゆいんですが、まだ時期が早いから虫を殺しているわけであります。
ですから、医者に属してる階級と既成宗教とこれらがいっぽうのかたまりで、またこっちのほうは民間療法の治療士達と新興宗教と一団となって、一つの戦いとなろうと思う。
一日一日こういう機運になってくる。
これが現状維持派と政党との戦いと同じことであります。
も一つ大きく言えば日本と外国と戦うのも同じことです。」
明主様御講話 「観音力は信じまいが疑おうが効く」 (昭和10年12月1日)
「昨日、麹町の警察署から呼ばれたんですが、問われた事柄は、観音会の運動と、治療のことを訊きたいというのです。
警視庁あたりから調査に来たものらしいのです。で、署長の部屋へ呼ばれたんですが、署長と特高二人がいて、いろいろ訊かれ、
すっかり話しているうち治療の話になって、私の話すことをたいへんよく諒解したようですから、そのことを話すが、
ああいう人達に判らせるのに一番いいと思い、ちょうどいい機会だと、いろいろと話したんですが、だいぶ先方も好感をもってよく訊いた。
まず第一にどういうわけで、貴下のほうでは医者よりもよく治るかという質問に対し答えた。
この話はみなさんが宣伝する上に参考となろうと思うので、お話するんですが、私のほうは霊を霊で治すんで、医者のほうは体を体で直す。
つまりこの違いさで、それはどういうわけかと言うので医学はどこまでも物質的に研究されたもので、
人間さえも物質とし、ロボットとして考え、手なども品物くらいに考えているが、なんぞ知らん人間の体は霊的なものです。
なんとなれば、霊が主で霊によって体は霊のいう通りに動く。
それで、病は霊に先に起っているから、霊を治さなければ体は治らない。
体だけやってもそれは一時的のもので、霊というと目には見えないから面倒です。
それでは、科学的説明ができるかというので、それはできすぎるくらいできる。
現在の科学でも説明はできるが、本当の説明するには、まだ科学はそこまで行ってない。
進歩してない。もっともっと進歩したらできる。
私のほうは、ズーッと進んでる。
科学の進むのを待ってるくらいだ。
しかし、音などを光にし映せるように科学もなったから、私達の霊のほうが判るのも近かろう。
ですから、私のほうの医術は進んでいるんで、二十一世紀の医術で、結局、医術は将来、私のやってる所へ行く。
結局それには、医科大学へ交渉して、治病の実地をみた上で、医科大学で私のやり方を採用するとこまで行かなければ徹底しない。
いま小学生の半数は病気に罹っているが、一つの小学校でも、私のほうの医療士が十人くらいも行けば、すぐに健康になり、弱体児童など、すぐに解決する。
要するに、西洋医学では本当に病気は治らぬ。
本当に治るものは日本から出る。われわれのほうのが日本から出た医術である、ということを話し、それでだいぶ判りました。
学校などもあなたのほうの治療法をとればいいなあと、大いに共鳴したわけであります。
私は、そう予期せず話したんですが、先方には非常によく判った。
特高なども、自分の家の子は腺病質で、とても弱いが治るものかと言ったので、そんなのはわけはない。
私のとこへ来ればとても丈夫になると言えば、それではお願いしようかと言ってました。
あの人達は、われわれの治療士の療術など冷視して、病気は医者でなければ治らぬ。
信仰的に治すものは全部精神的に慰安を与えるだけのもので、観念療法だと思っているのです。
しかし、われわれのほうはそうではない、信じまいが、疑おうが治る、特殊のものだと話したら、よく判ったらしかったんであります。
霊的のことで、ああいう人達の信じ難い事柄も割合よく判った。
昨日の私の話は、非常に順序がよかったに違いない。
その話をお聞きになったら、今後宣伝の上にも、参考になろうと思うのであります。」