浄霊は観念療法にあらず 1


明主様御教え 「観音力療病は観念療法に非ず」 (昭和11年1月1日発行)

「医薬療法以外の療法例えば信仰的霊的療法によって、難病が治療せられた事実を見て、多くの批判者は決り切っていうのである。

それは神仏に頼っているという、患者の観念が一種の安心を得るから、それに依って治病されるのである。

言わば神経作用である。

随ってそれは特殊の病気に限られているので、多くは神経系統に属するものであるとーこう「さも真相に触れたように」断定するのである。

もっともこれらは「生長の家」等が主張する病気が無いと思えば治るという説や「人の道」が言っている、お振替又は神宣によって病気が治るというような事から生れた一種の客観的常識批判ともいうべきもので、一面無理のない見方でもある。

しかるに、我観音力療病においては、右らとは全然ー相異している。

その点を発表したのである。それは何かと言うに絶対に精神作用や観念療法でない事である。


まず一例を挙げてみよう、ここにある患者がある。

その患者に向って経験済の知人が、観音力治病を奨める。

その場合患者は、絶対に信用しない。そんな方法で治るものかと否定する。

しかし知人は一回でもいゝから、欺されたと思って行けと飽くまで勧めるので、患者は止むを得ず、その好意に対し断りかねて渋々来るのである。

その時の患者の態度に見てアリアリと判るのである。それに薬剤も器械も用いず、ただ指頭の技術のみであるから、治癒するはずがないと思うのも無理はないのである。

故に最初は仕方なしに治療を受けているという訳であって、全快の後よくその時の心境を語って、大笑いする事があるのである。

故に些(いささ)かたりとも軽快になるなどゝは、夢想してもみないのであるからーその際ー観念は零である。

しかるにも係わらず、驚く程速かに軽快に向うのでその時の患者の驚愕は、実に滑稽と思わるゝ程である。

そうして間もなく治癒されてしまう。

その不思議さに誰しも人間以外の力、超人的観音力の存在を信じない訳にはゆかないのである。

この力が素晴しければ素晴らしい程体験のない第三者としては、益々信じられないという困った事実である。

他の療法はここでは云々しない。ただ我観音力療法は絶対に観念の加わらない事を言えばいいのである。

今一つの例は、観念力の有り様のない小児が、反って能く治癒されるという事実も付加えたいのである。

故に我療法は患者が病気が無いと思わなくともいい。

病気が在ると思っても治癒されてしまう、否自分の病気は治らないと諦めていても、何程疑っていても治癒されてしまうこの不思議なる大事実を知るならば、批判者は何と言うであろうか。

今一つを加えよう、それは発狂が治癒される事である。

狂人に向っては観念療法は到底行わるべくもない事は明かである。その他梅毒、癌腫、痔瘻、喘息、脳炎、中風、結核等、観念論者が、想像し得られない病気が、続々治癒される事実である。

これを要するに、薬剤療法に非ず、物理療法に非ず、信仰や祈祷療法に非ず、観念や精神力に非ずしてあらゆる療法によるも治癒し難い難症の治病率が、八十パーセンテージ以上を挙げつゝあるという、生きた事実である。

これをここに発表して、世の専門家ないし識者に問いたいのである。」




明主様御教え 「本療法は観念療法に非ず」 (昭和11年5月15日発行)

「医薬以外の療法、例えば、信仰的、霊的療法によって、難病が治癒せられた事実を見て多くの批判者は、決り切っていうのである。

それは、神仏に頼っているという、患者の観念が、一種の安心を得させるから、それに依って治病されるのである、言わば、神経作用である、

随ってそれは、特殊の病気に限られているので、多くは、神経系統に属するものであると、いうのである、

もっともこれらは「生長の家」等が主張する、病気が無いと思えば治る、という説や

「人の道」が言っている、お振替又は神宣によって、病気が治る、という様な事から生れた、

一種の客観的常識批判ともいうべきもので、一面無理のない見方でもある。


しかるに、本療法においては、右らとは全然相違している、その点を発表したいのである。

それは何かと言うに絶対に、精神作用や、観念療法の加わらない事である。

まず、一例を挙げてみよう、ここに、ある患者がある、その患者に向って経験済の知人が、本療法を勧める。

その場合患者は、絶対に信用しない、そんな方法で治るものかと否定する、

しかし、知人は、一回でもいいから、欺されたと思って行けと飽くまで勧めるので、

患者は止むを得ず、その好意に対して、渋々来るのである、その時の患者の態度に見て、アリアリと判るのである。

それに、薬剤も器械も用いず、ただ指頭の技術のみであるから、治癒するはずがないと思うのも、無理はない。

故に、最初は、仕方なしに治療を受けている、という訳であって、

全快の後よく、その時の心境を語って、大笑する事があるのである。

故に、些(いささ)かたりとも、軽快になるなどとは、夢想してもみないのであるから、その際、観念は零である。

しかるにも係わらず、驚く程速かに、軽快に向うので、その時の患者の驚愕は、実に滑稽と思わるる程である。

そうして、間もなく治癒されてしまうその不思議さに誰しも、

人間以外の力、超人的効果の存在を、信じない訳にはゆかないのである。


この力が素晴らしければ素晴らしい程、体験のない、第三者としては、益々信じられないという、困った事実である。

他の療法は、ここでは云々しない、ただ本療法は、絶対に観念の加わらない事を、言えばよいのである。

今一つの例は、観念力のありようのない小児が、却て能く治癒されるという事実も、付加えたいのである。


故に、本療法は患者が、病気が、無いと思わなくともよい、病気が在ると思っても、治癒されてしまう。

否、自分の病気は治らないと諦めていても、何程疑っていても、治癒されてしまう、

この不思議なる大事実を知るならば、批判者は、何と言うであろうか。


今一つを加えよう。

それは、発狂が治癒される事である。狂人に向っては、観念療法は到底行わるべくもない事は、明らかである、

その他梅毒、胃癌、痔瘻(じろう)、喘息、脳炎、中風、結核等、観念論者が想像し得られない病気が、続々治癒される事実である。

これを要するに、薬剤療法に非ず、物理療法に非ず、信仰や祈祷療法に非ず、観念や精神力に非ずして、

あらゆる療法によるも、治癒し難い難症の治療率が、八十パーセント以上を挙げつつあるという、生きた事実である。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)




明主様御教え 「医療と観念」 (昭和11年5月15日発行)

「現在、療病について、非常に誤られている、重大事がある。

それは、信仰を土台とする療法や、医者でない医者、

即ち、民間療法で病気が治るという事は、観念と精神力が、大いに手伝うからである、というのである。

しかもそれは、医家の方面から発する言葉である。

私は、これは、むしろ反対であると、思うのである。

なぜなれば、一般人は、病気は医療によって治るべきものと、絶対信じている事である。

医療信仰の徹底は、実に、驚くべき程であって、吾々は、日常幾多の事実に、触れて感心しているのである。

その証左として、医療以外の療法で治癒さるる場合、奇蹟というにみても瞭(あきら)かである。

故に患者が、治療を受ける場合医療の方ならば、必ず治癒されるという、絶対観念を持って望む事である。

にも係わらず、治癒されないとすれば、科学力と観念力百パーセントであるべき医術、そのものの効果が顕われないのであるから、まことに不可解である。

その反対の例を、挙げてみよう、吾々に来る患者は、最初は、例外なく、疑を持って来るのである。

それら多くの患者の想念は、治ると思って来るよりも、医療その他、あらゆる方法でも治癒されない結果、

たまたま、奨められるまま、行く所が無いからと言うて、藁を掴む心理で来るのである。

いわば、一種の僥倖(ぎょうこう)を期待する程度で、投機的心理のようなものである。


一例として、こういう事が、すくなからずある。それは、自分は今まで、あらゆる療法を試みたが、どれも治らない、

従って、どんなに治る話を聞いても、信じられないから、料金は治ってからにして貰いたいと、こう言うのである。

この一事によって察(み)ても、患者の心理状態は、想像され得るのである。

故に、必ず治るべきもの、との観念は、医療を受ける場合の方が、

どれ程強烈であるかは、言うまでもないのである。

前述のごとく、方法も観念も絶対有利であるべき医療で治癒されないで、

最も不利であるべき地位に置かれてある、吾々の方に、治病実績が上るとすれば大いに考えざるを得ないであろう。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)




明主様御教え 「科学と迷信」 (昭和18年10月5日発行)

「そもそも、私の創成したこの日本医術なるものは機械や薬剤等のごとき物質を一切用いずただ手指の技術を以てあらゆる疾患を治癒するのである。

手指の技術とは、実は人間特有の霊気を、手指に集注放射させるのであって、

即ち霊を以て霊を治すという原理から出発しているのである。

従って、非物質であるところの霊の作用であるから、人間の眼にも見えず、手にも触れないので、現代人のごとく唯物的先入観念に支配されている以上、

非科学的に思われ易いのである。しかしながら一度施術するや、実に驚くべき治病力を発揮するので、

初めて見た眼には、その不可思議に驚歎せざるを得ないのである。

しかるにその根本原理を知るにおいていささかの不思議もなく科学的解説を為し得るのである。


真の科学とは、勿論真理の具現であり、真理の具現とは、いささかの迷信も先入観念も潜在意識も混ずる事を許されないー事実そのものでなければならない。

この意味において、私の治病法こそは実際に病気が治るのである。

根本的に全く再発の憂のないまでに治るのである以上、私は科学であるというのである。

しかるに、西洋医学の療法においては、その理論と形式において、実に治癒するがごとくみゆるに拘わらず、病気は更に治癒しない。

又西洋医学の衛生や健康法は、まことに巧妙精緻を極めているが、それを実行するといえども健康は増進しないのである。

見よ、文化民族の体位は低下し、衰亡の運命を示唆しているではないか。

人類が医学に要望するその期待と、余りに隔絶している事である。

この意味において西洋医学は現代における一種の迷信といえない事はなかろう。

現代人は、口を開けば迷信の恐るべき事を言う。

そうして、迷信は宗教や伝統の中にのみあるように思っているが、

何ぞ知らん、最も進歩せりと思っている科学の部面においても迷信の在る事を知らねばならないのである。

それは、真実ならざるものを真実と思惟し、何世紀にもわたって、漸次的に人間の常識とまでになってしまった事実である。


そうして、世間よく、信ずるから治るというが、それは観念の援助によって効果を強めるという訳である。

しかるに、私の医術に限ってそんな事は微塵もない。

治療を受ける病者がいささかも信じなくてもよい。

否大いに疑いつつ施術を受けても、その効果は同一である。

これについて好適例を書いてみよう。


これは、有名な元国務大臣を二度までされた某大官の夫人で、

永年の痼疾(こしつ)が私の治療によって短期間に全快したのであるから、

この治療に対し絶大の信頼をおかれるようになった。

しかるに、その御子息である帝大出の現在某会社員である御仁がたまたま風邪に罹り、

一月余り医療を受けたが更に治癒しないのみか、漸次悪化の傾向さえ見えるので、

母であられる右の夫人がすすめて私の治療を受けられたのであった。

私が最初診査してみると、医師は乾性肋膜の診断であるが、

私は、それは誤診で、私の診る所では肋間神経痛であると言った。

しかるに、その御子息は非常に立腹され、自分が信頼する日本有数の大家の診断に対し誤診であるとは怪しからぬ。

そんな先生の治療は断じて受けないというのである。

しかるに夫人は医療では治らない。

私の療法によらなければ絶対治らないとなし極力奨めるのであったが、

御子息は平素は大の親孝行であるに拘わらずこの時は不思議にも、外の事なら親に逆らう意志はないが、

今回の病気に対しては、私の治療を受ける事はいかにしても気が向かないという理由で、頑として承知されなかった。

それで夫人は考慮の結果夫君に応援を求め、両親協同で口説いたので、

流石の御子息もついに一週間だけ私の治療を受ける事を承諾する事になったのであるが、面白い事には条件をつけるというのである。

その条件というのは、病気に関する事は一切言わないで欲しいという事であったが、

私はそれを承諾し、その代り一週間の間、医師の診察は差つかえないが、

薬剤を使用しないという事の条件を私の方でも提出し、承諾されたのであった。

その様な訳で御本人は私の治療を疑う所か、それ以上で、むしろ反抗的気分で受療したのであった。

しかし私は反って面白いと思ったのである。

何となれば反抗的気分で受療する事と、病気に関する事は言わないという事は、前者は観念的分子の入りようがないという事と、

後者は、言語による病気治癒の暗示が出来得ないという訳であるからである。


しかるに、病状はといえば、毎日発作的に発熱四十度以上に昂り、

猛烈な悪寒と滝のごとき盗汗があり、咳嗽が激しいので衰弱日に加わるのであるから、

主治医及び応援の某大家とは非常に心配し、相談の結果入院を勧めるのであった。

しかるに幸か不幸か、選択した病院の病室が満員で、直ちに入院する事が出来ないので、室が空き次第という事になった。

その時がちょうど四日目位の時であって、後三日で予定の一週間となるのであるから、夫人も私も気が気ではない。

夫人がいうには、「現在のような状態で入院したら、まず生命は覚束ないと思うし、

それかといって、部屋が空いた通知が来れば、直に人院させない訳にはゆかないから、

満員を幸い、通知の来ない内に是非共平熱にして欲しい」との要求である。

これにおいて私も夫人の心情を察すると共に又私の治療の偉効を見せなければならない破目となったのである。

そうして四十度以上の発熱は、夜中の二時から三時頃という事であったから、その発熱の状態も見たいので、意を決して一晩宿泊する事となった。

それが、五日目の晩であった。しかるに、六日目はさしたる変化もなく、病院からの通知もなかった。

遂に最後の七日目とはなったが、幸いなるかな、朝の体温は七度を割って六度八分であるとの報告があったので、私はほっとしたのである。

その日は最高七度台で八度を超えなかったから医師も入院を取止めにしたのである。

その後漸次平熱となり、全快したのであった。


右は全然迷信的分子の入らないという事の例としては完璧のものと思うのである。

これによってみても、本医術は科学である事は疑いないであろう。

そうして、右の患者について、私の観るところをかいてみよう。

病歴は、最初普通の風邪であって、熱は最高八度前後最低六度台で、

それが一週間位続いた後やや不良となり、最高八度五分最低七度五分位となった。

それが二週間程続いた後俄然として四十度以上の高熱になり、咳嗽悪寒等右に述べたごとくになったのである。

私が最初診査してみると、病気からいえば八度位が適当であって、高然の出べきはずがないのであるから、

四十度以上の高熱は全く下熱剤による反動熱である。

故に下熱剤服用をやめれば、反動熱は漸次下降し、病気だけの熱になる訳である。

私はその説明を夫人及び御子息に聞かせたのである。


次に、驚くべき事は、五日目位の時、医師は診断していわく、

最初の乾性肋膜はほとんど全治しているにも拘わらず四十度の高熱が持続するという事は、

病気が肺の深部にまで進んだ証拠で、これは容易ならぬ症状であるから、

絶対入院しなければならないと夫人に言ったのである。

私はそれを聴いて笑って言ったのである。

「肺には何ら異状はない。もし肺臓に病気が進行したとすれば、呼吸に異状がなければならない。

しかるに、呼吸は普通であるから、医師の診断は誤診であるから安心されたい」と説明したので、

夫人も安堵の胸を撫でたのであった。ここで私は右の事実に対し大問題を包含している事を述べたいのである。


それは、最初単なる風邪であるから、放任しておいても一週間位で全治すべきであるのに、

医療は解熱剤によって下熱させようとした、その為に逆に反動熱が発生したのである。

しかもその高熱に対し、重症の肺患と誤診し、入院させようとするのである。

そうして入院後は勿論絶対安静によって胃腸を衰弱させ、下熱剤によって反動熱を持続せしめ、

その他注射、湿布等によって浄化作用の停止を行うから、漸次衰弱死に到らしめる事は当然である。

今日結核蔓延とそれによる死がこの様な誤診誤療による事もすくなくないであろう事を想われるのである。

嗚呼、哀れなる仔羊よ、爾等(なんじら)をいかにして救うべきや!」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「宗教と信仰」 (昭和18年10月5日発行)

「本医術を以て宗教的と見たり、信仰的と思ったりする人もたまたまあるようである。

これについて私は、宗教でも信仰でもない事を述べようとするのである。

まず宗教であるが、宗教とは、読んで字のごとく、何々宗という一個の団体を作り、教義を樹立し、その教を説き、その教の主旨に従って行動しなければならないのである。

又何々如来とか何々菩薩、何の神、何の尊(みこと)、キリスト又はその宗派の開祖の像を朝夕礼拝しなければならない事になっている。

勿論宗教によっては種々の形式や行事等の差別はあるが大観すれば右のごときものであろう。

次に信仰とは文字の通りで一言にしていえば、私は信用と信頼が、時日を経るに従って漸次強度となり、

それがついに極点に達するに及んで崇敬の念を生じ、信仰という観念にまで育成さるると思うのである。

故にこの意味によって考うる時信仰とは神仏に限らず、あらゆるものに通暁(つうぎょう)するのである。

暁に日の出を拝むのも信仰であり、武士道も科学も一種の信仰である。

従って、さきに述べたごとく西洋医学といえども、一種の信仰に外ならないであろう。

特に医学における信仰は、実に絶対ともいうべきものである。

何となれば貴重なる生命を委ね、効果いかんに係わらず安心しているにみてもそう言えるであろう。

しかるに、以上のごとき宗教的分子や信仰的観念が、本医術においては異なる事である。

それは本医術においては宗教的分子は勿論ない。

ただ信仰的からいえばないとはいえない。医師から死の宣告を受けた者や、絶望的な難病が起死回生の喜びを生むという以上、

その感激が信仰にまでも及ぶのは当然な帰結であろう。

しかし、それは効果に対する自然の観念であるから、迷信ではない事である。


ここで私は医家に言いたい事がある。

それは医学はともすれば、医学以外の療法が効果のあった場合、必ず信ずるから治ったというのである。

しかしながら、その様な観方には理由がある。

それは西洋医学においての多くの経験から生れた解釈であろうが、例えていえば、患者の信頼する医家の薬剤は特に効く事である。

即ち同一の薬剤であっても、有名な博士の処方は卓越せる効果を挙げ、

無名な医家の処方は効果が薄いというような実例が多くある事も医家がよくいうところである。

これらは全く観念の作用であって、薬剤そのものの効果ではないという事を立証している。

従って、医家が信ずるから治るという既成観念に支配されるのもやむを得ないであろう。


しかるに、本医術に限り、再三述べたごとく、いか程疑う人といえども、信ずる人と効果は同一である。

その証左として特に幼児は偉効を奏する事である。

例えば、医家が最も恐れる彼の疫痢が、医学においては治病率は恐らく十パーセント以内であるに対し、

本医術においては九十パーセント以上というにみても明かである。

私は常に言うのである。「戦争は勝てばいい。病気は治ればいい」ーただそれだけである。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「哲学的に観たる本医術」 (昭和18年10月5日発行)

「今日まで、本療法によって偉効を奏した場合、これを批判するその観念が非常に誤っている事である。

それは何であるかというと、薬剤も機械も使わないという治病方法であるから、

現代人としては永い間唯物療法によらなければ病気は治らないと固く信じている結果

どうしても精神的に因る効果と想い易いのである。

従って、治療で治ったのではない。

信ずるという精神作用によって治癒したというのである。

特に、第三者の場合そう思い勝である。

しかるに、事実はその反対であるから面白いではないか。


今日、本療法は勿論、ある種の民間療法に受療に来る患者は、ことごとくといいたい位、一種の疑惑を抱いている事である。

勿論それは、機械も薬剤も用いないで治るという事は不思議に堪えないという観念である。

しかしながら、人から偉効を説かれ、又は近親者等の偉効を見せられているにおいて信疑相半ばすというのがそのほとんどである。

しかるに、医療を受ける者は、治るという既成観念に強く支配されている事は勿論である。

しかも大病院や博士号等は、特に信頼を強めさせられる。

又、医学の素晴しい進歩という先入観念も、より一層の信頼を強めさせられているという訳で、

病気治癒に対する精神的信頼は民間療法とは比較にならないものがある。

その証左として、医療を受けつつ数ケ月に及んで、いささかの効果がなくとも信頼は衰えない。

否一、二年に及び病症が漸次悪化するといえども、何ら信頼に変りはないのである。

実にその信頼の強き事驚くべきものがある。


従って、ある場合誤診誤療によって悪結果を喫するも、多くは疑惑を起さないのである。

又注射によって致死するも、手術の過誤によって重態となり不幸な結果を来すといえども同様である。

そうして医学の大家が、あらゆる最新の療法を施すも漸次悪化しついに不幸の結果を来す場合大方は善意に解釈し、

あれ程の大家が、あれ程努力しても、かような結果になったという事は全く命運が尽きたのであると諦め、

いささかの悔も不平も漏さないのである。

しかしながら、たまたま医家の誤療が余りにも明かであって、その為不幸な結果に終った場合、

告訴の提起など称えるや周囲の者は、今更とやこういうたところで死んだ者が生きかえるはずはないからという自利的解釈が勝を制して、そのままとなる事がほとんどである。


右のごとき医学に対する絶対的信頼はいかなる訳であろうか、

私の観察によれば、現代人は事物を観察する場合、事実よりも外形・理論・伝統等を重んずるという傾向が、あまりにありすぎる為と思うのである。

これについて私は若い頃哲学に興味を持ち、特にフランス人の有名な哲学者アンリー・ベルグソンの説に、憧憬した事があった。

それは、同氏の哲学中に、私の心を強く捉えたものがあったからである。

それは直観の理論と万物流転という説であった。

しからば、それはどういう訳であるか、その要領を出来るだけ簡単にかいてみよう。


そもそも人間は、総ての事物を観察する場合、多くは事物そのものの直観は為し難いものである。

何となれば、いかなる人間といえども、現在有する観念なるものは決して無色ではあり得ない。

即ち教育、習慣、伝統等、あらゆるそういう類のものが、綜合的に潜在し、

それが想念中に、棒のごとく固形化しているものである。

従って、事物を観察する場合、その棒なるものが大なり小なり必ず影響する事は免れ得ないのである。

故に、ともすればその綜合観念が、事物の実体そのままを把握させないのである。

一層判り易くいえば、右の棒が色眼鏡となるのである。

この意味において、誤りなく事物の実体を把握するというには、

綜合観念の棒に微塵も煩わされない境地に吾を置かなければならない。

しからば、その様な境地の吾とはいかなるものであるか、ベルグソンはそれを名付けて刹那の吾というのである。

それは過去も未来もない否思惟しない所の現在の吾、虚心の吾である。

その様な刹那の吾にして事物を観る場合、はじめて邪魔の入り得ない直観そのものであるというのである。

故にまず人間として、事物の正しい観方はこれ以外にはないとしているのである。


次に、万物流転とはいかなる意味であるかというに、

それは森羅万象一切の事物は常に流転しつつ、一瞬といえども止まる事がないというのである。

即ち昨日の世界も昨日の日本も昨日の吾も、勿論今日の世界でもなく、今日の日本でも今日の吾でもない。

昨日の文化も政治も経済も芸術も医学も、勿論今日のそれではない。

この意味において、昨日は真理であったと思う事も、

今日は破壊されているかも知れないと共に、破壊されていないかも知れない。

それは、もし破壊されているとすれば、それは真理ではなく似而非真理であったからである。

又、破壊されていない真理は真理そのものであるか、少くとも似而非真理よりも真理に近いものである事は確実である。


又、こういう事もいえるであろう。それは真理の時間的表われである。

たとえば幾十年、幾百年無上の真理であるとしていたものも、

それが逆理であった事が明かになるというような例も幾多の歴史が物語っている。


以上説いたごときベルグソンの哲学を通してみれば本医術と西洋医学との真相を把握する上に、すくなからぬ便利があると思うのである。

ここに、注意すべき事がある。

それはこの項の始めにかいたごとく、患者が絶対信頼をする医療によって治らない結果、

本医術の治療を求めるのが大多数であるから、こういう訳になろう。

それは信頼する医術で治らないで反って疑惑を以て受ける医術で治るというまことに奇なる結果となるのである。

この一事を以てみるも、全く治病力の差違のしからしむるところであろう。

故に本医術の治病力は、精神作用を超越するという事になるであろう。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「宗教と医学」 (昭和24年4月25日発行)

「さる三月一日岐阜県高山市において「迷信と宗教」の題目の下に街頭録音があった。

超えて三日及び五日に名古屋放送局より全国中継を行ったが、この放送の狙いはもちろん本教であった事に間違いはない、

また岐阜、愛知及び静岡地方の新聞紙にもしきりに本教団を問題にした記事が出ている。

そうしてそのいずれもが本教と病気との関係についての批判が主なるもので、

医師会と本教との対照記事もあり、本教は医療の非難はしないが、医師会は本教を非難した記事が出ていた、

また街頭録音においては攻撃の矢を向けた二人まで医師である事を言明した。

これらによってみても医師及び医師会方面が運動の中心となって、

本教の指弾に大童(おおわらわ)となっている事実を看取さるるのである、

殊に放送の際のごときは一人の医師は官憲にむかって、極力弾圧を要望していたくらいである。


以上のごとく、本教を目ざしてヤッ気となっている事は実に不可解である、

万一本教が法規に触れたり、社会に害を与えるような事ありとすれば、

医師会方面で働きかけなくとも当局の役目として厳重なる取締りをするはずである、

しかるに何がゆえに本教を目の仇(かたき)にするかをつくづく考えてみるにこういう訳ではないかと思う。

それは一度本教に入るや、難症重症が驚くほど治癒さるるので、

その事が医家に一種の恐怖と刺戟を与えるのではないかと想像するより外に考えようがない。

とすれば全くおかしな話である、医家としても真の目的は病気を治し、人間を健康にするという事が唯一の本意である以上、

自己の物である医学で治らないで、他のいかなる方法であっても完全に治癒されたとしたら大いに喜ぶべきではなかろうか、

否むしろ進んで本教を衝き、その研究にまで進む事こそ医家としての本分を全うするゆえんではなかろうか、

本当からいえば進歩せる現代医学でどうしても治らなかったものが、短時日に治癒されるという方法が生まれたとしたら、

それは実に世界の一大驚異であって空前の大問題である、安閑として手をこまねいたりうそぶいたりしている場合ではない、

一刻も速くこの革命的療法を検討しなければならないはずであるにかかわらず、

今日まで実際を見ながら触れようとはしないばかりか、彼らは一顧だもしない、

それどころか中には触れるのを恐れる者さえあるに至っては実に解釈に苦しむのである、

吾々をして忌憚なくいわしむれば、薬剤も器械も要せずして大部分の病患は完全に治癒するのであるから、

今日全世界の医学者が研究室に閉じ籠り、動物試験や放射線、新薬発覚等に努力している事は、

実は徒労に過ぎないとさえ吾らには思えるのである、

何となれば病理の発見も療法も理想的なものがすでに成立し実行し、驚異的効果を挙げつつあるにおいてをやである、

ゆえに本教の信仰療法がある時期に到って一般に認識されるとしたら、

全世界の医学は一大革命を捲き起こさずにはいられないであろう。


そうして信仰療法の場合一般世人は、精神作用が加わるから治癒さるるとよくいわれるが、

これは実は反対である、まずそれを説明してみよう、

ここに病気に罹った場合、何人といえども一番最初に医家の診療を受けるのが常識である、

科学万能時代の今日、世間からとやかく言われ迷信邪教と目されているものに、

最初から病気を治しに行くようなものは恐らく一人もあるまい、

病気は医者が治すもの、薬で治るものと昔から根強く信じられている以上

医療の場合精神作用による好影響は覿面(てきめん)であるから、

病気は速かに快癒されなければならないはずであるにかかわらず、

多くの事実は反対ではかばかしく治らない、

一進一退の経過をたどりつつ医師や病院を取替えたり、

入院や自宅療法を医家の指図通り実行しながらも漸次病勢は悪化し、

どうにもこうにもならない事態となるので、

やむなく民間療法や信仰療法をあさるというようになる、

ところがそれでもなかなか良くならない、病勢は極度にまで悪化し、

ついに苦悩のあまり自殺を決意するものさえある、

自殺を今日決行しようか明日決行しようかというような断末魔の苦い経験を全快者の思い出話としてよく聞くのである、

しかもそれまでに費やした医療費その他は実に莫大に上る事はもちろんで、

結局多額の費用の代償として受取ったものは、死の一歩手前の悲惨なる運命に外ならないという訳である。


以上のような死の一歩手前まで追詰めたというそもそもの責任は一体誰が負うべきであろうか、

何よりもまずこの事を深く考えなければならないとすれば、

この責任は当然これまでに悪化さした医家が負うべきものであろう、

しかしながら医家として一々その責任を負うとなったら、医業をやめるより外はないという事になる、

そこで今一層深く掘下げてみると、実際問題として医家には責任はない事になる、

それでは一体誰が負うべきかというと、そこに意外なるあるものがある、

そのあるものとは医学という学問である、すなわちその学問に一大欠陥の伏在している事をいまだ知らなかったのである、

ゆえにいかに進歩したように思われている医学でも、人類から病患を取除く事は絶対不可能である、

それを簡単にいえば、医療のすべては一方に効果があるだけ他の一方には害があるという訳で、

専門家も一般人も効果のみをみて害の方に気がつかない、

ちょうど秤(はかり)と同様一方が上れば一方が下るという訳である、

何よりの証拠は頻繁に新薬や新療法が表われる事実で、

その訳は真の決定版が生まれないからである、特に結核に対する特効薬がそうである。


なお精神作用について今一つ言うべき事がある、さきに述べたごとく、

信仰的と思わるる程に一般から信じられている現代医学にかかっても効果がなく、

遂に悪化のドン底に追い込まれ、藁(わら)をも掴みたい心境にある時、

たまたまなんらかの機会で本教に救いを求めようとする場合、

専門家はいう「病気は進歩せる現代医学の外に治るべきものは絶対にない、もしありとすればそれは迷信である」と注意を促す、

新聞雑誌やラジオ等でも、当局の言として「罹病の場合一刻も早く医療にかかれ」と言い、

それが正しい方法であるとし、迷信邪教に騙されてはならないと警告する、

親戚知人や家庭の者は「病気は医者でなくては治らない、何々博士の診療で治らないとすれば全く寿命であるから諦めるより仕方がない」という、

しかし誰しも生命は惜しい、その際勧める人があって信仰へ触れようとするが、周囲の者は極力反対する、

実にあの手この手で防止手段は至れり尽せりである、

しかし患者はどうしても諦められないまま信仰に救いを求めるが

最初は誰もが疑心暗鬼で恐るおそるしかも極めて秘密に近寄るのが大多数のやり方である、

このような訳で、精神作用からいえば絶対的悪条件であるにかかわらず、驚くべき奇蹟が現われ、

さすがの難病も一転して苦痛は軽減し恢復に向かい始め、ついに治癒するのである、

この実際的効果に見ても科学療法との優劣は多くを言う必要はあるまい、

このように救われる人のいかに多数であるかは、その報告礼状が机上に山を成すに見ても明らかで、

いずれもその感謝感激の溢るる心情は涙なくしては読めないのである、

その一部を本紙「おかげばなし」として掲載されている。

また彼らは吾々の方で奇蹟的にいかに病気が治っても理屈に合わないからいけないというが、

それは理屈の方が間違っているからで、実際に治る理屈の方が本当の理屈である。


以上のごとく長々と論じて来たが、結論として言いたい事は、病気は治ればいいのである、

治れば、それが真の医術で、病気が治って健康になれば患者はそれで満足し、それ以上に何を求むるであろう。

吾らは以上の意味において、迷信邪教の不快極まる言葉を、ここに返上するのである。」