宗教と科学について 2


明主様御教え 「浄霊とは何か」 (昭和28年御執筆)

「今まで病気の原因と、そのまた原因である薬毒について詳説して来たから、今度は治す方法とその原理を詳しくかく事にしよう。

もちろんこれこそ我浄霊法であって、その素晴しい治病効果は言い尽したくらいだが、

病原とは霊の曇りにあるので、曇りさえ払拭すれば病気は治るのは当然であって、この理は科学的にも説明出来る。

しかし単に科学のように極限された小乗的のものではない。

いってみればこの世界は大別して上中下三段階になっており、これが一切万有の実相である。

ところが小乗科学においては、前記のごとく唯物的分野に限定されている以上、

外形のみに捉われ、進めば進む程皮相的緻密(ちみつ)になるばかりで、その結果生れたのが黴菌医学である。

従って病理の根本から益々遠去かり、逸脱してしまったのである。

そうして大乗科学の三段階とは上段は神科学、中段は霊科学、下段が物科学となっており、

この下段に生れたのが医学であるから、そのレベルが低く幼稚であるのも当然であって

そのような程度の低い科学をもって、最高度の人間生命の解決などは思いもよらない話で、

むしろ僭越(せんえつ)でさえあり、長竿をもって大空の星を落そうとするようなものである。


ここで以上のごとき三段階を一層徹底してみるとこうである。

すなわち今日までの世界は物科学と霊科学との二段階のみであったがため、人間生命や病気健康等の根本まで分らなかったのである。

もちろん独り医学ばかりではない。

あらゆる文化がそうであって、永遠性のない一時的間に合せ物がそのほとんどであったのである。

という訳で治病方法にしても、前記のごとく三段階中の物科学と、そうして霊科学中の信仰療法のこの二つだけであった。

前者は略すが、後者においては治病方法としては祈り、苦行、禁厭(まじない)等であって、

医学と同様見るべき効果はなかったのである。

またこれは別の話だが彼(か)の釈尊にしてもキリストにしても、なるほど見真実(けんしんじつ)の境地に達したとは云われているが、

最高ではなく二段階の上位程度であり、智慧も力もそれ相応であって、絶対でなかった事は歴史の示す通りである。

これも時期の関係上止むを得なかったのである。


ところが私においては右の第一段階の最高地位に置かれている以上、

無限絶対の大本元を把握しており、一切の事物に精通すると共に、

病気その他万般に渉って驚異的奇蹟を現わし得るのである。

こんな事をいっても、第三者は直に信ずる事は出来まいが、これこそ真理の具現である以上、

何人といえども結局信ぜざるを得なくなるのは断言してはばからないのである。

しかるに今日までの人類はそこまで分らないがため、釈迦キリストを最高神仏として崇敬し信じて来たのであるが、

事実がそれに伴わないため、人々は疑雲に閉ざされ、霊の実在を否定し、科学万能時代を生んだのである。

そうして「聖書」には再臨のキリストを予言してあり、仏教は弥勒下生を唱えており、ユダヤ教やその他の教派にしても救世主(メシヤ)降臨を待望している。

というようにそれぞれ昔から期待はかけられていたが、

ただその時が明示されていなかったため、大衆はそれらの説は理想の表徴くらいにしか思わず、いつとはなしに忘れられたのが現在の世界である。


私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストともいわない。

なぜなれば昔から今日まで随分そういう名乗を上げた者もあったが、みな煙のごとく消えてしまったからで、

今日それを唱え出したところで、偽キリスト、偽救世主か大山師くらいにしか見られないのは分り切った話であるからである。

要は実際問題であって、今後私の仕事の上において、救世主的救いの力を発揮するか、

キリスト再臨的威力を表わすか、弥勒や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであろう。

つまり全世界の人々が公正なる批判の眼をもって観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。


話は戻るが、以上のごとく物の科学、霊の科学、神の科学の三段階の原則こそ大乗科学であるとすれば、

これこそ今後の時代をリードすべき最高学問であるといってよかろう。

ゆえに今日までの科学がいかに程度の低いものであったかは充分判るはずである。

従って我 メシヤ教こそ、最高最貴の主神が経綸し給うところの神科学の具体化であり、

それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。

何よりも事実が遺憾なく証明している。例えばキリストの治病奇蹟にしても、一人対一人であったに対し、

私は私の弟子をして、キリストと同様の奇蹟を日々無数に顕わしつつあり、

その数も数十万に及んでいるので、言わば現在すでに数十万のキリストが日本に生れている訳である。

この神力こそ主神以外にあり得ない事は、常識で考えても分るはずである。


ここで浄霊について一層詳しくかいてみるが、まず私は一枚の紙片に「光」という文字を書き、

それを畳んで御守として入信者に渡すと、それを懐に入れて手を翳(かざ)すや、

たちまち掌から光が放射され、霊の曇りは解消し病は治るのである。

この光とは私の腹中に在る玉の威力であって、この光は無限に放射され、霊線を通じて御守に伝達する。

この理はラジオを考えればすぐ分る。放送局、アンテナ、受信機の関係と同様である。


以上長々とかいた事によって、読者は病気の根本が分り、医学の誤謬が明らかとなり、治病の根本も会得されたであろうから、

これが世界的に拡がるにおいては、病無き世界の実現は敢て難事ではないのである。

右のごとく、黴菌の原地を潰滅する手段としての、術者の掌から放射される光としたら、

この光は何かというと、これを科学的に説明してみると、

すなわち曇りの中に含まれている不純粒子が光に会うやたちまち焼尽され、純粋水素のみが残るのである。

それは光に含まれている火素という熱の力であって、

これを説明すると、火素とは光に含まれている太陽熱の精で、言わば陽粒子ともいうべきものである。

だが科学では水素はいうが、火素を言わないのは不思議である。

しかし火素は熱の霊であって体ではない。

体は吾々が使用する熱い燃える火であるが、霊の熱は超稀薄のものであって、

体の熱に比べれば比較にならない程の強力なものである事は、実験によっても明らかである。

すなわち濃厚な膿に向かって浄霊するや、回を重ねる毎に漸次薄くなり、ついには清冽な水になってしまう。

これこそ火素の熱力によって毒粒子だけが焼尽されるからである。

この理によって体内いずれの深部にある膿や濁血といえども全然身体に触れずして、

浄霊によって溶解し、大部分は漿液となり、濃厚な分だけ排泄物となって出てしまうのであるから、

最初手術の項にかいたごとく、機能を何ら損じないで、病気だけを除去する事が出来るのであるから、

これこそ最も進歩せる文化的医術でなくて何であろう。

そうして私の腹中にある光の玉というのは、仏教においては如意宝珠、神道においては麻邇の玉の名によって、昔から知られているものである。」




明主様御講話 「科学にも上中下があり現代科学はずっと低い」 (昭和29年3月6日)

「それで見真実というものは一番高い所ですから、

そこですべてを見下ろすからはっきり分かるのです。

結局この見真実を分からせるために私がいろいろ説いているのです。

要するに信仰の目的は早く見真実になることです。

そうするといろんなことがよく分かります。

けれども本当に見真実には、それはふつうではなかなかなれないのです。

だからそれに近寄ればよいのです。ところで釈迦やキリストも見真実にはなったが、

見真実にも上中下があって、中位の見真実だったのです。

その先は分からなかったのです。

またあの時代には分かってはいけなかったので、時期が早すぎたのです。


しかし今はもう分からなければならないのです。

本当に地上天国を造るのですから、それには人間の主だった人たちに、

ある程度は見真実を分からせなければならないのです。

ということはメシヤ教の信者ですが、特に幹部の人です。

こういうよう(ピラミッド)になっていて、その頂点が見真実の境地になって、段々になっているのです。


この間の論文に説いた科学というのは下なのです。

それで私が説くことはみんな科学ですが、

科学にも上中下があって、現代科学はずっと低いのです。

そういうようで、段々になっているのですが、深く高くなっているものほど上等です。

私が説いている科学は上等な科学です。

そこで下等な科学のことを批判しているわけです。」




明主様御講話 「浄霊はお座敷の方、科学は台所道具」 (昭和29年3月15日)

「今朝の新聞にデカデカと出てましたが、二重橋事件で目が見えなくなった山田けい子という十一になる子供に関し、写真なども出して、たいへんな医学の功名のように報じてますが、あれはなんでもないのです。

どうも医学だと屁みたいなことでもたいへんなことのようにありがたがるし、こっちの方のどんなすばらしいことでも、テンで見向きもしないという馬鹿馬鹿しい世の中です。

あれは、頭を打ったので内出血して、出血が目の裏に固まったものです。

ですからウッチャラかしておくと、一、二年たつと膿になり目脂になって出てしまうのです。浄霊ならわけはないです。

医学ではそれができないから、脳に穴をあけて血の固まりを取り出したというのだから、別にたいした理由はないので、簡単なものです。

清水健太郎という博士で、その方の権威としてあるのですが、これは最初やったのはポルトガルのモニーという教授です。

それが最初脳に穴をあけて、そういう手術をしたのですが、それを日本でまねをしたわけです。


つまり今の文明・・・(だいたい科学ですが)というものは、ごく幼椎なものなのです。

科学といっても、ちょうど台所道具を作るようなものです。

それでこっちの浄霊というのはお座敷の方のを作っているわけです。

台所道具に慣れた目にはお座敷の立派な物が分からないというわけです。

それについて書いてみました。


(御論文「私は宗教科学者だ」) 

今のは学校の勉強時間のような話ですが、これが本当に分かればなんでもないのです。

逆の方の教育を受けたために非常に分かりにくくなっているわけです。

つまりメシヤ教というものは高度の科学を教えるわけです。

だから宗教ではないと言うのはそういうわけです。

宗教というものは全体から言うと大きなものではないので、限られているものです。

だからある範囲内のものです。

というのは、精神的教えによって精神的に分かる・・・分かるというものは因果律です。

善因善果、悪因悪果という因果律を教えて、魂を善に向かわせるというわけです。

精神的のものですから、高さはありますが広さはないのです。

そこで広さにおいては科学にはとてもかなわないのです。

その代わり科学には高さはないです。

やっぱり台所道具ですから、床の間の置物などはできないのです。

そこで広さの科学をもっと上の方に上げて、

高さの科学という科学を作らなければならないという、それがメシヤ教なのです。

だから今まで台所道具の目に慣れた人間にはチョッと分かりにくいのですが、これは美術にも当てはまるのです。

今大騒ぎをやっている油絵というのは、いつかも書いたとおり、家具の方です。

それを日本人は一生懸命にまねてますが、それは実に滑稽なのです。

これは実用品なのです。

ところが日本の芸術というのは非常に高いのです。

そのために私は美術館を造ったのです。

かえって外国の人の方が分かっているのです。

日本の芸術というものは、とにかくたいへんなものだと、外国人も分かりつつあるわけです。

本当にはまだ分かってないのですが・・・。

一番分かってないのは日本人です。

手前の側にあっていて一番見えないのです。」




明主様御垂示 「科学が神秘」 (昭和24年5月23日)

信者の質問
「宗教と科学は一致するとのお言葉でございますが、宗教が科学で理論づけられたときには神の神秘性は失われ唯物的ならざるを得ないと存じますが、いかがでしょうか。」


明主様御垂示
「本当は、宗教は科学的に説明がつくべきものであって、もうすぐにいろいろ新聞や雑誌に出しますが、科学で説明されて神の神秘性が失われたっていいですよ。

神秘性が失われたほうがかえってはっきり判っていいでしょう。

はっきり判らないから神秘性が出てくるんで、はっきりして神秘性がなくなれば迷信なんかもなくなるからいいですよ、いっこうかまやしません。

この間ラジオで「宗教はなくならなくちゃいかん」って言ってましたが、これは真理ですよ。

本当の時代になれば宗教はなくなりますよ。

病人があるから医者がいるのと同様で、悪い人がいるから宗教が必要なんですからね。

だから、立派な人ばかりになれば宗教はいりませんよ。

私は神秘をなくしてるようなもの、神秘を暴いてるようなもんですよ。

本当はね、科学も宗教も同じもんです。

ただ、どっちかが先に進むものなんです。

私のほうは科学よりずっと先に進んでるんです。

だから、私のほうが科学で、科学が神秘なんです。(笑声)・・・」




明主様御垂示 「浄霊が科学よりも千年進んでいる」 (昭和25年4月23日発行)

信者の質問
「宗教と科学との関係について・・・将来私は自然科学、殊に技術的な方面を専攻いたしたいと存じますが、この点いかがでしょうか。」


明主様御垂示
「結局ね、宗教も科学も同じものなんですよ。

新聞にも書いてますから、あれを読めば判ると思いますがね。

いまの科学がまだそこまで、宗教のありどこまでまだ来てないんです、ずっと遅れてるんですよ。

勿論宗教だっていままでの既成宗教は科学と同じくらいのところですがね。

この信仰はいまの科学より千年も先に進んでるんですよ。

浄霊が科学よりも千年進んでるって新聞にも書きましたが、たいへんな隔たりがあるんです。

だからよほど一生懸命で追いつかないと科学はこっちに追いつきませんよ。

第一、博士連中が頭をひねってやっても駄目なのが、浄霊でどんどん治って行くんですからね。

もっとも、医学は科学にも入ってないんで、ありゃあ一種の変態科学ですがね。(笑声)」




明主様御対談 「明主様と文学」より (昭和27年11月19日発行)

H氏の発言
「メシヤ教というのは、非常に文化性をもっている宗教ですね。私は宗教はあまり知りませんが、とにかくほとんどの宗教は文化性がないようですね。」


明主様の御発言
「そうです。私が言うとおかしいですが、私は宗教には興味がないのです。

メシヤ教の目標は、最高の文化です。

むしろ文化を指導するくらいの権威がなければならないのです。

ところで現在は宗教のほうで時代に迎合したり、自分から文化より低いように、科学より低いように思ってやっているということが、たいへんな間違いです。

ですからたいていの宗教というのは病院を作っているのです。

しかし、私の所は作らないのです。

もし病院を作るとするならば、その宗教が科学に負けていることになります。

ところが私のほうは科学より上だから、病院は作らないのです。

つまり宗教は最高の科学です。宗教は霊的科学です。

いまの科学というのは唯物的科学ですから、どちらも科学といえるのです。

ただ唯物的に進むのと唯心的に進むのとの違いです。

いっぽうは目に見えるものを対象とする科学で、私のほうは目に見えないものを対象とする科学です。


ですから病気でも医者よりもズッとよく治るのです。

なんでも四年とかの盲目で五分間で目があいたというのがありました。

キリストの奇蹟くらいわけないです。私の弟子がキリストくらいです。

それで最近私はアメリカの病人を調べさせたのですが、その報告をきくとアメリカの病人はたいへんなものです。

現在医者に御厄介になっている者は千七百万人で、全人口の約一割以上が病人というわけです。

それはアメリカが非常に間違ったことをやっているから病人が殖えるのですが、それを私は「アメリカを救う」という題で書いてます。

これを翻訳してアメリカの大統領、有識者、医学界、病院に配ってやろうと思っています。日本にも新聞広告をして出します。」




「自観大先生との対談」より (昭和24年5月30日発行)

記者の発言
「観音様の御訓(みおし)えは科学を否定しているや。」


明主様御発言
「決して科学を否定するものにあらず、

むしろ科学に先行するものであると言ったほうがわかりやすいかもしれない。

科学の進歩したもの、すなわち科学が二十世紀の科学なら、観音様の御訓えは二十一世紀の科学とも言える。

だからいまの文化や、医学が一世紀遅れているとも言えるのである。」