宗教と科学について 1


明主様御教え 「文明の創造 梗概」

「この著は序文にもある通り、空前の大著述であって、現在文明に対する原子爆弾といってもいい位であろう。

というのは既成文明の根幹をなしている宗教も、思想も、哲学も、教育も、科学も、芸術も、ことごとく包含されており、

その一々について鋭い眼を以て、徹底的に批判し、赤裸々に露呈したのであるから、

これを読んだら何人といえども、古き衣を脱ぎ棄て、新しき衣と着更えざるを得ないであろうから、

この著が世界に広まるに従い、ここに既成文明に対して、一大センセーションを捲き起すに違いあるまい。

またこの著完成の暁は、全世界の宗教家、各大学、学界、言論界著名人等に出来るだけ配布するつもりである。

勿論ノーベル賞審査委員会にも出すが、ただ惜しむらくは同審査委員諸氏は、唯物科学の権威であるから、初めから理解する事は到底困難であろうが、

この著の説くところ科学の根本をも明示してあり、ことごとくが不滅の真理である以上、充分検討されるとしたら、理解されないはずはないと思うのである。


右について重要な事は、今日までの文化の考え方は、宗教と科学は別々のものとしていた事である。

しかしこれが大変な誤りであるというのは万有一切を見ればよく分る。

陰陽、明暗、表裏というように、相反する二様のものが一体となって地上が営まれつつあるにかかわらず、これを別々に考えているところに誤謬があるのである。

何よりも今日までの文化がいかに進歩したといっても、人類の最大欲求である平和幸福な社会が実現しないのはその点に最大原因があるのである。

従ってこの著の理論は、宗教とか科学とかに全然偏らないと共に、宗教も科学も一様に批判の的としている。

勿論文化全体に渉って解剖のメスを振っている。

何となれば地球上における一切万有は、人類に関係のないものは一つもなく、何らかの繋がりがあるからである。

この意味においてもしある範囲に偏するとしたら、それは永遠の真理ではなく、ただその時代に即応した独善的所論でしかない事は、歴史が示す通りである。

何々主義、何々思想、何々説などと言って、ある期間持てはやされたとしても、歳月の流るるに従い、必ずそれ以上のものが現われてしまう事実である。

その中でともかく現存しているものといえば、数種の宗教のみであるが、これらも教勢は漸次衰え、往年の盛況を取戻す事は最早不可能であろう。

この原因もヤハリ教そのものが信仰的範囲に限られているからであり、特に最も欠陥としては科学性のない事であろう。

仮に病気を治す場合にしても病原の不明と共に治病の方法もなくただ祈願あるのみであるとしたらヤハリ精神的偏在であるとしたら既成宗教も既成科学も普遍性に欠けている以上、全般的救いの力はない訳である。

ところが本著の説くところは、宗教とか科学とかに偏しないのは勿論、前人未見の宇宙の深奥なる実体にまで突き進んで説くのであるから、一言にしていえば真理そのものの開明である。


さていよいよ本論に入るとして、一体人間の最大欲求とは何であるかというと、言わずと知れた幸福そのものであろう。

文化の進歩もそれの実現の目的以外にない事は言うまでもない。

宗教も、哲学も、発見発明も、新学説も、大芸術、大革命も、ことごとくはそのためである。

ところが現在の文明をよく検討してみる時、最初の目標である人間の幸福がどれだけ実現されたであろうか、遺憾ながら期待とは余りに掛け離れているではないか。

なるほど現代文化を外観からみれば、まことに絢爛、眼を奪うものがあるが、しかしその裏面はどうであろう。

なるほど幸福は確かに増進したに違いはないが、それは物質面だけであって、精神面に至っては幸福どころか、不安不幸は停止する事を知らず人類は泥沼の底に呻吟している現状ではなかろうか。

しかし不思議なるかなそれに気付かない惨状である。

その原因は無論今日までの人類は、ただ物質文化さえ進歩させれば、幸福も共に増進するものと思い込んでしまった、その錯誤である。

ところがこの著の出ずるに及んで過去の文化がいかに誤りであったかを自覚せずにはおれない事になるのは勿論である。

ここにおいて長い間懐疑の雲に蔽われ、迷路にさまよっていた人類は一転して明々白々たる境地に誘われ浄々たる前途の希望に勇躍するであろう。

故にこのようにみてくると、現代文化は唯物的には成功であり、唯心的には失敗であったともいえよう。

つまり一言にしていえばである。

右のごとく人類は何千年もかかって作り上げた文明が、成功と失敗との半々とすれば、そこに何らか大きな誤謬があった事は否定出来ないであろう。

これこそ全く大きな謎である。私はこの謎を解くべき鍵を神から与えられたのである。

そうして今一つの重要な事をかかねばならないが、以上のごとく人間の最大欲求たる幸福が得られたとしても、人間生命が確保されねば何の意味もなさないであろう。

ところが、現代文明は幸福も得られず肝腎な生命確保にても、無力以外の何物でもないので、これは事実がよく示している。

それは医学の無能である。医学がいかに進歩したといっても、全然裏切っている事実である。

見よ現在各国共病人の氾濫には困り抜いている。それについて驚くべき最近の在米の本教信者の報告によれば同国においては、目下医師の治療を受けている患者の数は、千七百万人に上るという事である。

同国の人口一億五千万であるから、一割強に当る訳であるから、考えざるを得ないではないか。

現在医学の進歩は米国が世界一とされているにかかわらず右のごとくとすれば最早医学の無力に目覚めてもいいではないかとさえ思うのである。」




明主様御教え 「宗教と科学」 (昭和10年9月15日発行)

「今日まで、宗教と科学は全然反対の立場になっていたが、これは間違っていた。

近き将来において、宗教と科学は、結合一致すべき運命にあるのである。

それは、科学の進歩は結局神の実在を認識するまでになるからである。

それについて、最近における、二つの顕著なる発見を見逃す事は出来ない。

その一つは、物質原素の極まりなき究明であって、

彼の陽電子一個を中心に、八個の陰電子が周囲を廻転し、一個の原素細胞を形成するという所までの発見であったのが、

最近に到ってはなおも進んで、顕微鏡の発達は一億万分の三ミリ位までの極微に達したのである。

それは、電子よりも極微なる、陰子の発見にまで及んだのであって陽子の発見も時日の問題とまでなって来たのである。


今一つは、トーキーの進歩である。それは音(おん)の原子が、種々の形と色をなして躍動するのが、無数に画面に映るのである。

お玉杓子のごときあり、棒状があり、円形、輪形等いろいろの形があるのみならず、

それらに各々黄、紫、赤、青等の色と、それぞれの光りを有しているという事である。

それが楽のリズムの変化によって、種々の躍動をするというのである。

まことに驚くべき事である。

神霊は光りと熱である。

故に、その神の光りを科学によって証明さるるのは、今一歩という所まで来ている、

人の精霊や、病原としての曇り、それが治癒されてゆく神の光りの活動が科学によって証明されたなら、

ここに初めて宗教も科学も合一して完全なる学問が生れるであろう、

そうしてその真使命は、人類に対し、新しい光明を与える事になるであろう。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「科学の使命」 (昭和11年5月15日発行)

「人間が、科学の力に依って、機械の進歩は言わずもがな、有生物である植物の種子を改良したり、科学的肥料を与えて、増大又は増産させたり、花の色を思うまま、変化させたり果実を大きく生らせたりする事は、驚くべき進歩である。

又、動物や家畜を改良したり、鶏に卵を多く産ませたり、最近は、牛や馬の精虫を、飛行機で輸送して、受胎させるという、驚くべき報告さえあるのである。

その他、小禽(ことり)や金魚等までも、欲するままに改変出来る程に、進歩した事である。

それは人間を、形而上の存在とすれば、それらあらゆるものは形而下のものであるから、人間の意思のままに出来得るのは、当然な事である、森羅万象に対する自然法則は、そうなっているからである。

それであればこそ、人間が、人間を自由にする事は、出来得ないのである。

それは同じレベルの存在である人間同志だからであって、もし、人間を自由にするものがあるとすれば、それは人間ではない、人間以上のある物であって、超人間、又は、神と名付くべきものである。


この理によって、科学は人間が造ったのであるから、同じレベルの存在である人間を自由にする事は、法則が許さないのである。

随って、その科学から成立ったところの医学で、人間の病患を治癒し、健康を増進させようとしてもそれは、自然法則に反する訳である。

この事に現代人は、目覚めなければならない、今日の社会において、この自然法則に背反する事物も多くあるが、その中で、医学は、その最たるものである。

故に、人間の病患を治するその力こそは、人間以上のある者でなくてはならない事は、まことに自明な理である。

ちょうど、動物や植物を、自由にする力は、動植物自身には無い、それは、動植物以上の存在である、人間が有っているのみである。

又、言い換えれば、人間と同じレベルの科学で、人間を治そうとするのは、下剋上でもあり、共産主義的でもあろう事である。

共産主義を作った猶太(ユダヤ)人が、医学を作ったという事は、面白い事である。

人間の病気を治すべきものは、人間以上のある存在であるとすれば、それは、神である。

故に科学は僭上にも、その神のみが有ち給う、治病権を犯しているのである。

それの現われとしての西洋医学は、人間をして、神に対する様に、拝跪(はいき)さしている。

猶太人の生んだ共産主義は、絶対に神を否定している。

そうしておいて一方、科学を神の王座にまで登らせて、人間に拝跪させようとしている。

そればかりではない、科学は、その産物である医学を以て、ついに人間の生命をさえ、自由にしてしまった事で、

世界中の大部分の人間は、この医学の掌中に、握られてしまったのである。

人間の生命は、元々創造神の御手のものであって、決して科学の手中に、あるべきものではない。

それが、今日はどうであろう、人間の生命の所有主であるー神の手から、科学は、奪取してしまって、思うがままに自由にしている。

日本人の平均寿齢、四十余歳までに、短縮されてしまっていても、なお未だ眼覚めないばかりか、益々崇信している事である。


矢張り、科学は科学としての、自らなる使命がある。

それは、人間より以下の存在への進歩発達、それが、真の使命である。

故に、私達の運動は、立入るべからざるところへ立入って、自然法則を破って、軌を脱している科学を、科学本来の使命へ戻してやる事である、

つまり科学に奪取されている、人間の生命と霊魂を、再び、本来の所有主である神へ、返還さす事である。

それに依って始めて、人類の生命は延長し、病無き時代が来るのである。

その具体化としての事業が、本療病術であり、これが吾らの、天よりの使命である。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)




明主様御教え 「宗教の観方」 (昭和25年4月29日発行)

「世人が宗教を観る場合、はなはだ正鵠を得ていない事に気がつく、それは宗教なるものの地位である、

というのは宗教は他の何ものよりも最高に位するものであるからである、

ゆえに哲学も、道徳も、科学も宗教からみれば以下の存在であるのはもちろんである、

ところがそれを知らないため宗教哲学などという言葉があるが、

これは宗教を哲学的に解釈しようとするもので全く逆である、形而上のものを形而下の理論で解こうとするのである、

何となれば宗教は神が造ったものであり、哲学は人が造ったものであるからである、

また、宗教と道徳とも異う、もちろん道徳も人が造ったもので、

ただ哲学と異うところは、哲学は科学的、西洋的であるに反し、道徳は心理的、東洋的のものである、

また科学は哲学や道徳に比べて一層形而下的で、宗教と隔たる点の最も著るしい事はいうまでもない。

以上によってみても、現代有識者の宗教観がいかに当を得ていないかが判るであろう、


しかし右を今一層徹底してみるとこういう事になる、

元来哲学とは、人間の創造的理論の組み立てによって今日に到ったものであるから、宗教と較べる時その価値は自ら明らかである、

究極するところ壁にブツかってどうにもならなくなる、

その証拠には哲学は研究すればする程迷路に落込み、懐疑は懐疑を生み、到底結論は得られない結果、

厭世的になりやすく、極端なのは自殺によって解決しようとするものさえあるくらいで、これは誰も知るところであろう。


次に、道徳であるが、これは今日まで相当人類社会に貢献したのはもちろんであるが、

これとても有能者の頭脳から生まれた、一種の戒律的人心を改善するものであるから、

人間の魂を根本的に揺り動かす事は出来ないのみならず、

昔の日本なればイザ知らず、今日のごとく一切が西洋文化に支配されている以上、

道徳という東洋的なものでは、最早今日の人間を納得さす事は出来得ない、

何よりも道徳の影は漸次薄れつつあるにみて明らかである。


次は、唯物科学であるが、これは吾らが常に批判しつつあるところで、

今更言う必要はないが、とにかく、現在文化といえば、科学そのものとしているくらいで、

文化の進歩とは科学の進歩と観ている現状である、

ところが、科学の進歩によって人類の幸福はいかに増大されたかは疑問である、

むしろ正比例的に不幸の増大をさえ思わしむる事実である、

今日恐るべき原爆戦争の脅威に晒されている世界人類を見れば多言を要しないであろう。


ここにおいて、一体、全人類は一部の例外を除き、何を望んでいるであろうかを検討してみる時、

言うまでもなく幸福そのものである、科学の進歩発達も、人類の幸福を目的としたものに外ならないが、

悲しいかな、事実はその逆でさえある、

とすればその根本を探究する事こそ今日の急務であらねばならないのである。


さきに述べたごとく、哲学でも道徳でも科学でも解決の力がないとすれば宗教以外に何があるであろうか、

この点、識者においても気のつかない事はなかろうが、

事実宗教といえば現在までの既成宗教を標準としている以上

既成宗教によって右の条件を解決出来ようとは思えないのである、

従って人類の幸福などは、いつの日に達成さるべきか見当さえつかないのであろう、

何となれば実に暗澹(あんたん)たる世相である。


しかるに、以上のごとく諦め切ってしまった世界へ出現したのが吾らの超宗教的一大救済力である、

恐らく何人(なんぴと)も夢想だもしなかったもので、容易に受入れ難いではあろうが、しかし事実を否定する事は出来ない、

何よりも一たび本教の真相を知るにおいては盲目者が開眼の喜びに遇ったごとく

豁然(かつぜん)として覚醒するのでその喜びの報告は、本教刊行物に満載されているのが何よりの証拠である、

ゆえに真の幸福を得んとする人達よ、まず試みに本教に触れてみる事である、

いかに美味なる食物でも説明を聞き、眼でみるだけでは判るはずない、まず口へ入れて味わうべきで、味わってみて始めて判るのである、

恐らく今まで味わった事のない醍醐味に何人といえども満足せずには置かないであろう。」




明主様御教え 「科学の力」 (昭和23年9月5日発行)

「現代人は、いかなる問題といえども科学によって解決せられざるものはないようにいい、

科学は万能薬のように思われているに対し、私は質問したいのである。


それは道徳は、芸術は、恋愛は、科学によって解決出来るだろうかという事である。

今かりに科学によって道徳上の問題が解決出来得るとすれば、

最も科学教育を受けたところの、最高学府を出た人士は、道徳的に優れていなければならないにかかわらず、

涜職、破廉恥等の犯罪も少なくない事実をみれば、科学は道徳的には微力である事を物語っている。


次に芸術であるが、これはまた意外である。

科学の進歩せる今日の美術家の作品をみるとき、数百年以前の同じ美術家の作品と比べて、

科学を知らないその時代の作品のほうが、数段優れている事実を発見し、私はつねに驚嘆するのである。


ここに最もおもしろいと思う事は、男女間の恋愛であるが、これは科学的にいかに解釈するかである。

以上のごとき三大問題は、人生に対し最も解決を要すべき重大問題であろう。

なる程、科学は唯物的には人類に対し、偉大なる貢献をなしつつあり、ますますその発展を要望してやまないが、

前述のごとく、科学によって解決不可能の問題も相当あり、これこそ宗教が分担すべきものではなかろうか。

ここにおいて私はおもう。

この両者の一致的進歩こそ、真の意味における人類文化の向上であろう事を。」




明主様御垂示 「宗教と科学の関係」 (昭和24年1月31日発行)

信者の質問
「宗教と科学の関係、および両者とも必要でしょうか、どちらか不要になる時が来るでしょうか、御教えを賜りとうございます。」


明主様の御垂示
「これはどちらも不要なものでなく、どこまでも進歩発達すべきものである。

少なくとも宗教がなかったら人類の罪穢は溜まるのみで、

それによって生ずる毒素の堆積は人類の破滅することになる。

それは浄化のため大天災が続くからで、

また科学がなかったら人類文化は進歩しない。 

宗教と科学は同じものであることはすでに「信仰雑話」で説いた。

従って、科学で説明できない宗教は本当のものではなく、

同時に宗教で説明できない科学も本当のものではない。


宗教を度外視した科学の発明は恐ろしいことはいうまでもない。

科学の進歩が人類の幸福と伴わないのはそのためである。

いままでは宗教を閑却し、むしろ否定したが、

科学の進歩に伴い 宗教も一緒に発達して行かなくてはならぬ。」




「問答有用 徳川夢声氏の発言 連載対談」より (昭和26年5月6日発行)

ノーベル平和賞を執筆中の著書に

明主様御発言 
「いまの人間というのは唯物観を子供のときから吹き込まれてるから、迷信だとかインチキだとかいうんです。

霊がわからなければ、本当の文化や文明はない。

ですからわたしは、いま「文明の創造」という本を書いてるんです。

いままで文明だと思ったのは半分の文明だ。

文明の根本は生命の安全だ。

生命の安全というのは病気にならないこと、戦争のなくなること、この二つです。

この解決ができなければ、文明社会というものはできないという意味なんです。

それじゃ戦争と病気をなくすることができるか、できるんです。

こういうふうにできるというその学問ですね、それを書いています。

この論文をノーベル賞審査会にも出すつもりですがね。」


夢声氏の発言 
「平和賞ですな。」

明主様御発言 
「けれどもおそらくノーベル賞審査委員には、霊界のことは理解されないだろうと思うんです。

科学のほうでいうと、湯川博士が理論物理学で中間子を発見した、これは実験物理学で証明されなきゃダメだ。

ところがたまたまアメリカで宇宙線を写したときに、中間素粒子というものが写った。

これは実験確実だというんでノーベル賞をもらった。

わたしのは実験神霊学で、神霊学の裏付けとしてこうやって(手を振るしぐさ)病気がなおるということでしょう。

これは原子科学からいくと、もういけないんです。

なぜいけないかというと、無の世界で、これは顕微鏡で把握できないからです。

要するに科学と宗教との間の空白、これがたいへんな世界なんです。

ここはどういう構成であるか、どういう元素であるかということを書いているんです。

いまのところは宗教と科学は別問題だといわれてるが、これがわかると宗教と科学が一致するわけですよ。

医学がバイキンをこわがっている。

しかし、バイキンがなんの理由によって発生するかってことはわかってないでしょう。

かりに結核菌が感染したとする。それは偶然にできたものでなく、発生源があって、そこでできたものに違いない。

その発生源がわからなければ、結核菌なんてわかるわけがない。

そこを明らかにすれば、バイキンは消滅するから、病気は起らなくなりますよ。」


夢声氏の発言 
「いまのところ困ったことには、バイキン自身がふえるから。」

明主様御発言 
「ふえる理由があってふえる。食いものを食ってふえる。

食いものは、人間の血液の中の濁りですよ。

濁りというのは微粒子ですからね、それを食って生きてる。

だからバイキンが体に入っても、発病する人と発病しない人とある。

バイキンの食いものが、たくさんある人と、ない人とあるからです。

バイキンの食いものをなくすることが、伝染病解決の根本ですね。」


夢声氏の発言 
「バイキンを栄養失調にさせるわけですな。(笑)」

明主様御発言 
「天然痘なんか、わたしのほうのでわけなくなおるんですよ。」


夢声氏の発言 
「アバタにならないですむんですか。」

明主様御発言 
「ええ、なんでもないんです。その報告がきていますけどね。

つい最近、名古屋で、しかも紫斑性天然痘がなおったんです。

まあ、わたしから人間がやってることを見ると、野蛮人ぐらいにしか見えませんな(笑)。

医学なんて幼稚なもんでさあ。」



バイキンよりこわいゼイキンというキン

夢声氏の発言 
「バイキンの食いものがなくなれば、バイキンが死んじゃうってこともあるだろうけども、

人間の霊には積極的にバイキンをやっつけるだけの力があるんじゃないんですかねえ。」

明主様御発言 
「あるんです。だからわれわれのほうじゃ、バイキンなんてなんとも思わない。」


夢声氏の発言 
「ゼイキンのほうがこわいですな。(笑)」

明主様御発言 
「わたしは結核の婦人となら、いつでもキッスするっていうんですよ。(笑)」




明主様御垂示 「現代科学にも功績はある」 (昭和23年5月8日)

信者の質問
「この道は現代科学をすべて否定するか否か。」


明主様御垂示
「すべては否定しない。

いままでの医学でも体の構造、内臓の働きなどは参考になり功績である。

また黴菌もたいへんいいです。

また非常に間違った点は根本的には、いままでの世界は夜で病気を固めるほうが早く、溶かす力が弱かった。

そこで釈迦は薬を服めと言われ薬草喩品という経もある。

また薬師如来とは観音様の変化でもあった。

観音様さえ固めの方法を摂られたんです。

昼の世界になると固めることができず、溶かす方法がよくなる。

それを私が早く知ったんです。

いずれはみんな知るんですが、薬で固めるより溶かすほうがいいことも知ったわけです。

医者はこれに気づかず、いまもって固めんとしているのです。

西洋医学はいいこともあり、いままではよかったのです。

ちょうど冬は綿入れを着るが、暑くなればそんなものは着ない。

いまの医療は夏になったのにますます綿入れの綿を厚くして着ているようなものです。」