科学の限界について 1
明主様御教え 「超科学」 (昭和28年8月19日発行)
「私は先日ラジオで、最近帰朝した湯川博士を囲んでの、座談会の録音を聴いたが、
それによると最近科学の方でも、余程私の説に接近して来たようで、喜びに堪えない次第である。
それによれば素粒子論に対して、物性論という新しい説を話されたが、
それは素粒子は目に見える粒子であり、物性論は目に見えぬ原子をいうらしいが、
もちろん前者は実験物理学であり、後者は理論物理学であるから、
これこそ私が唱えている前者は体であり、後者は霊という事になる。
としたらようやく科学も吾々の方へ鞘寄せ(さやよせ。相場の変動によって値段の開きが小さくなること)して来た訳である。
これについて従来から理論物理学者が新説を立てる場合、想像、推理、仮定が基本となり、実験に移るのであるが、湯川博士の場合もそうで、
初め新発見の中間子(素粒子)にしても、幸い米科学者が実験中、宇宙線撮影の際偶然発見され確認されたので、
その功績がノーベル賞授与となった事は衆知の通りである。
ところがそれに一歩前進した理論が右の物性論であり、この研究が現在主眼となっているようだ。
しかしながらこれが実験によって確認されるまでには、まだ相当の迂余曲折を経なければならないと共に、
事によると意外な難関に逢着(ほうちゃく)するやも知れないと思うのである。
というのは現在の顕微鏡がそこまで発達するには容易ではないからで、
そうかといって仮にこの物性子が実験によって把握されたとしても、それだけでは何ら意味をなさない。
要はそれが人類の福祉にどれだけ貢献されるかである。
ところがこれに対して科学では夢想も出来ない重点がある。
それは現在以上科学が進歩するとすれば、吾々が常に唱えている霊の圏内に飛込んでしまうからである。
霊の圏内とはもちろん宗教であるから、そうなると当然科学の分野から離れてしまい宗教に隷属する事となる。
という訳で唯物科学の現在は進歩の極致に達し、今や壁に突当らんとする一歩手前にまで来たと言える。
従って壁を突き破るとしたら、顕微鏡の能力を今より数倍以上、数十数百倍にも引上げなければならないかも知れないがそれは無理である。
よしんばそれが可能としても、何世紀かかるか見当はつかないであろう。
以上によって考えてみても、今後の世界は科学でも哲学でも既成宗教でもこれ以上の進歩は至難とみねばなるまい。
この意味においていよいよ現在文化のレベルから超越したXが現われる時が来たのである。
このXの一大飛躍によって現在のごとき行詰り文明の一大危機を打開し驚嘆すべき新文明を創造するのであって、それが私の使命である。
次に素粒子論と物性子論について一層深く掘下げてみよう。
そうして私の唱えている素粒子とは物質を構成している細胞のごときものであり、それは物と霊子との結合である。
換言すれば前者は陰子であり、後者は陽子である。
これがあらゆる物質の本体であるが、今日までの科学はそこまでは未発見であった。
ではこのような高度の科学理論に対し、私のような浅学の者がなぜ発見出来たかというと、
もちろん主神が必要によって私に教えられたのであるから、私は史上何人も知り得なかった万有の真理を会得したと共に、
実験科学的にその実証を示す力をも与えられたのである。
それがこの著の付録である治病実績報告であって、もちろん多方面の信徒から寄せられたものである。
なお言いたい事は宗教にしろ科学にしろ、最も貴重なる人間の生命を救い得るとしたら、これ以上の福音はあるまい。
今その原理を詳しく説明してみよう。
言うまでもなく人間は万物の霊長であり、地球の王者であり支配者でもあり、
天地間一切の万有ことごとくは、人間のために必要な存在であって、
第一は人間の生命を保持し、第二は一人一人の使命を援助しているのはもちろんである。
という訳で生命力をより旺盛に、健康で活動出来るようになっているのが人体である。
としたらたまたま健康が害(そこ)ねられ、生命を脅かすものとして病気なるものが発生した以上
これを排除すべき作用が起るのは当然であって、何ら不思議はない。
考えるまでもなく他の条件がいかに具備しても不健康である限り、人間使命の遂行は出来ないからである。
この意味において科学でも宗教でも何でもいい、病さえ解決するものなら、それが真の科学でもあり、宗教でもある。
としたら現在までの宗教も科学も遺憾ながらその能力がないから、真の科学でも真の宗教でもない事は分り切った話である。
としたら正直にいって現在までの文明は仮のものであって、本当のものでない事は余りにも明らかである。」
明主様御講話 「有力な哲学者、科学者は科学の限界を知っている」 (昭和28年7月25日)
「医学の方ですが、医学の今の建前というものは、黴菌すなわち微生物が病気の原因であり、それを殺菌するということによって病気は治るという建前になっていて、
結核にしても結核菌を殺す薬、「どうすれば殺せるか」ということを研究しているのですが、このくらい馬鹿馬鹿しいことはありません。
体の中にあるものだけを殺すということは、常識だけで考えてもできるはずはありません。
私は前に書いたが、結核菌を殺すには人間を殺せば、それは一匹残らず死にます。
そういう馬鹿げたことで世界中の学者が頭を悩めているのですから、宗教の迷信と同じようなものです。
しかし宗教の方でも、そのとんでもない医学迷信よりかもっと以下のものが多いです。
なんとなれば病院を造ってます。自分たちでは病気は治らない、医学でなければ治らないというのですから、医学よりもっと以下なのです。
ですから医学が軽蔑するのももっともかもしれません。
医学の方を信じ、医学に手を合わせるのですから、医学の方が教主様になるわけです。
そこで医学の一番の根本である黴菌について書いてみました。
この前にも読みましたが、まだ分かり難いと思ったので、もっと分かりよく念を入れて書き直しました。
これは簡単な事柄でありながら、なかなか難しいのです。
そこをもういっそう深く突っ込んだのと、両方を読ませます。
(御論文「科学で病気は治らない」「超科学」発表)
これはなかなかややこしいのですが、今読んだように今の科学は素粒子、つまりごく小さい細胞ですが、それは分かったのです。
それで今言う物性論というのは、それよりもっと細かい、顕微鏡でつかめないものがあるというのです。
一つの理論物理学ですから、これは推理、想像し、実験によって確認されるのですが、それを実験する方法がないのです。
というのは、もっと細かい所が見える顕微鏡でなければならないが、そういう顕微鏡はいつ作られるか分かりませんから、
そうすると科学の研究は、今読んだとおり壁にぶつかる手前に来たわけです。
それでその次はこうだということをこれから書きますが、これができあがったら湯川博士に送ってやろうと思ってますが、
理解できるかできないか分からないが、少なくともヒントを与えることにはなります。
ですから世界のそういう偉い哲学者といっても、私からみればずっと手前のものです。
ところが今まで駆け出していたのが息が切れて、これから先は駆け出せないという時期がもうじき来るのです。
それでこっちで乗り物を与えてやるのです。これに乗ればどこまででも行けるのです。
ところでここで始末が悪いのは、その乗り物というのは宗教なのですから、
科学者は宗教と科学とは別物に思い、あるいは宗教の方が下だと思っているのです。
しかし偉い科学者はそうは思っていないらしいです。
湯川さんなどは宗教に対してそうとうの認識を持っているようです。
パスツールというのは、あの時代に神ということをよほど分かっていたのです。
あの人たちは科学と哲学と両方やっていたようですが、
パスツールはコッホより先に黴菌を発見した人ですから偉い人には違いありません。
そうして結局最後は神だ、それでなければ解決はつかないということを言っています。
しかし一般の科学者はまだまだそこまで行ってないどころか、
そういったような目に見えない科学以外のものは全部否定するというのですから、
浄霊で治るとかいろいろ言っても、非科学的だと言うのです。
ですからそういった科学迷信を大いに自慢しているわけです。
そういうようなわけで、ただ有力な哲学者ないし科学者は、
結局、神、唯心論に行かなければ解決できないということは朧(おぼろ)げながら思っているが、
そうかといって、はっきりつかむことはできないのです。
ということは、はっきり説明する人がなかったのです。
また説明だけでは、いかに巧妙に言ったところで信ずるということはできません。
ところが私の方では、こうやれば病気が治るという、
要するに実験を見せるのですから信じないわけにはゆきません。
ただそこまで彼らを導くのがたいへんです。
というのは、この門の中にあるこの扉を開ければたいへんな宝があると言っても、
そんなことはあるものか、絶対にないと思い込んで頑張っているのですから、その扉の中に誘うのがたいへんなことです。
しかしそれは神様がやられているのですから、神様がどんなうまい手を打つか分からないし、
また手を打つに違いないですから、結論として時の問題です。
時の問題といったところでそう長いことはありません。
もしまだ長いとすると、だんだん浄化が旺盛になってくると死ぬ人ばかり多くなってくるから、
人類は死ぬ人が多くなりますから、よほど急がなければならないのです。
それは分かってますが、もう少したったらはっきり言いますが、私もやっぱりそれを待っているのです。」
明主様御講話 「物性論は宗教の手前」 (昭和28年9月16日)
「今理論物理学の研究のため、世界中から偉い科学者が集まっていますが、これは北海道から東京に来るとすると、ちょうど津軽海峡を渡ろうとして函館で話し合っているようなものです。
この津軽海峡を渡ると、つまり霊界ー宗教の方になるので、ちょうど科学は今宗教の手前まで来ているわけです。物性論というのは、そういうものです。
つまり物質から、そろそろ霊界の方に入りかけている所です。
つまり霊界の方へ入らせてしまえばよいのですが、それは結局私がやるよりほかにしようがありません。
つまり物質の世界と霊界とを結びつけるわけです。
開会のときに湯川博士が「ちょうど今は闇の中にいて、各々みんなが明るい所を目差しているが、どっちの方に行ってよいか分からない。
そうかといって、どこかに行かなければならないから、思い思いに闇の中を杖を突いて歩いている。科学界は今そういう状態だ」というようなことを話していましたが、うまいことを言ったので、まったくそのとおりです。
それで私が、こっちだと言って明りを見せているが、なにしろ色盲ではなくて、まだ盲ですから、その光が見えないのです。
だから見せても駄目なのです。もっと見える時期が来なくては見えないのです。
そうかといって、いずれは見えるのだから明りだけはつけているのです。
そういう状態です。それでその盲のために闇の中を迷って、そうしてくだらないことをしているのです。
それがわれわれから見ると「馬鹿」と言いたいが、馬鹿どころではないのです。
馬鹿よりももっと馬鹿ということは、昔からそういうことはなかったから、まだ言葉ができていないのです。
それで今日になって馬鹿以上の馬鹿ができたので、新規に言葉をつくるよりありません。
それで私は「超愚」としました。「超馬鹿」と言っては、あんまり格好がよくないから、格好がよいように「超愚」として書いてみました。
(御論文「超愚」) 」
明主様御講話 「理論物理学は理論、浄霊は実験」 (昭和28年9月17日)
「今世界中の有名な科学者が日本に集まって、理論物理学の知識の交換をやってます。
ところがこの骨子は物性論ですが、これはこの間も書いたとおり、顕微鏡で見えない粒子があると仮定して、物性すなわち物の性質を理屈だけでつかまえたわけです。
ですから理論物理学というのは理論です。その理論を実験するという実験物理学にまではまだ行っていません。
そこで浄霊は、理論物理学に対する実験です。
これは科学者が発見したのではなく、私が発見したのです。
そこで病気が治れば実験が完成したわけです。
ですから私がやっていることより、科学はまだまだ遅れているのです。
世界中の偉い科学者は今やっと小学校です。
だからどうせそれを知らせても信ずるわけがないし、また宗教家がそんなことを言っても、科学のことが分かるものかと言って馬鹿にして聞くわけもないから、今のところはどうすることもできないのです。
ちょうど日本の本州を霊界とすると、先生らは北海道の函館辺りに来ているわけです。
これから津軽海峡を渡って本州に入ろうとしているわけです。
それで私は東京にいるわけですが、あの人たちを急に東京に引っ張って行くわけにもゆかず、これから船に乗り汽車に乗って、いつかは来るわけですが、そういう状態です。
ですから私からみると、子供ならまだよいですが、非常に幼稚なものです。
それだけならよいが、あんまり先方が低級なために間違ったことをし、その間違ったことが結局、病気と人間・・・これに対して私はいろんな面から説いてます。」
明主様御講話 「科学は素粒子論から物性論に入った」 (昭和28年9月23日)
「それから今世界中の学者が来て会をやってます。
これは湯川博士のあれだけの功績に対して、そういった学者が日本に集まるというわけで、
これは日本としてもその方面だけは、ようやく世界の水準になったので、たいへん結構です。
ところで今中心となっているのは物性論です。
これはつまり素粒子論から物性論に入ってきたのですが、
物性論というのは、まだ顕微鏡などでも分からないもので、
けれどもあるという物の性質、つまり霊です。
そこに入ってきたわけです。
それでそれから先には進めない。ここで行き詰まっているわけです。
ですからこの間の開会式で湯川博士が、
「ちょうど暗闇の中を、みんながどっちに行こうかと迷っているようなものです。それが今の科学界だ」と言ってましたが、
うまいことを言ったもので、まったくそのとおりです。
それで今の科学では物性論から先には行きようがないのです。
そして今のは理論物理学ですが、私のは理論神霊学です。
それは理論物理学から先に行くと理論神霊学に入ってくるのです。
それはもう科学ではないから宗教には違いないが、
しかしそれは今までの観念で見る宗教観とは違うのです。
というのは、まだ宗教でもそこまでは分からない世界です。
それで今までの宗教は水準がまず科学と同じくらいなものですから、私はその先を説くつもりです。
そうなると神様の解剖ということになってきますが、これはまだ誰もやったことがないのです。
それがすっかり分かると、浄霊で病気が治るということもなんでもなく分かります。
従っていくら科学者でも、浄霊で病気が治るということだけはどうしても想像がつかないのですが、それを説くつもりです。
どこまで説けるか、なにしろ難しいのです。
そうすると善と悪の根本もすっかり分かります。
ですからこれはたいへんな未来の学問です。」
明主様御講話 「物性論は仮定的理論」 (昭和28年9月24日)
「それから今世界の有名な物理学者が五十数人来て会をやってますが、新聞などでもたびたび出てます。
この理論物理学というのは湯川博士が世界的に有名をはせたので、それが機会で日本で開会することになったのですが、
とにかくそのために日本が科学界の世界的水準というような地位を占めたということは、その湯川博士の功績はたいしたものです。
ところで理論物理学者の一番の主力としては物性論です。
これはこの間も話をしましたから知っているでしょうが、つまり素粒子論から物性論に進んできたのですが、
素粒子というのは物質のもっとも微小なもの、顕微鏡ではまだ本当につかまえられないくらいの小さなものです。
それから物性論というのは物の性質と書くのですが、顕微鏡では把握できないが、
つまりいろいろな試験によって、あるべきはずだ、なくてはならない、というような仮定的の理論です。
その物性論というのについてのいろんな変化などをいろいろと発表してますが、まだ確定はしていません。
みんな想像です。
ですから開会式のときに湯川博士が「ちょうど今の物理化学は暗闇の中をみんなであっちに行った方がよいとか、こっちに行った方がよいとか、
各々その人の考えで見当をつけているような状態だ」
ということを言ってますが、まったくうまく言ったと思います。
そういうわけで、物性論に行くと、その先はもう科学では駄目なのです。
今科学は、つまり科学と宗教のちょうど結び目に来たわけです。
それで物性論の先に行けば、どうしても霊界に入ります。
ですから私の言う霊ということは、ずっと先のことを言っているのです。
それで浄霊で病気が治るということは物性論よりずっと先のことなので、その間にもいろいろあります。
それで、これから理論物理学のもっと先に行った、理論神霊学というのを書こうと思ってます。
つまり科学者に対する指導的理論なのです。
けれども私が有名な科学者ではないので、
どうせ新宗教の教祖なんていい加減な迷信鼓吹なんかやっているようなもので、
ちょっと毛の生えたようなものとしか見ていませんから、
ああいう人たちに認めさせるということは、なかなか不可能です。
しかし将来いずれここに来るに決まってますから、
彼らの行く先、つまり終点の駅の所在と駅のいろいろな構造を説明しておくというわけです。
いずれはそこに行くのだから、そこに行ってからびっくりして、
なるほど神はある、科学では駄目だということになるのです。
それで宗教といったところで、今までの宗教はそこまで行ってないのです。
今までの宗教は科学のちょっと先、物性論の一歩先までしか行っていないのです。
ですから結局において負けてしまうのです。というのは、宗教の方でも低いわけです。
というのは、宗教のうちの一年生ですからどうしても力が足りないのです。
それと、徹底的に分からないために、どうしても科学に負けるのです。
今まで科学に負けつつありますが、しかし科学よりは少し上の所がありますから、負けきりにはなりません。
従って救うということはできないのです。
それでメシヤ教の方は科学よりずっと先の深いもので力があるから、
科学で治らない病気がわけなく治るということは、そこに力の相違があるわけです。
そうしてだんだん科学の方でも行き詰まってきます。
これは湯川博士も「理論物理学は行き詰まっている」ということを言ってます。
それでは止したらよいだろうが、止すわけにはゆかないのです。
なんとなれば、終点の立派なものをまだ見ないから見当がつかない。
そこでかじりついているのです。医学もそうです。
とにかくそれを見せておけば、いつかは彼らが分かる時が来るのと、それから分かる人が増えますから、
そこで刺激を受ける機会もできるというわけで、あとは神様がうまくやりますから、
あんがい早く分かるようになるかもしれません。
そういうことがアメリカの科学者あたりに知れると、あんがい早いことになるかもしれません。
とにかくこの間も言ったとおり、素粒子にしろ物性論にしろ結局微粒子の問題で、
細かいものが分かるとか、細かいものをつかまえようとしているのです。
ところが細かいものと言っているのは手前のことで、結局は無限なので、
科学でつかまえようとしてもつかまえられないのです。
そうなると粒子ではなくなり、無限力です。
それが分かれば科学も本当に分かったのです。
そこでこの無限粒子というものが一番力があるのです。
それが、粒子なら粒子を把握していろいろしても、結局原子科学などが最高なものです。
今言っては少し言い過ぎるが、原子爆弾というのは少しも怖いものではありません。
これを遁れる方法はなんでもありません。
しかしそこまで行くと誇大妄想と間違えるから言いませんが、つまり科学界というのはそういう状態です。
そこで、とにかく超宗教の分野に入りかけつつある、ということだけ知っていればよいわけです。
まるで学術講演のようになって、神様のお祭りにふさわしからぬ話になりました。」