浄霊の科学的原理 5 (浄霊とレントゲンとの比較対照)
明主様御教え 「結核信仰療法 結論」 (昭和27年12月1日発行)
「私は結核問題について、現代医学に対し随分思い切って、赤裸々にかいて来たが、これを読んだとしたら政府当局者も、専門家も、一般人も、余りの意外な説に、恐らくただちに首肯する事は出来ないであろう。
ある人は怪しからんと言うであろうし、ある人は宗教人一流の独善論と思うかも知れないし、中にはこれは大変な説である、もし真実としたら世界的大問題として、真面目に研究しようとする人も現れるであろうが、私としてはあえて医学を誹謗する考えは毫(ごう)もない。
ただ真理を真理として披瀝(ひれき)したまでである。
というのは真に人類を救おうとするには、こうするより外に方法はないからである。
何といってもこの著の出現は、人類不幸の根源たる病気滅消の天の時が来ったのであって、これこそ神意の発動でなくて何であろう。
従って既成学理にこだわる事なく、白紙になって読むとしたら、何らの疑念も起こらないはずで、信ずるより外はないであろう。
そうしてこの真理を神は日本人である私に、初めて啓示されたという事は、まず日本から救いの業を始めよとの意図であろう。
としたら現在日本においての最大苦悩は結核問題であるから、ここにまずこの著の出版となったのである。
とはいうものの現在の日本人も、唯物科学の信奉者になり切っている以上、科学上の新説なら耳を傾けるが、科学以外いかなる立派な説といえども、最初から否定の眼を以って見るに違いあるまい。
しかも神とか霊とかいう宗教的臭いがあるとしたら、なおさらそうであろうが、しかし理論を体系とし、事実を裏付けとして解説してある以上、全然否定の余地のない事はもちろんである。
そうしてこの実証方法こそ我浄霊法であって、現在あらゆる病を治し、病人なき家庭を無数に造りつつある、この生きた事実を見ても分かるはずである。
最後に浄霊の原理も根本的にかきたいが、これは信者以外第三者としては分かり難いから、ある程度に止めておくとして、元々この著の主とするところは、医学の盲点を指摘する事と、浄霊の効果を知らすにあるのである。
そこで浄霊法の概略だけをかいてみるが、この方法たるや何らの物質を用いず、患者にむかって数尺離れたところから、ただ手を翳(かざ)すだけで、それであらゆる病気が治る。
という訳は掌から光の霊波が放射され、それによって患者の霊の曇りが払拭され、体に映って毒素は溶解排除されるからである。
そうして毒素稀薄な場合、大部分は水分となって、漿液中に混入され、濃度の場合は濃い分だけ種々の排泄物となって体外へ出るのである。
例えば盲腸炎の激痛のごときは、普通二、三十分で治り、重症となるとそれを二、三回繰返せば半日くらいで全治する。
もちろん溶解された毒素は、間もなく下痢となって排泄されるから、全く根治であり、再発の憂いは決してないのである。
この事だけにみても現在の医療が手術の苦痛や多くの日数莫大な費用はもちろん、擬似腹膜炎(これは手術後の盲腸部の痛み)や腎臓病の原因をも作るのであるから、我浄霊法と較べたら雲泥の相違であって、この浄霊法こそ最も進歩せる新医術である。
そうして今日結核療法においては、気胸はじめ種々の手術を行うが、これらも間に合せ手段で、根本的ではないからはかばかしく治らないのみか、
たとえ治るにしても一時的で、再発かそうでなければ弱体者となり、一生壊れ者扱いをされなければならない人間となるのは、医家もよく承知しているであろう。
ここで浄霊の霊波について、概略説明してみるが、これは一種の光線である。しかし単に光線といっても霊と体との区別がある。
彼のレントゲンやラジウムのごときは光線の体であるが、浄霊の光線は霊であって、この二様の作用は反対である。
前者は医学でも知らるるごとく、レントゲンは毒素を固める性能であり、ラジウムは毒素を破壊する性能であるから、癌治療はこの破壊力を応用するのである。
しかし厄介な事には、その破壊力は癌と共に、局部の機質をも破壊するから、結果において効果は抹殺され、差し引き零となり、気休め以外の何物でもないのである。
しかも非常に高価な代金を払って外国から取寄せるのだから、実に愚かな話である。
ところが浄霊による光波たるや、右のごとき固めでも破壊でもない。固まった毒素を溶解し、原形に復させる療法であるから、全く邪と正との異いさである。
しかも前者は機械的に鉱物から採取するため、費用も手数も掛るが、後者に至っては人体から無限に放射されるので、一文も要らずして効果は前記のごとくであるとしたら、全く神が人類を救うべく、授けられたものである事は推測されるであろう。
最後に人間の寿齢の事を少しかいてみるが、近来日本人の寿命がだいぶ延びて、男女平均六十一、二歳になったと喜んでいるが、今少しくらいは延びるかも知れないが、
これは健康になったためではなく、浄化停止によって発病を延ばすからで、発病しなければ医療を受ける機会がないので、生命の危険を免れるという訳である。
この例として高度の文化国家程そうであるのは、彼の英仏のごときを見ればよく分る。
なるほど寿命は延びたと共に、老人が多くなり、青少年はその割に少ないから、国民の元気乏しく人口も殖えず、安易を貪(むさぼ)る事にのみ汲々(きゅうきゅう)たる消極的人民になってしまった。
現に両国共数ある植民地も漸次減ってゆき、国威は日に月に衰えつつあるにみて分かるであろう。
そうして今日までの人間は死の原因といえば、災害を除けばことごとく病気であるから、言わば不自然死である。
故に病なき時代となれば、全部自然死となる以上、早逝者はなくなり寿齢は大いに延び、百歳以上は普通となるのは当然である。
としたら誰でも一生涯の間に、いかに多くの仕事が出来、しかも病気の心配がないから思い切った計画も立てられ、死ぬまで活動が出来るから、人類社会にとってこれほどの大きな福音はないであろう。
このような夢にも等しい世界が如実に生れるその方法こそ、本著の理論を信じ、実行する事であって、私は神の代行者として、この真理をあまねく人類に伝えんとするのである。
最後に結核に限らず、一般医学に対する批判と私の抱負をかいてみるが、まず今日全世界を挙げて、現代医学をもって最も進歩せる療病法と信じ、各国政府においてもこれを基礎として、健康確保の施設を立てており、医学の進歩によってのみ、人間生命の安全を保ち得るとしているのである。
そうして昔から幾多の新発見や新学説、または幾度とない革命はあったが、この医学の革命程偉大なものは、いまだかつてなかったであろう。
何よりもこれによって人類の生命は永遠に確保されるとしたら、正直に言って釈迦、キリストの偉業よりも、何層倍価値あるものであるかは考えるまでもあるまい。
この意味において好むと好まざるとにかかわらず、信ずると信ぜざるとにかかわらず、今やいよいよ真の医学は太陽のごとく燦(さん)として、東方の一角に輝き出でたのである。
ゆえにこれに従う者は永遠な栄えを得ると共に、従わざる者は医学と共に、滅亡の運命を甘受するより外ないであろう。
聖書にある「あまねく天国の福音を宣べ伝えらるべし、しかる後末期到る」という一節に留意されたいのである。」 (「結核信仰療法」より)
明主様御講話 「浄霊とレントゲンの比較対照」 (昭和27年2月26日)
「「結核信仰療法」の、この前の次を読ませます。
(御論文「黴菌の発生」のあとの御教え)
これは、以前私は黴菌というのは、たいしたものだと言いましたが、その説明です。
黴菌というのは結果なんだから、結果の・・・黴菌が染(うつ)るとか染らないとか、大騒ぎをやっているのが医学なんですからね。
今の説は、黴菌はどこからどうやって発生する、ということを説明したんです。
浄霊ですね。こうやると、ここ(掌)から霊光が放射されますが、これは光の霊なんです。
ですから、ピカピカ目に見える光は、光の体なんです。
で、光の霊は今言うように、目に見えないが、光の体より強いんです。
光の体だけなら、レントゲンとか電気とかでやれば治るわけなんですがね。
光の霊と体は、反対の働きをする。
霊の方は毒素を溶かすんです。
体の方は固めるんです。
ですから、レントゲンとか太陽灯は、光の体ですから、毒素を固めるんです。
レントゲンなんかかけると、豆粒のようにコチコチに固まるんですね。
霊の方は溶かすんです。
それで、これ(浄霊)でやると、霊が行って、霊の曇りを溶かすんですね。
溶かすと黴菌が発生しなくなるんです。霊の曇りというのが黴菌の因ですからね。
ですから、こう(浄霊)やることは、黴菌を殺すことでなくて、黴菌の発生源をなくすることです。
ですから、その点だけでもすばらしい進歩をしているわけですね。
ところが、医学の方では、薬毒で、むしろその曇りを増やすようにしているものですね。
薬毒の曇りというのは、薬を作って、薬から黴菌を発生するようにして・・・黴菌は医学が作っているんですね。
そうして、その黴菌を殺そうとして一生懸命やっているんですから、おそらく、愚と言うか無智と言うか、たとえようもないですね。
そういうことも説明して、いずれ目を覚まさせるんですがね。
そこで、病気をなくす・・・病気を治すということは、今言う曇りを取ることよりない
曇りを取るには、霊の光を放射するよりないんだからね。
それをまず解らせるのが一番ですね。
そうすれば、医学と浄霊と、比較が根本的に違うんですね。
根本的に違うというより、こっちの方は、病気の根本を治す。
先の方は病気の根本でなくて、結果ですね。現われたものですね。
ちょうど、同じ理屈ですよ・・・今、不幸な者ができると、それを社会事業・・・いろんな救貧事業、慈善事業、養老院、孤児院だ、なんだかんだいろんな、保険とか・・・健康保険とか、災害保険とか、いろいろありますが・・・そうしてやってますが、ちょうど医学と同じです。
あれは黴菌になったのを殺しているんです。
不幸な人間ができるということが因なんだから、すなわち霊の曇りですね。
それを取れば良いんだ。それに気がつかないのと、気がついていても不可能なんですね。
だから、メシヤ教というのは、すべての因を解決しているんだから、因を解決すれば、病貧争絶無の世界ができるんだから、理屈はそう難しいことはないんです。
今の、社会事業と宗教事業のは、今度の新聞に出しましたがね。この前に読んだですね。
だから、浄霊については、まだ信者に入らない人に対する説明ですね。今言ったように説明してやれば、大体解ると思いますがね。」
明主様御講話 「レントゲンは邪神の光」 (昭和28年7月17日)
「それで光についてもある程度知っておく必要があります。
要するに、つまり光と光の戦いです。
邪神の光と神様の光との戦いです。
邪神の光というが、邪神にも光はあるのです。
今のレントゲンの光は邪神の光です。
ですから光の喧嘩です。
ところがあれは邪神の作ったものだが、邪神にもやっぱり偉いのと偉くないのがあって、
大体神様の方の光を押さえる偽の光というものがあるのです。
しかし根本において違うわけです。
では邪神の光はどういう働きをするかというと、固める働きをします。
今までのいろんなこと、霊術師とか宗教というのは固める力なのです。
固める光です。
つまり邪の光、邪光です。
だから今までは信心してよく病気が治る場合もありますが、
それは固める治りであって、溶かす治りではないから、
御利益があったと喜んでいても、こっちで治すのと違い、いろんな排泄物は出ないから、
一時治るのであって、根本において医学と変わりはありません。
物質的光です。
だから固める光というが、固める光というのは月の神様から出た光です。
ところがだんだん霊界が昼間になってくると、固まらなくなってきたのです。
そこで既成宗教というのはだんだん病気が治らなくなってきたというので、
どんな宗教でもみんな病院を作った原因なのです。
そういうようで、これからだんだん霊界が明るくなるに従って、
いよいよ治らなくなるということは、最近医学の方でもだいぶ現われてきてます。
最近の新聞に出てますが、レントゲンを扱った人がだんだん死ぬというのです。
その死に方がだんだん早くなります。
結局少なくとも、もう数年ならずして扱う人はなくなるかと思います。
それまではレントゲンというものは固める力ですから、実によく固まります。
それは石のように固まってしまいます。
私がいつか治療した人で、瘰癧(るいれき)の人でレントゲンで固めて、砂利がはいっているように固まってます。
その時はなかなか溶けなかったですが、今は神様の溶かす力が強くなったからそうでもありませんが、その固める力はすばらしいものです。
ですから今までの信仰でも放射線療法でも、固めることが効果があるということで用いられたのです。
それがだんだん固まらなくなり、それでレントゲンを扱う人がそうなるということは、固めたものが溶けるから死んでしまうのです。
それから溶ける前にはいっそう固まるということもあるので、これは心得ておかなければなりません。
たいてい肩などが溶ける前にはよけい固まるのです。
それから浄霊してかえって固まることがあります。
これはある程度まで固まってから溶けるということが一つの原則なのです。
それは少ないですが、ごく固まりきったものは溶けるのに楽なのです。
というのは固まりきると、強い熱が出るのです。
それからだとよく溶けるのです。
ですから溶けるのも限度があるのです。
ある程度まで固まって、それから溶けるのです。
病気に対してのそういうことも、だんだんに説明してゆきます。」
明主様御講話 「レントゲンの光は粗い」 (昭和28年7月27日)
(御論文「超科学」発表)
「これは大学以上の講義です。今読んだとおり、今の科学というものは実にお粗末なものです。
他の科学はだいぶ進んでますが、特に医学に限っては、まるっきり子供瞞しくらいなものです。
それに貴重な命を任せるのですから、その危ないことといったら、実にヒヤヒヤします。
大本教のお筆先に「今の世は井戸の端に茶碗をおいた如くで、危なうて神は見ておれんぞよ」とありますが、うまいことを言ってます。
それで今の医学は黴菌説で、あらゆる病原は黴菌としているのです。
それで黴菌というものは非常に小さいものと思っていますが、医学で見ているのは非常に大きなもので、まだまだどこまでも小さいものです。
さっき読んだとおり至大無外(しだいそとなし)、至小無内(ししょううちなし)というので、小さいも大きいも無限なのです。
大空にたとえてみれば、大空の大きさというのは限りがありませんが、これは科学者も分かっているとみえて研究しませんが、
しかし顕微鏡の研究のことを考えると、顕微鏡で黴菌を研究するというのは、大空の囲いがどこかにあるに違いないと研究しているのと同じです。
ただ黴菌の小さいのを発見すればよいと思って顕微鏡でやっているのですが、どこまで行っても発見されるはずがありません。
それは大空の壁と微生物の小さいのと同じことなのですから、無駄なことを命がけでやっているのですから、もったいない話です。
つまり掌から出す光はレントゲンが通らないということは、光が細かいからです。
レントゲンの方はもっと粗いのです。
そうして力というものは細かいほど強いのであり、粗いほど力がないのです。
ですから何馬力といって、馬力というのは、馬の力ですが、馬というあんなに大きなものの力ですから知れたもので、それがだんだん細かくなるに従って強くなります。
ですから掌から出る光は、光としては一番密度が細かく、濃いのです。
それでレントゲンの方は粗いからして通すことができないのです。
つまりそういったものは細かいほど高級で上等なのです。
だからうまいことを言ってますが、素粒子といって、「素」というのは粗いということです。
素粒子というのは細胞の小さいものです。
それで物性子というのは、物の性質の原になるもので、これは目に見えないものです。
これを見ようとして実験科学をこれからやるのですが、これをつかまえることはできようがないのです。
だからどうしてもこれをつかまえるには、顕微鏡で見えない世界にはいるよりしようがないので、その世界というのは宗教の世界です。
この宗教の世界といっても、今までの宗教というのがごく下の世界なのです。
だから今までの宗教は科学よりかもっと粗いのです。
科学が素粒子を発見したとすると、今までの宗教は素粒子よりも粗いのです。大素粒子です。
なぜといって、各宗教では今病院を造ってますが、ということは、もう科学にお辞儀をしているのです。
科学との戦いに負けているのですから、負けた方は粗いのです。
つまり宗教の方は素粒子まで行ってなかったのです。
結局科学との戦いで、科学が今までのように進歩してないうちは、宗教の方が勝ったのです。
昔からの古い宗教はとにかく多くの人を救えたのです。
ところが今は宗教の方が力がなくて科学の方が力があるから、そこで無神論者が増えるのです。
それは科学をやれば無神論者になります。
科学を勉強した人だと無神論者になりますが、それはそうなるのがあたりまえです。
そこで科学をやっつけられるのはメシヤ教よりないのです。
これは素粒子よりずっと細かいのです。
レントゲンで通すことはできないのです。
それでレントゲンの光線を作るのにたいへんな苦心をしてます。
先日新聞に出てましたが、レントゲンを扱っている技師は、何十年とやっていると、
レントゲンのために命までがなくなっているのです。
とにかく四十年やれば駄目だと言われてます。
そういうように命がけで作る光線より強いものですが、それをさっき読んだとおり裸で七秒間で書いて、レントゲンより以上のものを作るのですから、
こっちの方は、ちょうど軍備で言えばアメリカと朝鮮よりもっと違います。
そこで科学でも哲学でも、ちょうど今は物性子、目に見えない世界の手前に来ているのですから、どうしてもその先を分からせなければならないのです。
それでこの論文ができたら湯川博士に送ってやろうと思ってます。
湯川博士という人は割合に信仰心のある人で、結局科学も窮極は神だということを言っている人ですから、割合に分かると思いますが、
そうかといって、科学者が宗教家に頭を下げるのは、どうも体裁が悪い、体面上具合が悪いですから、簡単に頭を下げるというわけにはゆかないが、
これからの窮極に対するヒントを与えるということになりますから、よけいな無駄をしなくてすむわけです。
そのヒントを得るということはどういうことかというと、研究を変えるということです。
しかし研究を変えるということは、医学は科学では駄目だということです。
他のことは科学で結構なのです。
いろんな機械にしろ、原子科学とかはどこまでも進歩させなければならないのです。
ただ人間は他の物質と違うということが科学ではまだ分からないのです。
というのは人間は非常に高級な動物だから、人間の病気を治し、生命を延ばすということは、人間以上の力を持たなければできないのです。
ところがそこらにある物質上の発明、電気や動力というものとは、ぜんぜん段が違います。
ところがそういうものと人間の体、人間の病気、生命を同じに見ているところに、たいへんな間違いがあります。
その認識さえできれば、科学者は医学の研究をやめて他の研究を一生懸命にやればそれでよいのです。
そしてメシヤ教の浄霊ですが、浄霊で治すということも、ある期間までです。
つまり浄霊とは薬毒をとる方法ですから、薬毒を入れないようになれば浄霊の必要もなくなるから、薬毒を入れないという真理さえ分かればよいのです。
と言ったところで、そう簡単に薬毒を抜くこともたいへんです。
あなた方が疥癬などで随分膿を出して、もう毒はないと思っても、それからまだまだウンと毒が出てくるのです。
それはどんな人でも、自分であきれるほど毒が出てくるものです。
私などもそうで、ここ(側腹)に固まりがあって始終浄霊してますが、これが五十年前の肋膜の薬毒です。
それから始終頭が痛くなりますが、これが三十七年前の歯の薬毒です。
ですからどんな人でも薬毒をとるとしても、一生涯でとりきれる人はまずありません。
三代目くらいでようやくとれるくらいです。
すなわち薬が毒であることが分かってから、孫の代になってすっかりなくなるくらいなものです。
しかしすっかりとれなくても、働くのに差し支えないくらいに健康になればそれでよいです。
私などもそんなに毒がありながら、ふつうの人より健康で働いているのですから、そう悲観することもありません。
そこでこれを知らせ信じさせるのが大仕事なので、それがメシヤ教の第一番の仕事なのです。
それで今言うレントゲンを通さないすばらしい光が簡単な文字から出る、その元はいったいなにかというと、これも意外な所にその元があります。
その元は太陽の黒点なのです。
太陽の黒点というものが宇宙の中心で、力の根原です。
それで太陽は非常なたいへんな熱い光ですが、この光の元というのは太陽の黒点にあるのです。
ですからス(註 ○の中にチョン)のチョンは黒点を書いてあるのです。これは黒点といっても一つではないのでたくさんあります。
望遠鏡で見るとたくさん見えますが、この粒々がたいへんな意味がありますが、それはいずれ発表することがあります。
またこの粒々がメシヤ教の仕事に非常に関係がありますが、そういうことを言うと、あまり飛躍し過ぎて、フラフラになってしまいますから、分かりやすい程度の話をするわけです。
そういうようなわけで、黒点というのはあらゆるものの一つの力の根原、精気の根原と言ってもよいです。
ですから一切を支配しているのです。
それから宇宙の中心と言ったらよいでしょう。
それで太陽の熱度というものはたいへんなものです。
ところが滑稽なことは、このごろ日本でもそういう会ができるようですが、宇宙何々会というのがあって、これの最終の目的は月の世界に行くことだそうですが、
月の世界は学者には本当に分からないため、月の世界に行ける、地球と大差ないように思っているらしいのです。
だからロケットを作ったり、その中に空気を溜めたりして、そういう研究をやってますが、実に子供がオモチャを作っているようなものです。
月の世界というのは氷の固まりですから、その冷たさというものは、太陽の反対ですから、零下何度という簡単なものでは分かりません。
ぜんぜん熱がないのですから、もし行けたとしても、行った瞬間、月世界の手前まで行った瞬間凍りついてしまいます。
そういう馬鹿げたことをまじめになって研究しているのですが、ちょうど今医学者が薬で病気を治そうとして研究しているのと同じことで、テンデお話になりません。
だからとにかくさっきも読んだように「未開人と同様だ」ということは本当に間違ってはいません。
ありのままを書いたわけです。
そういうことも、そうつき詰めるほどのことも必要ありませんが、大体を知っていれば、場合によって恐ろしいことも、科学の進歩にのぼせている人を相手にした場合にも、本当の根本を知っていると、へこます道具によいと思って話したわけです。
これからだんだんに書きますが、そうなると宗教とか科学とかいうのでは限られます。
大体宗教というのは宗祖の教えです。
人間はよいことをする、悪いことをしてはいかん、親に孝行を尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。
しかしただそれではいけないのです。それはやはり神様があって、神様の教えに基づいてのそういうやり方をするのですが、
ただ神様といっても、今までは最高の神様は出なかったのです。
二流、三流の神様です。
それで科学に負けるようなことになったのです。
だから釈迦、キリスト、マホメットといったところで、私からみればまだまだ小僧くらいにしか思いません。
今度の歌に書いてあります。
そういうことを言うと、知らない人が聞くと、あんまり大き過ぎるので、誇大妄想狂で頭がおかしいと誤解されますが、信者はただ知っていればよいのです。」
体験談 嗚呼、神力の偉大さレントゲンを透さぬ身体 (昭和26年5月2日発行)
神奈川県 明成中教会 KK
「栄光新聞第八十二号に御発表の明主様の「神霊の実在科学で立証さる」という御論文を拝読し、それに伴なう河野様のおかげ話にて、お守(註 お光のこと)より発する光がレントゲンより強力である事が科学的に実証されております。
なお、昨年十月十八日熱海へ御参拝させて頂きました折にも親しく御光話を賜わり、本当にお光の有難さを沁々と感じました。
ところがそれとほとんど時を同じくして、私の子供も同様の奇蹟を体験させて頂きまして、一層の感激に打たれた次第でございます。次に御報告させて頂きます。
今年小学校四年の長男Hが十月初旬「レントゲンを撮るのだけれど」と言いにくそうに申します。
実は子供は学校で裸になる時、お守様をかけていますので困っていたのです。
子供がそれを申しますので、御粗末になってはと思い、当日はお守様を家へお納めして登校しました。
半月程してから子供が、「お母さん、今日レントゲンの写真の結果を言われたけれど、僕の前の子などみなはっきり写っているのに僕のは二度とったけど二度とも写らないから君はもういいと言われた」と申します。
アッ、やっぱり、とすぐに私は胸に思いました。
子供の事ではっきりした状況は得られませんが、とにかく大勢の検査の中で二度共うつらなかったというこの事実。
早速 会長先生に申し上げましたところ「お守をかけていなくとも霊線によってつながっているからです」との事でした。
いついかなる時にも神様はこのようにしっかりと霊線を通じ御守護を下さり奇蹟を現わして下さる広大無辺なる御恵みを思うと、ただただ有難く謹みて御礼申し上げます。
神様は色々な奇蹟によって御守の偉力を一日も早く人間に分らせ、信じさせようとされ、そしてお救い下さるのです。
お守様をいただき、神様の御袖に抱かれるものにとって、科学の力も原子爆弾の恐怖も何ら驚くに足らないという事はこれによってみても明々白々でありましょう。
私はじめ家族一同日々限りなき御恵みを頂きお救い頂いて参りました。
重ねて又尊い体験を頂き光栄身に余る思いでございます。
今後共地上天国御建設の御手足となって精進させて頂きます。
右簡単ですが謹みて御報告申し上げます。 (昭和二十六年二月八日)」
体験談 お守りによりレントゲン写真うつらず その上就職にも御守護 (昭和27年12月17日発行)
広島県 西光中教会 II
「明主様謹んで御守護の御礼申し上げます。
死を待つ許りでありました母の病気が癒され、父母が入信させて頂き喜んでいる姿を眺め、又『栄光』新聞、『地上天国』等読ませて頂き私もこの有難いお守を早く頂きたいものと念じておりましたところ、二十七年七月二十三日待望の入信させて戴きました。
今度 国鉄に就職のため広島鉄道病院へ身体検査に行きました。
そして胸部をレントゲンで写すことになり上半身裸となり、お守は脱いだ上衣の上に安置させて戴き、うつして貰ったのです。
ところがどういうことでしょう、一番大切な胸の中央が四角に写らないではありませんか。
医師も「おかしい、おかしい」と言いながら二回写し変えました。
前後の人達は綺麗に写るのに私のだけはどうしても写らないのです。
私は原爆の放射光線よりなお お守より発する光が強力であるという話をお聞きしていましたので、ははあ神様が奇蹟を見せて下さったのだなと気がつきましたが病院では黙っておりました。
このままでは就職ができず大変ですから駅の方に帰り係の人に写らなかった訳を話しました。
すると係の人は「神様で写らなくして貰ったのなら、今度は写るよう神様にお願いしなさい」と言われ、「そうだ、忘れていた」と気がつき、早速教会にお参りして、明主様に御守護を御願い致し、翌日又写して貰いました。
今度はどうでしよう、立派に写ったのです。
そして無事就職する事ができ、毎日元気に勤めております。
普通ですと胸部が写らねばその場で不採用となるのだそうですが、翌日再び写真を写して頂いたというのもひとえに御守護の賜物と深く感謝しております。
微力ながらこの聖業に尽くさせて戴けますよう念じております。
明主様有難うございました。 (昭和二十七年二月十七日)」
明主様御教え 「神霊の実在科学で立証さる」 (昭和25年12月13日発行)
「最近、御守から発する光が、レントゲンより強力である事が、科学的に証明されたので、その報告が下記のごとく一信者から送って来たから、簡単にここに解説してみよう。
これは私が常にいうごとく、私のかいた文字から光が出ると共に、文字の意味通りの活動が発(おこ)るという事で、それが今回の事実によって明らかにされたのである。
現在のごとき、唯物科学至上の時代において、右のような記事を見るとするも、何人もそのまま信ずる事は不可能であろう。
と言って事実は事実であるからいかに唯物主義者といえども否定の仕様はあるまい。
衆知のごとく、本教の急速の発展は、現代における驚異の的とされている。
それがためとかく問題にされやすいが、そのほとんどはただ不思議と言うばかりで、進んでその原因を突き止めようとする者はまことに少ないので、吾々は常に遺憾に思っている。
そもそも本教発展の理由は信徒によって行われる浄霊という病気を治す方法である。
これによれば病気は実によく治る。あらゆる療法を受けても治らない者や、医師から死の宣告を受けた者等の重難症が、速やかに治るばかりか、病気なるものの本体も、健康の真相も、徹底的に把握されるのである。
従って文字通りの安心立命を得て、歓喜の生活者となるという訳で入信する事となる。
もちろん、他の信仰的理由もあるが、病気がよく治るという一事が、本教発展の主因となっている。
そこで浄霊とは、いかなるものであるかを説明してみるが、まず本教へ入信するや、最初に御守を下付され、それを首に掛けると、たちまち病気を治す力が出る。
というのは、御守から強い光が発生し、施術者の体を通じて掌から放射されるのである。
言うまでもなく、これが神霊の光であって、普通は目に見えないが、偶(たま)には肉眼で見る人もある。
この光がレントゲン以上の強いもので判りやすくいえば、光の微粒子がレントゲンのそれよりも、幾十倍の微粒子であるため、空気が透過するから見えないのである。
元来、物質の法則は微粒子ほど密度が濃く、密度の濃い程不可視となると共に、それに正比例して強力となるのである。
この意味において、科学が進歩の極点に達する暁、神の光の微粒子も判明する訳である。
これが科学と宗教と将来一致するという、常に私の唱える説の具体化である。
この事が、認識出来れば、本教の病気治しは、最も進歩した科学的方法であり、二十一世紀の医学であるといっても、決して過言ではないのである。」
体験談 奇蹟に感涙
宮崎県 五六七大教会南光中教会 KS
「昨年の始め頃から胃が痛み食欲が減退して来ましたので、医師に診せましたところ胃下垂との事で仕事を休んで養生致しておりましたが、
薬を飲んでいる間は癒ったようですが止めると再び悪くなり、少しも快方に向わず日夜苫しみ続けておりました。
延岡から二時間程船に乗らなければならない不便な漁村に住んでいる私には治療すると言えば仕事を休んで延岡に滞在して受けなくてはならず、実に弱っていました。
ある時仕事の関係で漁村に帰る船中で一青年が救世教の有難い話と御守様を頂く事において色々の難病が癒された例を話していましたが
別に気にも止めず、そんな事があるのかなあと聞くとも無く聞いておりましたが、そのままで忘れ去ってしまいました。
たまたま村の配給所の日高さんの娘さんが首の後が大きく腫れて電気治療も駄目、医師もギプスをして長く入院しなくては癒らないだろうとの事で弱っておられましたところを、
光明如来様にお縋りし延岡の教会から御守様を御受けになり、ただの五回の浄霊で元のように癒り皆が驚いていると言う事を御聞きし、
私もこんな苦しい状態を続けているより物は試しだから医者を止めて神頼みと、八月二十五日に延岡の教会に御伺いし御守様をその場で御受けし御浄霊を頂きました。
行く道々は体がだるくやっとの事たどり着いたのですが、一回の浄霊で気分は爽快となり
家に帰るといつもの御粥を止めて、先生から言われた通り普通食を頂きそれでも飽き足らず街に出て飲食店で目茶喰をやりました。
久し振りの胃の調子でただ嬉しさの余りと御浄霊の偉力を試したのですが、次の朝は先生が下痢をするだろうと言われた通り下痢があっただけで、他には何の変化も無く不思議な結果にただ驚くばかりでした。
その日は医師と以前からレントゲンを撮る約束をしておりましたのでレントゲンを撮るだけなら悪くもないだろうと御守様を上衣のポケットに潜ませて病院へ行きました。
レントゲン室には私と同様に撮る人が三、四人来ておりました。
私の番になって半身裸体になり御守様はズボンのポケットにしまって撮りました。
結果は面白い状態が起りました。
私の前の人も後の人も写っているのに私のだけはボンヤリ曇って失敗しているのです。
技師は頭を傾けながら今一度撮り直しをやりましたが、また一緒に撮った人々のは良く写っているのに私だけは先刻と同様なのです。
技師はこれは不思議な現象だと言って医師を呼び機械を調べたり、電圧を調べたのですが機械は正常、電圧は百ボルトで正常、当然狂いは無い筈です。
勿論いかに調べたって一緒に撮った人のは一回も二回も皆写っているのですから、再度別の患者と撮り直しを行いました。
今度は医師が撮りましたが驚くべきは矢張り結果は前二回と同じです。
他の人のは立派に写っているのです。レントゲン撮影は三度とも失敗に終ってしまいました。
医師もこの失敗には頭を抱えておりました。
光明如来様は私にそんな事をする必要はないのを知らしめて下さる為に奇蹟を見せられたのでしょう。
私はそれ以後医師の不必要を知り光明如来様の御力に縋るのみで健全なる体になるよう、毎日教会に通い御浄霊を頂き以前のごとき体を取戻しつつあります。
科学の力を超越する大御力の偉大さに今更ながら驚きと恐懼感激を覚えました。厚く御礼申上げます。」
明主様御教え 「御守から出る光波」 (昭和28年8月26日発行)
「今までに二回御守の光に遮断され、レントゲンの光が透過しない実例を本紙に載せたが、今回で三回目の右と同様な事があったので、科学的にいえば三回の実験を経て最早確定したといってもいいので、新しい言葉でいえば霊科学上の定説となった訳である。
人も知るごとくレントゲンはほとんどの物質を透過する強力な素晴しい光線として礼賛しているが、それ程の強力な光を御守から放射される光で阻止するのであるから、全くレントゲン以上の強力な光線である。
ではこの驚異的光線は何によって生み出すかというと、これこそいかに説明しても到底信ずる事は不可能である。
すなわち私が半紙一枚へ墨と筆とで光の一字を大書した文字から、右の光線が放射されるのであるから、神秘以上の神秘である。
この事は信者には分っているが、第三者としては恐らく理解出来ないであろうから、出来るだけ分り易くかいてみよう。
ところで右の光の文字を書く場合、私の手と指を透(とお)し、次に筆墨をも透して紙に印せられるのであるから、形式では普通人と同様のかき方である。
それだけで前記のごとき強力な光が文字中に含まれるのであるからこの神秘こそ恐らく人類肇(はじま)って以来ない事であり、しかもこれを書く時間は、一枚精々七秒くらいであって、一時間に五百ないし六百枚は楽である。
しかも別に祈ったり精神を籠(こ)めたりするような事は全然なく、平々坦々たるもので、煙草の喫(の)みたい時は、左手の指にシガーを挟みながら右手でかく、その上退屈を紛らすため、必ずラジオを聴きながら書くのである。
夏の暑い時など、腰から上だけ裸になって書く事もある。
衆知のごとく昔から教祖などが御守を作る場合、斎戒沐浴(さいかいもくよく)、神に祈り、謹厳犯し難き態度で臨むのに比べたら、私のやり方は、余りにお粗末であるから、普通の人が見たら唖然とするだろう。
それというのは私の腹の中には、最高神霊が在(おわ)しますので、ただ私はからだを貸している訳である。
つまり神が私を一種の道具として、自由自在に使われるのであるから、私としては敢(あえ)て神に祈る必要などはない。
祈るのは神と人間とが分離しているからである。
その点私はまことに気楽なもので、実に有難いと感謝している。
恐らく世界肇って以来私のような飛び抜けて変った宗教家はあるまい。
ついでに他の事を少しかいてみるが、これも信者はよく知っているが、地上天国の模型である神苑にしても、建物にしても、美術館やその中のケースにしても、考える事はほとんどない。
その都度そう思うだけで間髪を容れず頭に浮ぶので、そのまま指図するだけである。
という訳で人から見て難しいと思うような事でも、私には何でもないのである。
ゆえに医学に関した事でも農業に関した事でも、その他何事でも同様であるのは、私が現在行っている仕事振りをみてもよく分るはずである。
まだまだ色々言いたい事があるが、限りがないからこの辺で筆を止めるとする。」
体験談 レントゲンにこの奇蹟 結核もかくして救われ人生の喜びを知る
瑞雲中教会 OY
「明主様御守護誠に有難うございます。限りなく尊き御恵みに対し、いかにして感謝致し、何と言って御礼申し上げてよろしいやら、その言葉を見出す事が出来ません。
拙文ではございますが、ここに謹んで御礼と御報告を申させて頂きます。
昭和二十七年三月の事でございました。「右鎖骨下に母指頭大の浸潤像が出来ている」ということを工場医師より知らされたのは一カ月程前の事でございましたが、
幼少より病気らしい病気はしたことはなく、中学、高専とサッカーのレギュラーをつとめ、体力には自信を持っておりましたのと、丁度決算期の事とて体の不調は感じながらも当り前だと打過ごしておりました。
ところが三月二十八日の事、勤務を終えて部屋に帰った途端、軽い咳と共に突然の喀血を見ました。
少量ではございましたが血を見て肺結核の恐ろしさを今更痛感致し、私は前途を思う時悲痛の涙に暮れました。
早速入院致し医師の言葉通り絶対安静を二カ月余り続けました。
唯物教育の中に育ち神の実在に無感覚であった私には医師の言葉は絶対でございました。
ようやく一人歩きも出来、血痰も止り、熱も平熱に下りました時、医師と相談の上、この際徹底的にと別に効き目も感じなかったストレプトマイシン二十本、そして又二十本を加えました。
薬毒の恐ろしさを思う時、現在泣いても泣き切れない気持でございます。
罪深き自己でございます。
七月故郷呉に帰り安静に全力を傾け進行状態を見守っておりましたが、以前と変らず固く消えそうもありません。
「気胸を三年しなさい、半年もすれば胸の蔭は消えはしないが働けるようにはなるだろう」との医師の言葉に、いやな気胸も承諾致しました。
そして後二日で気胸を実行するという日の事でありました。
妹の知人岡田さんという方より、「メシヤ教という宗教があるんだが、とにかく病気が良く治るんだ。
まあ気胸をする位なら瞞されたと思って行ってみないか」という親切なお話をして下さいました。
しかし生まれてこの方神に手を合わせた事もなく、宗教を信ずる人間は皆性格破綻者なんだという不遜な考えを持っておりました私には、
手をかざして病気が治る等、いかにも馬鹿げた事だと思われました。
又それについて行く人に対してはむしろ憎悪さえ感じましたが、ただ何となくまあ行ってみようという気持で呉支部をお訪ねしたのは十月二十八日の事でございました。
明主様どうか私の愚かな心をお許し下さいませ。
意外な方向で真の幸福への道を知り真理を見出す事が出来ました。
暗黒より光明へ、生涯の転換でございました。
呉支部の山内先生の御浄霊を何が何だか判らない変な気持で御受け致しましたところ、部屋が異常に暖かく、それに自然に体の中から暑さがにじみ出て、びっしょり汗を流しました。
帰宅後の眠い事は又格別で、七時だというのにもう床の中に入り朝までぐっすり眠りました。
こんな事が四、五日も続きました。そして山根会長先生、荻野先生、山内先生より色々お道のお話をして戴きましたが、余りにもお話が大き過ぎて夢想としか思われませんでした。
しかしただ、今迄とは別の世界が存在するのだという事、純粋な考え方の通用する世界があるという事に大きな喜びを感じました。
毎日支部にお参りして来る人々を観察致しましたが、皆日々快方に向う事実の前には頭を下げざるを得ませんでした。
そうしている内に以前コリを訴えておりました私の肩もいつとはなく消えてしまっておりました。
ひたすらに医学を最高のものと信じ、病を救うものは医学より外にないと思い込んでいた私も事実の前にはどうすることも出来ませんでした。
かくも神秘的なものの存在を知り得て、この時医学というものに対して根本的に疑いの眼でもって眺め始めました。
そうした気持で拝読させて頂く明主様の御論文は一つ一つ私の誤れる考えをくつがえし、今更医学の大きな矛盾に気づかせて頂きました。
今迄正しいと思った事がひっくり返ったのでございますから、もう夢中でありました。
十二月五日早速御守様を拝受致し、自ら体得させて頂くべく手をかざしたのでありました。
私の従姉で同じ肺を病む者がおりましたが、その主人も彼女も共に熱心な生長の家の信者で、十数年来信仰生活を続けておりましたが、信仰の進展と反比例して肺の病巣は拡大するばかりで、そうしている内に四十度の高熱を出して倒れてしまいました。
医療にも最早頼れず、生長の家の教えをただ一つの救いとの信念の下に、熱心な信仰を致しましたが効なく、心配になった主人は藁をも掴む気持で浄霊を頼みに来ましたので早速させて頂き、
内山先生に御足労をお願い致しまして、結核はもとより病気というものは霊的因縁である事、そして薬毒であること等色々お話して戴き、
又荻野先生にもお願い致して御屏風観音様を御奉斎して戴きましたところ、
その翌日、私に憑霊現象が現われ、霊界の実在と、眼に見えぬある者によって吾々は左右されている事等を身を以て体験させて戴きました。
その後、祖霊がしばしば憑依致しておりましたが、十二月二十日の事、五代前の男という者憑依致しまして申しますには、
「救いを求めて憑っていたが、尊いお道により救われたから、私は体を離れる。
だからお前の肺の蔭はもう無い。疑うなら翌日にでもレントゲンを」との事で、私は二日置いて医師の許に赴き透視を頼みました。
暗黒の透視室の中で私は上半身裸となり、お守様を左手にしっかり握り、明主様に御守護をお願い致しました。
スイッチが入りましたが、それと共に起るべき筈のジーッというX線の放射青も無くX線も出て来ません。
二度三度繰返されましたが同じことでありました。
医師は驚愕の態で婦長を呼べと看護婦をうながしました。
婦長と三人が色々と調べておりましたが「今朝使ったのにおかしいなあ、故障の筈は無いんだが」と大変な騒ぎでございました。
その時、ハッと胸にひらめいたのはお守様の事でありました。
人の手に渡すのが勿体なくて手に持っていたのですが、以前『栄光』新聞でお守様の形が映らなかった事を拝読致しておりましたので、その事がツーッと頭をかすめました。
そこで外に待っている母親にお守様を預け再度台の上に立ち「今度は大丈夫です。スイッチを入れて下さい」と言うや、スイッチと共に前部の透視板がパッと明るくなりました。
X線が初めて私の体を透したのでした。
ああこの奇蹟、この御守護、心中密かに私は驚きの声を発せずにはいられませんでした。
後で医師は、「もう治っている。働いてよろしい」と。
一カ月前、あれ程気胸を勧めた同じ医師の口から、こうした言葉が出たのでございます。
この奇蹟、医学とはこんなもの、霊光線とはかように偉大なものと、両者の差をはっきり見せて戴きました。
大神の御神徳の偉大さにただ頭が下るばかりでございます。
唯物医学は跛行的なもの、本源を誤れるもの、そして真理はかくも簡単な所にありという事は、この一事にても明確でございます。
地上天国建設というこの革命的な未曾有の大聖業も主神ならばこそと、物質を動かすものは人間に非ずして神であったということを覚らせて頂きました。
そして邪神邪霊の存在も地上天国建設の過程として必要であると悪も肯定され、
又生きるという事、人間の使命等、はっきりと指示下されました明主様、哲学書の中に身を埋めても、
あらゆる書物を読んでも知り得なかった生死の意義というものをもお示し下されたこの教え、
今迄のすべては唯一の目的たる地上の天国化にあるということを知り得ました私は誠に幸福者でございます。
御教えの中に浸り、ただ嬉しさに踊りたい様な衝動にかられます。
医学に身を任せていた過去を思う時、あのまま気胸や薬を続けていたならば、今はもう生ける屍か、はた又己に霊界の根底の国にて喘いでいるやも知れません。
こうして霊肉共にお救い頂きましたこの私は何と御礼申し上げてよいか判りません。
明主様誠に有難うございました。
この尊い御教えを知り得たのも病気を機縁としたと思えば、病気に感謝したい気持でございます。
そして又祖霊の告白にも、仏滅、世の終り、霊界は想像もつかない大騒ぎであり、それが現界に移写して大変な世になる事、
そしてこのお道は吾々が考えることが出来ない程の尊い御力であること等知らせてくれました。
この喜びを一人でも多くの人々にお伝えしたい気持で一杯でございます。
明主様本当に有難うございました。謹んで御礼申し上げます。
なお前述の従姉も主人と共に入信させて頂き、信仰の道を進ませて戴いております。あわせて御報告させて頂きます。
有難うございました。この上ともよろしく御守護の程をお 願い申し上げます。(昭和二十八年六月一日)」