浄霊の科学的原理 3 (浄霊は無限力)


明主様御教え 「宗教と科学」 (昭和23年9月5日発行)

「宗教と科学とは今日まで別個の存在のように扱われて来たが、これは大なる誤りである。実は万有は科学に漏れるものはないと共に、宗教に関係のないものもない。

何となれば科学といえども、宗教とは切っても切れない存在だからである。

それに気付かなかったという事は、今日までの宗教の説き方があまりにも浅かったからであるという事は数百年または数千年以前には、今日のごとき文化の進歩がなかったからで、

その時代の人間に深遠なる理論を説くといえども、到底理解出来得ない訳で、総て神の意図は無益なる事を人をして行なわせないのである。

しかるに、現在科学の進歩程度は、今一歩で神霊の分野に突入せんとするまでに到っている以上、神霊問題に対し科学的説明をなすとも、現代人に理解させ得る事はあえて難事ではないからである。

以上の意味において、今日まで長年月の間固く鎖されていたところの神秘の扉を、私は開扉しようとするのである。

私は科学者ではない。いわば科学のアマチュアである。

その私が科学を説くのであるから誤りがあるかも知れないが、多少の参考になり得るとすれば幸いである。


そもそも近代科学の中で、電気程人類文化に貢献しつつあるものはないであろう。

実にあらゆる方面にわたって、電気の恩恵は今更呶呶(どど。やかましくいうこと)を要しないが、もし電気が停止されたならば文化が停止されたと同様であろう。

全く現在は電子時代である。

しかるに今次大戦の終末に際し、突如として米国によって発明せられたのが、彼の原子爆弾である。

世界はこの一大怪物にあって瞠若したのは申すまでもないと共に、これによって終戦を早めた事ももちろんである。

実に原子破壊の偉力を最初に表わしたものは、多数の生命を一瞬にして奪う事であった。

がこれが進歩によって、反対に人類文化にいかに役立つべき偉大なる発明となるかも、予想し得らるるのである。

そうして、電子時代の次の時代を画すべき運命を持って生まれたのが、この原子破壊であろう。

とすれば、その原子時代の次に来たるもの、それは何であるか、私のとなえる霊子時代または神霊時代ともいうべき、最高度の文化時代であろう事も、想像し得らるるのである。

右について私は左に解説してみよう。


まず火と水の原理について述べてみるが、最も端的にいえば、火は水によって燃え、水は火によって流動するという事である。

もし火がなければ万有は一瞬にして氷結する。

それと反対に水分がなく火のみとなれば、一瞬にしてこの大地球も爆破する。

この原理こそ原子爆弾のそれである。

すなわち原子核に向かってウラニウムまたはプルトニウムのごとき元素を放射する時、原子核にある水素が零となると同時に爆発する。

その小さなる爆発が周囲の元素を誘発させ、次から次へと大きな拡がりとなり、大爆発となるのである。

この理によってウラニウムでなくとも、水素を零とすべき強力なる放射線でさえあれば、同様の効果を奏する事は当然である。

そうして、今日原子核破壊の原理は、一個の原子核を取り巻いているエレクトロンなる元素に向かって、放射能が攻撃破壊するというのであるが、

私の考えによれば、原子核は放射能によって原子核にある水素を零とするので、これが破壊の原理である。

しかしながらこの原子破壊の原理も、停止することなき科学の進歩によって、近来プロトン説となり、アルファ粒子の発見にまで進んでいるそうである。


次に霊子時代であるが、それはまず宗教が中心とならなければならない。

ここで私は右の三時代を宗教的に解釈してみるが、まず電気であるが、電気にも霊と体があって、体は電光で、電灯の光がそれであり、霊は無線として活用され、ラジオもテレビジョンもそれであって、人間の声が何千里先まで音波となって到達するということは、言霊界の力動にほかならないのである。


次に原子界であるが、この界の体は原子核破壊という発明によって発見されたが、霊は科学的には未知であり、宗教的に言えば想念界である。


次は霊子界であるが、この界の体は中位以下の諸神諸仏の霊が活動し給う所であり、この界から発現したものが既成宗教である。

宗教に種々の段階あるのは神霊仏霊に段階があるからである。


次は霊子界の霊界(私は幽玄界と名づける)である。

この幽玄界こそ、最尊最貴の神々が御座まし枢要なる経綸を行なわせ給うのである。


以上説くところの三段階のその上に坐すのが、独一真神すなわち万能の神とも申し、大宇宙の主神であらせらるるのである。

この主神に対しては、これを表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである。


次に私は、神仏の救済と罪穢の本質について科学的説明を試みてみよう。

そもそも、世界には大中小種々雑多な宗教があるが、いずれの宗教といえども、それぞれ神仏諸霊が人類救済の意図のもとに、霊界から御手を差し伸べており、現界における因縁ある人間を通じて、救済の業を行なわせらるるのである。

もちろんその根本は主神の御経綸による事であって、ある時代、ある民族、ある地域、ある期間、救いの業を委任され給うたのである。

畢竟(ひっきょう)するに、それはその地域に罪穢が堆積し、文化の進歩に支障を及ぼすべき程度に立ち到ったからである。

そうして昔から宗教の建て前として、人間不幸の原因である罪穢の除去をされたのであるが、

しからば罪穢とは何ぞやといえば、霊的には、個人としては霊の曇りであり、社会的にいえばその地域の霊界の曇りである。

また曇りとは何ぞやといえば、水素中に発生し、生活している一種の毒菌であって、

これは常に増減しつつある極微の粒子で、到底顕微鏡によっても見得ない程のものであるが、

これら毒微粒子は、悪の想念と悪の行為によって発生し、増量し、それが人間の苦悩の原因となるのであって、

反対に善の想念、善の行為によって滅減するものである。

曇りがある程度増量するに従い、自然浄化作用が発生する。

それが小にしては人間の災厄や病気となり、大にしては飢病戦の小三災、風水火の大三災ともなるのである。

しかしながら右の災厄を出来るだけ小にし、または無災となし、不幸をより軽減せしめんとする活動が、神仏の大愛から発する霊光であって、

その媒介者として出現されたのが聖者、聖雄、宗祖等で、その下の取次者が各宗の宗教家であり、天使でもある。

そうして救いの場合、神仏はそれぞれその時代の人間に適応せる教義や方法を採らせ給うのである。


前述のごとき毒微粒子を消滅する元素はもちろん火素であって、眼に見えざる光であり、それによって浄化作用が行なわれるのは、

ちょうど日光によって殺菌するのと同一の理である。この事を今一層徹底すればこうである。

宗教の教えまたは祈りによって光明を受け、今まで眠っていた魂が目覚め悔い改め、善を想い善事を行なうに至り、魂の輝きによって毒微粒子の衰滅となるのである。

以上は宗教の科学的説明であって、ここに到っては唯物科学もなく、唯心科学もなく霊体一致の科学であり、

今や来たらんとする高度の文化時代の科学の真相を、私は簡単に説いたつもりである。」




明主様御教え 「神と硝子玉」 (昭和28年9月9日発行)

「私が唱えている医学の誤謬の根本としては、何といっても医学を科学の分野に入れた事である。

元来 万有の構成原理は、人間と人間以外の一切とは、根本的に立別けられており、本質ももちろん異っている。

それというのは元来 人間は地球の王者であり、支配者であるに対し他のあらゆる物質は、ことごとく人間に隷属(れいぞく)しており、

人間の自由意志のままに動かされ、人間の肉体を保護し、人間生存上必要なそれぞれの役目を果しているからであって、分り易くいえば主人と家来との違いさである。

この理によって人間以外のあらゆる物は、人間が作った科学によって思いのままに変化させ進歩させることが出来るのは当然で、それがため現在のごとき素晴しい文明が構成されたのである。

しかも最近に到っては原子科学というような驚くべき発見がある等々、これら現実を見る人間は、ついに科学一辺倒となり、

何物でも五感に触れないものはことごとく非科学的と言う、今日の人間にはお誂向(あつらえむき)の魅力ある言葉をもって抹殺してしまい、これが社会通念となっているのである。

特にこの考え方が智識人に多く、文化人のマークとなっている程で、形は異(ちが)うが迷信邪教信者と何ら撰(えら)ぶところはない。

その結果科学の分野に非(あら)ざる人間生命の問題にまで立入ってしまった。

それが医学であるからむしろ僭上沙汰(せんじょうざた)といっていい。

そのような文化的侵略者たる医学としたら、真の医学ではないことはもちろんであり、このような非医学をもって生命の神秘を暴(あば)こうなどは、木によって魚を求むるのと同様である。


この意味から私は医学の誤謬に対し、事実をもって彼らの眼を開かせ、真の医学を教えるので、これが神の意図である。

つまり病だけは神の力以外地球上に治す力はあり得ないのである。

これを一層徹底的にかいてみると、今日医学が病原としているのは、言うまでもなく黴菌である。

菌発見以来医学が画期的進歩を遂げたのは衆知の通りであって、その後長期間に渉(わた)る経験によっても、予想外に不成績であるにもかかわらず、邪教信者と同様一度信じた上はそれが逆結果であっても目に入らないという迷盲である。

そうして前記のごとく、病原はことごとく菌としており、菌さえ殺すことが出来れば、万病は解決されると固く信じ、それのみに向って研究している。

従って顕微鏡という硝子玉(ガラスだま)が、医学の鍵を握っている訳であるから、この硝子玉こそ人間の生命を自由にしている神以上の存在である以上、万物の霊長様も実に情ないものである。

この頭脳によって宗教を観る時、神の実在を否定するのも当然であり、なおこれで判ったことは医学が尊い人間の肉体を矢鱈に切り刻むのも、これまた当然である。

この意味において私が今実行しつつある救いの業こそ、神と硝子玉との闘争であって、どちらが勝つかこれは読者の判断に委せるとして、次に重要なことは、現在顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。

これでみると現在は二十万倍以内の大きさの菌を対象とし、その菌を殺す方法に専念しているのである。

ところが実は菌の限度は二十万倍どころか、百万倍あるいは一千万倍にも上るか知れない。

否それ以上無限かも知れないと推定される。

たとえば大空の無限大なるごとくその反対は無限小であるからである。

としたら帰するところ病菌といえども無限小であるに違いないから、これを殺すとしたら科学で造る有限力では駄目であり、どうしても無限なる病原は、無限の力でなくてはならないはずである。

無限の力とはもちろん神の力であり、神の光である。この光を自由無碍に行使する機関こそ特殊の人間であり、その人間こそ私というものである。

何よりも現在現わしつつある治病の実力をみても分ると共に、益々それを信ずる人々が増えつつある趨勢(すうせい)を見ても何ら疑うところはあるまい。

自分でいうのも心苦しいが、かくのごとき超人的力を有する者は、古往今来一人もないのは誰も知るところであり、昔からいわれている神人合一もこのことである。

ゆえにこの著を読めば分るが、その説くところ神霊の解剖であり、人間生命の本原であり、キリスト、釈迦、マホメットの三大聖者を始め、いかなる聖者も説き得なかったところの、深奥無極の真理の開明であり、天国の福音でもある。」




明主様御教え 「明日の医術 第三編 総結論」 (昭和18年10月23日発行)

「私はこの著の完結に当って総結論をかいてみる。

読者は私の研究の成果に対し、最早充分の理解と認識とを得られたであろう。

そうして将来、来るべき文化の根本理念は勿論霊的のそれでなくてはならないが、実は今日までの文化の推移を仔細に検討する時、それは明かに霊的方面に一歩一歩前進しつつある事実を看取さるるのである。

最近における無線科学の進歩は、電波、光波、音波等の躍進となり、今現に各国とも盛んに応用されつつ、戦力にまで至大関係を持つに至っている。

しかしながら私の解釈によれば右は霊科学における体の面である事である。

即ち霊においても、その霊と体との二面があって、人間の五感によって知り得る範囲は、霊の体の面に属するのである。

しかるに私の今ここに述べんとする所のものは霊の霊であって、五感に触るる能わざるもの、即ち見えざる光、無声の声、捉える事の出来ない電波である。

右のごとく無にして無に非る存在、私は仮に名付けて霊電波又は幽幻力といおう。

この幽幻力においての原素の活動こそ、あらゆる力の本源であって、その中心としての主動力こそ宇宙意志であり、これによって戦争も起り、平和も来すのである。

勿論無限大から無極微に至るまでの森羅万象一切の変転流動の根源のそれである。

故に、一切の活動の根源が幽幻力であってこの幽幻力こそ「絶対無限の力」そのものである。

しかるに今日までの人間は、力といえば物質力即ち唯物的力を強大と信じて来たのであるが、それはすべて逆の観方であった事に気付かなければならない。

何となれば物質力はいかなるものといえども限度がある。

例えば火と水の力によって発生する動力といえども、何馬力という限定線があって、それ以上は許されないのである。

限度を超ゆる時、それは機関の爆発という危険があるからである。

しかるに、近代科学は前述のごとく、一歩霊の体の面にまで進んで来たという理由によって、物質力の限度を破って、無限とさえ見らるるのであるが、

実はこれらも機械力によって捕捉する事も出来、又抵抗力の発現も可能であるというによって鑑ても、無限力とは言い得ないのである。

しかるに、私の言う幽幻界において発生するところの無に等しい幽幻力こそ、これは絶対であり、無限であり、万有の創造力でもある。

従って、この幽幻力の発揮こそ、科学に非ざる科学であるといえよう。

私はこの力の存在の発見と利用によってのみ、初めて理想的なる人類文化の建設さるる事を信ずるのである。


この意味において力の強弱を測定する場合、物質は最も弱く、非物質であればある程その強度を増す事で、勿論これが宇宙の原則である。

そうして私の創成したこの医術の原理こそ、右の幽幻力の一部の利用である事を告げたいのである。

まことに奇蹟のごとき驚くべき治病力を発揮するという事もそれが故である。

しかしながらこの事の説明に当って最も困難と思う事は、現代科学の理論においては、それを説明し得るまでに到っていないという事である。

従って、やむなくただその効果によってのみ肯き得らるる現在で、満足の余儀ない事を告白するのである。

故にこの意味において私をして忌憚なくいわしむれば、現代医学のごときはあまりにも水準の低い事を思わせるに拘わらず、

現代人はこれを無上のものと信じ、貴重なる生命を託すというのであるから、いかに危いかという事は、私のこの医術を知る限りの人にして首肯し得らるるであろう。


私は、今一つ重大なる事を言わねばならない。

それはこの幽幻力を戦争に用うる事である。

たとえば、墜落しない飛行機、弾丸の当らない飛行機、沈まない艦、死傷者の現在より十分の一に減ずるという奇蹟の作為も、あえて不可能ではないと想うのである。

私の創成したこの医術の効果に驚き、人々は現代の奇蹟というのである。

しかし私は奇蹟とは思わない。何となれば霊科学的理論によって説明なし得るからである。


又、幽幻力は霊である以上、いかなる精巧な機械といえどもその発生は不可能である。

独り人間の霊力即ち魂から発生する訳であるから人体こそまことに神秘霊妙なる存在である。

しかるに今日までの人間は機械の発達にあまりに幻惑された結果として物によってのみ一切を解決なし得ると思惟した為、人間に潜在するところの超物質力に気づかなかったというのが真相である。

同様の意味において人間の病気といえども、物によって治癒すべきものと思い込んで進んで来た。

それの理念に終止符を貼るというのが本医術の生命である事は勿論である。

ただし、この幽幻力発揮に当って心得べき事は、私利私欲のごとき不純なる観念が、いささかにても混るとすれば、それは効果がない事である。

飽くまでその目的が、国家社会人類の為である正義感、これを一言にしていえば至誠によらなければならない事である。

そうして私は幽幻力発揮に当って文字と言葉の重要性について少しく述べてみよう。


文字と言葉とは、吾々人類社会にとって、いかに大きな作用をなしつつあるかという事を考えなくてはならない。

吾々文化民族の社会から文字を取去ったとしたならば、最早文化の進歩も興隆も停止さるるであろう。

否文化そのものがあり得なくなり、文字なき時代即ち原始時代に還元するより外はあるまい。

又言葉も勿論そうである。文化的意志の交換がなくなるとすれば、これもまた原始時代に還元あるのみであろう。

従って、文字が作用する力や言葉の偉力によって人を動かし、国家も社会も世界をも動かし得るという事実は、今日東条首相やヒットラー、ムッソリーニ、スターリン、ルーズベルト、チャーチル等の言説にみても明かである。

しかるに、私がここに言わんとする所は、前述の例は体的、物的に動かし得る力であるが、右に述べたところの幽幻力即ち幽幻的に動かし得る文字も言葉も有り得るはずである。

故に、幽幻力発揮の方法として私は文字と言葉を使用したり、又は絵画を使用する場合もあり、意念を用うる時もあるのである。

そうしてこれらの方法を行う事は、まことに簡易である。


しかしながら、幽幻力発揮などというと、私一人の専売のごとく想わるるかも知れないが、実はこの原理を知り、ある期間の修錬を経れば、決して出来得ない事はないのである。

特に日本人は世界に比類なき霊性に富む以上、霊電波発揮には最も優秀である。

ただ何人にも出来得るという訳にはゆかない。

人により生れながらに素質と信念の強弱優劣があり、それが重大関係をもつからである。

従って、私は日本人中何人位出来得るやという事は正確には判らないのである。

しかしながら治病に関してのみは何人といえども可能である事はさきに述べた通りである。

そうして今日までの新しい発見や発明が、当初においては、その有用価値が小ではあるが、漸次進歩大成するに従っていよいよ大となるという事も、幾多の経験が示されている通りである。

従って、この幽幻力といえどもその将来においては広範囲に人類の福祉に一大貢献をなすであろう事も予想し得らるるのである。」 (「明日の医術 第3編」より)




明主様御講話 「浄霊は無限力」 (昭和28年9月26日)

「次に、この間世界中の科学者が日本に集まって理論物理学の会議がありました。

これについて私はもう少したったら科学の理論を書こうと思ってます。

今度世界中の科学者が集まっての論議の中心は大体物性論です。

湯川博士などは特にこれに力を入れてますが、この物性論というのは素粒子論から一歩進んだものです。

物性論というものは、今まで発見した微粒子よりいっそう細かいものです。

しかしまだ実験物理学では把握できないものです。

それで素粒子というのは湯川博士がノーベル賞をとったのですが、宇宙線を写真に写すときに六つか七つの粒子が写って、それが中間子ということになったのですが、それは実験物理学で発見して確定したわけです。

ところが物性論というのは、もういっそう細かいものです。

そこで理論だけでは確かにあるというけれども、まだ実験の証明はできないのです。

素粒子までは今言う宇宙線によって物理的に分かったけれども、物性論の方はなかなか難しいのです。

というのは、もう霊の方に入ってきているからです。

ですから科学というのは大体物理科学ですが、科学は今、量子力学の方に入りかけてきたのです。

ですから科学がこれから先に行けば行くほど、だんだん分からなくなってきます。

というのは、結局お辞儀するよりほかありません。

それで私が書こうというのは物性論から先の分野です。

それでこの間も顕微鏡何万倍ということを書きましたが、あの理屈なのです。

ですからこれから進んで行くと、ますます分からない所に入って行きます。

それについて京都での開会式で湯川博士が「今の科学はちょうど暗闇の中にみんなが集まっていて、各々どっちの方に行ったがよいかということを考えたり論議している状態で、どこかに行かなければならないが、しかしどこが確かだということは分からない。

五里霧中だ。それが今の科学界の現状だ」ということを言いましたが、うまい言い表わし方だと思います。


そこで科学はつまり霊界に入ってきたのです。

すなわち自分の受け持ちでない所に入りかけてきたのです。

そこで結局どこまで行くかというと、この間も言ったとおり無限界です。

科学というものは、たとえ素粒子だとか物性論だとか言ったところで、またそのものが発見できたところで、それをいかに全人類に役立たせるかということが最後の問題です。

それには力です。それについてはこの間も科学者で量子力学を話した人がありますが、結局量子力学で、力です。

その発見した物質なり粒子なりの力をどうすれば出せるかということです。

要するに原子爆弾も原子科学から力を発見したわけです。

これは私はその原理は信仰雑話にも書いてあるとおり、地球から水分を抜けば一瞬にして爆発するというそれです。

これだけの範囲の中から水分を抜いて、からにしてしまうというのです。

ぜんぜん水分をなくすれば気体が爆発します。

そうするとたくさんの核というものがあって、次のを爆発し、また次へと行く。

それがある程度に行くのです。


私はこの理論は二十何年か前に書いているのです。

その方法を科学の方で発見したわけですが、これは科学の方でもかなり成功した方です。

今のは原子科学の力を出したということですが、それとても一部です。

よく、水素爆弾を東京で爆発させると沼津あたりまで破壊するということを言ってますが、しかし日本全土を破壊する、あるいは東洋全土を、世界全土を破壊するというわけにはゆきません。

それはつまり物質の力だからです。物質の力というのは有限力なのです。

有限力とは限りある力ですから知れたものです。


ところが科学が自分の分野でない霊の方に入るとなれば、科学ではなくなるのです。

結局科学は粒子ですから、これは数えられるわけです。

何億何十億の粒子だとて計算ができますが、そうすればそれで限度があるのです。

ですからどうしても無限でなければならないのです。

無限粒子というわけですが、しかし粒子という名もつけられません。

要するに無限力です。

それで浄霊で病気が治るということは無限力です。

この無限力というのが神様の力です。

ですからロサンゼルスも最近非常な奇蹟のお蔭がいくつもありましたが、そうすると私から発する霊がロサンゼルスまで行くのだから、とても原子爆弾どころの小さなものではありません。

そこに有限力と無限力の違いさがあるのです。

それでやっぱり有限力では限度があるから、人を救うとか世の中を良くするということはできないのです。

ある程度まで、ある範囲までという所ですから、それでは駄目です。

ちょうど今、共産主義とか資本主義とかいって争っているようなものです。

そういう主義というものが有限なのです。それで世の中は良くならないのです。

それで一つの主義をよくすると他の主義をやっつけることになり、それでは全体を良くするということはできません。

ですから世界人類を救うということは、世界全土に力が行かなければならないのです。

それが神様の力です。そういうことを昨夜大下宇陀児(うだる)さんに簡単に話したところが

「これはメシヤ教を見直さなければならない。科学のそんな奥の方まで言うとは、今まで考えていたのはまるで間違っていた」と、つくづく言ってました。

それで浄霊でどういうわけで病気が治るかということを、今言った理論科学的に、誰にも納得のゆくように詳しく書くつもりです。


そうするとどうしても神様の解剖ということになるのです。

そこで神様を解剖するといっても、主神は別ですが、いろんな神様の種類があるし階級もありますから、そういうこともよく分かるように書きます。

そうすると宗教も科学も別々に見ることはできないのです。

結局同じではないが・・・大きく言えば同じですが・・・ただ価値から言うと安いものと高いものとの違いです。

つまり科学は安物なのです。それで神霊の方は、あんまり値打ちがありすぎて値段をつけられないくらいなものです。そういうことも書くつもりです。

お祭りの話のようでなく、大学の講義のようになりましたが、ちょうどこの間科学の会がありましたし、これは学問上から言っても新しい説で、これほど新しい説はないのだから、早くお話ししようと思って話をしたわけです。」




明主様御講話 「今までの宗教はある程度の有限力」 (昭和28年10月5日)

「医学と浄霊の原理をはっきり分からせるには、有限力と無限力ということを説くと一番よく分かると思います。

というのは、病気の原因というものは無限的なのであって、有限的の性質のものではないのです。

ところが医学のほうの顕微鏡で見た黴菌というものは・・・つまり細かい粒子です。

そうしてだんだん細かいものが見えるようになって・・・今日ではウイルスとなってます。

ところがウイルスよりもまだまだ細かいものが発見されます。

それは、科学の方で中間子とか素粒子というのは、やはり粒子です。

そういうようで、結局科学の進歩というのは、細かいものが見えるというだけのものです。

ところがどんな細かいもの、たとえば一ミリの中に一千万個、一億万個と数えますが、数えるとそれで限度があります。無限ではありません。

ところが一ミリの間に一億万個から十億万個となると、どのくらい小さくなるか分からないが、それでも十億という数があるのだから有限です。

ところが実は病気は有限なものではないのです。

肺病なら肺病でも、これだけの黴菌は何億万個ということが分かったとして、それを殺菌しますが、それで治るかというと治りません。

なぜ治らないかというと、そのできた黴菌だけ殺しても、後から後から出てくるからです。

伝染発生にしても自然発生にしても、黴菌が何億万個ということが数えられたとしても、それだけでおしまいなら、みんな殺してしまえばよいですが、

だいたいできるということは、どこかから発生したもので漠然とできるものではないから、そうすると発生源というものは科学でも分からないのです。


それはなにかというと無限的だからです。

ですから無限の病原を除り去るとしたら、やはり無限の力でなければ駄目なのです。

そこで浄霊とは無限力になるのです。


だから原子爆弾は決して恐れるほどのものではないのです。

というのは有限力だからです。

あれ一つで地球全部が破壊できるものではありません。

何キロ何十キロと限度があるものです。

また水素爆弾ができたとしても、日本全体を焼き切ることはできないし、東洋全体を焼き切ることはできません。

たとえ東洋全体を焼き切ることができたとしても、世界全部を焼き切ることはできません。

というのは有限力だからで、有限力というのは要するに力が弱いわけです。


ところがこの方は無限力で、無限力というのは絶対力です。

今アメリカのロサンゼルスでずいぶん奇蹟があったりお陰があってますが、そうすると私の霊力がロサンゼルスにも行っているのです。

それは無限力だからで、無限力は地球全体に行きます。

そのくらい力が違うわけです。

有限力では絶対の力がないから、ある限度しか解決できないのです。

病気を治すといっても治り切りには治らないわけです。

逆進歩してうまくやったとしても一時的です。

ですからこれは時の限度があるわけです。

浄霊の方は時の限度もなければ、力の限度もないのだから、そこで病気をすっかりなくしてしまうことができるのです。

これは科学的の説明です。

そういうわけで、科学というものは有限力の範囲内が科学です。

それで無限力に入れば科学ではないわけで、宗教の方に入るわけです。


しかしその無限力の中にも、絶対無限と、ある限度があるものとがあるのです。

というのは、今までの宗教で病気が治る場合もありますし、奇蹟もありますが、しかしそれはメシヤ教の奇蹟ほどすばらしいものではありません。

それはメシヤ教の奇蹟というものは三日の修業でキリストができるのですから、さっき読んだとおり、もはや数十万のキリストができているというわけです。

キリストと同じことができるのだから少しも間違ってはいないわけです。

結局において、有限力と無限力の力比べです。

その点が分かれば、今の科学信者にも分かると思います。

科学的に説けばそうなります。

ですから科学というものがいかに進歩しても限度があるのです。


神様の方は無限だという、その点が逆です。

それで無限力の中にも上中下があります。

それでは今までの宗教で病気が減りそうなものだという理屈になりますが、それは実は徹底するほどの無限力でなく、ある程度の有限力なのです。

ある程度の有限力というのは、今まではみんな月の光です。

月の光というのは太陽の光の取り次ぎです。

それは科学でも分かってますが、月の光というのは、太陽から受け継いだ光なのです。

そこで太陽の光を弱めたようなものです。

メシヤ教の光というのは太陽直接の光です。

そこでここは「日光殿」という名をつけたわけです。


太陽の光だから昼間の世界というわけで、月の方はその六十分の一ですから弱いわけです。

だから有限力のほうに負けるわけです。

すなわち今までの宗教は科学に押し倒されたわけです。

そこで今までの宗教家も、科学にはかなわないといってカブトをぬいだというわけで、それがどの宗教でも病院を造っているということです。

それから社会事業などをやっているのは、つまり力が弱いから、科学に負けたわけです。

そこで今までは、すべて有限力でいろいろなことを解決しようとしていたから、そこで肥料もそういうわけです。

さっき言ったとおり、地から放射する地霊というのは無限力であって、肥料というのは有限力です。

それで有限力で押さえると一時ちょっと良いので、それに迷わされていろんな迷信ができてしまったのです。

その無限力を大いに発揮するということによって、大いに増産になるというわけですから、その点さえ分かれば、別に難しいことはありません。

むしろ有限力で効果を上げれば、それこそ不可解なことです。

ですから医療で病気が治れば大奇蹟です。おそらく奇蹟以上の奇蹟です。


二、三日前にある医学博士に遇ったときにその話をしたのです。

「医療で病気が治れば、これは大問題だ」と言ったら変な顔をしてました。

そういうようで、メシヤ教で病気が治るということは実に簡単明瞭な理屈ですから、なんでもなく分かるのです。

もし医学の方で病気が治るとしたら、難しくて説くことはできません。

つまり一般人が分からないということは、酒を飲んで顔を赤くして「どうだ、このとおり顔色がよいだろう」と言っていばっているようなものです。

とにかくあべこべなのですから、その頭をちょっと引っ繰り返せばよく分かるのです。

それで今の有限力と無限力で説いてゆくと、その頭を引っ繰り返すのに一番効果があります。

おまけに今の智識人というのは、近ごろはみんな頭がだいぶ進んできましたからーといっても上面が進んできたのですが・・・

ですからよほど科学的に説明しないと納得しないのです。

その場合に今の有限力、無限力でやってゆくと一番分かります。


それからこの間の学会での物性論なども馬鹿馬鹿しいくらい幼稚なものです。

科学者はみんなたいしたもののように鼻高々とやってますが、子供がオモチャをいじっているとしか思えません。

結局あれがだんだん進んで行けば、今の無限境に入って行くに決まっているのです。

そこまでで科学はおしまいなのです。つまり科学は必要がなくなるのです。

ですから粒子がいくらかでも分かる間は科学が必要だが、その先に行けば必要がないのです。

それは無限境に入って行くのだから、科学はおしまいになるのです。

ですから科学者というのは技師などになったらよいでしょう。

そういった学問というのは必要がなくなってくるのです。

それがやっぱり限度というものです。


そういうようなわけですから、もう長いことはありません。

割合に早いです。

というのは、私がその理屈を知ってしまいましたから、これをだんだん多くの人に知らせて行くから、そうすれば当然無限力が勝つに決まってますし、それが真理なのです。

それをお釈迦さんは知っていたのです。奥までは知らないが、ある程度は知っていたのです。

そこで一切「無」あるいは「空」と言ったのです。

それは間違ってはいません。

無限力というのは 「空」です。物質的には分からないのです。

ところがもういっそう徹底して、今言ったような説き方をすれば、それはずっと分かっていたのですが、時期がそこまで行ってないから、そのときにそこまで言ったところで、その時代の人間には分かりようがありません。

今日科学が進歩したために分かりやすくなったわけですから、その点においては科学の進歩も大いに役に立っているわけです。

つまりその理を分からせる手前にまで文化を押し進めてきたという点においては、科学の功績もたいしたもので、高く評価してもよいわけです。」




明主様御講話 「浄霊は熱の霊」 (昭和28年12月25日)

「浄霊で病気がよく治るということを、初めて浄霊を受けて治った場合によく聞かれます。

そこで「なるほど」と思うように説明してやらなければならないのですが、

それをできるだけ分かりやすく書いてみましたが、まだ少し物足りないところがありますが、だいたいこういうわけです。

(御論文「浄霊は科学療法なり」)

つまりこの不純水素の毒粒子を焼いてしまうのです。

その焼く熱度というものがたいへんなものなのです。

ですからここ(掌)から出る光の熱は、それこそ寒暖計では計れないほどの熱ですが、ただ熱の霊なのです。

ふつうの熱いというのは熱の体なのです。

熱の霊というのは、体ではないから、その熱さは感じないのです。

その代わり熱としての力は非常なもので、むしろ無限と言ってもよいくらいなものです。

こう説くのが科学的説明なのです。科学的と言っても機械的ではないのです。

いわば霊的科学です。

それで霊的科学というのは、今まで人間には経験がないからちょっと分かりにくいのですが、理屈はチャンと合っているのです。

というのは、今の医学などの科学というのは、ごく幼稚なものだから説明ができないのです。

つまり病気の原因はなんだと言っても、医学では説明できないのです。


それを無理にこじつけて説明してます。

よく新聞や雑誌に出てますが、その苦しいのはよく分かります。

こじつけだからして始終説が違ってくるのです。

最初この薬は非常に効くというやつが、だんだん時がたってくると逆作用が起こるとか言うのです。

結核によく効くという抗生物質というのが、最初はよく効いたが、だんだんやっているうちに、体の方にまたそれに対抗するものができるというので、かえって逆に結核菌の力が強くなる、ということを、このごろ言い出してます。

そういうようで、根本が分からないから上面だけで、半年も効くと鬼の首でも取ったように大騒ぎをするのですが、二年たち三年たつとみんな駄目になってしまうのです。

今までの結核の特効薬というのは、みんなそうです。

ですから私は今まで薬が出るたびに、今に駄目になると言って笑うのですが、これはなんでもないことで、当然なのです。

今までは物質的説明はできるが、科学的説明はできないのです。

だから科学ではないと言うのです。ところがこっちの方を非科学と言い、自分の方を科学と言うのですから、おおよそ逆です。

今の文化というのはそういうものです。それを今の文化的の人がいばって言っているのですから、笑うべきものです。

物事がうまくゆくはずがないのです。始終みんなアップアップやって失敗ばかりしてます。


つまりメシヤ教というのは、一つの高等教育です。

つまりまだまだ大いに未開人的分子が残っているのを大いに分からせるというわけで、教育です。

それには実際を見せなければ信じないから、浄霊やいろいろな奇蹟を見せて信じさせるというようにしてますが、実際を見ても信じない人がたくさんあるのですから、いかに迷信に捉われているかということが分かります。

迷信者の方が迷信でないものを見れば、やっぱり迷信と見るのです。

もっとも、そういった迷信がなくてチャンと分かっていればメシヤ教の必要がないわけですから、メシヤ教を世界的の立派なものにするには、そういう迷信者が大いに必要・・・というよりか、それが根本です。

それについて、信仰に関係なく無神論をやっつけるようなふうに書いてみました。

(御論文「無神論について」)」




明主様御講話 「目に見えないものほど力が強い」 (昭和28年12月27日)

「浄霊について、病気が良くなるのはどういうわけだろう、ということを聞かれるときに、こういうわけだという簡単な説明を納得がゆくような言い方をする、その一つの参考として書いてみました。

(御論文「浄霊は科学療法なり」)


今読んだだけではちょっと分かりにくいようですが、いずれ栄光に出しますから、これをいくども繰り返して読んでいるうちにはっきり分かります。

はっきり分かるということは、つまり理屈に合っていれば、はっきり分かるのです。

医学書なら医学書をいくら読んでも、はっきり分かるわけがないので、というのは嘘だからです。

間違っているからです。医学書よりかこの方が難しいようでも、本当の理屈に合っているから必ず分かるのです。

そうすれば、未信者とかまた浄霊で治った人で、説明を聞きたい人にこれをよく説明してやれば、なるほどと分かります。

そうすれば迷いがなくなります。

そうでないと、浄霊で治ってありがたがっていても、やっぱり徹底しないから、再浄化や、この次他の病気が起こったときに医者に行くということになるからして、どうしても徹底して本当に分からせなければならないのです。

まだ書き方がちょっと完全ではないのですが、なにしろ非常に難しいです。

ずっと細かく、科学書のように書くとよいのですが、それでは手数がかかったりするので、なるべく切り詰めて、ごく簡単に急所を説明して分からせるというのが一番よいです。


浄霊の原理は、そうとうの信者の人でも分かりにくい点があるだろうと思います。

その一番分かりにくい点は火素の力です。急所というのは曇りです。

曇りというのは水素の中にある不純物で、毒粒子ですが、この毒粒子は細かくてとうてい顕微鏡では見られません。

それをここ(掌)から出す火で焼くのです。

水の中にあるものを焼いてしまうのです。

ところがこの場合の水素というのは、ごく微粒子で、希薄なものです。

それでこっちから行く火素の熱度というものはたいへんなものです。

原子爆弾よりももっと高いのです。

だからこの火素の力に遭えば、原子爆弾でも大丈夫なのです。

また、それは物質ではないので、物質なら限度があるから弱いのです。

原子爆弾でも、その力というのは弱いのです。


それでもっとも強い力というのは、もっとも物質的でないものです。

要するに目に見えず感じもしないという、ごく希薄であればあるほど力は強いのです。

ですから一番強いのは風の力です。

風というのは大きな家でも倒したり吹き飛ばしますが、これは一番目に見えないもので、おそらく、どんな大風でも目に見えません。

見えるとすれば、それはホコリとか他の物質が見えるのです。

風そのものは絶対に見えないのです。

その見えないものがそれほどの力があるのです。

ですから希薄なものほど強いのです。


人間でも、人間の考えがたいしたものです。

大戦争をする英雄の頭の「ああしよう、こうしよう」という考えがたいしたものです。

スターリンがあれだけ考えていることは、目には見えないから強いのです。

それが言葉に出ると物質化してくるから、いくらか見えてくるのです。

ですから考えている、それが一番力が強いのです。

その考えたものを物質に現わす場合の働きが言葉ですから、言葉の方はそれ以下ということになります。

そういうようで、目に見えないものほど力が強いのです。

それで一番目に見えるものの力は馬力という馬の力ですが、これは一番よく見えます。

これが今の浄霊の原理の急所というわけです。」




明主様御教え 「有限力と無限力」

「単に力といっても、有限力と無限力の区別のある事を知らなければならないのである。

ところが今日の人間は力とさえいえば、有限力と思っている。もっとも唯物文化社会としたら、それも無理はないが、

この考え方のため人間は本当の事を知らないで、有限力のみを信じ行動するので、失敗者が多いのである。

有限力とは誰も知るごとく色々あるが、野蛮時代は腕力が主となっていた。つまり人力である。

その後進化するに従って智力が発達し、権力が生まれ、次で政治力、圧力、戦力、金力、経済力、学力、馬力、機械力、破壊力、思考力、筆力、宣伝力というように、漸次発達したが、その時代時代に応じて強く働く場合もあり、弱く働く場合もあるのはもちろんである。

例えば野蛮時代における暴力、権力、支配力等それである。

これについて重要な事は、以上かいただけの力は、ことごとく有限力である事であるから、絶対性はないのはもちろんである。

その何よりの証拠は、一時は絶対と思われる程の力も、時の力によって、ひとたまりもなく破壊されてしまう。

昔からの失敗者の例をみても分る通りである。それに引換え無限力であるこの力こそ絶対にして永遠であり、これに抗する何物もないのである。

ところが有限力は目に見え、手に触るる事も出来るが、無限力は無に等しいものであるから、人間には有るを信じられないのである。

その結果有限力のみを力として信じて出来たのが今日の世界である。

これを最も分りやすくいえば、有限力とは人間が作る力であり、無限力とは神が行使する力であると思えばいい。


これについて最も手近な例をかいてみよう。

それは本教の浄霊法である。

医学の方では薬剤や機械等、目に見えるものを使うので、人はこれで治るべきものと思うが、浄霊は空間へ手を翳(かざ)すだけなので、初めての人などこれで治るなどとは、どうしても信じられない。

しかし結果は医学よりも比較にならない程よく分るので、何程考えても分らない。

ただ不思議と言うのみである。

というのは有限力は知っているが、無限力は知らないからで無理もないが、この真相が分れば不思議でも何でもない、当然な話である。

つまり一口にいえば医学は人間力、浄霊は神力である事が、実にハッキリしているのである。」