夜昼転換と浄霊の原理について 5


明主様御講話 「火と水の密合したものが光であり力」 (昭和28年6月15日)

「それで、「力」ということについて話をしますが、今までの世界は本当の力というものが出なかったのです。

力といっても、それはいろいろあります。人間の力の「腕力」。

それから兇器を使ったりして大いに暴れるのは「暴力」。

それから馬の力の「馬力」。

それから今は「機械力」で、これが非常な活動をして世界的にいろんな文化を進歩させていますが、これも結構です。

ところが現代の宗教のような力は「微力」と言います。はなはだ弱い力です。

それから人間を大いに自由にしているのが「政治力」。

それから「金力」ですが、この「金力」というのがなかなか恐ろしいものです。

この金力を善が握れば結構ですが、今までの金力は悪の方が多いのです。

善もありますが悪の方が量が多かったのです。

この金力に私なども随分いじめられました。

それからいろいろ問題にされたり裁判所に引っ張られたり、言論機関が大いに圧迫したりするのは「権力」。

それから「経済力」というこれも、今までは良い方より悪い方に使った方が多いです。

そこで「金力」は「経済力」に付随してますが、「金力」というのは、たいへんな力を持っているのです。

ソ連が共産主義によって世界の覇権を握ろうとし、朝鮮戦争を起して、それをアメリカがくい止めましたが、アメリカのなんの力がくい止めたかというと「金力」です。

それは他にもいろいろありますが、そのもっとも根本的力と言いますか、それは「金力」で止めていたと言うか、「金力」で平和を維持したというわけです。

だから今までの世界では「金力」が一番力があったわけです。

それから戦争をやるのは「戦力」。その戦力を行使すると「破壊力」。

それからまた文化の力というものには、学問の力の「学力」。

その学んだ結果の智恵の「智力」。智恵にもいろいろありますが、これは前にも言ったから、今は言いません。

それから「智力」を応用して考える「思考力」。それから「筆力」。

筆の力ですが、これがまた恐ろしいのです。

今の世界は「金力」が主で、「筆力」がその次と言ってもよいと思います。

それから「宣伝力」。これもたいへんな力があるものです。

それから引く力の「引力」。押さえる「圧力」。

まだまだたくさんありますが、大体そのくらいで分かると思います。


ただ、今までなかったのは神の力の、「神力」です。

ぜんぜんないことはないが、薄かったのです。

強く発揮ができなかったのです。

というのは夜の世界のため、つまり月の光は、光からいっても太陽の六十分の一ですから、よほど弱かったのです。

それがいよいよ時期が来て、今度は火の力、太陽の力になってきたのです。

それが昼間の世界というのです。それで浄霊して病気が治るということは、太陽の力だからです。

今までは、メシヤ教のように病気を治すという力はなかったのです。

というのは月の力だからして、見らるるとおり、本当に病気を治す力はないし、

それからまた病気というものの根本はなにかということも発見されていなかったということは、力もないし光も薄いから、つまり見得ることができなかったのです。

それが根本だから、それが分かれば浄霊で病気が治るということは、わけなく分かるわけです。

それでメシヤ教の信者はキリストと同じような奇蹟は毎日のようにやっているということだけでも、その力たるやたいへんなものです。


それで今までは、宗教が本当に救うことはできなかったのです。

現在救われているのは各宗の教団の方です。

仏教にしても、仏教がその信者を救っているのではなくて、その本尊が信者から救われているのです。

これは別に悪口を言うわけではないので、事実を言っているのです。

というのは、闇の世ですと月の光だけでも結構なのです。

だから闇の夜道を歩いている人は、月の光によって、とにかく安全に歩けるというわけです。

そこにだんだん太陽が出てくると、月の光は薄れてき、ついにはなくなるというようなわけですから、

そこで霊界では非常に明るくなってきているから、月の光というものがもう駄目になったというわけで、それが現われているわけです。


だからして結局火の力を行使することは、私という者が出て、初めてその力を与えられたのです。

つまり「力」です。ところが「力」というものと「光」というものとは同じなのです。

つまり「火」と「水」の密合したものが「光」でありまた「力」なのです。

だから「力」という字はよくできてます。経と緯、火と水が十の字に組むのです。

そうするとそこにズーッと曲線がつながって、跳ね返ってますが、とにかく文字というものは神様が造ったのですが、実によくできてます。

ですから文字と言霊が分かれば、宇宙のいろいろな神秘は分かるわけです。

私はそういったことを書こうと思ってますが、どうしても書けないのです。

やっぱり神様はどうしても、それを分からしてはいけないことがあるとみえます。

そこで経が先で緯が来て結ばり、曲がって、跳ね返っているが、これは左進右退のリズムが現われてます。


ですからさっき言ったとおり、この地上天国の模型が中心になって、左進右退的活動が始まるということは、これが真の力なのであります。

つまりメシヤ教というものは力の宗教と言ってもよいのです。

この力が本当の神力です。経緯結んだ火と水の力です。

「カ」は「火」で、「ミ」は「水」ですから、「カミ」の力です。

この力を行使したという人は世界肇(はじ)まって以来ないのです。

それで言霊から言うと「シン」の言霊返しは「ス」になりますから「神力」は「主の力」とも言えます。

それでいつもスは○にヽと書きますが、チョンが火で、丸が水になります。

太陽の黒点はチョンになります。学者はあの黒点を研究してますが、それは今言ったことなのですから、こっちは別に研究の必要はありません。

この太陽の黒点のチョンがたいへんなものです。つまり宇宙の魂です。

果物なら種です。それで今までの世界はチョンがなかったのです。

丸だけだったのです。要するに空だったのです。

それでいよいよ私が世界にチョンを入れるわけです。

この神仙郷はチョンなのです。ヽなのです。

その意味において非常に重要なわけなのです。

その始まりの今日は非常な意味があります。」




明主様御講話 「太陽の力は月の六十倍」 (昭和28年12月25日)

「浄霊で病気がよく治るということを、初めて浄霊を受けて治った場合によく聞かれます。

そこで「なるほど」と思うように説明してやらなければならないのですが、それをできるだけ分かりやすく書いてみましたが、まだ少し物足りないところがありますが、だいたいこういうわけです。

(御論文「浄霊は科学療法なり」)


つまりこの不純水素の毒粒子を焼いてしまうのです。

その焼く熱度というものがたいへんなものなのです。

ですからここ(掌)から出る光の熱は、それこそ寒暖計では計れないほどの熱ですが、ただ熱の霊なのです。

ふつうの熱いというのは熱の体なのです。

熱の霊というのは、体ではないから、その熱さは感じないのです。

その代わり熱としての力は非常なもので、むしろ無限と言ってもよいくらいなものです。

こう説くのが科学的説明なのです。科学的と言っても機械的ではないのです。

いわば霊的科学です。

それで霊的科学というのは、今まで人間には経験がないからちょっと分かりにくいのですが、理屈はチャンと合っているのです。

というのは、今の医学などの科学というのは、ごく幼稚なものだから説明ができないのです。

つまり病気の原因はなんだと言っても、医学では説明できないのです。


それを無理にこじつけて説明してます。

よく新聞や雑誌に出てますが、その苦しいのはよく分かります。

こじつけだからして始終説が違ってくるのです。

最初この薬は非常に効くというやつが、だんだん時がたってくると逆作用が起こるとか言うのです。

結核によく効くという抗生物質というのが、最初はよく効いたが、だんだんやっているうちに、体の方にまたそれに対抗するものができるというので、かえって逆に結核菌の力が強くなる、ということを、このごろ言い出してます。

そういうようで、根本が分からないから上面だけで、半年も効くと鬼の首でも取ったように大騒ぎをするのですが、二年たち三年たつとみんな駄目になってしまうのです。

今までの結核の特効薬というのは、みんなそうです。

ですから私は今まで薬が出るたびに、今に駄目になると言って笑うのですが、これはなんでもないことで、当然なのです。

今までは物質的説明はできるが、科学的説明はできないのです。だから科学ではないと言うのです。

ところがこっちの方を非科学と言い、自分の方を科学と言うのですから、おおよそ逆です。

今の文化というのはそういうものです。それを今の文化的の人がいばって言っているのですから、笑うべきものです。

物事がうまくゆくはずがないのです。始終みんなアップアップやって失敗ばかりしてます。


つまりメシヤ教というのは、一つの高等教育です。

つまりまだまだ大いに未開人的分子が残っているのを大いに分からせるというわけで、教育です。

それには実際を見せなければ信じないから、浄霊やいろいろな奇蹟を見せて信じさせるというようにしてますが、実際を見ても信じない人がたくさんあるのですから、いかに迷信に捉われているかということが分かります。

迷信者の方が迷信でないものを見れば、やっぱり迷信と見るのです。

もっとも、そういった迷信がなくてチャンと分かっていればメシヤ教の必要がないわけですから、

メシヤ教を世界的の立派なものにするには、そういう迷信者が大いに必要・・・というよりか、それが根本です。

それについて、信仰に関係なく無神論をやっつけるようなふうに書いてみました。

(御論文「無神論について」)


かなりやっつけてありますが、無神論者を分からせるには、宗教的だとどうしても最初から毛嫌いしますから、かえって分かりにくいので、信仰を抜きにして書いてみたのです。

つまり人間の上等と下等というか、そういうようなことに心が向くということは、人間としては頭脳が上等なのです。

ただそういうことにぜんぜん関心を持たないで、毎日を、儲かるとか儲からないとか、思うようにゆくとかゆかないとか言って気をもんで、要するに高等な思想ということに向かないということは、それだけ魂が低いわけです。

だからそういうことを考える人・・・哲学者とか思想家というのは、人間で言えば上等な部類に属するのです。

というのは魂の位置、霊の位置なのです。

なにしろ霊の地位というのは百八十段もあるのですが、上に行くほど、つまり働きが高等なのです。

そこに、真ん中の線・・・地平線・・・上下を区別している線があり、その線を抜いて上に行けばよいのです。

それで、その線の上がつまり神様の分野で、線から下が獣の分野です。動物界です。

そうなってますから、そこで今の偉い人でも、無神論者は線よりか以下なのです。

それで線の所まで行くが、それを抜くことができないのです。

神様を知る・・・神様は確かにある、というのは線を抜いたわけです。

わずかなところでぜんぜん世界が違ってしまうのです。

ところが線の以下ではどんな偉い人でも、智慧があっても、それは悪智慧になるのです。

悪いことをするために働く智慧になってしまうのです。

線を抜いて上に行けば、その人の考えること、やることがすべて本当の人間となり、つまり善だからして、まず間違いないわけです。

それとともに罪を作らないからどうしても不仕合せが来ない、幸福をかち得るわけになります。

その点です。ですから信仰というものは、その線を抜くことを教えるだけでなく、「なるほど、それに違いない」と信じさせることです。それが信仰の根本です。


線を抜いてからも、やっぱりいくつにも段があるのです。ところがたいていな世間の信仰は低いのです。

稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。

それから何々教とか何々宗というのになると、だいぶ上になってくるのです。

ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。

線をちょっと抜いた所だからすぐに下に落ちてしまうのです。

この間の霊友会というのはそうです。ふだんは上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。

そういうふうに考えると、分かりにくいことはないので、実に分かりよいです。

それで線から上の段で一番高いのがメシヤ教です。そうなると力が違ってくるのです。


では今までそういった上の段に行かれる宗教はなぜなかったかというと、今までの宗教は全部月の神様なのです。

つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。

今度は太陽が現われたのです。ですから私のこの病気を治す力も太陽の力です。

今読んだ、水素の毒粒子を焼き尽くすという火素は、太陽の力だからそういうことができるのです。

ところが今までは宗教でもなんでも全部月の系統です。

太陽の光からみると六十分の一ですから、六十分の一の力しかなかったわけです。

ところが今度は今までよりも六十倍の力ですから、そこで信者の人でもすばらしい力を発揮するわけです。

キリストでも月の神様の最高のものだから、月だけの力しかなかったわけです。

私の弟子は、月の力よりも太陽の光は、わずかでも、やっぱりそれだけの働きが違うわけです。

ですから奇蹟が現われるということは、そういうわけです。

今までないことがあるということは、今までは月の力であったからで、今度は日の力になるということに大きな違いさがあるわけです。

そう考えると、メシヤ教の奇蹟が多いことも、浄霊で病気が治るということも分かるわけです。別に難しいことはないわけです。

ただ、今まで太陽の方の神様が出なかった、出られなかったというところが根本なのです。

それで、今度はその太陽が現われたのです。昼間の世界というのは、そういうわけです。


宇宙というものは、そういうことになっているのです。すべて夜昼の区別があるように、だいたい一年、十年、百年、千年、万年というように、定期的に決まっているのです。

今度昼間の世界になったのは三千年目になるのです。

実に宇宙というものは無限の神秘であって、とうてい言葉では言われないくらいなものです。

それで悠久のものですけれども、悠久の中にも大中小、大中小となって変化することになっているのです。

今度は三千年目で昼間になったのですが、三千年で一回転するのです。

それで三千年というと永久と言ってもよいです。

三千年ではつまらないと言っても、自分の命よりはずっと長いのです。

三千年の間には、いくども生き代わり死に代わりしているのです。

そのくらいの変化ですから、今度の変化というのは大変化であるし、祖先以来ないものです。

ですからこれに生まれ合わせ、この仕事に携わった人はどんなに仕合せか、祖先以来ないのですからたいへんなものです。

そういうような大変化だからして、分からせようと思っても、なかなか分かりにくいのです。

しかし分かりにくいけれども、聞いてみれば、なるほどそういうことも有り得るわけだということも分かるわけです。


こういう話は、哲学でもなければ宗教でもない、新しいものですが、しいて言えば宗教の哲学みたいなものです。

それで、これを知ることが覚りを開くということなのですが、しかし覚りを開くというが、今までの覚りはそこまでは分かっているのですが・・・それを朧(おぼろ)げながら分かったのはキリスト、釈迦という人たちです。

釈迦が「仏滅の世が来る」ということを言ったのは、ある程度分かったから言えるのです。

それからキリストの「天国は近づけり」ということも、ある程度まで分かったわけです。

けれども、私が分かるだけは分からなかったわけです。

もし分かれば、その時にもっとすばらしい奇蹟=大きな力を現わさなければならないです。

メシヤ教というものは、今までの観念でゆくと非常に難しいようですが、分かってみればかえって今までよりもずっとよく分かるのです。

それは根本が分かるからして、非常に難しいようでいて非常にやさしいのです。

ちょうど病気を治すようなもので、医者の方で首をひねってどうにもならない者が、こっちの方でこうやって治ってしまうのですから、理屈は同じです。

ただあんまり違い過ぎるので、その点に骨が折れるのです。」