浄霊の原理 6 (日本医術講義録より)


明主様御教え 「一般指圧療法との比較」 (昭和10年御執筆)

「指圧療法の創始されたるは、最近に属し、医薬鍼灸のごとく、未だ普遍的治療までに到らざるも、

その効果の顕著なる、日に月に一般の信頼を博しつつあるは何を物語っているのであろうか。

大いに研究すべき問題であろうと思う。


しかるに、一般の指圧療法は、余の見る所に依れば、その治癒力として相当の効果あるも、

人体電気即ち人間霊力が、その指頭より放出するに依るものであるから、

療術を行う場合は、術者は努力して、精神統一をなし、治療に取掛るを以て、

術者の霊的エネルギーを消耗する事はなはだしく、非常に疲労を感ずるものであり、

且つ治療時間も普通一時間以上を要するのである。

指圧療術者が往々短命に終る者多きはこれが為である。


しかるに、余が創始の指圧療法は、根本が、観音力なるを以て、

術者はただ、肉体を一の機関として提供するに止まるを以て、

何ら疲労する事なく、時間も普通は十分ないし三十分位の治療を以て、

他の指圧療法に較べて、数倍の効果を奏するのである。」 (「日本医術講義録」第1篇より)




明主様御教え 「方法と原理」 (昭和10年御執筆)

「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。

まず初め、拍手を三つ、音のせぬ位、軽く打ち、

人に聞えぬ位の声にて、「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」を二回唱え、

左手を、患者の右肩へ軽く当て、患者の頭を少し下げしめ、

右手の人指指(ひとさしゆび)を以て、

その頭脳の中心に、「この者清まれ」と三度、空中へ文字を書くべし。

書くが否や直ちに、口先にてフーッフーッフーッと二三度息を吹き掛け、

直ちに右手を開いたまま、頭上一寸位の空中を、出来るだけ早く左右に擦(こす)りながら、

度々息を吹きかける。この時間一分位にてよし。

最初に、これを行う訳は、元来、人間の四肢五体の根元は頭脳にあり、

あらゆる肉体の病原の中府ともいうべき所なるを以て、まず、これを清めて取掛るのである。


次に、患者に苦痛の個所、経過等、なるべく詳細に訊ね、これに依って病原を指頭を以て探り当てるのである。

病原を発見すると同時にその場所へ向って治療を施すのである。


治療の原則としては、最初、患部へ向って、右の人指指を以て、「この中清まれ」と三回書くのである。

頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。

かくのごとく、三回繰返し、直ちに指頭を患部に当て、

軽く指頭に霊を集中させ、病原を解かすごとき心持を以て、軽圧するのであるが、

無論、刻々、息にて塵埃を吹き払うごとく、治療中何回となく、行えばいいのである。

これを繰返す裡(うち)に、病原(大多数は水膿溜結)は、必ず多少は溶解するので、

溶解しただけは、患者は、軽快を感じて来るのである。

しかし、右は、原則を示したるにて、実際は、適宜、取捨按配して宜しいので、場合に依り、掌を利用してもいいのである。

摩擦する場合、皮膚に触れても触れなくても、効果は同一である。


最初、療術せんとする時、観音力の御守りを首に懸けるべし。

この御守りこそ、無限に発揮する、観音力の本源にして、これのみは科学にても、人智にても説く能わざる不可思議なるものである。

否、説くといえども、余程、智慧、証覚の発達した人でないと判りかけが出来ないのである。

治療する場合、この御守りより出ずる観音力が、霊光となって、術者の指頭及び掌より放出滲透するのである。」 (「日本医術講義録」第1篇より)




明主様御教え 「霊光の説明」 (昭和10年御執筆)

「そもそも、霊光とは何ぞやと言うに、読んで字のごとく、霊の光であり、光の霊である。

この霊光と名付くべきものは、あらゆるものが、大なり小なり放射しつつあるのであって、

動物にも、草木にも、幾分の霊光はあるのであるが、ここでは人間について、説明するのである。

この人間の肉体から発する霊光は、普通の人間に在っては、一名霊衣とも言われ、英語ではアウルと言い、

健康体の者、又は心の清い者程光が強く、霊衣は厚いものである。

極上等の人で一尺位、少い人で一寸位、普通二三寸位が一番多いのである。

大体白色であるが、その人の霊統によって二種に分けられる。

それは日の霊統と月の霊統であって、日の霊統は、金色を帯び、月の霊統は銀色を帯びているものである。

しかるに、特別の人間、たとえて言えば釈迦とか基督(キリスト)とか、空海とか日蓮とか言う人になると、普通の人の何層倍の厚さも、光もあるのである。

けれども、世界大に大きいものは、未だ一人も出なかったので、

分り易く言えば、釈迦は東洋の半分大、イエスは欧羅巴(ヨーロッパ)大、空海、日蓮等は、日本の何分の一大位なものであって、

その宗教の拡がった限度が、その大きさを説明していると言ってもいいのである。


所が今度は、未だ例のない大きさが出るのであって、今は必要だけの大きさと強さであるが、

最後には、世界大に余の霊衣が拡がるのである。

その時こそ、病貧争のない、大光明世界なのである。

しかし、大きさは今は未だ小さいのであるが、光の強さにおいては、現在でも釈迦や基督等も、到底及ばないのである。

その光が病気を治す力なので、その光がこれから沢山養成さるる医療士の肉体を通して、あらゆる病気を治す事になるのである。

それで、余のこの光は、太陽の光と月の光と、両方混ぜたようなものであるから、

熱のある人に向っては、月の働きによって冷し、反対に、冷えた人に向っては、日の働きで温めるのである。

そしてこの光が、病気を解消するに、いかに力あるかは、別の項目で、詳しく、述べる事にする。」 (「日本医術講義録」第1篇より)




明主様御教え 「病気の本体は魂なり」 (昭和10年御執筆)

「そもそも、この現象界におけるあらゆる物質は、ことごとくが霊と体から成立っているのであって、

物質が腐敗したり、腐朽したりするのは、霊が脱け切ってしまうからなのである。

石でさえが、死石と言ってポロポロ欠けるのがあるが、あれらが、霊が脱けた為なのである。

金(かね)が錆びるというのは、矢張り、霊が脱けて、その表面が屍になったからなので、錆は、金の死骸とも言えるのである。

しかし、よく磨いた刀や昔の鏡が、錆が少ないのは、その工作者の霊が加わっている為である。

しかして、物質の霊は単に霊であるが、動物の霊は精霊と名付けられている。

生きた人間は、精霊と肉体と、密着不離になっているのであって、

精霊が脱出して、現界から霊界へ行く事を、往生又は死というのである。


しかし、人間は、精霊ばかりかというとそうではない。

精霊ばかりなら、物質と違わないのであるが、すべて動物は、精霊の外に、否、精霊の中に心があり、魂があるのである。

即ち、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるので、その大きさは、心は精霊の百分の一で、魂は心の百分の一の大きさが本当である。

であるから、最初、魂が動いて心が動き、心が動いて精霊が動き、精霊が動いて肉体が動くのであるから、

人体の運動は固より、あらゆる肉体現象の本源は、魂その物から出発するのである。

これを善悪に分ければ、肉体が悪であって心が善であり、心が悪であって魂が善であるのである。

この善悪、善悪、善悪の軋轢が調和となり、それが、活能力となって現われるのである。


故に、病気その物の発生は、肉体を動かす精霊の千分の一の容積たる、魂のその一部に発生するのである。

この魂なるものは、小さくとも伸縮自在であって、

人間が起きて働いている時は、人間の形をしており、寝る時は丸くなっておるもので、

死の刹那、人魂が丸くなって飛んでゆくのは、

死と同時に、魂が丸くなり、心が丸くなり、精霊が丸くなるからなのである。

その丸いのに光が伴うから、人魂となって、たまたま人間の眼に見える事になるのである。


人間の形をした魂の一部に、病気が発生するという事は、実は、魂の一部が曇るのである。

即ち、その部分の光が薄らぐのである。

それが心に写り、精霊に映り、ついに、肉体に、病気となって現われるのである。

であるから、魂にさえ曇りが出来なかったら、絶対に病気には罹らないものである。

しからば、何故に、魂に曇りが生ずるやというに、それが罪穢なのである。

この罪穢を説明するには、宗教の分野に入る事になるから、ここでは、これだけに止めておいて、肉体に現われた病患の説明に移る事にする。


前述のごとく、精霊が精霊の一部、例えば肺臓の部分に、曇りを生ずるとする。

すると、その部分の血液が濁るのである。濁りが進めば化膿する事になる。

この濁った血が、喀血又は血痰となり、化膿した膿汁が痰となるのである。

臭気を持った痰は、この膿汁が古くなったのである。

肺病に限らず、あらゆる病気は、右とほとんど同一の理に依って、発生するのであるから、

治病の原理としては、この精霊の曇りを払拭するのである。

しかるに、この理を知らざる現代医学は、肉体に現われたる病気現象のみを治療せんとし、研究努力するのは、末のみを知って、本を知らざるが故である。

たとえ、一時的小康を得るとも、根本的治癒は到底出来得べくもないのである。

故に、我指圧療法は、観音の光に依って、この精霊の曇を解消するのであり、

その曇が解消すると同時に膿汁が溶解し、病気が軽減又は消失するのであるから、

この精霊の浄化が肉体へ映って病気は治癒するのである。

しかしながら、未だこれのみにては根本的とは言い難いのである。

無論医術よりも根本的ではあるが、絶対とは言えないのである。

何となれば、魂が、全く浄化されなければ、真の安心は出来ない訳である。

魂の浄化とは、その人が正しい信仰を把握し、その行を実践するのでなくては徹底しないのであって、その行が観音行であるのであるから、

そこまで行けば罪穢の発生は全然無くなり、反対に徳を積む人となるにより、

無病息災所か、歓喜法悦に満ちた生活が出来、福徳長寿の幸を得て、一家 いや栄える事になるのである。


ついでだから、魂について、今一つの事を説いてみる。

それは、よく物に驚き易い人や、いつも不安状態で、何となく、そわそわしている人とがある。

これらは、その魂が弱っているので、外界の衝動に対する抵抗力が、薄いからである。

現今非常に多い、神経衰弱というのはこういう人である。

この原因は、矢張り魂に曇があるから弱るので、こういう人は多く首筋に毒血の凝血が必ずあるので、これを溶解すれば治るのである。

これが激しくなれば不眠症を起すのであって全快後も、再発のうれいを無くするには

観音信仰に入り魂が光に照され曇の生じない様にするのが、最良の方法である。」 (「日本医術講義録」第1篇より)