浄霊の原理 5 (新日本医術書より)


明主様御教え 「岡田式指圧療法の原理」 (昭和11年御執筆)

「岡田式指圧療法は、実は指圧療法というのは当らないのであって、

浄血療法、又は浄気療法、浄化療法とでも言うのが、適合しているのであるが、

指圧療法の名の方が、一般に肯き易いので付したまでである。

そもそも、この根本原理は、病気の根元である人間霊体の曇そのものを、霊光の放射に依って、消失浄化せしむるのである。

霊体の曇が払拭さるれば、その部の血液は浄化せられ、その部の血液が浄化さるれば、

その部の膿汁は解溶され、膿汁が解溶さるれば、病気は全治するのである。

故にこの療法は、霊から治癒するのであるから、根本的治療法である。

しかるに西洋医学は、これと反対の療法である。

即ち、病気として表われたところの体的現象を、薬剤、機械、光線等の物質を応用して、治療するのであるから、

たまたま、治癒されたごとき状態を呈するといえども、

ある時期を過ぐれば、弾圧された力へ対する反動的状態を以て、再発する訳である。

この故に、肉体に向っての薬剤又は、物理療法は、仮に奏効するとも、

多くは一時的治癒であって、根本的治癒ではないのである。

しかしある場合には、一時的治癒の後に自然治癒によって、全治する事もあるが、これらはある一部の病患である。

故に、この理によって唯物的西洋医学は、霊を認識せざる限り、

いかに進歩せしめようとするも、治病不可能である事は断言し得るのである。


観音力療法における根本医力である霊光とはいかなるものであるか。

これは試験管的には、未だ説明出来ないものである。

何となれば、未だ科学の方がそこまで進歩していないからである。

世の科学者又は、医学研究家諸賢は一日も速く、

この霊光の本体を科学的に分析研究されん事を熱望して、やまないものである。

しかして、この偉大なる霊光は、人類史上未だ顕現された事のない、一種の神秘的光波である。

強いて説明をすれば、彼のラジュウムの幾十倍、幾百倍の治病力ある光線である、というより外は無い事である。

しからばこの神秘光線は、どこに存在するやと言えば、

それは太陽の光波と月の光波とが、あるX体に向って不断に流射されつつ、

あるX体内において密合し、一種のエーテルが構成され、

そのエーテルが又不断に、仁斎(註 明主様のこと)の体内に向かって流射しているのである。

故に、仁斎の四肢五体からは、その光波が常に放射しつつあるのである。

この神秘極まる一切の工作者こそ、観世音菩薩の御本体である。

故に解り易く言えば、観世音菩薩は、治病力たるエーテル光波を、無限に製出供給し給いつつ、

仁斎の肉体を通じて、治病救済を行い給うのである。

故に、仁斎に接近するや、多くの人はその光波に浴して、病気によっては治癒されたり、痛みは癒え、

又は爽快な霊気感に触れて悲観は消え、勇気は増し、再三接近するにおいて、

血液の浄化によって血色を増し、飲酒家などは飲酒癖が無くなるのである。

これらによって見ても、科学的に説明は今の所、不可能ではあるが、

実証的にはなお、いか程にも説明し、理解出来得らるるのである。

なお仁斎が、文字又は絵を書けば、その筆を通じて、墨色へ光が参透するのであるから、

書体又は画面から、一種の光を放射するのである。

その色は白金色、黄金色、紫色等であって、その光を見た者は今日まで幾十人にも上っている。

ある時は停電の際のごとき暗黒であるべき画面が、その画面から放射する光に因って、鮮かに観世音の御姿を拝した例もあり、

又電気を消して画面から放射する光が、部屋一杯に混ったという例も幾度となくあるのである。

又、治病力を発揮させる意味の文字を認めたる紙片を折り畳み、普通人が懐中すれば、

その人は直ちに治病力を発揮し、医学博士以上の治病実績を挙げ得る事の実例は、日々枚挙に遑(いとま)ない程である。

この不可思議なる力を称して観音力というのである。

故にこれらによってみるも、病無き時代人類が天寿を全うし得る時代の接近は、確言してはばからないのである。

それと共に西洋医学の革命期の来た事も、疑ないのである。

この観音力療病法こそ、実に明日の医学であり、真に人類救済の一大福音であるのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「観音力療病術」 (昭和11年4月6日御執筆)

「観音力療病術などと言うと、はなはだ迷信臭く響くので、その名称について種々苦心したのであるが、いささかの粉飾も無く、その実体を言表わすとすれば、そう言うより外は無いのである。

ここで、今日までのあらゆる治病法を検討する必要がある。

それはまず大別すれば、物質療法と精神療法とである。

物質療法とは言うまでもなく洋漢両医術であり、その他それに類似の鍼灸、電気等である。

精神療法としては、信仰を本意とする加持祈祷は固より、観念や信念に依る治病である。

しかるに本療病術は、そのいずれにも属しないものである。

しかし、近時行われている指圧や掌療法と酷似してはいるが、本質は全然異(ちが)うのである。

この故に、本療法は未だ曾(かつ)て歴史にも経験にも絶対無かったものである。

全く新しい医術であり、治る医術であり、明日の医術である。

一名、岡田式指圧療法とも言うが、これは便宜上付したまでであって、適切ではないのであるから、本療病術が全般に知れ弥(わた)るまでの間、右の名称を用いるまでである。

観音力などと言うにおいて、信仰的でないとは言えないが、別に観音を信仰しなくても治るのである。

又、診断の場合、医学以上正確であるし、発熱は解熱させ、痛みは去らしめ、膿を除去し、下痢を止め、咳嗽を無くす等、あらゆる病苦を除去し得、

又、病原についても実証的に、微に入り細に渉って説明なし得るので科学的でもある。

この点、現代医学の方が非科学的である。何となれば、現代医学は、なる程、末梢的にはある程度の説明をなし得るが、根本的説明は不可能であるからである。

又実際上病理という名称の下に、病理は説いていない。それは、病気現象の説明でしかないのである。

故に、医学が病理と病原を説こうとすれば、今のところどうしても非科学的になってしまう。

本療病術は、あらゆる病理病原を、徹底的に実証的に、科学的に(機械的ではない)説明なし得るのである。

随って、科学的とも言い得るが、無薬、無器であるから、非科学的でもある。

これにおいて、本療病術は信仰的であって、信仰的でなく、科学的でもあるが、科学的でもないという、一種の不可説、無碍(むげ)療法である。

古来、観音信仰によって、奇蹟的治病を受けた実例は頗(すこぶ)る多く、あらゆる信仰中、断然一頭地を抜いている事は人の知るところである。

しかし、この事実を観念による一種の精神治病と片付けてしまうある一部の科学者には、受入れ難いであろうから、それらの人へ対しては、やがて目覚める時期を待つ事として、今一歩進めて説いてみよう。

観世音菩薩の御救は、誰もが知るごとく、今日までは、木仏、金仏、絵画等の偶像を介して施与せられた事である。

しかるに、現在誤まれる医療や迷信等によって、病者衢(ちまた)に溢れつつある火宅のごとき娑婆世界に対しては、偶像を介しての救は、最早病者の氾濫と、それによる人間の困苦を喰止める事は、不可能である。

これにおいてか、どうしても生きた人間を機関としての、治病的一大救済を行わなければならなくなったのである。

それが不肖仁斎創始の観音力療病術となって現われたまでである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「本療法と一般指圧療法との比較」 (昭和11年御執筆)

「近来、各所に行われつつある一般指圧療法は、効果も相当にあり、

随って世人の信用もすくなくないのであるが、

本療法と比較すれば、総てにおいてはなはだしい懸隔(けんかく)があるのである。

それはなぜであるかというと、一般指圧療法は人体電気即ち、

人間個人の霊力が、その指頭より放出するによるのであるから、

治療を行う場合術者は非常なる努力を以て、精神統一をなし、施術するを以て

術者の霊的エネルギーを消耗する事はなはだしく、

非常に疲労を感ずるものであるから、余程健康者でない限り困難な点があるのである。

従って、時間もそれだけ長きを要するのは勿論である。


しかるに本療法は、最背後に観世音菩薩が在しまして、

その不可思議治病カを、仁斎(註 明主様のこと)を通じて術者に無限に供給し給うのであるから、別段努力の必要がなく、

ただ、自分は仲介機関であるという意識の下に施術すればよいのであるから、

この点実に簡にして易々たるもので、それにも係らず、その効果は実に絶大であるのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「治療方法」 (昭和11年御執筆)

「今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。

まず初め、拍手を三つ音のせぬ位軽く打ち、観世音菩薩を念じ、

左手を患者の右肩へ軽く宛(あ)て、患者の頭を少し下げしめ、

右手の人差指を以て、その頭脳の中心点へ向って「この者清まれ」と、三度空中へ書くべし。

書くが否や直ちに口先にて、フーッフーッフーッと二、三度息を吹掛け、

右手を開いたまま頭上一寸位の空中を、出来る丈速く左右に擦るようにしては息を吹きかける。

この時間一分間位にてよし。

最初にこれを行う訳は、元来、人間全体の根源は頭脳にあり、いわゆる病原の中府ともいうべき所であるから、まずこれを浄めて取掛るのである。


次に患者に対って、既往の症状、経過、苦痛の個所等、成可(なるべ)く詳細に訊ね、

それによって患部の病原を、指頭を以て綿密に探査しつつ、探り当てるのである。

病原発見と共にその場所へ向って治療を施すのである。


治療上の原則としては、最初患部へ向って右の人差指を以て、「この中清まれ」と三回書き

頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦するごとく動かすのである。

この場合皮膚に触れてもよし、触れなくても宜(よ)いのである。

かくのごとくして数回繰返し、指頭を患部に軽く当て、指頭に霊を集注させ、病原を溶すごとき心持を以て軽圧するのである。

この場合病原はほとんど水膿溜結であり、指頭にて触圧せば多少の痛みがあるので、よく判るのである。

かくして息にて塵埃(じんあい)を吹払うごとく、治療中、何回となく吹けばよいのである。

これを繰返す裡(うち)に、病原たる膿結は必ず多少共溶解するものである。

溶解しただけは患者は軽快を感じ、それだけ治癒したのである。

ただし、右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配してよいので、場合により掌を利用してもよいのである。

療術せんとする時首に懸る観音力御守こそは、霊光の受信機とも言うべきものであって、

この御守を通して、観音力霊光が術者の指頭及び掌より放射参透するのである。


次に施術する場合の心の持方について、一言せんに、

この患者を治癒せば、観音運動の為になるとか、

又は物質を提供するならんなど想像する事は、大変不可であって、

ただ患者の病苦が除去され、治癒され救われるよう、念願するだけが良いのである。

何となれば、観世音菩薩の大慈悲は、一切衆生を無差別的に救わせられる大御心であるから、

人に依っての別け隔ては決して無いのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「観音力療病とは何ぞや」 (昭和11年御執筆)

「観音力療病という言葉は、開闢以来未だ無かった言葉である。

それは、観音力療病なる方法が、開闢以来未だ生れなかったからである。

それについて、観音力なるこの力は、いかなるものであるかという事を述べたいのである。

即ち、観音力とは観世音菩薩が、ある選ばれたる一個の人体を機関として、救世済民の為揮われる不思議な力である。

一体この不思議な力とは何であるかと言うと、それは光と熱と水霊である。

この光熱水は、太陽が放射する光熱と、月光のエキスとのコクテルとも言うべきものであって、

その霊妙なる光波は、彼のラジュウムやⅩ線、紫外線等の何百倍であるかは測定が出来ない程の治病力あるものである。

故に、今日の学問と人智の程度では、到底認識出来得ないものであるから、

実地体験より外に真相を把握する手段は無い。

実にこの光波こそは超Ⅹである。

故にこの光波によって、一度難病が治癒せられ、

又は大奇蹟に遭遇する時、初めて観音力の不思議さと、偉大さを識り得るのである。

そうしてこの力は、釈迦も基督(キリスト)もマホメットのいかなる聖者といえども有ってはいなかったものである。

その最大理由としては、時期の関係であった。

もし、これらの聖者の一人にても揮ったとしたら、その時限り病無き世界となっていたはずである。

しかるに、今日もなお依然として、否益々病苦に悩む者衢(ちまた)に充つるの事実は、それを証して余りあるのである。

眼に見えずして治病力の強大なる観音力は、実に量り知れない力である。


これについて一つの例を挙げてみよう。

私が「治病観音力」と紙へ書くその紙を折り畳んで誰でもよいから懐へ入れるとする。

そうすると、その文字の意味が光となって活動をなし、その人の手から指から射出する。

従って、その人の掌や指が、病人の患部へ触れる時、苦痛はたちまち軽減するのである。

故に、医学で治らなかった難病も続々治癒される、という大事実である。

かような事を言えば、信じないばかりか、私に抗議を申込む人があるかも知れない。

又、当局から誇大視せらるるかも知れない。

しかし、事実は枉(ま)げる事は出来ない。

百の理論といえども一の事実を枉げる事は、為し得ない訳である。

確かに世界の黎明期は来ている。

人類全体が光明に浴する時が来ている。

この空前な力の顕れが、それを物語って余りあるであろう。」 (「新日本医術書」より)