浄霊の原理 3 (内臓の三位一体と浄霊・自然力・私の光等)


明主様御教え 「内臓の三位一体と浄霊」 (昭和24年8月6日発行)

「そもそも、人間生活上体内の最も重要機能としては心臓、肺臓、胃の腑の三者であろう、

この事こそ私が常に唱うる火水土の三大原素から成立っており、右の三機能の活動についてここに説いてみよう。


それはこうである、すなわち火は心臓で、水は肺臓で、土は胃の腑に当るという事である、

何となれば心臓は火素を吸収し、肺臓は水素を吸収し、胃は土素を吸収する機能であるからである、

しかしながらこれについての今日までの医学の説明はまことに不徹底であった、

その言うところは濁った血液は肺臓が吸収する酸素によって浄められるというのであるが、

それだけでは本質に触れていない事はもちろんで、これを私は神示の医学によって解説してみるが、それにはまず霊界の真相から説き起さなくてはならない。


そもそも、霊界とは人間の五感に触れない無に等しき存在であるが、実はこれこそ万有の根源であって、この事を知らなくては真相の把握は不可能である。

火は水によって燃え、水は火によって流動するという原理は再三私は唱えて来たが、

この原理こそ万有解決の鍵である、ゆえに不可視の存在であるところの霊界を識る前提としてまず空気界から説いてみるが、

今日科学によって唱えらるる酸素とは火精であり、水素とは水精であり、窒素とは土精であり、これが三位一体で、この三原素こそ一切万有の本質である、

極端な暑熱も極端な寒冷も中和の気候も、生物の生存に適合しているという訳は、

神秘極まる三原素の活力によるのである、

仮にこの地球から水素を無にすれば一瞬にして爆発し、火素を無にすれば一瞬にして氷結し、土素を無にすれば一瞬にして崩壊し零となる、これが真理である、

この理を考える時、初めに説いた心臓、肺臓、胃の三機能の基本的意味が判るはずである、

すなわち心臓は霊界から火素を吸収する、その作用が鼓動である、肺臓は同じく水素を吸収する、その作用が呼吸である、胃は現界から土素を吸収する、

その作用が食物の嚥下である、この理を一層徹底してみよう。


あらゆる病原である固結毒素溶解には熱を必要とする、それが浄化作用の第一活動で、浄化作用が病気症状でありとすれば、

病気の際の高熱は固結毒素溶解には多量の熱を要するからで、その際熱を吸収するために頻繁なる鼓動が発る、

また悪寒は患部に熱が集注するため他部は一時的減熱する、

またそれと同様呼吸が頻繁なのは心臓の活動を促進するためと乾燥を防ぐため、肺臓は水素を多量に吸収するからである。


そうして火素の根源はもちろん太陽が放射する精気であり、水素のそれは月が放射する精気であり、土素のそれは大地が放射する精気である。

しかしながら、右三者の主位はもちろん心臓であって、心臓が肺臓を動かし、肺臓が胃を動かすのである、

この理は胃に食物が不足しても直ちに生命の危険はないが、肺臓はそうはゆかない、といって一、二分の生命は持続出来るが、心臓に至っては数秒以上は不可能である、

医学においても死の場合、肺臓や胃の腑の事は言わない、必ず心臓麻痺というにみても明らかである。


そうして人間死するや、まず心臓の活動が停止するやそれまで人体に充実した霊すなわち火素が脱出し無熱となる、もちろんこれは霊界に帰属するからであり、

肺臓は呼吸が止るやそれまで体内に充満していた水素は空気界に帰属し乾燥が始まる、

胃ももちろん活動停止によって飲食は不可能となり、身体の硬化作用が始まる、これらによってみても前述の説を裏書している。

以上のごとく、火水土の三位一体の本質によって構成された人体である以上その病患を治癒するとしたら、

その方法も三位一体の力に依らなければ合理的ではないはずである、

これが本教浄霊の原理であって、それを説明してみよう。


本教浄霊は観音力に依るとされている、観音力とはもちろん菩薩から伝達されるところの光である、

しかしこれは霊的光であって、人間の眼には見えないが、眼に見えるところの太陽・電灯・灯火等の光は光の体であるのである、

そうして光の本質とはいうまでもなく火と水の密合であって、

すなわち火素と水素から成立っており、火素の多量であればある程光は力が加わるのである、

しかるに火と水だけの光の力だけでは不充分で、ここに土精を要する

土精が加わる事によって完全な三位一体的力の発揮となるから素晴しい治病力となり、

その光波が人体を透過し、霊の汚濁は消滅され、それが体に移写して治病効果を奏するのである。


右の具体的方法としては、私の常に説くごとく「光」の大文字を書いた紙を畳んで懐へ入れさせる、

光の文字には私の腕を通し、筆を通して、文字へ光波の精が滲透凝集する、(これは説明に困難だから仮に凝集の文字を用う)

そうしてその光の文字と、私の体内にある光の本元とが、霊線によって連係しており、絶えず光波を供給している、

もちろん私と観世音菩薩との霊線活動も同様であって、

もちろん人類救済のための光波を無限に伝達され給うのである。


以上のごとく三位一体となって構成された人体である以上、三位一体の力による治病法こそ真理そのものであるといえよう、

全く空前の治病力を発揮し得らるるのは当然というべきである、

以上の原理の説明は非常に困難ではあるが、大体右によってある程度の概念を得たであろうと信ずるのである。」




明主様御教え 「私の光」 (昭和27年5月25日発行)

「私は仏教について、今まで何人も説かなかった色々の事をかいて来たが、

もちろんこれは神示によって知り得たものばかりで、読む人は驚異の眼を瞠(みは)るであろう。

とすればなぜ神は今日までそれを明らかにせられなかったかというと、全く時節のためである。

時節とはさきに述べたごとく夜昼の転換という一大エポックであって、

つまり今まで長い間続いて来た夜の世界、すなわち暗黒無明の世界が消え、

昼の世界すなわち赫々たる太陽の光の世界が近づきつつあるのである。

しかし暗の夜といっても、月光によってある程度物を見る事が出来たので、せめてもとして人間は喜んだのである。

これが真如の月の教え、すなわち仏教であった。


右のごとく、月光では薄明りで、ハッキリ見る事が出来なかった。

何しろ月光は太陽に比較して六十分の一の光度でしかなかったからである。

従って夜の期間中は宗教は固より、何も彼も徹底的に見えないのは当然で、

それがため人間は迷いを生じ、真の安心立命は得られなかったのである。

ところが昼となるや天日の下、地上一切のものは明々白々に露呈されるので、分らないものはなくなる訳である。

ゆえに昼の文明を創造する私としては、一切が分るのは当然である。


では私と昼の世界との関係を一層徹底してみるとこういう事になる。

すなわち私には光明の玉、昔から言われている如意宝珠が体内に宿っている。

この事は以前にも発表したが、ここでは光について詳しくかいてみよう。

元来 とは太陽そのもののように思うであろうが、そうではない。

本当は太陽と月との密合したものである。


そのように両極端の元素が光の本質とすれば、それが私の肉体に宿る以上、

肉体は土素であるから火水土の三位一体となる。

しかしそれだけなら普通人は土ばかりかというと、そうではない。

普通人にもそれぞれ光はあるが、ただ小さく弱いのである。

ところが私にある光の力は非常に大きいもので、普通人の何万倍か何百万倍か、

あるいは無限大かも分らない程で、ほとんど想像を絶するといってもよかろう。

何となれば私が今毎日のようにかいている御守の文字である。

光、光明、大光明の三種であるが、これを懐へ入れるや即座に人の病気を治し得る力を発揮される。

この力こそ御守の文字から放射される光のためである。

ところが私はその御守の文字をかく場合、祈りもせず何ら変った事はやらない。

ただ一枚ずつすこぶるスピードにかく。

まず一枚かくのに七秒平均であるから、一時間に五百枚は楽である。

その一枚の紙で何万人もの病気を治せるとしたら、今後何万何十万の人間に与えても、効果は同様である。

とすれば私がもっている光の力は、ほぼ想像がつくであろう。


これ程絶大なる力をもつ私としたら、何物も分らないはずはない。

信者はよく知る通り、いかなる事を訊かれても、私は答えに窮した事はない。

また遠方の人で病苦に悩んでいる場合、よく電報などで御守護を頼んでくるが、それだけでお蔭を貰う人も沢山ある。

それは私の耳に入るや、一瞬にして光の一部が分裂してその人に繋がる。

これによって霊線を通じてお蔭を頂くのである。このように光は何万倍にも、どんなに遠くても放射され、連繋されるのだから重宝である。

一層判り易くいえば、私から放射されるものは、言わば光の弾丸である。

言うまでもなく普通の弾丸と異うところは、彼は人を殺すが、吾は人を生かす。

彼は有限であるが、吾は無限である。


以上大体の説明であるが、これは私の力のホンの一部分であって、全体を説明するには容易ではない。

何よりも今後私のやる仕事を活眼を開いて見て貰う事である。

智性の働く人ならある程度分らないはずはない。

信仰的にいえば身魂相応にとれるのだから、この意味からいっても、信者は精々身魂を磨き、曇りのないようにしておく事で、

そうすれば正覚を得て私の力徳が分るはずである。」




明主様御教え 「浄霊とは何か」 (昭和28年御執筆)

「今まで病気の原因と、そのまた原因である薬毒について詳説して来たから、今度は治す方法とその原理を詳しくかく事にしよう。

もちろんこれこそ我浄霊法であって、その素晴しい治病効果は言い尽したくらいだが、

病原とは霊の曇りにあるので、曇りさえ払拭すれば病気は治るのは当然であって、この理は科学的にも説明出来る。

しかし単に科学のように極限された小乗的のものではない。

いってみればこの世界は大別して上中下三段階になっており、これが一切万有の実相である。

ところが小乗科学においては、前記のごとく唯物的分野に限定されている以上、

外形のみに捉われ、進めば進む程皮相的緻密(ちみつ)になるばかりで、その結果生れたのが黴菌医学である。

従って病理の根本から益々遠去かり、逸脱してしまったのである。

そうして大乗科学の三段階とは上段は神科学、中段は霊科学、下段が物科学となっており、

この下段に生れたのが医学であるから、そのレベルが低く幼稚であるのも当然であって

そのような程度の低い科学をもって、最高度の人間生命の解決などは思いもよらない話で、

むしろ僭越(せんえつ)でさえあり、長竿をもって大空の星を落そうとするようなものである。


ここで以上のごとき三段階を一層徹底してみるとこうである。

すなわち今日までの世界は物科学と霊科学との二段階のみであったがため、人間生命や病気健康等の根本まで分らなかったのである。

もちろん独り医学ばかりではない。

あらゆる文化がそうであって、永遠性のない一時的間に合せ物がそのほとんどであったのである。

という訳で治病方法にしても、前記のごとく三段階中の物科学と、そうして霊科学中の信仰療法のこの二つだけであった。

前者は略すが、後者においては治病方法としては祈り、苦行、禁厭(まじない)等であって、

医学と同様見るべき効果はなかったのである。

またこれは別の話だが彼(か)の釈尊にしてもキリストにしても、なるほど見真実(けんしんじつ)の境地に達したとは云われているが、

最高ではなく二段階の上位程度であり、智慧も力もそれ相応であって、絶対でなかった事は歴史の示す通りである。

これも時期の関係上止むを得なかったのである。


ところが私においては右の第一段階の最高地位に置かれている以上、

無限絶対の大本元を把握しており、一切の事物に精通すると共に、

病気その他万般に渉って驚異的奇蹟を現わし得るのである。

こんな事をいっても、第三者は直に信ずる事は出来まいが、これこそ真理の具現である以上、

何人といえども結局信ぜざるを得なくなるのは断言してはばからないのである。

しかるに今日までの人類はそこまで分らないがため、釈迦キリストを最高神仏として崇敬し信じて来たのであるが、

事実がそれに伴わないため、人々は疑雲に閉ざされ、霊の実在を否定し、科学万能時代を生んだのである。

そうして「聖書」には再臨のキリストを予言してあり、仏教は弥勒下生を唱えており、ユダヤ教やその他の教派にしても救世主(メシヤ)降臨を待望している。

というようにそれぞれ昔から期待はかけられていたが、

ただその時が明示されていなかったため、大衆はそれらの説は理想の表徴くらいにしか思わず、いつとはなしに忘れられたのが現在の世界である。


私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストともいわない。

なぜなれば昔から今日まで随分そういう名乗を上げた者もあったが、みな煙のごとく消えてしまったからで、

今日それを唱え出したところで、偽キリスト、偽救世主か大山師くらいにしか見られないのは分り切った話であるからである。

要は実際問題であって、今後私の仕事の上において、救世主的救いの力を発揮するか、

キリスト再臨的威力を表わすか、弥勒や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであろう。

つまり全世界の人々が公正なる批判の眼をもって観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。


話は戻るが、以上のごとく物の科学、霊の科学、神の科学の三段階の原則こそ大乗科学であるとすれば、

これこそ今後の時代をリードすべき最高学問であるといってよかろう。

ゆえに今日までの科学がいかに程度の低いものであったかは充分判るはずである。

従って我 メシヤ教こそ、最高最貴の主神が経綸し給うところの神科学の具体化であり、

それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。

何よりも事実が遺憾なく証明している。例えばキリストの治病奇蹟にしても、一人対一人であったに対し、

私は私の弟子をして、キリストと同様の奇蹟を日々無数に顕わしつつあり、

その数も数十万に及んでいるので、言わば現在すでに数十万のキリストが日本に生れている訳である。

この神力こそ主神以外にあり得ない事は、常識で考えても分るはずである。


ここで浄霊について一層詳しくかいてみるが、まず私は一枚の紙片に「光」という文字を書き、

それを畳んで御守として入信者に渡すと、それを懐に入れて手を翳(かざ)すや、

たちまち掌から光が放射され、霊の曇りは解消し病は治るのである。

この光とは私の腹中に在る玉の威力であって、この光は無限に放射され、霊線を通じて御守に伝達する。

この理はラジオを考えればすぐ分る。放送局、アンテナ、受信機の関係と同様である。


以上長々とかいた事によって、読者は病気の根本が分り、医学の誤謬が明らかとなり、治病の根本も会得されたであろうから、

これが世界的に拡がるにおいては、病無き世界の実現は敢て難事ではないのである。

右のごとく、黴菌の原地を潰滅する手段としての、術者の掌から放射される光としたら、

この光は何かというと、これを科学的に説明してみると、

すなわち曇りの中に含まれている不純粒子が光に会うやたちまち焼尽され、純粋水素のみが残るのである。

それは光に含まれている火素という熱の力であって、

これを説明すると、火素とは光に含まれている太陽熱の精で、言わば陽粒子ともいうべきものである。

だが科学では水素はいうが、火素を言わないのは不思議である。

しかし火素は熱の霊であって体ではない。

体は吾々が使用する熱い燃える火であるが、霊の熱は超稀薄のものであって、

体の熱に比べれば比較にならない程の強力なものである事は、実験によっても明らかである。

すなわち濃厚な膿に向かって浄霊するや、回を重ねる毎に漸次薄くなり、ついには清冽な水になってしまう。

これこそ火素の熱力によって毒粒子だけが焼尽されるからである。

この理によって体内いずれの深部にある膿や濁血といえども全然身体に触れずして、

浄霊によって溶解し、大部分は漿液となり、濃厚な分だけ排泄物となって出てしまうのであるから、

最初手術の項にかいたごとく、機能を何ら損じないで、病気だけを除去する事が出来るのであるから、

これこそ最も進歩せる文化的医術でなくて何であろう。

そうして私の腹中にある光の玉というのは、仏教においては如意宝珠、神道においては麻邇の玉の名によって、昔から知られているものである。」




明主様御教え 「浄霊の原理」 (昭和28年御執筆)

「今日世界広しといえども、真に病を治す方法としては、我浄霊を措いて他には絶対ない事は断言するのである。

そこでこの原理を説くに当って、前もって知らねばならない事は、一体人体なるものの構成である。

これに対し科学は唯物的にしか判っていないから、それを基本としているのが現代医学である。

ところがこれは半面であって、本当は見えざる霊と見ゆる体との二原素の結合から成立っているのである。

この理によって病気とは体に現われた現象であり、根原は霊にあるので、つまり表と裏との関係になっているので、

この事が認識出来ない限り真の医学は生まれるはずはないのである。

では霊とは何かというと、これこそ無色透明一種のエーテル体であるから、

科学で把握出来ないのも当然で、科学はまだそこまで発達していないからである。

しかし神示によれば立派に実存している以上、将来科学が一層進歩した暁、把握出来るのはもちろんである。

この理によって治病の場合、病の本体である霊の方を治さなければ、体の方が治る訳はないので、

浄霊とは霊には霊をもって対するという、この平凡な理屈にすぎないのである。

ところが科学は唯物理念である以上、体のみであるから治らないのである。

この意味において医学がいかほど進歩したとても、結局無意味で徒労でしかないのである。

ゆえにこれから生まれた医学としたら駄目に決っている。

また医療以外のあらゆる療法もそうであり、ただ灸点だけはいささか異うが、

これは刺戟によって一時的患部の毒素を誘導し、苦痛緩和させるだけで、化膿をよいとするのも、それだけ毒素が減るからである。

ここで浄霊の根本原理を徹底的に説いてみよう。


前記のごとく病気は霊に発生するという事は、最初局部的霊に曇りが生ずる。

曇りの原因は薬毒が一旦体内に吸収され、血液が濁るのでこの濁血が霊体一致の法則によって、霊の方では曇りとなる。

すると曇りは自然浄化作用によって、漸次局部的に濃厚分子が出来る。

これが体へ移写して固結となる。これが神経を使う所程集るのであるから、

人間が神経を使う所といえば上半身で、頭脳を主とし眼、耳、鼻、口、咽喉(のど)等であるから、

そこへ集中する場合、一旦一歩手前である肩、首の周囲に結集する。

体では固結である。

今日いかなる人でもその部を探れば、必ず固結やグリグリがあるのがそれである。

ところがこれに自然浄化が起ったのが感冒であるから、感冒に罹るや発熱によって固結は溶け液体となり、

これが痰、水洟(みずばな)、汗等であって、痰を排泄するためのポンプ作用が咳であり、鼻汁が出るための嚔(くしゃみ)であるのはこの理によるのである。

また、頭痛は頭脳内の毒素が熱で溶け、いずれかに出口を求めようとし、神経を刺戟するためであり、中耳炎、淋巴腺炎、扁桃腺炎、眼疾、歯痛等、ことごとくそうである。

また、彼の神経痛、関節リョウマチスもそうであって、人間が手足、指等を屈曲するため、その部に毒素固結するその浄化の激痛である。


以上ザッとかいたのであるが、要するに病気の苦痛は各局部に集溜固結せる毒素排除作用であるから、

何ら恐るる必要はないどころか、これによって健康は増すのであるから、喜んで我慢すればいいので、

しかも病気苦痛は誰も知る通り、その半分以上は恐怖が手伝うので、右の理を知れば苦痛は半減する訳である。


そうして特にかかねばならないのは、彼の結核である。

この原因は最初浄化発生するや、体内各部に固結せる毒素が、熱で溶けてたちまち肺臓内に滲透し、一時停滞するや、間もなく痰になって排泄される。

これが自然原則であって、それを知らない医学は、一時的肺臓内に停っている痰を、肺から病が発生したためと誤解し、極力停めようとする。

それで固まるだけは苦痛が減るから治ると思うのである。

そこで御注文通り痰の固りが出来、レントゲン写真に雲翳(うんえい)となって写るので、医師は結核の初期、肺浸潤と診断するので、

以上の経過にみても全く医療が結核を作る事がよく分るであろう。

元来肺臓なる機能を分り易くいえば、液毒すなわち痰が排除される場合、中間駅の役目といってもいいので、

それを医学は終点駅と間違え、中間駅に汽車を停めるようなものである。

その結果出るべきものを止め、結核を製造するとしたら、これほど恐るべき誤謬はないであろう。


次に近来恐れられている病気に赤痢、疫痢がある。この病原も意外なところにある。

すなわち頭脳特に後頭部から延髄付近にかけての固結毒素が、熱によって溶解、下痢となって排泄されるので、

その過程として液毒は一旦腸に溜り、下痢となって出るのであるから想像もつかないであろう。

しかしこれは事実が立派に示している。この病気の予後は非常に頭脳明晰となり、学童などは俄然として優良児となるにみて明らかである。

そうして医学は結核に限らず、すべての病原を黴菌感染のためとしているが、

実は菌なるものは、毒素が古くなれば自然発生するもので、これが物質の原則である。

しかも体温という好条件が拍車をかけるにおいてをやである。

しかし感染しない事もないが、それは問題とはならない。

要は無限に自然発生する事である。

この菌については後に詳しくかく事となる。」




明主様御教え 「自然力」 (昭和22年2月5日発行)

「大自然、すなわち吾々が呼吸し棲息しているところのこの世界の構成について、

私の研究によれば、まず大別して三つの元素、すなわちさきに述べたごとく火水土である。

そうして現在科学及び人間の五感によって知り得たものとしては、電磁気、空気、物質、元素等である。

しかるに私が言わんとするところは、科学的にも五感によっても未だ知り得ざるところの気体すなわち霊気である。

しかしながら霊または霊気という文字は今までとても相当使用されて来たが、その多くは宗教または心霊科学の面に限られていた。

それがために、霊という言葉はともすれば迷信視せられ、

むしろ霊を否定する事をもって、識者の資格とさえ見らるるごとき傾向があった。

しかるに、何ぞ知らん。この霊なるものの本質こそ、驚くべき力の根源であって、

森羅万象あらゆる物の生成活動変化はこれによるのであって、これを私は不可視力とも言うのである。


右のごとくであるから、私は有知の世界を現界といい、未知の世界を霊界として説き進めてみよう。

そもそも万有の原則として現界におけるあらゆる事象はすでに霊界に発生し運動を起こしている。

それはちょうど人間が手足を動かす場合すでに意志が先に動いていると同様の理である。

しかるに、現界の事象のみによって解決を与えようとしたのが、現在までの学問の理念であった。

文化が進歩せりといいながら、人類の福祉がそれに伴わないというのも右の理によるのである。

故に現界における事象を解決せんとするには、まず霊界のそれを解決しなければならない。

この意味において、病患治療といえども霊界よりの解決、すなわち霊をもって霊の治療をなす事こそ、真の治療法でなければならないのである。

従って、人体といえども霊体は霊界に属し現体は現界に属しているのはもちろんである。

そうして病気とは既記のごとく集結せる毒素の浄化すなわち毒結の解体作用であるが、

その過程を霊体に当てはめる時、毒素溜結は霊体局部の曇りであり、毒結の溶解とは曇りの消滅である。

しかるに、既存のいかなる療法といえども体の解決のみを企図したのであるから、

それは逆法で、病気に対する真の解決ではなかったのである。


霊体における曇りの解消は、病気治癒の原則であるとしたら、その曇りを解消すべき力は何か、

それがすなわち人体より放射する一種の神秘光線である。

この理を真に把握せんとするには、実地治療を数年間継続する事によって徹底し得らるるのである。

従ってここでは概念を得る以上には出で難いと思うから、読者はそのつもりで読まれたいのである。


そもそも人間の霊体とはいかなるものであろうか。

この説明に当たって知らなくてはならない事は、死の問題である。

すなわち、現体が老衰または病気、負傷、出血等によって使用不能に到った時、霊と体とは分離する、それが死である。

故に死とは現体から霊体が離脱する事である。

そうして、霊体は霊界に帰属しある時期を経て再生し、現体は腐朽し土に還元する。

これは人の知るところである。

これによってみても霊体なるものは無限の生命体であり、

現体なるものは有限、第二義的の存在である事を知るのである。

従って、人間を取り扱う上においては、霊体こそは真実の対象である事ある。


近代科学においてあらゆる生物否鉱物、植物等も一種の放射能を有している事はようやく知られて来た。

私の研究によれば人体からの放射能は最高級のものであって、

昔人の言ったいわゆる「人は万物の霊長なり」のごとくである。

そうして霊は高級である程、その元素は稀薄の度を増し、稀薄の度を増す程機械的には把握し得られないという唯物観とは反対の理になる。

故にかえって低級霊である鉱物におけるラジウム、植物における燐等の把握のほうが容易である。

そうして、霊は稀薄であればある程その偉力は増大するという、この原則の認識こそ重要である。

しかしながら人体放射能は最も強力ではあるが、人によりその差別のはなはだしい事も想像以上であり、放射能の強力である程治病力も増大する。

故に私はこの放射能を強力化するため身体の一局部に集中させて放射し、曇りの解消に成功したと共に、

各人保有の放射能力を一層強化すべき、特殊の技能発揮にも成功したのである。

この両者の方法を応用し、原理を知り、経験を積む事によって驚くべき治病能力を発現し得らるるのである。」  (「天国の福音」より)




明主様御教え 「神霊放射能時代」 (昭和24年5月25日発行)

「近来、放射線または放射能という言葉がよく使われて来たのは周知の事実で、

特に原子破壊の学理が進むにつれその傾向は著しくなりつつある。

もちろんこの言葉はラジウム発見からであるが、

今日においてはウラニウム・トリウム・プロトニウムのごとき漸次種類が殖えつつあり、

これらの元素が文化の発展にいかに寄与しつつあり、

将来はあらゆる方面に応用せられ人類の福祉増進に役立つかは、けだし想像以上のものがあろう。

ところが、以上のごとき鉱物性放射能より一層強力かつ優秀なる放射能を私は発見したと共に、

現在盛んに応用しつつ幾多の人命を救い、感謝の的と仰がれている。

私はこの放射能を名づけて神霊放射能という、

そうしてこの放射能の特異性ともいうべきは、鉱物放射能と異なり、

人間の人体から無限に抽出され、ある方法によって偉力を発揮し得るのである。

また今一つの特異性は、その目的が正であり善であり、人類愛的でなければ効果を発揮し得られない事である。

これを科学的に説明すれば、鉱物放射能よりも一層の微粒子で、密度が濃厚であり、高度の原素である。


昔から種々の信仰による御利益なるものはいずれもこの神霊放射能の作用であって、それを御利益と唱えたのである。

しかしながらそれは私が発揮しつつあるそれとは比較にならぬ程の微力で、何分あるいは何十分一に過ぎない事はもちろんであろう。


ここで各種効果の例を挙げてみよう。

あらゆる人間の病患に向かって神霊放射を行う場合、痛苦はたちまち解消し軽快に向かう事実は、本誌「おかげばなし」中にある幾多の報告によって明らかであろう。

今日最も難治とされている結核も、その大半は全治されるばかりでなく、

盲腸炎のごときも現代医学においては手術によって肉を切り、血液を消耗し、苦痛を与え、臓器の剔出(てきしゅつ)によって内部的障害者となったり、

しかも患者自身の経済的負担はけだし軽からぬものがある。

しかるにわが神霊放射能によれば数十分にして痛苦は去り、何ら臓器を毀損する事なく、健康時と変らないまでに快癒するのである。

その他治癒最も困難とされている精神病も小児麻痺も盲目者も全治された例は少なくないのである。

それのみではない。精神的欠陥例えば不良児、悪癖者、ヒステリー等も、常人にまで快癒する実例も少なくないのである。


神霊放射の効果はひとり病患のみでない、農業に対しても顕著なものがある。

例えば、虫害、風水害等によって枯死に垂(なんな)んとしたものを復活したり、

土壌が改善される事等によって、稲作等は神霊放射したものとせざるものとの成果は格段の相違のある事も「おかげばなし」中に掲載されてある。

その他 火災の場合今や自家に燃え移らんとする間一髪、神霊放射によって風向きが変り、類焼を免れた実例も少なからず報告されている。

また今や侵入せんとする盗賊に対し、戸内より神霊放射をする時、盗賊は急遽逃走したという例もよく聞くところである。

その他各般にわたっての奇蹟は枚挙にいとまないのである。


しかしながら、この神霊放射なるものは、選ばれたる特殊人に限られるように、一般は想うであろうが決してそうではない。

いかなる人間といえどもこの方法を学ぶ事によってすこぶる簡単に実行し得らるるのである。

ただ人によって放射能力の強弱はあるが、全然無という事は一人もない。

以上によって神霊放射能がいかなるものであるかの概念は得たであろう。

また別に機会を得て理論と科学的説明によって徹底しようと思うのである。」




明主様御垂示 「明主様は電灯会社」 (昭和23年4月8日)

信者の質問
「過去によく霊気療法というのを聞きましたが・・・」

明主様御垂示
「人間の霊気にはいくらか治療の効がある。霊気療法のはそれです。」


信者の質問
「なにか世間に水の霊気というのがありますが。」

明主様御垂示
「いままでの療法は患者の病気を引きうけるのです。

御木徳一が「ひとのみち」を始めたのは、徳光教の金田徳光のためです。

この人はそうとう偉くて奇蹟をいろいろやったんですが、それが御木の喘息を治した。

ところが御木のほうはすっかり治ったが金田が今度は一カ月ばかり苦しんだ。

そんなことから御木は「ひとのみち」を作ったんですが、こういうのをお振替といって他人の病気を自分が背負って苦しんでしまう。

で、毎月二十五日にそれを神様にとってもらう。まア苦しみを神様にしょってもらうんです。

あれはこんなふうにしていましたがだんだん病人が多くなり、苦しみも一人でしょいきれなくて準教祖というのを十人くらい作ってました。

いままでのはみな引きうけるんです。

それは神は月の系統であって水で治す。まア洗濯のようなものです。

だから水は汚れてしまう。

ところが私のは火で燃してしまうんだから自分は汚れず、病気をしょうどころかやればやるほど丈夫になる。

それはあんた方がやって、判るでしょう。

火を使うのはいままでなかった。

霊界が昼になった証拠です。

キリストもやはり月の系統です。

彼の奇蹟は後世おおげさになったんでしょう。

教祖に値打ちをつけるためにやったんですよ。

日本にも弘法大師の石薯(いも)なんてありますね。

弘法大師は病気を治す力がなかった。

だから弘法灸を使ったんです。

釈迦にもこの力はなかった。それで薬草喩品(ゆほん)がある。

観音様は薬師如来で薬を服めと説かれている。

これは未だ夜の世界であり浄化させるよりも浄化停止のほうが手っ取り早かったからです。


観音様は神の化身であり伊都能売大神ですがその上に主神がおられる。

それは神道では天御中主大神、キリスト教では天の父、ユダヤではジュース、またメシヤ、中国では天帝、インドでは大自在天と言う。

キリストは父の命で父の子として現われたと言うが、それはあの時代必要があって出たんです。

私のは主神の力が伊都能売大神を経て、さらに私の体を通してみんなに行くんです。

私は電灯会社であり、観音様は水力電気、大神様は水を出す源です。

御守りは一つの霊線の中継ぎ、まア電球ですね。

この電球は本社は同じですが、人によって百燭光にもなりまた十燭光にもなる、その人の働きしだいです。

ふつうの人の霊力とはぜんぜん違う。

御守りのない人がやるのはちょうど電灯のない所で手探りしてるようなものですよ。

まア修行しても懐中電灯くらいですよ。」


信者の質問
「水の霊統も固めに属するのでしょうか。」

明主様御垂示
「固めです。自分の力で治療するのは固めです。

ウスヰ式治療法なんかも固めです。

あれは重病人は入院させてましたが結局御自分も入院して死んでしまった。

元、海軍の軍人の間にだいぶさかんだったですね。」




「自観放談」より (昭和24年6月15日発行)

記者の発言
「どうやら「霊科学」の説が飛び出そうですが一つこれのご見解を」


明主様御発言
「実際論でいこう。われわれが今やっている「浄霊」なのだが、いったいあれがどうして生まれるか・・・

これから説明すると、宇宙の原則(火水土の三位一体の力)から割り出したもので、

早い話が、人間には霊と体があることくらいはだれだって判っているだろう。

由来病気なるものは、その霊の曇りが人体に反映して現われたもので、その大元は霊そのものなのさ。

だから、その霊が浄まれば病気は自然に治ってしまう。

いや治すんじゃない、治るんだ。これが一番大切なので、

たまたま私はこの偉大な宇宙の原則を発見し、その効力のすばらしいのに驚いているわけだ。

霊科学の極致はなにかと言えば、神から与えられた人間の機能・・・能力とか体力、精神活動とか、これを高度に発揮させる作用だな、

これが霊科学の目的なので、また生きた人間を対象とする限り、人間に関係する、

または人間によって構成される社会とか国家などの制度や秩序や道徳・・・

それがいかに正であり美であるか、これら全般に亘って浸透する力・・・これが霊科学の極致なので、

決して有形化されたものの進歩(これがいまの物質科学の在り方だが)の姿ではない。

無形のもの、眼に見えない神秘現象がハッキリさせる・・・これが霊科学の目的だ。

その裏付けは、あくまでも人類の福祉増進をさせるものだよ。

だから、極論すると霊科学というのはあたらない。

霊には科学的なものはないよ。

強いて言えば「霊力」・・・霊そのものの力の発現作用だな。

これは宗教的に見ないと解釈がむずかしい。

と言って「霊」そのものは決して「宗教」ではない。

その証拠に、観音教を信じる信じないにかかわらず「浄霊」を施行すれば、だれでも・・・赤ん坊でも、ときに悪人でも効果には変わらない。

もし宗教上から言えば悪人や犯罪者にそんな御利益はないだろうさ。ここに本教団の特色があるわけさ。」




明主様御教え 「本療法の原理」  (昭和18年10月5日発行)

「本療法の原理を説くに当って、私は、これに着眼した動機から述べてみよう。

そもそも人間なるものは、いかにして造られたかという事である。

それについて、宗教家は、造り主である神が造られたといい、科学的即ちダーウィンの進化論によればアミーバが蜥蜴(とかげ)となり、大蜥蜴となり、類人猿となり、終に人間になったというのである。

右の両説の真疑は別として吾々の眼にも耳にも触るる事を得ない遠い時代の説である以上、絶対的に信ずる事は不可能である。

しかるに私は、何人といえども否定し得ない事がある。

それは人間は、人間が造ったという事である。

即ち親が子を造り、子が又親になって子を造るというーこれこそ絶対の事実である。

勿論、意識的に作るのではないから、多くの人は右の事実に気付かないまでである。

従って、無意識にせよ、人間には人間を造るべき力があるという事は間違いないのである。

それは勿論、何ものを以てしても説明出来得ない神秘力の発現である。

この意味において私は、人間の病気なるものも、それを治癒すべき力は、現実の造り主である、人間になければならないと思ったのである。

機械や物質によって作ったものなら、その破損や障碍は機械と物質によれば治るべきであると同じ意味によって、人間の病気は人間が治せるべきであると考えたのである。


しかしながら、右の理論を是(ぜ)として考える時、病気を治癒すべき力が、人間に存在するとして、その力をいかに発現し、応用すればいいかという事が、残された最後の問題である。

しかるに私は、右の理論を基礎として研究し、意志と信念と熟練によって、治病力の発揮が可能である事を発見すると共に、

実験上、素晴しい効果を挙げ得る事が明かになったのである。それが本療法の発見の動機と完成への解説である。

故に、本療法は未だ嘗(かつ)てなかった所の一種の治病技術であるといえよう。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「本療法の原理」 (昭和22年2月5日発行)

「本療法の原理を説くに当って、まず私がこれに着眼した動機を言おう。

そもそも人間なるものはいかにして造られたかという事である。

宗教によれば造物主の創作といい、科学ではダーウィンの進化論が唱える、アミーバが蜥蜴(とかげ)となり大蜥蜴となり類人猿となり、ついに人間になったという説である。

しかしながら右のごとき説の真偽は別として、ここに何人といえども否定し得ざる事実として、人間は人間によって造られたという事である。

すなわち親が子を造り、その子が親になってまた子を造るという、これは絶対である。

もちろん意識的に造るのではないからこれに気付く人は少なかろう。

しかしながらこの事実は何を物語るであろうか。

それは人間には人間を造り得べきいとも神秘な力を有している事である。

この意味においてこの神秘力は自己が造った所の人間の故障ともいうべき病気を修繕否治癒し得られない筈はない。

それは機械によって作られた物は機械によって治し得ると同様の理である。


しかしながら右の理論を是(ぜ)として考える時、人間に存在する神秘力をいかにして発現応用し病患を治癒せしむるかという事である。

しかるに私は右の理論を基礎として研究の結果、この偉大なる目的を達成し得たので、それがすなわち本医術である。

もちろん機械も薬剤もその他なんらの物質も要しないで、驚くべき治病力を発現なし得るのであるから、まことに理想的医術である。

これによってのみ病患は解決し得らるるとする事は決して自画自讃にあらずと信ずるのである。


ここで右のごとき人間個有の神秘力とは何ぞやという事と、その神秘力が病患へ対していかに作用し、その能力を発揮し得るかという説明であるが、

唯物教育になれたる現代人にはいささか難解の点があるかも知れない。

しかしながら真理である以上、再三熟読玩味するにおいて、豁然(かつぜん)として必ず目覚めるであろう。

そうして本医術の原理を知るには、まず大自然の構成とその活動とを充分知悉(ちしつ)しなければならないのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御垂示 「浄霊時の光の移動経路」 (昭和23年)

信者の質問
「御浄霊を行う時、御光は御守様より発して肉体を透って掌より発するのでしょうか。

また、御光は肉体に入る時、左進右退的になって毒素を浄化するのでしょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「この通りで、水を乾かすような意味である。」