浄霊の原理 2 (病源と浄霊の原理・結核・黴菌の発生)
明主様御教え 「病原と浄霊の原理・無機から有機へ」 (昭和26年8月25日発行)
「本教信者になって、御守(註 現在のお光のこと)を懐へ入れ、ただ手を振り翳しただけで、
医者に見離された大病人でも、一生涯治らないと宣告された難病も長い間患って医療でも民間療法でも、信仰でも治らず、
進退きわまって自殺を決心するようになった者でも、
浄霊によってたちまち快復に向い、驚異的偉効を現わすこの不思議さは、
実地体験者でなくては分らないと共にこれを目の辺り見た人達も、心境一変今日まで散々疑ったり、非難した事などが恥しくなったり、カチカチの無神論者も頭を下げ、兜を脱ぐという例は、数え切れない程あるのである。
だからといって、この実際をいくら口で話したところで、仲々納得は出来ないもので、吾々は常に遺憾に思っているのであるが、
そういう場合決って言う言葉は、そんな簡単な方法で難病が治るとしたら、医者も薬も要らないじゃないかというのであるが、
全く仰言(おっしゃ)る通り、吾々からいえば医者も薬も要らないどころか、むしろない方がいいとさえ思うのである。
これについてその根本的理由をここに詳しくかいてみるが、これは信者としても大いに知りおくべき事で、説明の必要上目下執筆中の文明の創造中の一文を、左に転載する事とする。
無機から有機へ
前項に述べたごとく、病気の本体は霊の曇りであるとしたら、それはいかなる訳かというに、
本来黴菌なる生物は、この曇りから発生するのであって、今その順序を詳しくかいてみるが、
前にも述べたごとく初め透明体である人霊に、二様の原因によって不透明体の部分、すなわち曇りが発生する。
それが肉体に移写するや、時を経るに従って濃度化し、それに病菌が発生するのである。
元来曇りなるものは大空を遮っている雲と等しく、水素の集合体であって、
その曇りの濃度化が、ある程度に達するや、自然に想像もつかない程の超微粒子が発生する。
特に人間の体温という好条件が助長するからでもあるが、これこそ無から有を生ずるのである。
この微粒子こそ実に言語に絶する程の無限微粒子であって、
ちょうど天空の広さが無限大であるように、これはまた反対の無限小であり、
これが宇宙の真理であるとしたら、この事が分りさえすれば、黴菌発生の原理も自(おのずか)ら理解され得るのである。
そうして右のごとき無限微粒子が、まず最初曇りに発生するや、漸次(ぜんじ)生育してゆき、
ある程度に達するや、個性的無数の微粒子が生まれる。
しかも一つ一つが生命を有し運動性もあり、その時の本質は植物性といってもいいくらいの一種のバクテリアである。
するとそのバクテリアは時の進むに従って、漸次発育し動物化してしまう。
言い換えれば無機質が有機質化するのである。
この有機質化した微粒子こそ、言わば黴菌の卵子であって、この卵子が漸次成育して、いよいよ最初の黴菌となるのである。
しかしこの程度ではまだ顕微鏡では見る事は出来ないが、これが彼のヴィールスである。
そうして最早生物となった黴菌は食物が必要となるので、互いに食い合いを始める。
すなわち弱肉強食という生物の自然原則で、人間社会における生存競争と同様である。
もちろん黴菌群中にも強者が現われ、弱者は淘汰されつつ、強者は益々太るという訳で、
この強者こそ顕微鏡で捕捉され得る生長した黴菌群であるから、
私が常に言うごとく、病原になった黴菌は、黴菌中の大きなものであるというのはこの事である。
右のごとくであるとしたら、病気の根本原因こそ全く黴菌の発生源である無機質に等しい霊の曇りである事が分るであろう。
従ってこの曇りを解消する事こそ、病気の発生を絶無ならしむる方法であって、これ以外根本的病気解決の方法はあり得ないのである。
ところが現代医学は再三説明した通り、病原である曇りの発見どころか忌憚なく言えば、幼稚極まるものといってもよかろう。」(以上)
右によって病原の本体は認識されたであろうから、ここでいよいよ最後の浄霊の原理について説いてみるが、
右のごとく霊の曇りが決定的病原としたら、それを解消するより外に治病法はない訳である。
しかるに現代の医学は黴菌を殺す事をもって、医療の本道としているのであるから、根本的ではなく末梢的でしかないのである。
これに反し吾々の神霊医術は、黴菌にまで生育しないところの、霊の曇りを解消するのであるから、いかに徹底的であり効果的であるかが分るであろう。
従って右のごとき程度の低い現代医学を無上のものとして、国家は巨費を投じ、専門家はその進歩に頭を悩まし、人民は戦々競々としている悲劇は、到底見てはおれないのである。
以上によってみても、黴菌の発生源である霊の曇りを解消し得る方法こそ、問題解決の鍵であって、それ以外絶対ない事を断言するのである。
としたら曇りを解消するその方法こそ外でもない、今現に驚異的効果を挙げつつある本教浄霊法である。
だからこの浄霊法とは宗教でもあり、科学でもあり、有史以来いまだかつてない不思議なものであるから、現代人にとっては頗(すこぶ)る解り難いには違いないが、
この論文を心を潜めて精読するとしたら、いかなる人でも理解出来ないはずはないのである。
そこで一体霊の曇りとは何であるかというと、その本質は水素であるが、単に水素といっても純なものと不純なものとがある。
それで普通水素とは純なものを言うのであるが、曇りである水素とは不純物が含まれており、
この不純物こそ病原である黴菌の先祖とも言うべき一種のバクテリアであるが、このバクテリアを消滅させる力こそ火素というものである。
しかし学問では水素は言うが、火素は余り言わないようであるが、しかし水素があれば火素があるのは当然で、
これが右のごとく黴菌源を焼き尽すのであるから素晴しい力をもっている。
そうして火素とは火の霊をいうのであるが、火素にも霊と体があって、
普通火素とは体であり、これはただ空気に熱を与え、乾燥させるだけの力である。
ところが、黴菌源を焼尽すそれは特殊火素であるから、放射するや水素中の不純分子はたちまち分解し、毒分は消滅してしまうのである。
すなわち浄霊法とはこの火素の放射をいうのであるから、黴菌群の根源は絶たれ、純水素のみが残り、漿液(しょうえき)として吸収されてしまうのである。
しかしここに注意すべきは、右は、有毒分子が少量の場合であって、多量の場合は喀痰、鼻汁、下痢、その他の固形的排泄物となって、体外へ出されるのである。
そうして浄霊の形式としては患者の患部に向かって掌を翳(かざ)すが、この掌から特殊火素が発射されるのである。
では何によってこの特殊火素が施術者の掌から出るかというと、それはこうである。
浄霊施術者となるには、本教信者となって私が半紙三倍大の紙へ、光の一字をかいたもので、それを小さく畳んで御守として懐へ入れるのである。
ただそれだけの事で、掌から特殊火素が出るとしたら、人間の智慧などでは判りようがない神秘である。
何となればその文字から発する火素が、病気を治す力があるからで、実に不思議以上の不思議と言わずして何ぞやというべきであろう。
これこそ、一点の誇張もない現実そのものであるから、いかな唯物主義者といえども信じない訳にはゆかないのである。
とすれば単なる文字からそのような霊妙不可思議な力が発せられるかを、徹底的に説明してみよう。
しかしながらここまで来ると、最早(もはや)宗教的説明でなくては分り得まいので、無神論者には直ちに肯(うなず)け難いであろうから、白紙となって読んで貰いたいのである。
そうしてこの事は私は今までも幾度となく書こうと思ってはいたが、余りに神秘的で、信者以外は到底理解出来ないから、反って迷信臭く思われ易いから、手を付けなかったが、
今日は本教も私に対する社会の認識も、余程深まったようであるから、いよいよ書く事にしたのである。
それについて私の事を書かねばならないが、そもそも私という者は、世界の終末に際し、全人類を救い、病貧争絶無の地上天国を造るべく最高神の御経綸の下に、主脳者としての大任を負わされたのであるから、神は私に対して絶大な救いの力を与え給うたのである。
その力というのは病貧争絶無の中心であるところの病の解決であって、それに対する智識と力である。
前者は私が今日まで解説して来た医学の誤謬や病理その他であり、後者は浄霊による治病の力である。
すなわち信者の懐に入れてある御守の文字と、私と霊線によって繋がれており、私から発揮する霊光は霊線を通じて、絶えず御守に至り、御守から施術者の肉体を通じて、掌から放射されるのである。
一言にしていえば、御守所持者を仲介者として、私が間接に病人を治すのである。
しからばその力の本源は一体どこにあるかというと、私の腹の中には、以前から知らしてある通り光の玉がある。
この玉はそれまでは玉だけの力であったものが、昨年六月十五日、日本で昔から云われているところの麻邇(まに)の玉、または五百津美須麻留(いほつみすまる)の玉、または如意宝珠(にょいほうしゅ)の玉である。
玉とは魂であるから、その魂が右の日時に、静岡県清水庵原署の留置所内で、天から降下され、宿られ給うたのである。
この事はその当時簡単に発表しておいたが、これを私は結実といったのである。
それが段々育つに従って、玉の力も日に月に強力となりつつあるのである。
これはその頃から浄霊の力が特に強化された事にみても、信者はよく分るであろう。
ただ現在その神様の御名前を詳しくいう訳にはゆかないが、いずれ時期が来たら発表するつもりである。
しかし釈尊、キリストをはじめ幾多の聖者の予言を、よく考えてみればおよその見当がつく訳である。」
明主様御教え 「結 核」 (昭和28年1月1日発行)
「この病気も全く医学が作るものであって、さきにもかいたごとく、
薬毒が体内各局部に集溜固結し、その浄化作用として感冒が起り、熱によって溶解した液体毒素は、痰となって肺臓を通って出ようとする。
という訳で肺とは喀痰排泄のための通過路の駅ともいうべきものであるから、
痰は一旦肺臓内に滞まり、咳というポンプ作用によって咽喉(のど)を通って出るので、咳と痰が出れば出る程よく浄化される訳である。
ところがそれを逆解した医学は、咳と痰を極力停めようとするのであるから、実に驚くべき錯誤である。
この結果痰は肺臓内に滞溜したまま、日を経るに従い漸次固まってしまい、暫くすると再び浄化が起り風邪を引く、
その時医師に診て貰うと、発熱と肺臓内にある痰の固結、咳や吐痰、喘音等によって結核初期と断定する。
なおまた前の時軽微な肋膜炎もあったので、その固まりが溶けて肺から出ようとする。
これを肺浸潤と言い、首肩の凝りが溶解し、肺の上部から浸入するのを肺門淋巴(リンパ)腺、または肺尖加答児(カタル)というのである。
右のごとき順序を見れば、結核は全く誤れる医療によって作られるものである事がよく分るであろう。
これを一言にしていえば、自然浄化によって体内の汚物が出ようとするのを、医療は出さないようにする。
もちろん服薬も注射も安静も何もかもことごとく固め手段であるから、
医学の進歩とは毒素固め方法の進歩でしかない事は余りにも明らかである。
そうして結核菌であるが、これも医学でいうごとく伝染するものではなく自然発生である。
というのは肺臓内に固めた痰は、時日を経るに従い腐敗する。
腐敗すれば微生虫が湧くのは物質の原則であり、
しかも体温という好条件が拍車をかけるにおいてをやである。
以上のごとく結核は医療が作るとしたら、この事が分らない限り、増えるとも減るはずのないのは断言して憚(はばか)らないのである。
何よりも事実がよく示している。
最近米国でも日本でも、結核の死亡率が大いに減ったと言いながら、患者の数は一向減らないという矛盾である。
これは全く毒を強めた新薬や手術等による浄化停止法が進歩したためで、なるほど一時的生命は取止め得たとしても、全治ではないから、
死にもせず働く事も出来ないという宙ブラ人間が益々増えると共に、発病者の数も依然たるものであるから、
ベッドが足りないといって悲鳴を挙げている現状は、米国はとにかく日本はよくそれを物語っている。
ここで結核菌についても徹底的にかいてみるが、
近来結核医学は大いに進歩したとされているが、
吾々から見れば進歩どころか、門口にも入っていない事実である。
というのは医学は菌のみに囚われ、菌さえ殺せば結核は解決出来るものと誤信している事である。
しかし菌といえどもまさか偶然空中に発生したものでもなくまた人間の体内に理由なく湧いたものでもないのはもちろんで、
その発生源が必ずどこかにあらねばならないはずである。
それがいよいよ私によって発見されたので、以下詳しくかいてみるが、
それについて前もって知っておかねばならない事は、人体なるものの構成であって、
科学は人体を単なる物質とみなしているが、これが大変な誤りである。
何となればもしそうだとすれば、人間の生死はどう説明していいか分らない事になる。
ここで肝腎な事は人間の精神すなわち心である。
これは目には見えないが科学といえども否定は出来ないであろう。
というのは人間には肉体の外に、肉体と同様な形をしている霊という無に等しき個体が、厳然と存在しているからである。
というように霊と体とは密着不離の関係にあり、死とは霊が脱出し、体の活動が休止する事である。
そうして心は一秒の休みもなく動いており、人間が何らかの意欲が起るや、
間髪を容れず体に移って行動となるので、体が勝手に動くのではない。
としたら人間の本体は心、すなわち霊にあり、霊こそ支配者であり、
体は隷属者であるから霊主体従である。
この理によって病といえども最初霊に発生し、体に移写するので、これが真理である。
従って根本は霊を健康にする事である。
これを一層詳しく説いてみると、元来霊なるものの本質は無色透明体であって、最初この透明体に曇りが発生する。
これが病原であって、科学的にいえば、本来霊の物質化が血液であり、血液の非物質化が霊であるから、
霊の曇りが体に映るとその部の血は濁り、濁血が霊に映ればその部が曇る。
というように霊体一致ともいえる。
では霊の曇りの原因は何かというと、
宗教的にいえば罪穢の堆積であり、物質的にいえば薬毒の溜積である。
そこで一体曇りの本質とは何かというと、これこそ不純水素であって、
日を経るに従い漸次濃度を増すと共に縮小する。
するとこれにバクテリアが発生する。
このバクテリアは、いわば植物性無機質ともいうべきものであるが、
時と共に漸次有機質に変化し動物性となる。
これが菌の卵子であって、この卵子が育って個体すなわち一人前になったものが、顕微鏡で見得る黴菌であるから、
ウイルスとは右のごとく菌の卵子から親になろうとする中間粒子で、
顕微鏡には映らないが確かに在るのは、医学でも認めている通りである。
これを最も分り易いたとえとして、彼の塵溜に湧く蛆である。
医学は蛆だけを殺そうとして、塵の方に気が付かないと同じである。
以上の理によって、結核を全滅させるには菌の発生源である霊の曇りを解消する以外絶対ないのである。
ところが現代医学の研究はそこまで達していないため、
結果である菌のみを対象とし、研究しているので、もっと根本に触れない以上、
何程努力しても徒労以外の何物でもないのである。
もっとも現在の顕微鏡ではウイルス以上の微粒子を視る事は不可能であるからでもあろう。
ところが幸いなるかな、私によってその根源が発見された以上、最早結核問題は解決されたのである。
では霊の曇りはいかにすれば解消出来るかというと、これを説くに当っては、その前に曇りの実質をかかねばならない。
前記のごとく不純水素というのは水素中に不純分子が含有されており、
もちろん顕微鏡でも見得ない程の超微粒子であって、
この微粒子を消滅させるのが浄霊法である。
これによれば右の毒微粒子のみが焼尽され、純粋水素は残り病原は全く解消されるのである。
そうしてこの施術こそ人間の掌から放射される不可視光線であって、
この光線の本質は火素といって火の霊である。
すなわち火の体は熱であるが、火の霊は熱くはないが、体以上の素晴しい強力さである。
これについて以前から科学では水素を言うが、火素を言わないのは不思議である。
では右の火素がなぜ掌から放射されるかというと、この説明についてはどうしても宗教的でなくてはならないから、読者はその積りで読んで貰いたい。
何となれば現代科学は霊を無視し、物質のみを認めている以上、容易に信じられないからである。
このように科学は体のみの進歩で、言わば跛行的(はこうてき)○○的進歩であるから、
真の病理も治療法も発見出来ないのは当然である。
この意味において私は医学は機械的であるが、科学的ではないと常に言っている。
その証拠には病気の場合、患者が医師に向かって病原を訊いても、
曖昧極まる一時のがれの答えしか出来ないのは医師も経験するところであろう。
それに引替え吾々の方ではどんなに深く訊かれても、立派に科学的理論をもって堂々答えるから、いかなる患者も納得し安心するのである。
話は戻るが右の浄化力こそ、神エホバが火素の本源ともいうベき霊光の玉を私に与えられたのであって
(これは腹部の中央に直径六糎(センチメートル)くらいで肉眼で見る人もある)
この玉から無限に光波が放射され、その伝達方法として二分の一メートルくらいの紙片に、墨と筆で光の文字を書いたものを畳んで懐へ入れさせる。
すると私から出る光波は、霊線を通じて施術者に伝わり、その人の掌から放射される。これが浄霊法である。
ちょうどラジオの放送局と、アンテナと受信機のようなもので、実例報告中(省略)にある御守というのがこれである。
ではなぜ神はそういう方法を私に授けられたかというと、
これこそ彼のキリストが「天国は近づけり」と予言されたところの、紀元的時機が来たからである。
その根本としては第一に人類から病を追放する事で、神は病気滅消の方法を私に教え給うたのである。
右は結核菌とその他についての説明であるが、次に伝染病菌についてもいささかかいてみよう。」 (「アメリカを救う」より)
明主様御教え 「黴菌の発生」 (昭和27年12月1日発行)
「前項に説いたごとく、結核菌は、自然発生であるとしたら、ではどこからいかなる過程を経て発生したかを、何人にも理解し易いよう理論物理学的に、理論心理学的にかいてみるが、
何しろ見えざる霊を対象とするのであるから容易でない事は、今日まで何人といえども試みた者のないにみても明らかである。
というのは事実の裏付が困難であったからでもあろうが、私は事実を根拠とした理論を発表するのであるから、
たとえ唯物科学をもっていかに反対するといえども、打ち破る事は不可能である。
それについて前もって知っておかねばならない事は、世界というものの構成である。
これ程進歩した現在の学問でも、そこまではいまだ判明していないに反し、私はそこまで徹底して説くのであるから、静かに心を潜めてこの文を熟読すれば、
何人といえどもこの発見の偉大さに驚くと共に、医学の誤謬に目醒めない訳にはゆかないであろう。
そうしてまずこの世界の構成であるが、
それは一次元の物質界と、二次元の空気界と、三次元の霊気界との三段階から成立っているものである。
ところが現在までの学問では、一次元と二次元の世界だけしか判っていないため、
この二つの世界を基本として形成されたものが現代科学であるから、その点に一大欠陥があったのである。
というのは右の無とされていたこの三次元の世界こそ、実は一切万有の力の根源であって、この力によって万物は生成し化育し、無限の発展を遂げつつあるのである。
ところがそれに未知である学者は、現在の科学をもってすれば、
何物をも解決出来得るとするこの科学過信の誤りが、三次元の霊気界を否定し、今日のごとき不具的医学を作ってしまったのである。
その結果今までに種々説明したごとく、表われた病気症状を抑えるだけで、根本的治病は不可能なるため、結核は減らないのである。
右のごとく根本から外れた医学としたら、進歩すればする程横道に迷い込んで、枝葉末節に囚われてしまい、すべての病原を黴菌にしてしまったのである。
その証拠には甲の病気を解決しようとすれば、乙、丙の病気がおこるというように、ただ形を変えるだけの事で、これが余病である。
さて論旨を進めて右の霊界と人間とは一体どういう関係にあるかというと、
もちろん人間といえども右の三段階中の存在である以上、
肉体は物質であり、水分も空気でヤハリ物質であるが、
今一つの見えざる霊こそ実は人間の本体であって、これが病気の発生源である。
ところが唯物医学は病気とは肉体だけのものと思い、一切の病原を肉体に帰し、外部からの黴菌浸入のためとの、言わば外敵説に反し、吾々の方は内敵説であり、
医学の感染説に対し、吾々は自然発生説である。
しかし外部説は機械で分かりうるが、内部説は分かり難いため、今日のごとき迷妄に陥ってしまったのである。
それを以下順をおって解説してみよう。
ここで一体人間の霊なるものは、何であるかというと、
科学的に言えば非常に密度が高く超稀薄なものであって、
現在進歩した電子顕微鏡でも、到底見る事は出来ない程の超々極微粒子であるにもかかわらず
これこそ前記のごとく人間の本体であるから、全く想像もつかない程の神秘幽幻なものである。
この理によって病原の最初はこの霊の全部または一部に曇りが発生する。
曇りにもその原因に二種ある。
一は人間が犯す罪穢によるものと、二は薬毒によるものとである。
前者の罪穢とは言うまでもなく因果説に属するもので、
人を苦しめるとか、社会を毒すとかいうつまり悪の行為からであり、
後者の薬毒とは先天性のそれと後天性のそれとの合併したものであるが、
それは別の項に譲るとして、ここでは曇りそのものについてかいてみるが、
曇りの本質はちょうど大空の雲のごときもので、言わば水素の密合体である。
これにも不純性と純粋性があり、後者は晴れた日の鱗(うろこ)雲や段々雲に等しいもので結構だが、
前者に至ってはいずれは風雨発生して払拭されなければならない。
これが天体の浄化作用であって、人間の病気もそれと同様であるにかかわらず、それを知らない医学は、せっかくの浄化作用を停止するのであるから、
この不純性の曇りは漸次濃度を増してゆくと共に、ここに一種のバクテリヤが発生する。
これは無機質植物性のごときもので、時の進むに従い段々生育し、遂には有機質に変化する。
この有機物こそ黴菌の卵であって、この卵が時を経て一人前の親となり個性となって、
初めて顕微鏡で見得る程度になるのである。
この理を知ったなら彼のウイルスも分かるであろう。
すなわちウイルスとは右のごとくまだ親にならない黴菌の子供であるから、
顕微鏡では見えないが、確かに育って親となり病原となるので、これは学問でも認めている。
以上の理によって根本的に病気を治すとしたら、右のごとき黴菌の発生源である霊の曇りを解消する以外に、真の治病法のない事は明らかである。
としたらこの原理こそ現代科学の水準よりも、遥かに高度である事も認識出来るであろう。
ではその曇りの解消はどうすればいいかというと、私はこの方法を神から教えられあわせてその力をも授けられたのであるから、本著の付録(省略)に見るごとき、素晴しい実績を挙げつつあるのである。
以上のごとく私は病理の根本にまで突き進んで説いたのであるが、なお一層深く解説したいが、
そうなると宗教的分野に入り、第三者には信じ難いから、ここでは出来るだけ科学的に解り易く説明するつもりである。
それについての曇りの解消とは一体どういう意味かを説明してみるとこうである。
すなわち施術者は患者の患部にむかって掌をかざすや、施術者の掌から一種の光波が放射されるのである。
ではこの光波とは何かというと、分かりやすく言えばこれは太陽の精であって、私はこれを火素と名付けた。
すなわち空気の本質は水素であるに対し、霊気の本質は火素であるからで、もちろん火素といえば火には違いないが、
人間が現在目で見、熱く感じるそれは火素の体であって、右の火素とはつまり火霊である。
この火霊が人霊の曇りに向かって放射されるや、
曇りの中の不純分子だけ焼尽され、その灰に相応する分子が排泄物となって体外へ排除され、純粋分子は漿液中に混入されてしまい、ここに曇りすなわち病原は解消されるのである。
では本教信者になると、このような治病力ある火霊が、なぜ放射され得るかというと、
これは信者が首に掛けている御守から発する光波である。
この御守というのは私が書いた文字で、光、光明、大光明の三種あるが、これこそ主の神(エホバ)の神霊が、私の霊体を中継として御守に伝達され、御守から信者の掌を透して放射されるのである。
しかしこの説明を聞かされても、すぐに信ずる事は出来まい。
むしろ反感を抱く者さえあるかも知れない。
そんな馬鹿な事がこの世の中にあってたまるもんか、インチキにも程があるとするかも知れないが、それも無理とは思わない。
何となれば有史以来、かくのごとき超物理的例はないからである。
しかし事実はあくまで事実であり、百の議論よりも一の事実にしかずである。
これを一言にしていえば、いよいよ天の時来って、神は人類救済の大任を私に命じられたのである。
その一着手としての医学の革命であるから、この事を知ったなら今私の行っている事は、何ら不思議はないはずである。
以上のごとくこの項はすこぶる神秘的な説明になったが、これは神秘でも何でもない。
実は純然たる科学である。ゆえにこれを読んで神秘と思われるとしたら、それは現在科学のレベルが低いからで、将来一層も二層も進んだ暁、容易に理解出来るのはもちろんである。
そこに到って初めて科学と宗教との一致点が見出され、真の文明は生まれるのである。
そうして今日口を開けば学問の目的は、真理の探究にありとしているが、私からいえば最早真理は発見されたので、その解説がこの著である。
ここまで説明してもなお信ずる事は困難であろうが、そもそも真理とは何かというと、端的に言えば現実そのものである。
たとえば東から太陽が出るのも、人間が生れて死ぬのも現実であって真理である。
としたら私が説くところの神秘な説といえども、理想でも桁外れでもない。
現実そのものである。まだ色々言いたい事があるが結核問題とは段々離れてしまうから、このくらいにして置くとする。」 (「結核信仰療法」より)