病気の根本原因について 1


明主様御教え 「病気の本体は魂なり」 (昭和10年御執筆)

「そもそも、この現象界におけるあらゆる物質は、ことごとくが霊と体から成立っているのであって、

物質が腐敗したり、腐朽したりするのは、霊が脱け切ってしまうからなのである。

石でさえが、死石と言ってポロポロ欠けるのがあるが、あれらが、霊が脱けた為なのである。

金(かね)が錆びるというのは、矢張り、霊が脱けて、その表面が屍になったからなので、錆は、金の死骸とも言えるのである。

しかし、よく磨いた刀や昔の鏡が、錆が少ないのは、その工作者の霊が加わっている為である。

しかして、物質の霊は単に霊であるが、動物の霊は精霊と名付けられている。

生きた人間は、精霊と肉体と、密着不離になっているのであって、

精霊が脱出して、現界から霊界へ行く事を、往生又は死というのである。


しかし、人間は、精霊ばかりかというとそうではない。

精霊ばかりなら、物質と違わないのであるが、すべて動物は、精霊の外に、否、精霊の中に心があり、魂があるのである。

即ち、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるので、その大きさは、心は精霊の百分の一で、魂は心の百分の一の大きさが本当である。

であるから、最初、魂が動いて心が動き、心が動いて精霊が動き、精霊が動いて肉体が動くのであるから、

人体の運動は固より、あらゆる肉体現象の本源は、魂その物から出発するのである。

これを善悪に分ければ、肉体が悪であって心が善であり、心が悪であって魂が善であるのである。

この善悪、善悪、善悪の軋轢が調和となり、それが、活能力となって現われるのである。


故に、病気その物の発生は、肉体を動かす精霊の千分の一の容積たる、魂のその一部に発生するのである。

この魂なるものは、小さくとも伸縮自在であって、

人間が起きて働いている時は、人間の形をしており、寝る時は丸くなっておるもので、

死の刹那、人魂が丸くなって飛んでゆくのは、

死と同時に、魂が丸くなり、心が丸くなり、精霊が丸くなるからなのである。

その丸いのに光が伴うから、人魂となって、たまたま人間の眼に見える事になるのである。


人間の形をした魂の一部に、病気が発生するという事は、実は、魂の一部が曇るのである。

即ち、その部分の光が薄らぐのである。

それが心に写り、精霊に映り、ついに、肉体に、病気となって現われるのである。

であるから、魂にさえ曇りが出来なかったら、絶対に病気には罹らないものである。

しからば、何故に、魂に曇りが生ずるやというに、それが罪穢なのである。

この罪穢を説明するには、宗教の分野に入る事になるから、ここでは、これだけに止めておいて、肉体に現われた病患の説明に移る事にする。


前述のごとく、精霊が精霊の一部、例えば肺臓の部分に、曇りを生ずるとする。

すると、その部分の血液が濁るのである。濁りが進めば化膿する事になる。

この濁った血が、喀血又は血痰となり、化膿した膿汁が痰となるのである。

臭気を持った痰は、この膿汁が古くなったのである。

肺病に限らず、あらゆる病気は、右とほとんど同一の理に依って、発生するのであるから、

治病の原理としては、この精霊の曇りを払拭するのである。

しかるに、この理を知らざる現代医学は、肉体に現われたる病気現象のみを治療せんとし、研究努力するのは、末のみを知って、本を知らざるが故である。

たとえ、一時的小康を得るとも、根本的治癒は到底出来得べくもないのである。

故に、我指圧療法は、観音の光に依って、この精霊の曇を解消するのであり、

その曇が解消すると同時に膿汁が溶解し、病気が軽減又は消失するのであるから、

この精霊の浄化が肉体へ映って病気は治癒するのである。

しかしながら、未だこれのみにては根本的とは言い難いのである。

無論医術よりも根本的ではあるが、絶対とは言えないのである。

何となれば、魂が、全く浄化されなければ、真の安心は出来ない訳である。

魂の浄化とは、その人が正しい信仰を把握し、その行を実践するのでなくては徹底しないのであって、その行が観音行であるのであるから、

そこまで行けば罪穢の発生は全然無くなり、反対に徳を積む人となるにより、

無病息災所か、歓喜法悦に満ちた生活が出来、福徳長寿の幸を得て、一家 いや栄える事になるのである。


ついでだから、魂について、今一つの事を説いてみる。

それは、よく物に驚き易い人や、いつも不安状態で、何となく、そわそわしている人とがある。

これらは、その魂が弱っているので、外界の衝動に対する抵抗力が、薄いからである。

現今非常に多い、神経衰弱というのはこういう人である。

この原因は、矢張り魂に曇があるから弱るので、こういう人は多く首筋に毒血の凝血が必ずあるので、これを溶解すれば治るのである。

これが激しくなれば不眠症を起すのであって全快後も、再発のうれいを無くするには

観音信仰に入り魂が光に照され曇の生じない様にするのが、最良の方法である。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)




明主様御教え 「病気の本体 西洋医学の大誤謬(一)」 (昭和11年5月15日発行)

「そもそも病気とは何ぞや、言うまでもなく、人体の一部又は全部に、異状現象が発生し、それに因る苦痛である。

しからば、何故に、異常現象が表れたのであるか、これは、現在までの医学では、未だ判っていないのである。

これについての、私の研究を発表し、世の専門家並びに識者に問いたいのである。


本来あらゆる動物は霊と体から成立っており、この両者の密接不離の結合によって生命力が発生するのである。

この霊を支配するに、意思想念があり、意思想念を湧起するのが、心魂である。

しかるに、西洋医学は、全然この霊を無視し、体一方のみを本位として、

微に入り、細に渉り、分析研究しつつ、今日に到ったものである。

唯物主義によって、構成された科学である以上、それは致し方の無い事であろう。

しかしながら、病気の本体、即ち病原なるものは実は体に在らずして、霊に在るのであって、

最初、病気は霊に発生し、しかる後に、体に移るのである。

故に、病気は霊が原因であって体は結果である。


この霊体の関係を発見し得ない限り、向後、幾百年に渉って研究するといえども、

絶対病気は治癒されない事を断言する。

とは言うものゝ科学の進歩が、現在の程度である以上、

霊の実在を、器械的に測定し得られないから、止むを得ない事ではある。

たとえて言えば、ちょうど現在は、空気の発見以前の、文化と等しい訳である。

しかし、空気の構成原素を発見し得た科学は、霊の実在を発見し得ないと、言えない事は、勿論である。

空気の発見に因って、科学は、俄然、飛躍したように、科学によって、霊の実在を発見されたとしたら、

真の医術が、治療が、確立されるであろうし、又、宗教と科学も一致するであろう。

今日のような、唯心主義との闘争も、ここに、全く跡を絶つであろう。


この霊を主としての治療の原理によって、現に今、驚くべき成績を、私は挙げつつあるのである。

吾々の、この日々の治病成績に驚いて、誰もが、一大奇蹟というのである。

しかしながら、この霊を主とした、無薬、無物理療法の原理が判れば、治るのはむしろ当然であって、

些かも、怪しむに足りないのである。

これと同一の理によって、体を主とした療法に依って、もし、完全に治癒せらるるとしたら

吾々は、それこそ、実に不思議であるとさえ、思うのである。


しかし、私は、医学の誤謬を指摘しているのであって、科学を非難しているのではない。

何となれば、科学の進歩によって、人類は、いかに偉大なる福祉を与えられたるかは、測り知れないので、

将来益々、進歩発達させなければならない事は、勿論、望むらくは、宗教と一致するところまでに、進歩されたいのである。

しかしここに誤られ易い、一大事が伏在している。

それは、科学という魔法使は、機械を活物のように働かせる、実際、生きた人間の代りさえしてくれる、

それだからと言って、生きた人間をば、器械として取扱う事は出来ない。

これは、最初に言った様に、器械には、霊がない、意思想念もない、

しかるに、人間には霊も意思想念もあるからである。

機械は、物質であるから、破損した場合、それは物質である所の、器械や油や薬で、修繕出来るのは、当り前な話である。

しかるに、人体の破損であると言ってもよい所の、病気に対って、器械や、油や、薬で治せる道理があるはずがない。

人体は、物質のみではない。

血も神経も、生きた細胞も、絶えず流転し、新陳代謝してやまない。

実に、霊妙不可思議な、Xである。言うまでもなく、人体は学理によって、物質で造ったものでもない。

実に、造らんとして造る能わず、造らざらんとしても造られるところの、一大神秘なる、造化的産物である。

そうして、植物でも、鳥獣や魚族とも、全然異る所の、高等霊物である。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)




明主様御教え 「病気の根本原因と真の治療」 (昭和11年御執筆)

「そもそも、病気の根本原因とは何か。

それは、一言にして言えば精霊の曇である。

本来、人体は精霊と肉体から成立っているのであって、

肉体ばかりであるならば、それは単に物質でしかないのである。


そうして、精霊の中心に支配者としての魂がある。

その魂こそ実に生命そのものであるから、生命を演繹したものが精霊である、とも言えるのである。

そうして、精霊を物質化したものが肉体である。

従って、肉体を動かす場合、生命である魂が意志を生じ、間髪を容れず精霊を動かし、

又、間髪を容れず肉体を動かすのである。別言すれば、生命即魂であり、魂即精霊であり、精霊即肉体である。

なお今一歩約(ちぢ)めて言えば、生命即肉体であり、肉体即生命である。

故に、肉体の毀損が生命の断絶となり、生命の断絶が肉体の死となるのである。

この理によって、肉体と魂との中間体の存在である両者の媒介者としてのそれが精霊である。


故に、病気の根元は魂そのものから出発するのである。

しかしながら、まず病原を二大別する事が出来る。一は外部的即ち肉体から病原を作る事もある。

それは例えば、飲酒、不純な性的行為、服薬、注射、種痘、肉食過度等であって、

今日までの病原としての解釈は、この肉体的方面ばかりである。

(もっとも右の中、服薬、注射、肉食等は、現代医学の解釈においては可とするが、本療法にては不可とする)


故に治療の研究も、この肉体的方面のみを主としている事それが誤謬である。

実は真の病原は魂にあって、肉体は従であるのが真相である。

何となれば、肉体はそれ自身に発言権も、命令権もないので、一切は魂の命ずるままに動いているからである。

いわば、魂の衣である。

人間がその衣服を着用する場合、意志のままにするのと等しいのである。

従って、衣服が余りに毀損し、余りに汚濁した場合脱却するのが普通である。

それと同じで、肉体が余りに毀損して、使用に堪えない場合、

魂はそれを脱却して霊界へ赴く。それを称して死というのである。


この理によって、病気がまず魂に発生する場合、それは魂の全体、又は一部に曇を生ずるのである。

それが精霊に移写し、又、それが肉体へ移写する。

その場合精霊の曇は、血液の溷濁(こんだく)となり、それが膿汁と化するのである。

その膿汁が滞溜し、固結する。それの排除作用が、肉体的に言えば病気と称するのである。

故に病気を治癒する真の方法としては、精霊の曇を払拭する、それ以外には絶対に無いのである。

故に、曇の残存する以上、肉体の方をいかに治癒しても、再発するのは当然である。

医療における再発の多いのは、この理によるからである。


本療法は、神秘光波によって、この曇を払拭する。

それが為即時浄血し、即時痛みは去るのである。

その際誰しも奇蹟とするが、決して奇蹟でも不思議でもなく、右のごとくまことに合理的方法である。

かくのごとく、一切の病原は肉体からと魂からの両方面である。

しかし、ここに自然法則を知らなくてはならない。

それは物質はすべて無形の霊に支配されるという事である。

それ故、肉体的原因による疾患といえども、精霊の浄化にあらざれば根治しないのである。

又、別の意味から言っても、肉体的病原を作るその根原は結局魂にあるのであるから、

魂とそれによる精霊の正純化こそ、実に病気治療の原則であって、

それ以外真の治療法は無いという事を、断言し得らるるのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「病気の原因と罪穢」 (昭和11年御執筆)

病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、その汚血と水膿は精霊の曇の移写であるという事は、既に述べた通りであるが、

しからば、その曇はいずれから発生流転して来たかというと、それが罪穢なのである。

しかして、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。

即ち先天的は多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。

まず第一の祖先の罪穢を、悉(くわ)しく述べてみよう。

今、現在生きている吾々個人は、突然と涌(わ)いたところの、いずれにも係りのない存在ではなくて、

実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、その尖端に存在呼吸する一個の生物であって、

それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。

大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言えば、親と子を繋ぐ楔子(くさび)でもある。

祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、すなわち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。


人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体という衣を脱ぎ棄てるのである。

人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属しているものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃(たいはい)して使用に耐えない以上、

精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。

そうして霊界において再び現世に出生する準備をしなければならない事になっている。

その準備とは浄霊作用である。しかるに大部分の人間は、生存中における罪の行為による穢が相当に多いので、霊界においての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。

地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、

その際罪穢の浄化による、残渣(ざんさ)とも言うべき霊的汚素が、現世に生を営みつつあるその子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。

それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するという、一種の因果律的贖罪法である。

これは万物構成における主神の神律である以上、いかんともし難いものであって、人間はこれに服従する以外、何事も出来得ないのである。

それはこの霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、その汚素が人間の精霊に入るや、忽(たちま)ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。

これがあらゆる病原となるのである。


第二の個人の罪穢を説いてみるが、これは誰しもよく判るのである。

いかなる人間といえども、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくという事は、出来得べからざる事である。

しかし罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。

また行為に表われる肉体的の罪もあり、心で思うだけの精神的罪悪もある。

基督(キリスト)がいった、女を見て妙な心を起しただけでも、姦淫の罪を犯す事になるという戒めは、厳し過ぎるとは思うが、間違ってはいないのである。

かように、たとえ、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやりたいとか、姦淫したいとか想うのは、誰しも罪とは思わない程の微細な事ではあるが、これらも長い間積り積れば、相当なものになるのである。

又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。

又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違えるとか、嘘言を吐くとか、いう様な事も知らず識らず侵す一種の罪である。

かくの様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。

しかし、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであろうと思うが、決してそうではない。

すべて人間は、親の膝下(しっか)を離れて、一本立になればともかく、親によって養われてる間は、親の罪穢も分担する事になっているのである。

ちょうど、樹木にたとえてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、その又枝が孫である。

幹であるところの親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。

この後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(み)よう。

人の眼を晦(くら)ました結果、盲になった二つの例がある。


以前浅草の千束町に、経銀という表具師の名人があった。

彼は贋物を作るのに天才的技術を有っており、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、

晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。


今一つは、やはり浅草の花川戸に花亀という道具屋があって、

ある年静岡地方の某寺の住職が、その寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。

ところが、失敗して帰郷の旅費に困り、その御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。

その後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払ってしまったので、

彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。

そこでその僧侶は進退谷(きわま)り、遂に花亀の軒下で首を溢って死んでしまった。

ところが、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、その後トントン拍子に成功して、その頃数万の財産家になったのであるが、

晩年に至って盲目となり、しかも、その跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、

ついには見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれながら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、その謂(いわ)れを父から聞かされたのであった。

これは全く僧侶の怨念が祟ったのに違いはないのである。


今一つは親の罪が子に酬(むく)った話であるが、それは以前私が傭っていた十七、八の下女であるが、

この女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊(き)いてみた所が、以前奉公していた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。

なお訊いて試(み)ると、その下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨(ゴム)等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。

それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、その贋玉を高く売付けられた人の怨みが大変なものであったろうと思う。

全くその罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。

しかもその女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたろうにと、惜しくも思ったのであった。


今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。

十日以上も治療したが、なかなか良くならない。

不思議に思って、その老人の信仰を訊いてみたところ、〇〇様を二十年以上も信仰していると言うのである。

そこで私はその為であるから、それを拝むのを罷(や)めさしたのであった。

ところが拝むのを罷めた日から、少し宛(ずつ)良くなって、一週間程で全快したのであったが、これに似た話は時々あるのである。

正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでいると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、これは全く間違った神仏を拝んだ、その罪に因るものである。


これらの例によって察(み)るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、

病気や災難で苦しみつつある人は、この後天的罪穢をよくよく省みて過(あやま)っている事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。

今一つは別項種痘の記事にあるごとく、陰性化せる天然痘の毒素である。

故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、この三つが主なるものであると思えば、間違いないのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「唯物医学と宗教医学」 (昭和27年御執筆)

「私は、これまで現代医学すなわち唯物医学の誤謬と宗教医学の透徹した原理を書いてきたが、

これを読んだ人で、既成医学に囚われていない限り、おそらく理解できない人はあるまい。

そうして医学本来の目的は、人間の病気を完全に治し、真の健康体を作るにあるとしたら、それが現実に現れなくてはならない事である。

今更言うまでもないが、真の健康体とは、一生涯病気の心配から開放される事であって、

そう言う人間が増えるとしたら、ここに人類の理想である病なき世界が実現するのである。

従ってその理想に一歩一歩接近され得る医学こそ真の医学である。

右によって今まで私が説いて来たところの、事実を根拠としての理論を精読玩味すれば、何人も首肯されないはずはないのであるから、この宗教医学こそ、真の医学でなくてなんであろう。

この意味において一日も早くこの医学を世界人類に知らせその恩恵に浴せしむべきではあるまいか。

しかも本宗教医学は、一人人間の肉体のみを健康にするばかりでなく、あわせて精神をも健全にするものである以上、

今日最も人類の悩みとされている貧困も、恐怖の的である戦争も、必ず解決できるのである。

従ってこれこそ言語に絶するほどの、偉大なる福音である事は言うまでもない。

それについて最も困難な問題があるのは、何しろ何世紀の長きにわたって、根強く植え付けられて来た現在の唯物医学であって、

人類ことごとくはこれに幻惑され、無批判的に信じ切ってしまっていて、ほとんど信仰的と言ってもいいくらいになっている。

専門家はもとより、一般人の頭脳もそうである以上、生やさしい方法では、到底目覚めさせる事は不可能である。

これが吾々に課せられたる一大難事業であって普通なれば不可能に近いとさえ言えよう。

さらばと言ってこのままにしておいたなら、人間の苦悩は益々深まり、ついには文化民族没落と言う運命にまで及ぶか分からないのである。

としたら何がなんでも一日も早く、世界人類に知らせなければならないのである。

その結果一般人が分かったとしたら、ここに世界的一大センセーションを巻き起こすと共に、唯物医学の大革命となるであろう。

実に有史以来これほど大きな革命は、いまだかつてなかったであろうが、この事は戦争よりも、比較にならない程の重大な問題である。 

なんとなれば戦争は、よしんば第三次戦争が起こったとしても限られたる時と、限られたる地域で済むからである。

ところが医学のそれに至っては、永遠に全人類に関する問題である事である。


以上のごとく、何人も夢想だも出来なかったところの、病なき世界が実現するとしたら、一体人間の寿齢はどうなるであろうか。

言うまでもなく、百歳以上は可能となり、ここに人類の理想は実現するのである。

しかし歴史以前は分かりようがないが、歴史に現れているだけでも、一般人が百歳以上の寿齢を保った記録はいまだかつて見当たらないのである。

というのは災害は別として、ほとんどは病のために倒れるからで、人間病で死ぬと言うことは、決して常態ではなく、変態なのである。

もちろん病で死ぬと言うことは、自然死ではなく、不自然死であって、もし病なき人間となれば、ことごとく自然死となるから、百歳以上は、何ら不思議はないのである。

そこでまだ言い足りない事がある。


さきに述べたごとく、病気の原因霊の曇りが根本で、

曇りの発生源は、人間の罪と薬毒の二つであるばかりではなく、実はこのほかに今一つの重要な原因がある。

それは農作物に施す肥料であって、原始時代は知らないが、相当古い時代から使っていたことは想像できる。

日本においては糞尿と近来使い始めた化学肥料とであり、外国においても化学肥料とその以前にも何らかの肥料を用いたに違いあるまい。

元来人造肥料なるものは、人体にいかに有害であるかは、今日まで全然分からなかった。

というのは肥料は農作物が一旦吸収してしまえば、全部有効に働き、何ら副作用はないと思いこんできた事である。

ちょうど人類における薬と同様、効果のみで余毒など残らないものと思ったのと同様である。

ところが私は神示によって発見した事は、なるほど実になるまでに毒分は相当減るには減るが、絶無とはならないのである。

これについては最近米国の有力な酪農会社社長ロデール氏が、長年の経験によってその結果を発表したところによると、

化学肥料で栽培した草で、家畜を育てると健康も悪く、乳も不良であるに反し、

堆肥のみで作った草で育てると非常に健康で、乳も優良である事が分かったので、

この発見を熱心に宣伝したため、近来各方面にようやく認めらるるに至り、米政府もこれを支援する事となったというのである。

また各学者の研究も、実際家の実験もこれに符合したため、ようやく社会輿論とさえなってきたという事が、最近の米国の専門雑誌に出ており、

ついで同氏は人間の病気も、化学薬剤を用いるようになってから、悪性な病気が増えたと唱えている。

しかし右の二つとも、私は二十年以前から唱えてきたが、日本は米国と違い、新しい説は識者は見向きもしない傾向があり、

しかも私が宗教家なるがゆえに、テンデ見向きもせず迷信視されて来たのである。

もちろんこういう観方がいかに文化の進歩を妨げているかは、よくいわれるところである。


以上によって分かったであろうが、とにかく、罪と薬剤と人造肥料とのこの三つが病気の根本であるとしたら、

この三つの害を除く事こそ、人類救済の第一義であらなければならない。

ところが薬剤と肥料とは、今日ただ今からでも廃止する事が出来るが、

最も至難であるのは罪の問題である。

これだけはどうしても宗教によらなければ、解決できないのはもちろんである。

と言ってもこれが実現の可能性のある宗教は、今日まず見当たらないと言っても良かろう。

ところがこの条件にかなう宗教こそ、わがメシヤ教であるとしたら私の責任も重かつ大なるものである。

この意味において私はまずこの著によって、全世界の有識者に向かって警鐘を鳴らすゆえんである。

それについて前もって一つの重大なる一時を知らせなければならないので、それをこれから書いてみよう。」