DINO REX (c)タイトー
企画者には開発の傘下にある生産や営業に従事する者達
の生活に影響する責任があった。だから企画の仕事はアイ
ディアを考えたり悩んだりしたりする以前に、第一にプロジェク
トを停滞させず、運営に入れば悩まない資質が求められる。
対アメリカ専用として要求されたダイノレックスは、制作期間を3ヶ月とすることが言い渡された。現実
的不可能であったが、建前として受け入れることを要求され、なるべく短期の開発期間で製作可能な
仕様設計をするようにという曖昧さの中でスタートを切った。

この頃、全ての開発機種が難航、停滞していた。開発は他社を横目で見、ハードに乗せるロム容量を
全機種に増やし始めた為、完全に人員が不足していた。私はキャラクター長として全機種、各分室から
要求される外注人員や機材調達など含めた調整の傍ら、メタルブラックとダイノレックスを動かさねばな
らなかった。逆に企画サブとしても新発のダイノレックスに人員はあてがわれず当初製作予定期間の3
ヶ月、私一人と外注ソフト会社(プログラマー3名、技術力の高いO氏、集中力の高いS氏、柔軟性の高い
N氏)で動かしていた。午前は外注会社、あるいは自分の企画班の素案の監修整理、会社資料作成、午
後は各会議と調整業務、定時後休日はメタルブラックという日々だった。そして時には遅れすぎた予算超
過の他プロジェクトのキャラクターの調整をここで処理する事もあった。

非常に危機感を感じた。ここは量産により支えられる体質を持っていた。開発本数を維持できなければ
それは屋台骨を崩壊させてしまいかねない。
3ヶ月を過ぎようやく人員を一人確保したが、それは新卒の女性であった。これは非常に複雑な問題を
抱えていた。女性に一人ということを加え、アニメ業界では男性と対当の存在である女性も当時の
この場においては一OLに見られがちだったからである。

ところが間もなく今度は対アメリカ専用としていた事自体が諸事情により不可能になり開発自体を中止
すべき流れとなって、焦燥感の反面、安堵感を覚える自分がいた。
だが自体は思わぬ方向に動いた。国内アイテムが不足している中で、ダイノレックスを国内で販売でき
るだけの仕様に変更せよというのである。製作前から対米状況の悪さを察しており、万が一の第二案
は用意していた。私はヘリコプターを自機とする恐竜シューティングに変更するよう申し出た。もとから人型
と異なる体形の巨大恐竜の格闘は、繊細なヒットチェックが要求される国内では難しい物があった(キック
しようにも足の先に常に頭がある)し、やがてジュラッシックパークの公開から恐竜がスピーディな物として
表現されるであろうと睨む私の意図と重々しくのしのしと行動するだろうと考えるプログラマー、会議参加者
との共通イメージを持つことが難しかった。そして何よりシューティングのノウハウ自体は私にあるので、
それなら開発期間を絞れると踏んだのである。

回答は冷酷だった。どうしてもアクションゲームとして完成させろということである。メタブラもそうであったが
開発本数が減る中でこのゲームも主力に近い位置に引き上げようとしていた。メタルブラックのああした作
風ができたのは他に大きな予算を投入した主力予定機種が存在して、そのサポート位置にあったからで
本来、年齢などの顧客層をあまりに狭く絞り込んだ製作法をアーケードでは基本としてはすべきではない。
(しかし、ゲーセンがサービス業であるなら他企業と合わせ多機種、趣向性に富む機種もなければならない)
実はゲーム業界は予算計画は承認までは難しいが、あとは建前と言っていいほど予算超過製作に鈍感
である。ここに私が拘るのは私のアニメ業界経験と、ここの入社当初、多種の対策会議に動員された事
で内評価の悪い開発機種をどれだけ良く直したって実利としてはそこにかかる期間分疑問に思う物を沢
山見ていたことと、それにより他機種のスケジュールをドミノのように侵食してしまうこと。高額予算、長期
スケジュール物の失敗を一ヶ月程度の突貫修正で作り直す実務経験から来る個人的な観念が強く、こう
した私の考え方は時として開発員からも経営寄りと反発をもたれることもあった。あるメタブラ作業担当者と
の初めての出会いはその代表例だった。入社間もない私は、とある機種の対策会議に借り出され自分の
思うところを意見していたが、その私を彼は感情的に頭から批判し続けた。後に彼に聞くとネクタイ締めて
るし、てっきりあんなこというのは販売営業サイドの人間だとばかりだと思っていたと言うのである。

だが販売営業の求める無理難題は、開発の無謀と同じ方向の先にある。

何故ゲーム業界がそのようなのかと言えば、何か一本ヒットすればその利益が莫大であることで全ての蓄
積問題が解消してしまい反省の機会がないこと。そしてアニメ業界より後発で急速に発展した事もあり製
作システムの構築が出来ていない事が根幹にあり、私は大手中堅含め数社を見てきたが、今でもディレク
ターやプロデュサーなどの肩書きは、その役割や責任を表わしておらず名刺以上の物ではない事も多い。

私は複数の肩書き分の人格を使いこなす努力をしていた。
ただこうした事に一個人として拘りすぎたのは、私の人生としては失敗なのかもしれない。
仕様変更に取り掛かかり、国内で耐えうるだけの恐竜キャラの種類を作り出さねばならなかったが一方で
キャラクター人員不足は誰よりも自分が知っていた。そこでいくらでも増やせるロム容量を逆手に取り、人
形アニメによりスキャニングでキャラクターを作り出す発案方法を推し進めた。これなら経験の無い新人にも
画像を切り抜くという単純作業だけでキャラクター作業が可能であり、同時にキャラクターツールに慣れさせ
ることもできる。それまでは8×8ドットあるいは16ドット×16ドットの単位でキャラクターを数え、ロム容量制
限を計算して仕様、キャラを描きチェックしていたが、その手間も省ける。ダイノレックスの基盤は開発で
「洗濯板」と呼ばれる物に変貌した。そしてデモ画も要求されたが・・・人も無く、こうした外部発注はできない
かという事例とコストだしを兼ね、深夜帰宅してから朝まで自宅で妻の手を借りながら絵の具で描きあげた。
邪道だが自分の限界を投じた。
だが歯車の狂ったプロジェクトというのは例外なく上手く運ばず、今度は外注ソフト会社が契約期間切れ
を理由に降板すると切り出された。プログラム開発は社内に引き上げる事となった。多々揉めたが、私は
外注スタッフに仲間としての罪悪感を感じながらも、社員として突っ張っていく道を選んだ。(外注会社の
O氏はF2の魅力をある意味ではGF以上に引き出してくださった事を今でも感謝し頭を下げる思いです。)
恐竜人形の撮影は開発室の片隅に暗幕テントを張り、私が人形を動かし、女性サブがシャッターを切った
が気をもむ若い男性社員が、たびたび暗幕から首を出すのでライトがずれ、一連の動作の撮り直しを余儀
なくされた。時々彼女の都合がつかないとき他プロジェクトのごっつい後輩にカメラ知識を学ぶ事を兼ね
手伝ってもらったが、そんな時は暗幕からいつ頭が飛び出るかと悪戯心でワクワク待ち遠しかったりもした。
ロケテストでは低学年の小学生が、ショーでは他社コンパニオンのレースクイーンが興味を持ち初めての
ゲームとして遊んでもらえた。そこにドアが開いていることを信じて突っ走った。そして当時開発に席を置く
事となったS部長をはじめ販売営業側が非常に努力して下さり、この難産は終わった。

しかし、このマスター提出が終わった時、前作までのような達成感は全く無く、疲労と製作的挫折感の中に
朦朧としていた。予算は他機種の肩代わりや期間延長も有り、GFの約5倍にはなっただろうか、一方
でこの予算はそう珍しい物でもないのも事実だろう。
私は同じ意図であるなら、自社しかない新ダライアスを提供した方が良いと主張し、背水の陣で一歩も
引かなかった。多画面筐体設計を先にコンセプトとして開発されたダライアスにはシリーズ化にあたって
邪魔たる要素が無くゲームとしての骨格だけを保有し、シリーズ化に耐えうる物をもっていた。だが会社側
には、ダライアス開発は採算が取れないという固定概念というか、アレルギーがあった。シリーズは前作を
土台とする以上、安く作れなければならない、それがそうならないというのはプロジェクト運営方法のまち
がいがあると思う旨を述べたが、話し合いは平行線だった。

私はパワーアップ仕様を意図的に除いたダライアスの企画書を書きあげ、上長、ダイノレックスのサブと
他数名に託した。これ以上の時間は無かった。
タイトー最後の日は印象的だった。K分室で製作される新シューティングゲームの相談をしたいとの事で、
懐かしいダライアス2の同僚であるプログラマーが遠方より私の部署に訪れたのである。彼とはいつか一
緒に又シューティングを作ろうと話していたことを知っていた上長の配慮だったかもしれない。


久々に早めに帰宅できたその日、ボーっとした私の足は習性から巣鴨キャロットに向かっていた。パチンコ
屋の脇にある地下に続く階段を降り足が止まった。けたたましい聞き覚えのある獣声が響いている。本物の
野生動物の声から作ったSE。ここがダイノレックスを入れてくれている?!タイトーに入社してからマニアの
集まり場所だったと驚き知ったが、メタブラを導入する事は無かった場所である。時期的には販売ロケなの
かもしれない・・・ガラスドアごしに一人の変わり者?が操作性の悪さに苦心しながらも、そればかりにコイン
を投入しているのが見えた。その斜め前の筐体にもう一台のダイノレックスがある。本当に驚いた。

入社以来、己をサラリーマンとして言い聞かせる為、開発室では場をまちがった存在のようにスーツ着用を
通した私は、一社会人のふりをして席につきコインをいれ、彼の目線を後ろに感じながらダイノレックスの
遊び方を実演してみせた。再び席につく彼を呼び水にし数人が新製品としてダイノレックスを遊んだ。中に
は首をかしげたり、放り出すように筐体を離れる者もいて、その姿に癒され感謝した。マニアノートに生まれ
てはじめて、そっと隠し技の出し方を記して店を出、見慣れた巣鴨のネオンを見上げながら深呼吸をした。

この店のかけてくれた期待に、この2台は答えられるだろうか・・・
忸怩たる思いがわきあがり心を掻き毟るが、「たられば」は次なる製品がある者だけの特権だ。
明日もう一度来よう、妻と息子を連れ一般客として。
余談です。
 この当時、開発に新○×がやってきた。その開口一番が「経費削減運動」当時企画では私ともう一名
(企画K氏)が毎月企画素案を複数出すので、他者に比較しコピーのし過ぎ?ということで二人がブラック
リストに入ったと上長から警告・・・ロケテスト前日に屋上で懇親を深めるビアガーデンパーティ、作業中の
メタブラチームの所へ来て「おまえら何故参加しない?協調性がなさすぎる」と私と一触即発危機。屋上か
らトイレに来た社長が気づいて割ってはいり、まぁまぁと屋上から差し入れを持ってこさせ事なきを得る。ス
ケジュール無視の定時退社奨励、残業者はマーべリックというレッテルを貼って駄目者扱い、睨まれた私
は1分の遅刻もどーせ使えぬ有給休暇届で抹消。

夜な夜な巡回し「経費削減」と言っては残業従事者周辺の電源を落とし、「誰もいないのに、なんでこの
テレビはつきっ放しなんだ」と怒り、PCのコンセントを・・・コンセントををををを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ポン!・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


12.10.2006
Special thanks:T.H & N.K
私は予算とスケジュールの維持を不可能として、プロデューサーとしての任を降りる事を条件に提案を受
け入れた。と同時に家庭事情により、この先そう長く会社にいられないかもしれない事を上長に伝えた。
その頃、市場にはSファイター2が登場し、爆発的な大ヒットを記録していた。分析を理由に開発室にもそ
れは設置され、連日連時間「昇竜拳!波動拳!」とやかましいほどこだましていた。その脇にBUGチェッ
ク調整用に設置されたダイノレックスは前作、前前作ほどの協力者は現れず。いつの間にかFファイトなど
に入れ替わっている事もあった。憮然とした表情でSF2を見る私を企画者としての嫉妬として伺う者がいた
が、他社製品でも大ヒットは大歓迎だ。(活性化を招く)。このHITチェックの上手さや操作性に脱帽しないと
すれば嘘になるし、自分にそのセンス能力があるかも疑問だ。前作スト(T)に関しては入社年に6日間連
日10時間連続プレイして分析レポートを提出してもいる。
経営側から見ればD-rexは見た目上かなり出来上がっているように見え、私が迷い事を言っている様にし
か映らず数ヶ月もあれば終わると考えていた。会議ではある取締役からの罵倒が飛び、堰を切った罵倒
の大合唱もおきた。しかし前述イメージ相違は、具体的にはHITチェック試行錯誤の壁にぶつかっており、
所詮ハリボテの恐竜に過ぎなかった。
後記
回顧録を描く上で、「私は」という主語を多く使ってしまいました。これは個人の勝手な記憶であり立場の
違う方から見れば異論もあるかとも思いますし、自身の知らない所で助けて下さった方も多々いるでしょう
ことから自分の視点を強調した物です。ゲームやアニメはその製品利益、権利は企業の物です。ですから
そのスタッフを公人として良いのかは難しい物があります。私の場合はメタルブラックの漫画を書いてしまっ
た時点で公人かもしれませんし、今や自分の名前で生業をしています。

例えばネット上に、アニメやゲームのある部分が気に入らず、その「関係者を頃す」などという書き込みが
あっても、所属関係企業を離れていれば企業は守る義務はありませんし、華やかなヒット製品であれば
ある程、見る側は錯覚するでしょうが自分を守る財力などないのがこれらの業界では普通でしょう。
製品なのか?作品なのか?誰が決めるのか?そしてその線引きは?この曖昧さの中でスタッフは知名度
(もちろん認められる事の嬉しさや顕示欲)と引き換えに説明責任を果たしたりします。しかし作品として認め
られれば認められるほど、その思いを持つ者たちの数だけ解釈は無限です。

ゲームは、スタッフワークですからその功に関しては、私がレールを引いたとしても御紹介した様なプロジェ
クトスタッフの個性の集合です。そして開発の事を色々描きましたが、開発員、販売生産営業など関係者の
方が中心で動いたか、外側で停滞したかは様々ですが、これらの製品を売る、立場を変えれば自社の利益
(お金だけではありません)という一つのベクトルに全ての方々が向いていたのはまちがいのないことです。
ただこのヒット製品に、それまでのヒット製品とは異質の要素があることを感じ、それが何か?
で固まったのだ。
D-rexのプログラムは管理職についていたF氏が現場に入ってくれ、感性の鋭いH、そして考察力の優れた
T氏もが加わり、外注スタッフから一人残ったN氏と共に力強い現場を再生させようとしていた。そしていつの
間にかダイノレックスは新人研修員を大量動員する形のチームとなっていた。私は部分的には新人研修
に見合う仕様内容を加味したりし研修実作業させつつ、言葉ではこのプロジェクトの有り様は間違ったスタ
イルだと言う事を説いていた。そして代わりに彼等の新鮮な熱意にダウン寸前を呼び起こされた。

テストプレイには普段はあまり参加をしないであろう、総務の上長や方々、デザイン部(ポップ、インスト製作)
上長や方々、経理の方々などが、開発の中に混じって積極的に参加してくれるようになり意見収拾が成り
立ち始めた。無言は何の役にも立たない、誹謗でも小さな声でも言葉として届かなければ使いようが無い。
ダイノレックス終了前、私にはガンゲームの仕様を作るように社命が下っていた。これは受けがたかった。
いや、正式には退職するのであるから私が受けられるわけではない・・・?・・・
ガンゲームのノウハウは他の分室が持っていたし、人事異動は認められなかった。これをダイノレックスの
新人スタッフに振るには荷が重すぎる要求内容だった。そして自社はゲーム関係の特許などを積極的に押
さえておらず、こうした姿勢は業界の発展には大きく寄与するものの、いざ他社が戦略的にそこを突いて来
ればゲーム内容よりも筐体価格で競争する事となり、いったんコーナーに入ってしまった大型筐体ゲーム
は、そのスペースを占有し、新しい物が出来たからといってそうやすやすと新製品に入れ替えられる物でな
いと考えた。